だれ、どこ(11)青木昌彦(1938年4月1日―2015年7月15日)

高橋悠治

はじめて会ったのは湘南学園中学の文芸部、6ヶ月しかちがわないのに4月1日生まれは1年上のクラスだった。それが1951年で、最後に会ったのは2015年4月京都フィルハーモニー室内合奏団のコンサート、『苦艾』の初演のとき、いつものように予告もなく会場に現れた。

鎌倉から江ノ電で鵠沼、砂地と松林に囲まれた木のバラック。先生たちは若く、生徒と仲間のようにつきあっていた。授業が終わるとほとんど毎日ふたりで会って、やっと翻訳紹介されはじめたジョイス、プルースト、ダリ、それにマルクス、読んだ断片について話し合い、古本屋をまわり、話題がつきると、何時間も黙って、いっしょにいた。この世界の向こうにある知らない世界の夢、終わりのない知的冒険。1954年に東京のそれぞれ別な高校に移っても、時々会っていた。1956年からは東大に会いに行った。共産主義者同盟ブントで姫岡玲治を名乗っていた頃。すすめられて宇野弘蔵の三段階論を読んだ。原理・段階・現状分析と下降する三段階。武谷三男の『ニュートン力学の形成』では、現象・実体・本質と上昇する認識が科学史のなかで、ティコ・ブラーエの観測、ケプラーの惑星運動法則、ニュートンの万有引力という例がわかりやすかった。現象の記述にはじまり、そこには見えない実体を仮定してその機能を法則化する、本質は普遍的な運動原理になる。その運動を現象とみなして、次の認識の環がはじまる。経済学と音楽は領域がちがっても、システムや方法は仮の足場で、時代や社会状況が変われば、生きかたも変わっていく。

1963年に日本を出た、かれはアメリカへ、こちらはヨーロッパへ。その後こちらがアメリカに移って、ボストンの雪のなかで転び、気がついたら、かれの家で寝かされていた。数年後に妻だった石田早苗が事故で亡くなり、柿本人麻呂の挽歌をチェロと男声合唱の曲にした。『玉藻』はアメリカで書いた最後の作品。ベトナム戦争末期だった。1972年日本に帰ると、かれは京都大学にいた。1975年の次の結婚の披露宴では、ドビュッシーの『喜びの島」を弾いたと思う。その後もよく会っていたし、日本で本が出版されるたびに送ってくれた。いる場所や考える方向が変わり、遠く離れていても、意識するまでもない共感でつながっている感じをもっていた。権威にしたがわない、すこし離れて批判する眼をうしなわない、おなじところに停まっていない、すぐ飽きる、この飽きっぽさで続いていた友情かもしれない。

1990年以後の比較制度分析では、多数のプレイヤーがそれぞれの予想や共同認識から行動方針を決め、多様な関係の結びつきと組合せが、発展しながらいくらか安定すると制度となる。歴史や文化のちがいから、制度はひとつではないし、ゲームのルールは経験の要約にすぎないから、ちょっとした変化のきっかけでバランスが崩れてしまう。いまは冷戦が終わった1990年代はじめから一世代30年かかって次のバランスが作られるまでの不安定な時期らしい。それだからこそ、ちがう眼で世界を見て、冒険ができるはずだ。ほとんどの実験が失敗しても、いずれどこかで折り合いを付けられる。

音楽の制度問題は2000年前後に考え、『世界音楽の本』を岩波で出したとき、書いたことがある。シュンペーターの「創造的破壊」とはちがうが、実験の成果が制度になって固まってしまうとき、そこから逸れてちがう方向をさぐるのが「創造」だと感じていた。

会う時は、かれが見つけてきた食べ物屋で、ふたつの家族のつきあい。食べるのも飲むのも好きだった。日常のなにげない話と、陽気なふるまい。次にまた会うまで。次が突然なくなるまで。いっしょに歩いていても、気がつくと、どんどん先に行ってしまい、角で待っている。少年時代からおなじだった。その頃、「ふと振り返ると、いっしょに歩いていたはずが、ずっと後のほうで倒れていたりして…」と言って笑っていたが、……