痕跡と廃墟の可能性

高橋悠治

1)ブラジルの記憶(10月27日のブレーズ・サンドラール生誕120周年記念シンポジウム「スイス=ブラジル 1924 ブレーズ・サンドラール、詩と友情」のために)

行ったことのないブラジルで思い出すのは、1957年から14年間東京にいた作曲家で詩人のヴィニョーレス(L. C. Vinholes)。コーヒーの袋に入った作品をくれた。正方形のカードに直線が書かれ、どの方向からでも演奏できる。結局演奏しなかった。草月会館でヨーコ・オノの個展があったとき、最後に出演者全員がステージから聴衆の一人をじっと見つめ、耐えられなくなってみんなが帰れば会は終わるはずだった。ヴィニョーレスが客席で読書をしていたので,午前1時になっても終わることができなかった。守衛が会場の照明を落として,やっと解放された。後で知ったが、北園克衛や新国誠一をブラジルの具体詩グループ『ノイガンドレス』に引き合わせたのは彼だった。

1963年にベルリンで彫刻家のマリオ・クラヴォ・ジュニアと知り合った。針金で神話の一場面のような,廃墟のような作品を作っていた。大家族で一日中濃いコーヒーを飲み,水の母イェマンジャーをうたうドリヴァル・カイミのレコードが流れていた。息子のクラヴォ・ネトもそこにいたはずだ。彼はやがて故郷サルヴァドールの人びとを撮った写真集をイェマンジャーの息子エシューに捧げるだろう。

2)眼の痕跡(「荒野のグラフィズム:粟津潔展」金沢21世紀美術館)

粟津潔と会ったのは1960年代初めだったかもしれない。草月アートセンターに集まったアーティストたちのなかで、かれは年長の世代だったし、すでにポスターを通じて知られていた。こちらは前衛音楽のピアニストとしてデビューしたばかりだったから、直接の交流というよりは草月アートセンターや武満徹を通してのつきあいだったと思う。70年以後は、北川フラムのアートフロントでも会っているし、対談をして それが本にもなっているようだから、かなり近い位置にいたにちがいない。だが、個人的な会話の記憶はない。

粟津潔はその時々で関心の焦点が移り、その時期のしごとには、領域や仕事の相手よりも、自分の追求している対象がいつも優先していた。シミ、地図の等高線、指紋、ハンコ、亀、縞模様、眼球、そして岩に刻まれた神話的で文字以前の象形など。

かれの作品を思い出そうとすると、線の束から面を構成するというよりは、平面を曲線で輪切りにする、交叉し重なりあっても立体感がなく、薄い平面上にある多層性、明るく透明な色よりは、影を帯びた不透明さ、こんな印象が浮かんでくる。いま見ているものではなく、見たものの記憶、それも自分で描くのではなく、表面に刻まれた痕跡、角を曲がると、偶然そこで出会ったように待ちかまえていた、思い出したくないことば、のように。

粟津潔は、不潔斎と署名していたことがあった。北斎を意識してのことか。眼に触れる世界のすべてを描こうとした江戸の画狂人はもういない。現代の画狂人は、不運にも見てしまった風景の屈折した残像を、眼球の内側で探しつづけるのだろうか。