風景がそれを見ている眼であるような

高橋悠治

先週左眼の白内障を手術してもらった 点眼麻酔だから 手術のあいだも 紅い炎のかたちが やがて黒い班点に置き換わるのを見ているうち 器械が電子音で歌っているのが聞こえる 10分ほどで終わったと思う そのあと病院で一晩すごしたら 顔の皮膚が仮面のように乾燥して剥がれ落ちてくる 4種類の目薬を5分おきに一日4回さすのを つい忘れそう 次のしごとのことを考えようとしているが まだその気になれない 月末だから「水牛のように」のコラムを書こうとしているが 「しもた屋之噺」を読みはじめてしまい 2年分ほどを読んだところで いまの音楽や音楽家の生活とも遠いところにいることがわかって ついていけなくなり

しかたがない またかと思われるだろうが どことも知れない空間で点滅する音のうごきはちいさく よわく おそく むらで とぎれがち 流れのかたちは渦になり まわり うねり 乱れ 流れのかたちから すこしだけすくいあげ スケッチを残す

園芸や料理のように 限られた素材から 毎回すこしちがう音楽が生まれる ことばのない 日々のあそび 中心も軸も作らない 浮かび漂って とりとももなく消えていく システムや方法で流れをつなぎとめるのをやめて 音楽を作るプロセスそのものの音楽 まわりの風景がそれを見ている眼であるような

音の偶然の出会いもやがてメロディ―に聞こえ 音の重なりや順序がハーモニーのように響いてしまうなら 逆に メロディーやハーモニーのみかけが 仮のすがたにしか聞こえないような 不安ななりゆきを ありふれた音符で仕組むことができるだろうか 音楽に限りなく近いが ゆるく束ねたそれらの音の位置を微調整しながら 予測できない 定まらず揺れ動く波を扱いかねている ゆったりした時間と しばられない空間