掠れ書き25 ピアノを弾くこと

高橋悠治

ピアノは生活の手段だった。オペラの練習や歌の伴奏から、前衛音楽の演奏家になり、そこにバッハのようなクラシックのレパートリーを入れてきたので、ピアニストとしての教育は受けなかった。家が貧しかったのでピアニストとしての教育を継続して受けることはできなかったこともある。19世紀的な名人芸はできもしないし、やる気もなかった。1950年代の前衛音楽では点としての音のタイミングと強度を指定された通りに区別するのがすべてだったのか。それに対してオペラ的なものは身振りとしてのパターンを過剰に提示すればよかったのか。必要な身体技術を身につけるだけでピアノを弾くことはできる。作曲家だから作品を分析することができて、その知識の上で演奏を構成していると思われているかもしれないが、演奏している時に考えることは妨げにしかならない。同じメロディーが再現するからと言って同じ演奏はできないどころか、時間が経てば同じ音符もちがう響きがするのでなければ、演奏する意味がない。

書かれた音符のちがいをはっきり聞かせるだけの楽譜に忠実な演奏は、1930年代から数十年続いた演奏スタイルにすぎなかった。そうだからと言ってそれ以前の個性的な表現や技術や感情に支配された演奏スタイルに帰るわけではない。

ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グールドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。19世紀音楽はだれでも弾くから競争になるだけだし、音楽がもう死んでいて、経済的価値しか残っていない。

20世紀の構成主義や技術主義的な音楽観はバッハやベートーヴェンからシェーンベルクまでのエリートのものだった。音楽が制度であるかぎり、作曲や作品の権威はなくならないのかもしれない。でも、何を弾くかが問題であるうちは、音楽の歴史は作曲家の歴史で、楽譜に書けるようなピッチや時間の長さといった数量が中心である音楽は、市場経済の一部になっていくのだろう。

ピアノを弾くのがいやだった時期が長かった。シンセサイザーやコンピュータ、アジアの伝統楽器に惹かれていたこともあった。電子音には自発的変化がない、擬似ランダムな操作で変化を加えてもそれはほんとうの偶然ではなく、発見がない。伝統楽器は伝統のなかに入らなければ何もできない。残ったのはピアノだけだった。この19世紀の音楽機械、力と速度と量を操作する技術の楽器を異化することができないだろうか。

ちがう原理による音楽を作ることはできる。だが、「何」の限界にとらわれないためには、「どのように」からはじめるのがよいかもしれない。

音楽は音が聞こえるという「聞こえ」がすべてだ。聞こえるものの背後に音楽の本質があるというベートーヴェン的思い込みは耳の現実ではないように思える。音は聞こえたときは消えていて。音の記憶にすぎない。『印象がすでに表現だ(馬にとってのように)』(クラリセ・リスペクトール)。『見えること、それこそあることかもしれない、そのように、太陽は見えているなにか、そのものである』(ウォレス・スティーヴンス)。楽譜の上で左と右に見える模様は、右から左へ見ていくことはない。時間を横軸とし音の高さを縦軸とする格子のなかの模様を耳は聞いていない。音はすぎていき、次の音は前の音とはちがって聞こえるのを時間と呼ぶなら、時間は規則的に区切られた線のように連続してはいないだろう。記憶される音楽は録音された音楽とはちがう。

ピアノを弾くときは低く座る。ほとんどのピアニストは鍵盤を見下ろす位置に高く座り、背を前に倒しているが、これでは背だけでなく肩や腕にむだな力がかかるし、タッチが浅くなるような気がする。キーを見ながら弾くと、手や指の位置に関する固有感覚がにぶくなる。ピアノを弾いて疲れるのはまともではない。弾けば弾くほど身体から余分な力がぬけてらくになるはずなのに。と言っても身体は静止してはいない。静止させた身体から手や指だけを動かすのは部分的な運動でストレスが大きくなる。じっさいには、身体が静止しているときはない。いつもうごいているからうごかすこともできる。全身がいつも円を描くように運動しているから、それにのせて力を分散させれば、わずかな動きだけで大きな変化を作ることができる。聴覚神経も固有振動があるから音がきこえるのと似ている。

メロディーはさまざまな粒子の相互干渉の流れを無視して、音楽を一本の連続線に均す。近代和声は連続を求心性の周期に翻訳していた。ところが演奏はメロディーを音色の時差のグループに断片化し、和声を点滅する響きの距離空間に解体する。音色、音質、リズムの揺らぎは楽譜に書くことはむつかしいし、あらかじめ決めることができないから、指定することには意味がない。廃墟に残された道標のように何ものも指していない無意味な指定は、無視することができるばかりか、構造主義的な音楽観に特徴的な二項対立のように、取り除くことによって音楽は解放されるだろう。同時性、周期性は見かけの要約だから、乾物をもどすように指のうごきがこわばりを取り除いてしなやかさをとりもどす誘い水になる。ピアノの均質な音色は、強弱の差異を小さくしながらタイミングをすこしずらすことによって翳りを帯びる。

ここに書いていることには個人的な好みもあるが、時代のスタイルの現われでもある。その有効性ははじめから限られている。表現や構成や綜合をめざしてはいないし、それらからはむしろ解放された方向にひらいたものでありたいとは思うが、じっさいそうなっているかどうかはわからない。こうありたいと努力するようなことではなく、努力やよけいな緊張のない、なにかちがうものであろうとするストレスのない、うごいている身体がそれ自体とそれを撹乱する外側の両方に注意を向けている夢の持続のようなありかた。それはことばの本来の意味で練習とも言えるが、楽器の練習と言うときによくある反復ではなく、いつもちがうやりかたの実験でありつづけるという意味の練習と言ってもよいだろう。

ピアノ練習には音はあまり必要ない。聞くことに連動する身体のうごきを意識すればよいのだから。次の音の位置にあらかじめ手があるように、見ないでその位置を感じ、それからそれを音にする、そしてそこから離れる、それをグループごとに沈黙で区切りながらためしてみる、それだけのこと。音はすでに記憶だから、音のイメージはあり、じっさいの音にすこしさきだってあり、音をみちびいていく。知覚は感覚に約半秒遅れて起こるといわれるが、イメージは音を作る身体運動の半秒先を行くように思われる。それが楽譜を読む眼のうごきでもあり、初見の方法でもある。

音のイメージとじっさいの音との落差あるいは乖離は知覚の時差がある限りなくならない。音には思い通りに操作できない部分が残る。それは偶然でもあり時間を遡って修正することはできないから、それに応じて次の音のイメージが修正され、さらなる乖離が続く。完全な方法はありえない。演奏は不安定なもので、いままで書いたこともガイドラインにすぎないし、それだって保証されたものではない。

それなのに、確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。