掠れ書き22

高橋悠治

たいせつなのは構造ではなくプロセスか。しかし、20世紀音楽のさまざまな試みをふりかえり、そのなかで聞かれることのすくないものを聞き直したり、楽譜を拾い読みしたりするのは、分析のためとは言えないだろうし、ベケットやウィトゲンシュタイン、最近ではクラリセ・リスペクトルの小説をすこし読んだりするのも、方法や構造ではなく、分析やアフォリズムのように一般化された原則のみかけを追うのではなく、なにか一瞬掠めて過ぎるもの、そこから垣間見る何かわからない感じからうけとる気配がそのまま外に反射されるきっかけではないか。

ギリシア悲劇でも能舞台でも数人の歌と踊りから分離するモノローグや対話で野外のひろい空間をみたすことができたとは、どういうことだろう。1本のアウロス、または能管とすこしの打楽器があるだけで、近代オーケストラやエレクトロニクスもなく、仮面の裏から響く声はオペラ歌手のようなあからさまな自己顕示とは反対のように思えるし、近代劇場のなかで響き渡る音響は、野外ではかえって聞き取りにくい貧弱なノイズなのかもしれないとさえ想像できる。それにギリシア劇のテーマの一つが人間の思いあがりの招きよせる不幸とすれば、意味によって考えさせることばというよりは、ことばのリズムと舞う手足から伝わってくる遠い声が、その場に参加する人びとの共感のなかで身体に直接伝わってくるのは、物理的な音量というよりは、暦の循環する時間に刻まれた季節の徴と、心的空間の指向性のせいかもしれない。

作品としてできあがってしまったものも、もともとは可能性の予感と何かわからない力に押されて岸から離れて漕ぎつづけながら、離れれば離れるほど岸にもどろうとする舟のように、最初の一撃、創造の芽の瞬間を理解しようとして構成や形式の壁で囲み、方法やシステムで炎を掻き立てながら、弱ってくる火を消すまいとする。形式も方法も循環の抽象と定式化、構成と方法は理論化で、作品として完成したものはプロセスの痕跡、炎が表面から消えた燠火、構成の高揚感は舞い上がる灰、二日酔いの陶酔だとしたらどうなのか。全体の図式をととのえるために書き加えていく技術は、延命治療のように衰弱を長引かせるだろう。19世紀以来の量的拡大とそのための規格化は、とっくに組織化され産業化されて、マスメディアの鈍さが妨げとなっている。別な道はもっと身軽な少数派の実験がひらくかもしれないが、それが巨大化した全体組織に波及するまでには時間がかかりすぎる。

量的思考の足し算ではなく、解体と断片化の引き算の方向も現れてきた。そこにまだ残っている妨げはスタイルにあるのかもしれない。実験者のペルソナがつきまとって、作品の整合性と冗長性、それがかえって商品価値を保証しているように見える。羽毛のなかのえんどう豆のように、感触がさぐりあてるのはほんの一瞬、一点にすぎないのなら、何のための解体だろう。

モンタージュという方法が発見されたのも20世紀だった。連続性を断ち切るとで断片に鋭角をあたえるやりかた、こうもり傘とミシン、『春の祭典』のリズム的ペルソナ転換、『アンダルシアの犬』のカミソリと眼、それが機能になってしまい、1930年代の記念碑的新古典主義に埋没していったとき、ふくれあがったペルソナ、1%の法人が核となって99%の原子を惹きつける体制が再登場したのではなかったか。

古代劇場でのペルソナの転換の瞬間、おもいがけない出会いをきっかけとしたペリパテイアは1行のセリフに凝縮されている。夢幻能でもそうであるように、仮面をつけかえて再登場する声はここにあるが遠くからの響きのこだま。

書こうとしても、書きはじめると逸れていって、そこにはたどりつけない。文章に妨げられることばのなかの光。こうしてみると、連句と座はその後ふたたび定式化された美学と形式の殻を捨てて、連句でないものとしてよみがえるなら、ぼろぼろの穴だらけの、途切れ途切れの響きと色の、即興でない即興、作品でない作品、プロセスであるような未完の試みへのてがかりになるかもしれない。

孤立した原子ではなく関係の網目。微かな輪郭と薄い彩り。崩れない硬さを残して。潜在意識的音列による統一と支配ではなく、偶然のつくるパターンからのゆるやかなひろがり。音色としての音程。低音の安定のためでない浮遊する共鳴としての5度と4度、不協和でないずれとしての2度、調和でなく弱さとしての3度と6度、同一性としてではなく、それゆえに20世紀的アレルギーの対象でもない8度。和声的安定や対位法的な連続性をもたず、カオスの多層性によって裏側から秩序とのバランスをとるのではなく、穴のあいた網目をたどりながら移っていくつづれ織。

20世紀のさまざまな技法は、1980年代には学校で教えられるような標準的なものになってしまった。複雑な音楽にはどれくらい持続する生命力があるのか、ときどき疑っている。オリエント的音程の独特な明暗も規格化された西ヨーロッパ的微分音とはまったくちがう使いかたがある。西洋オーケストラの音色パレットは標準化されてぜいたくだが貧しい音色になってしまった。メロディーで情感をかきたてるのには適しているかもしれないが、それだけのために何十人も必要だろうか。特殊奏法や超絶技法は一度しか効かない薬品のようだ。くりかえし使われ、分量が増えていく。