背がある薄い本が好き。薄ければ薄いほど、なお。参加している同人誌「gui」はわりとずっとそのタイプで、直近の117号は90ページの厚さ5ミリだった。昨今薄くなってきた事情はさておいて、好みで言えばいい感じ。厚さ6ミリ(64ページ)だった1979年3月の創刊号を抜いたことになる。棚に並べたのをざっと見るに、2003年12月の70号あたりがいちばん厚そうだ。抜いて定規をあてると13ミリ、246ページだった。巻頭は飯田隆昭さんの翻訳でウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「あの医師はどう生きたのか」。この連載はのちに『オールド・ドクター ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ短編集成』(国書刊行会)になった。この号では他に、田口哲也「ロンドン日記」、遠藤瓔子「タンゴ・口には出せず」、岩田和彦「気まぐれ読書ノート」、山口眞理子「深川日誌」、吉田仁「千駄ヶ谷」、藤瀬恭子「ノストスからコスモスへ H.Dの『ザ・ギフト』と黒マリアの発見」、奥成達「アイ・ガット・リズム 北園克衛『郷土詩論』を読む」、森千春「ふとんづくり」、奥成繁「麦粒腫の赤トンボとヘン」、殿岡秀秋「なぞなぞ」、中村恵「さおちんにゃんにゃん」、中津川洋「夏みかん」と、短いものを詩と言うなら詩ではないものの勢いがすごい。
飯田先生は今年5月に亡くなった。着替え持参の真夏の発送地獄から救ってくださったのは先生だった。イベントでも宴席でもいつもチャーミングでダンディだった。近田春夫さんが先生のことを書いた『僕の読書感想文』(2008 国書刊行会)を読み直した。『家庭画報』での連載「僕の読書感想文」をまとめたもので、1999年11月号で、飯田隆昭訳、トム・ウルフ『クール・クール LSD交感テスト』(太陽社)を取り上げている。〈私にとって飯田隆昭は特別な存在〉、先生訳のP・K・ディックは、〈翻訳を超えてすぐれたディック論だった〉。〈端正さに欠ける翻訳文が、逆にストーリーの奥にある作家そのものの持つ命のようなものをあぶり出してみせてくれた〉。〈ディックはプロットやストーリーではない。そこににじむ、ディックそのものの人間の面白さが価値なのだ、と教えてくれたのが飯田隆昭だった〉。飯田先生そのものの面白さが思い出される。「gui」のアイドルのような方だったと感じる。
さて創刊号を改めて開くと、背固め用接着剤がノドからはみ出て黄変している。糸かがりで、かがり穴は6つ。と思いきや、天ぎりぎりのところに糸の通っていない7つ目の穴がある。天地182ミリ。7つ目のこの穴をどう考えればいいのだろう。など思いつつページをめくると、高橋昭八郎さんの「穴」という作品がある。ページ中央に「■ これは穴である」。めくると「■ これは前ページより、正確には〇・〇一ミリ大きくなった穴である」。隣のページに「■ これは、さらに〇・〇一ミリひろがった空っぽの穴である」。さらにめくると「■ このようにして、穴がしだいにページを繰るにしたがって大きくなり、<本>のページを全面食いちぎって空へ出ていくときの、穴の面と最後の一ページの境界線について考える 穴」。筒である自分の体が内側からめくれていき今にも完全に引っくり返らんとする瞬間に目が覚めるという悪夢の一つが久しぶりに後頭部にわいたが、もう怖くなくなっていることが今分かってさみしい。
菊池肇さんの個人誌「drill」も薄い。こちらは表紙を含めて20ページの中綴じで、天地182ミリの2箇所を小さなホッチキスで留めてあるから穴は4つ。その4号(2019.7)に声を掛けていただいて、漠然と考えていた「刺繍詩」を書かせてもらうことにした。布表紙でハードカバー製本するときに本のタイトルを刺繍することがあって、布の表に行儀よく現れる文字に対して裏側はぐちゃぐちゃになる。刺繍はそうなるものだけれど、この場合、表紙の芯にするボール紙に布をぴったり貼り付けるので裏のモコモコが表に響くため、できるだけ無駄のない針運びを考える。あくまで「できるだけ」であって、そういうのはプロの製本家にはできないことだろう。だんだんシンプルになってくると、意味深な匂いもしてくる。表側の文字からは想像できない線が裏側に現れて、布をはさんだひとつの文字の、単純に表と裏とも言いがたい。
布を紙に換えて針で刺して糸で文字を描いてみる。表に現れた文字だけ消した状態にして、「ししゅうドリル」とタイトルして菊池さんに送った。数日後、刷り上がった「drill」4号をいただいて、その中の一冊に糸を使ってドリルした。一枚の紙の表から裏から。偶数ページで意味ありげに佇むラインを手がかりに(つまり裏が表になって)、糸を通した針をポチポチズブズブ刺していく。紙に折り山がつかぬよう、できるだけ丁寧に。元・表(=現在・裏)の奇数ページに気取った文字が現れる。おまかせなのさ。忌々しいやつめ!(貴方そのものが嫌いなわけじゃなくってよ)。「drill」という会場の「めくる」舞台で、忌々しさに針を向けた刺繍詩です。