掠れ書き32 壁の向うのざわめき

高橋悠治

むかしの日本語で、「ここ」「そこ」「あそこ」という場所が、「こなた」「そなた」「あなた」という人称代名詞の住み分けになり、また、「こなた」は一人称から二人称に変わり、二人称となった「こなた」「そなた」「あなた」の共有する空間のつくりもちがう感じがする。

自分のものだった空間から引き下がり、他人に住まわせて外からながめる、注意深いまなざし、目の前と後ろ側を同時に意識する「目前心後」、後ろの音を聞こうとして身体がひろがりゆるむ。「ウチ(内)」が私的なことでなく、所有できない半透明な空間を指して。

双数をもつ言語。二つのものが並んでいるか向き合っている一組・一対は、複数のものを一つとみなす時とはちがうように思える。子どもがまず身体をうごかし、母親のことばが聞こえ、聞こえたことばをひとりでつぶやき、そこから意識が生まれる、としても、その先は、社会に向かっての表現、ことばで意志を伝えようとするしかないのだろうか。

夏の間ずっと作曲していた。一つのことに集中していると、くりかえしになったり、限界が見えるような気がして、毎回ちがうことをしようとすると、書き加える方向に行きそうになる。一本の線を淡く彩るつもりで、もう一つの音を置く、その音が動き出してもう一本の線になり、ポリフォニーが生まれる。メロディーがあり、それを支える低音があり、その間に詰め物としての内声部があるという、バロック以来の西洋音楽にいつかもどっていることに気づく。彩りとしての響きは、その余韻の境界を越えないのがいいのではないか。

自由間接話法。他人の声が自分の喉から聞こえる、壁の向こうのざわめきが森のように耳を包んでいる間は、安心していられる、というような。

歌。自分にそっと歌いかける。メリスマの悦び。その後の音楽史は忘れても。

連句のように、後もどりしない回廊に沿ってちがう風景がひらける、「付け」といっしょに「転じ」があるプロセスを解釈したり分析して何になるのだろう。「式目」のように細かく分類しても、芭蕉の「ただ先へ行く心」は見えないし、学問や権威が「ただ後戻りする心」を育てて。

「付け」では小さな循環が起こっている、「転じ」でそこから抜けだしていくなら、回りながら伸びていく植物の運動。

「行くにしたがい心が改まる」のには、一歩ごとにどこかで連続を断ち切っているはずで、その間に他のことをしていて忘れる時間があるから、新しい心が生まれるのかもしれない。近代合理主義の論理から、矛盾のない全体構造を先に考えれば、短時間の集中した作業で作品ができる、これが20世紀の生産性だったが、効率と多産には、どこか息苦しさが感じられないか。

本歌取り。前からあることばを編集し省略して横にずれていくプロセス。見え隠れすることばがだんだんまばらに散って。

楽譜書きのソフトに本来の使い方から外れたことをやらせる、たとえば、一小節に指定された拍子を無視してたくさんの音符を入れる、それも声部ごとにちがう長さの音を。すると音符の位置を固定するのがむつかしくなる時がある。もう一度見ようとすると書いた音がページの外に行ってしまっていることもある。酷使されたソフトの復讐だろうか。

モートン・フェルドマンのやったように、ページの上に数小節数段のマス目を作り、見かけはおなじ長さの一小節のなかにそれぞれちがう拍子と長さのパターンを配置すると、単純な反復のモザイクから予想できない複雑なむらと揺らぎが生まれる。でも、これらのパターンの、半音と短3度の組み合わせの単調な響きは、ドイツの凍りついた暗さのなかで、終わってしまった観念の夢を追っているかのようだ。

17世紀のフランスでは自由リズムの前奏曲があり、それ以前にはリュート音楽の影響で和音を不規則に崩すスタイルがあった。同時に発音するとノイズになるだけの和音もさまざまに崩して表情ができる。そのようにピアノも弾いていると、微妙なタイミングの伸縮やアクセントのつけかたで、楽譜から音符に書けない抑揚が立ち上がってくる。それは19世紀的な自己表現の音楽とはちがって、音楽がこちらに語りかけてこない、どこからか聞こえてくるそんな感じ、夢のような手触りが感じられるような気がして。

tweetは「さえずる」、小鳥のか細い高い鳴き声だったが、ツイートは「つぶやく」と訳されている。いまは時々コンサートの予定や「水牛」に書いた文章にリンクする「お知らせ」のツイートをしているだけで、情報が多すぎて情報にならないのに、だれが読むかわからない空間で「さえずる」のではすぐ忘れられるだけだろうが、それがちがう場所を指す標識ならば、そこに行ってみる手間をかけるために、かえって読まれる場合もありえなくはないとも考えられる。それにしても確率は低く、しかも確率のように数で偶然を制御する考えとは縁を切ろうとしているのだったら、そんなことを問題にするのもおかしいはずだが。

ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないかと思ってはいるが、なかなかとりかかれないまま。

私的な生活や感想をツイートやブログで公開していれば、見えない他人から監視されている囚人の安心感にひたりながら、格差社会から排除されている現実を意識しないで済むのだろうか。インターネットのなかの仮想友人だけでなく、現実の人間も仮想化しているから、じっさいに困ったときは、だれも助けてくれないどころか、ゴシップの種にしかならないのに。

友情は妄想にすぎないとしても、それだからこそ、裏切られたら意味がないということにはならないだろう。裏切られてもやはり友人だと言えるような、ほんの何人かがいるなら、それ以上の何を望むのか。細い曲がりくねった道。

見知らぬ他人の声で「つぶやく」。「水牛のように」に毎月こんなことを書いているのも、自分のために書きとめておくだけだ、とは口実で、じつは公開の場で考えてみせるパフォーマンスではないのか、と時々疑いながら。

いつも音楽のことを考えながら書いている。思い浮かべるのは、システムでも方法でもなく、音の聞こえ、音への態度、音の漂う空間の感じといっしょに動いていく感触のようなもの。ことばはその喩えになるだけで、ことばを書くことや、ことばで考える対象を問題にしているわけではなくて、音に対する態度を観察するための外側の足場という気もする。歌曲のように、詩を歌う声のまわりに別な音を引き寄せる場合は、ことばの線は過ぎてゆく時間のなかの導線かもしれない。

でも、音楽に引き寄せて考えているなら、音楽も喩えにすぎないのだろうか。でも何を喩えているのか、それはわからない。