掠れ書き20

高橋悠治

意識が薄れると自意識はなく感覚だけがある。視野が暗く遠くなり耳は聞こえているが音は現実のものではないかもしれない。雪のなかで転んで気がつくと知らない店先に座っていた。次の瞬間にはだれかの家で寝かされている。白い天井が回り薄暗い空間に透明な壁が立ち上がり膨らんだり縮んだりする。

昼間窓から吹き込む風が紙を床にばらまく。拾おうとして足が滑り気がつくと椅子に座っている。だれかが話しかけているが声が聞こえにくい。近所の医者に手をひかれていく。家に帰って寝かされ次の朝は熱もなかった。

熱が下がらないときは医者に行ったが階段から降りられない。タクシーに乗せられ眼をあけると病室で2週間経っているようだ。点滴を6時間おきに換えられて天井を見ていると夜が来て朝になりまた夜になる。たらいの湯で足の裏をこすられているとき身体があるという感覚が起こり昼がありまた夜があった。
指が何本かしびれている。触るものの表面が膜に包まれている。

病気は周期的に来ると感じる根拠はあるのか。予想外の偶然を説明しようとしているだけか。身体に弱い部分があるのは強い部分がありバランスをとるからだろう。変化するアンバランスと言ったほうがいいかもしれない。健康が安定した状態という幻想がある。健康も病気も変化するバランスの静止画像だとすれば自分の力で維持しさらに身体を鍛えればバランスの変動を妨げてやがて全体の崩壊速度が加速することもありえないことではない。

バラバラな要素を組み合わせて全体を構成する分析と統合の方法はその全体を一つの原理で説明し操作できるという世界支配の信仰だったのか。全体は幻想でこの樹はあの樹と似ているがすこしちがう。樹ということばは樹ではなく似ているという感じを言い表しているだけだとはだれも言わないがそれを知らなければこの樹からあの樹に歩いては行かれないだろう。

あの樹がこの樹のクローンではなくちがいがあり間には距離がありそれが森という空間になるのではなくこの樹がある前に森はそこにあったと感じることもなく言うこともなく森が見えそのなかを歩くこともできるのはなぜかとだれも言わない。

同じものが二つとない世界のなかにいてふしぎとは思わず毎日がすぎていく。この樹を見てあの樹を見るから空間があり時間もあり朝が来て夜になりまた朝が来る。

日常の音楽は音楽をする日常ではなく日常の音をもちこんだ音楽でもないだろう。この朝があの朝とはちがいそれでも朝であるように連続と断絶の間の薄い膜のなかにすべての音が星座であり偶然の飛沫であるような音楽。