しもた屋之噺(70)

杉山洋一

ここ暫く続いている規則正しい生活。

毎朝4時半起床。ベッドで仕事のメールを片付け風呂に入り、6時過ぎには家を出て、ジャンベッリーニ通りのバールで菓子パンとカプチーノで朝食を取り、中央駅から7時10分発ローマ行急行に乗ります。ミラノの街を抜けて、田園風景が広がってきた辺りで朝日が昇り、刈取られたばかりの畑が真っ赤に染まるのを見ながら、もう少し眠るか作曲のメモを取るか、練習の返しのチェックしつつ、ボローニャ二つ手前のレッジョ・エミリアに着くのは8時39分。

練習は毎日10時からなので、街の中心にある劇場まで12分ほどのんびり歩き、カヴァレリッツァ劇場に顔を出し、朝早くから仕込みをしている演出家や照明、舞台の裏方の皆に挨拶がてら、練習スケジュールの打合せなど。10時から公園一つ隔てたヴァッリ劇場の稽古場で歌手たちと音合わせの後、カヴァレリッツァに戻って舞台稽古になるか、向かいに建っているアリオスト劇場でオケのリハーサルが入ります。ちなみに今日は朝10時練習が始まり、夜の9時に練習が終わるまで、30分ほど午後遅くに休みがあっただけで、ひたすら練習続きでした。
明日は日曜で、歌手たちは一日休養を取りますが、こちらは17時までオーケストラと練習の後、20時からミラノの拙宅で合唱の指揮者と打合せがあります。もっとも、普段、長い時間を費やす舞台演出のリハーサルは、こちらは言われた時だけ降っていればいいだけで、消耗するということもないのですが。

今日はオケの人たちがご飯を食べている間に、ヴァッリ劇場で歌手の合わせをして、その後でアリオスト劇場に戻ると、お願いした通り、オケの誰かが買ってきてくれた、モルタデルラのサンドウィッチが譜面台に置いてあって、こういうのは嬉しいものです。そうでなければ、昼飯は決まって駅の脇の国鉄のメンサで、美味しいパスタとメインも野菜も存分に食べ、お八つは近所のバールで菓子パンなどを頬張ります。ミラノから来ると、レッジョ・エミリアはどこのバールも菓子パンがずっと美味しいのに驚きました。ミラノが美味しくないだけでしょうけれども。北イタリアのミラノからたかだか電車で1時間半程度なのに、街は掃除がゆきとどき、公共施設はスイスのように綺麗で、太陽の光線もずっと燦燦としているのです。

そうして20時か21時過ぎまで練習が続き、急行でミラノに戻るときは電車も空いているので、コンパートメントのカーテンも締め切り、座席をベッド状に引き出しぐっすり寝こんで帰ってきます。

こんな生活が10月半ばまで続くわけですが、一体何をやっているかというと、マフィアのパレルモ大裁判を仕切った、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事をめぐるニコラ・サーニの新作オペラ「il Tempo sospeso del volo(最終飛行の止まった時間、とでも訳しておきましょうか)」を、レッジョのREC音楽祭とパルマのヴェルディ・フェスティヴァルのために準備しているところで、ノーノやシュトックハウゼン、ブソッティなどの名演で知られるバスのニコラス・イシャーウッドや、名優ミケーレ・デ・マルキなどと一緒に、オペラ演出家フランコ・リパ・ディ・メアーナが、残された裁判記録やファルコーネや友人らの日記、証言、ファルコーネらを告発する怪文書のみで作った台本を、彼自身の演出でそれは丹念に舞台を練り上げているところです。

「最終飛行の止まった時間」、というのは、1992年5月23日シチリアの旧プンタ・ライーズィ空港(現ファルコーネ・エ・ボルセッリーノ空港)からパレルモに向かう高速道路で、夫人のフランチェスカ・モロヴィッロもろとも爆殺された所謂「カパーチの虐殺」の時間へ、最後にファルコーネが乗った飛行機が永遠に閉ざされた時間とともに降りてゆく、落ちてゆく、という設定がなされています。

マフィアの存在を同僚すら知らなかった当時、ファルコーネが、ロッコ・キニーチの下でボルセッリーノ判事らとともに活動を始め、改悟したブシェッタとの会話を通して、342人が有罪判決を受けた86年の「パレルモ大裁判」が実現し、その後キニーチが殺され、通称コルヴォの匿名の怪文書で告発され、パレルモ法曹界で次第に煙たがれてゆくファルコーネが、ローマのマルテッリ法相によって法務省へ転職し、常に死をひしひしと感じながら最後の時を過ごし、永遠の時間に封じ込まれた機中に、聴衆も共に乗り込んでいる。ざっと説明すれと、そういう感じになるのでしょう。

通常のオペラ劇場の形式で、舞台がありオーケストラ・ピットがあって、観客席がある、というのではなく、カヴァレリッツァ劇場の特性を活かし、聴衆は巨大なオペラ劇場の舞台下にいるように配置され、舞台はその上を自在に動き回るので、聴衆は実際の舞台を前面に張られた鏡を通して見ることになります。

3人の歌手、2人の俳優らの声はマイクで増幅され、同じくマイクで拾われたオーケストラの音ともにミックスされ、頭上の17本のスピーカーが実音と混ぜ合わせます。このためわざわざヴィドリンを呼んだそうだから、きっと上手にやってくれるに違いありません。

サーニも、別に実験的なオペラを作ろうとしたわけではなく、ファルコーニを賛美する特に大げさなスーパー・ヴェリズモ・オペラを目指したわけでもなく、だからごく普通の聴衆にも受け容れられる、よい塩梅に仕上がったオペラではないかと思います。とにかく、全てノン・フィクションで、相当身近なテーマですから、歌手や俳優たち、それだけでなく、一緒に演奏しているオーケストラまで、各々がすぐにその世界に入ってゆける、というところがキーポイントなのでしょう。

これを日本でやっても、うーん、どうかな、あまり面白いとは思わないんじゃないかな、とは感じます。むしろ、ファルコーネを、アメリカはギャングの街シカゴで生まれたニコラスが演じ、指揮者が日本人というのも、なかなか音楽に対して客観性が保てて、面白いのかも知れません。ちょこちょこ演出のために、カットが加えられ、楽譜がどんどん書き換えられてゆくのを見ているのも、ああこれがイタリアのオペラの伝統かと愉快な気分になります。

パレルモ検事局最高議会がカポンネットの後任の予審部長に、アントニーノ・メーリとファルコーネのどちらに誰が投票したか、その記録を読んでゆくだけだったりするのですが、デ・マルキなど俳優の声のもつ強さ、魅力に鳥肌が立ちます。彼らにそう言うと、「イタリア語は舞台には全然向かない言葉なんだよ。英語とは全然違う。、イタリア語は歌うため、文字通りオペラのために作られた言葉だからね。大体イタリア語、なんてものは存在しないじゃないか。イタリアという国すらあるのだかどうか怪しいわけでから。100年前に無理やり統一させてみたが、結局文化的には溶け合わないまま今に至るわけだろう。それに比べると、イタリアの各地の方言は、舞台にとっては実に豊かな言葉だ……」。
ピランデルロの戯曲や、普段の生活の立ち振る舞いから充分演劇的なイタリア人は、やはり最後はどうしてもオペラへと収斂されてゆく、というのが彼らの意見でした。

まだ来週一週間以上、準備に時間をかけられますから、これからどこまで内容を皆が身体のなかに消化させてゆけるか、とても楽しみです。さてこの辺で大急ぎでシャワーを浴びて、7時の電車に飛び乗る事にします。

(ミラノにて 9月30日)