「旅先で会った人に『ナンダテビドサガリダチャー』と言いながら深々とおじぎする」という話がある。もうちょっとイントネーションに配慮すると「なぁんだて、びどさがりだちゃ~」。山形弁(村山地方弁と言うべきか)で「なんてみっともないの!」みたいな意味なんだけれども他の誰にもわからないだろう。というわけで、相手の目を見てにこにこしながらこれを言っておじぎをすると、先方もつられておじぎを返してくれて可笑しい、という、タワイもオチもない話。
久しぶりにこの話を思い出して「ビドサガリでまちがいなかったっけかな」とネット検索したらあまりヒットしなかったけれども、「想画」や生活綴り方を戦前の山形で指導していた教育者、国分太一郎さんの『ずうずうぺんぺん 東北のことばとこころ』(1977 朝日新聞社)に登場していた。国分さんが子どものころ、東京ではビドサガリをなんて言うのかを先生に尋ねると、〈なんでも教えてやるみたいにいっているのに教えてくれない〉のでおもしろくなくなって、〈あっちには、なんでも、よいものがあるっていうのはウソだな。こっちにあるもので、あっちにないものもあるんだな〉という考えをなんべんも起こした、という。
国分さんは、1911年、山形県北村山郡東根町(現東根市)生まれ。両親ともに今の東根市生まれで、父・藤太郎さんは小さいころ西村山郡寒河江町(現寒河江市)の床屋で修業している。この本は国分さんが「朝日ジャーナル」と「望星」に連載したものから選んでまとめたもので、オガルとかアブラコとかアガスケとか、ほかにもたくさん村山弁が出てきておもしろい。各地の方言がいわゆる標準語に言い換えられないのはよくある話で、ニュアンスの種類がいちばん少ないから標準語なのだ。ちなみに『ずうずうぺんぺん』の中で先生はビドサガリのことをこう言っている。〈家の中など、よくかたづけないし、着物はせんたくもよくしないで、何日もきているし、流す(台所)のところは、ゴチャゴチャだし……。そんな人のことをいうのだな〉。長いよ。
小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅に出る』(PUMPQUAKES)の第一話、「オシンコウ二皿ください」を読んで思い出したのだった。昔話を聞きに宮城県を訪ね歩いていた小野さんに、1921年生まれの栄一さんが教えてくれた話である。どこに行ってもズーズー弁で笑われるものだから、旅先で先回りして得意の方言でバスガイドさんをからかった。別の日、お店で、ダントツ安い「オシンコウ」なるものを注文してみたらなかなか出てこない。と思っていたら、なんと目の前のぴらぴらした2枚の大根漬けがオシンコウだった、と。〈相手にわかんねぇ東北弁で一本取ってやるつもりが、向こうの言葉で一本取られてしまって、結局五分五分の勝負だったのしゃ〉。「昔話」と言うには若い話だなあという気がしていたら、このあと小野さんがこう書いていた。〈これはまぎれもなく「これから実を結ぶ民話の芽」ともいうべき話である〉。
小野さんはおよそ50年、地縁も血縁もない土地で民話を求めて旅してきた。1000本にもなるカセットテープを前に、〈本音を言えば、これは残さなくてもいい。本来ならば、消えてなくなるものだから〉とも言ったそうだ。2014年、小野さんは80歳になったのを記念して、30代半ばから50代にかけて記した「民話探訪ノート」から8話をまとめ、ホチキスで綴じた冊子を40冊作ったそうである。家族や近しい人に送ったなかの1冊を受け取った清水チナツさんは、読んでたちまち、たくさんの人に届けたいと思った。それから5年半、小野さんと、仲間と、本にした。それがこの『あいたくて ききたくて 旅に出る』だ。ホチキスではとうてい留まりきらない厚さの本に、小野さんによる35の再話と、それを訪ね聞いたいきさつや話してくれたひとのこと、思うこと、考えたことがたっぷりある。どんな民話も最初から「民話」であったはずがないんだよなあとつくづく思えて、ひといきにまず読んで、行きつ戻りつして、登場するおじいちゃんおばあちゃんが懐かしいひとに思えてしまった。
おひとりだけ、紹介しょう。小野さんが民話探訪し始めたころに出会ったヤチヨさん(1882年生)。〈集落に紛れ込んできた、誰が見ても正気とは思えない当時のわたしだったが、そんなわたしに向き合って、初めて相手をしてくださった〉。一話語るごとに「よく覚えていたもんだ」と自分に感心していたという。ある日、「形見だと思ってとってくれ」と絵本を手渡された。その写真が載っている。擦り切れた表紙に『赤穂義士 誠忠画鑑』の文字。3つ穴を紐で平綴じした横長の本で、なかは着物の紋まで細密に極彩色で刷られているそうだ。とにかく表紙がボロボロ。角はめくれあがっている。〈集落の神社が改築された時に、工事のために他国からやってきた宮大工がくれたもの〉で、〈亭主を亡くして途方に暮れていたヤチヨさんに、なにくれとなく親切にしてくれた男だったと、頬を染めて言われた〉。
字は読めなかったそうだけれど、テレビもラジオもなかったころにどれだけめくったことだろう。どれだけ大事に手元に残してきたことだろう。病気と戦争で4人の子どももなくした(ヤチヨさんは「殺した」と言う)。〈子もないし、家もない。いい着物一枚持っているわけでもない〉〈あんた、おれの「むがすむがす」を一生懸命に聞いてくれたのがうれしい〉。そう言って、絵本を手渡されたという。〈この絵本がなかったら、わたしの民話を求める旅は、こんなに長く続かなかったと思う〉。
極彩色で刷られているという『赤穂義士 誠忠画鑑』はどんな本だったのか、ネットで見るといくつか出てきた。福岡のパノラマ書房にあったのは、昭和14年、省文社刊、国史名画刊行会編、鳥居言人(五代目 鳥居清忠)画、21cm×38cm、52枚、8500円。表紙が、厚紙を唐紙みたいなものでくるんであるように見える。タイトルと柄は彩色されているし、紐も金色。豪華版とか改装版ということか。同様に大ぶりの絵の右端に2段組で小さな文字を添えた本が、国史名画刊行会から数年にわたってシリーズで出ていたようだ。どんなひとたちが読んでいたのだろう。
『あいたくて ききたくて 旅に出る』は装丁もきれいだ。ホローバックでクータも入って表紙に折れ線も入っているから開きやすい。なんだけど、内容も出版のいきさつも最高だからこそ言いたいのだけれど、本文紙が厚すぎた。開いて置いてもページが踊る。行きつ戻りつして読みたい気持ちにページがついてこない。重たい。再話部分の文字が灰色なのも読みにくかった。大事な気持ち、守りたい気持ちが、物理的に出ちゃったのかなと思う。