掠れ書き26 ペーネロペーの音楽

高橋悠治

2002年から数年間つづいた『世界音楽の本』(2007)のための編集会議では、リズムと音色(ネイロ)から20世紀音楽の制度やそこからの逸脱としての創造を考えていた。音と音のあいだの時間が予想できない偶然からはじまって、反復する周期が感じられるようになると、パターンとその変化というかたちでリズムという時間のシステムが立ちあがる。それに対して、音の、ピッチや音量のように単純な数であらわせる部分だけでなく、楽器とその演奏法や、音響内部のゆらぎや変化を含む複合的な部分を音色としてまとめてあつかってみた。リズムが時間だとすると、ネイロは音響空間の質的差異に基づいている。だがリズムは関係だが、ネイロは区別される独立体とも言える。

ここからもう一歩すすんで、音響というオブジェを関係の網目のなかに溶かしていくことができないか。全体図を目標に構造を設計するような終わりから時間をさかのぼって作業スケジュールを作るかわりに、さまざまに撚り合わされた糸を結んで網を編む作業、それもクモの巣のように完成に向かうだけの労働ではなく、織ってはほどくペーネロペーの織物のように、抵抗とアイロニーのプロセスであり、隙間だらけの織地の上に幻のようなかたちが一瞬見えても、どこかの糸を引くと崩れてしまって、実体感のある印象を残さない、そういうプロセスと手にした楽器だけで、毎日のようにやり直される作業。

旋律と和声と低音でできている西洋近代音楽は、フランス革命や産業革命以前から近代社会を予告していたように聞こえる。そういう音楽を演奏するための近代オーケストラは、高音と内声部と低音の階層組織によって、第1ヴァイオリン16に対してコントラバス4のように楽器の数や演奏位置、さらに楽員の給料体系まで決められている。何度かの危機を乗り越えてきたオーケストラのような企業は、いまの格差社会のなかで、ますます経営がむつかしくなっていくだろう。そのミニアチュア・モデルになっている弦楽四重奏も、おなじ階層構造がメンバーの心理や人間関係を日常的なトラブルに追い込むことがある。

オーケストラや弦楽四重奏のように確立された組織のために作曲しても、レパートリーは20世紀前半でだいたい間に合っていて、新作は組織の存在意義の口実作りと、スポーツ選手の国旗のように国外公演の時に自分の国の作曲家の作品が必要とされるようなときに初演され、すぐ忘れられる。作品のなかでアイロニーをこめていくつかの小さな実験やパロディーを試みることはできるかもしれないが、オーケストラを書くという労力を考えると、自分が参加できる場の小さな規模でできることをしたほうがいいような気もする。

音楽家の想像力のプロセスは、作曲というかたちなら、多様な場の条件のなかでも、制度の見直しに向かっていくらかでもすすむことができるだろう。関係と距離がさきにあり、音はその結び目であるようなアクセントの置き替えで、たとえば旋律と和声のかわりに、順番にあるいは同時にあらわれる音程が、結ぶ糸の強さと色のように相互作用するのを感じながら、糸を織り上げる、それをほどきながら、あちこちを引っ張ってかたちを変えてみる、こんなプロセスを書きとめながら、受けついだ技術的な知識や遠い地域や過去の伝統が、おぼろげな記憶となって浮かび上がり、折り重なって透けて見える。