高橋悠治

サイレンが遠く聞こえる
懐中電灯の青い光 にぎりしめ充電する微かな音 
暗い家
ねむい子どもを歩かせ 赤ん坊を背負って急ぐ
川向うの洞窟へ
いつももんぺ 髪は手ぬぐいで包む
鎌倉は田舎町で たんぽぽやえんどう豆を食べる
           ピアノは蓋が閉まっていた
おとなたちはいつも近所で過ごす

暑い庭にひしめき座る
家から庭に向けたラジオ
雑音にまぎれた声
その三日後
山の向こうで高射砲が一発 庭に
赤茶けた鉄の塊が落ちてきた

戦争が終わり 音楽がはじまった
 子どもたちがピアノを習いにくる
夜 母は自分の練習をする 
バッハ=ブゾーニのシャコンヌ
 フランクの前奏曲・コラール・フーガ
  ショパンの幻想曲や 子守唄
近所にいたヴァイオリニストと クロイツェル・ソナタ

 ズボンはもうはかない
短めの上着と細めのスカート
フリルカラー・シフォンブラウス
レッスンの合間に 古い料理カードの絵を見て
おなじ皿がひと月続く
ミシンを踏んで縫った 不格好な子どもズボン

ひさしぶりのコンサートで伴奏をして
批評を読み だまって雑誌を閉じた
それからは
生徒に弾かせる曲を 自分でも練習していた

昔のことは言わなかった
聞いておきたかったことも 
 もう忘れたよ としか言わなかった

    *

坂の上の家から
毎日町に出る
足は強かった

九十歳をこえると
ピアノの音は聞こえても
人の声は聞こえにくい
ひとりで昔の写真を見る
姿勢が左に傾いている
 しずかだね
 世の中にだれもいないみたい

ピアノはもう弾かない
からだが重く
支えても足がうごかない
 あぶない あぶない
夜はすぐ目覚め
明かりを点ける
 闇が離れていくように

音楽は もういらない
家を離れて 病院の四人部屋
 出てきたな
 びっくりした
 見舞いに来たの

 いっしょにあそんで たのしかったね
 もっとあそびたいけど
 いまは つらいことばかり

日が暮れてゆく
血圧、脈、呼吸の波がゆれている
呼吸が波立ち 乱れ
他の波に波紋が伝わる
波頭が折り重なり 狭まり尖って
 せわしく喘ぎ
          たちまち砕け散る

*母・髙橋英子(1914.1.31〜 2013.5.21)