スーパー吉池が近くにあってうれしい。魚のまるごと陳列はいつも今の日本の近海の魚劇場の様相もあって、品定めのみならず見るだけの人たちで停滞する時間帯もあるのだけれど、この1年は店もしっかり感染対策をしているし、客だって誰も必要以上にしゃべったりしないのだ。公式ツイートがまたナチュラルにゆるくていい。あおらず媚びず、もちろん有益。それを拾って買いに行って調理して食べる人らのツイートもしかり。先週もそれにつられて生サクラエビで炊き込みごはん。次の日はそれを焼きおにぎりにしてうまかった。
吉池のある日のツイートに「千葉県鴨川 にべ」と「長崎県五島列島 くえ」と「静岡県焼津 おおめはた(白むつ)」が並んだことがある。ニベにチャレンジしたかったけれどいまひとつピンとこず、思い切ってクエにしたのだった。アラを鍋にするのに骨が硬くて難儀した。まぎれこんだウロコもなかなかだった。味は最高。しかし今思い返すと、難儀ばかりがよみがえる。ところでニベって、「にべもない」のニベだよね。それはこの見た目がぼよんとして愛想がないから? いや、たくさんいて珍しくもないはずのニベがいないってのはなんて愛想のないことよ、みたいなことじゃない? ん?
ではなくて、ニベ科の魚の浮き袋から作る接着剤の粘着力は強くて、その粘り気が少しもないっていうのは、そっけない・愛想がないということだと、なんとこのとき初めて知った。「にべもない」ということばをいったいいつ誰に初めて教えてもらったのか、その人はいったいどう説明してくれたのか。語源を知らぬまま、というかそれを知ることなく、ことばじりだけでぼんやり意味を把握し続けてきたというのは驚きだ。まあ、「たでくうむしもすきずき」や「うさぎおいしかのやま」も結構長い間頭の中では「田で食う虫も好き好き」で「ウサギ美味し、かの山」だったわけだから、さして珍しいことでもないけどね。資料を読もう。
〈ニベの小型のものはグチとかイシモチと呼ばれる。ニベはよく発達した鰾(ふえ 浮き袋)をもち、その鰾から製する膠もニベという。愛想がない、思いやりがないことを「ニベもない」というが、これはニベ(鰾膠)のもつ粘着力のないことを指して言った言葉である〉谷川健一『甦る海上の道・日本と琉球』文春新書 2007 「ニベの話」
〈「にべもない」という慣用句は、ニベの鰾膠の接着力・粘着力の強さから、「ニベ」は他人との親密関係を意味するようになり、ひどく無愛想なことを言い表すようになった〉内田あかり監修『膠を旅する』国書刊行会 2021
数年前、魚の浮き袋が高額取引されているというニュースもあった。
〈「『海のコカイン』、絶滅危惧種の高級魚密輸で中国人逮捕 メキシコ」 メキシコ警察は、飛行機の預け入れ荷物に絶滅危惧種の高級魚トトアバの浮き袋を大量に詰めて運ぼうとしていた中国人の男1人を逮捕した。(略)強烈な異臭を放っていたスーツケース2個を調べたところ、トトアバの浮き袋(浮力を調整する器官)416個を発見した。(略)若返りの効果があるとされる伝統薬として珍重され、闇市場で2万ドル(約220万円)もの値が付くこともある〉AFP 2018.4.26
レオナルド・ディカプリオが製作総指揮した『シー・オブ・シャドウズ』(2019)はバキータ(コガシラネズミイルカ)の激減を追った映画だが、大きな原因としてこのニベ科のトトアバの密輸が描かれていた。トトアバもいかにも極悪に撮られていたけれど、トトアバの浮き袋は特に「良質」なんだろうか。吉池で売っているニベにだって浮き袋はあるだろうし、自分で釣った魚の浮き袋を食している人もいるだろう。と思ったら野食家・茸本朗さんがやっていた。さすがだ。
〈「クログチの浮き袋でも同じような味になるんじゃね?」 (略)先日捌いたクログチも、まさにそのような浮き袋を持っていて、魚体のサイズもあってかなり食べごたえのありそうなものが取れた。魚肚は買うと高いし、ブラックマネーに寄与するのも好ましくない。だから、この浮き袋がチャイナマフィアの手に渡ってしまう前に、我が家で消費してしまうことにした〉野食ハンマープライス 2017.4.1
先にひいた『膠を旅する』は、武蔵野美術大学美術館で5月12日から6月20日まで開催の「膠を旅する 表現をつなぐ文化の源流」に合わせて刊行された。今日現在も新型コロナ感染症対策のために一般公開はなされておらず、本だけ買って読んでいる。
第1章「膠の過去・現在・未来」は、ウエマツ画材店・絵具屋三吉社長(2020年退任)で膠の研究者の上田邦介さんと、画家・山本直彰さん、画家・内田あぐりさんの鼎談だ。
上田さんが言っている。〈江戸時代はニベを相当に使ったのではないかなと思いますよ。普通の皮膠っていうとないじゃないですか、牛を食べるわけではないし、あと鹿の皮。そうすると、ニベがいちばん手軽なわけです。ニベを採り尽くしたんですね、日本の近海で〉〈浮き袋のゼラチンがいちばんいいわけですよ、余計なもの入っていないから〉。昔はニベは近海にたくさんいたんだけど、とも言っている。やっぱりそれはいい膠を得るための、いわばトトアバ的な特別なやつをさしておられるのだろうか。とにかく今度吉池でニベを見かけたら試してみよう。
この鼎談の話題の中心は日本画の画材としての膠だ。明治以前は、膠もその特質を日本という気候風土でどう生かすか、苦心というか当然の工夫をしてきた。それが、膠も含めてなんでもかんでも、物がモノとして世界中を単独飛行できるようになると、行く先々の気候風土や独特な文化と合わない部分は雑味とされて、そういうものをそぎおとした無難な商品を作るのもかけがえのないことではあるけれども、それによって取り残されるものとか失われるものは多く、なによりも、それを取り返す・取り戻すことが困難になるのが致命的だ。膠もしかり。『画筌』(1721)など狩野派の技法書の中から上田さんがひいている。二月頃、棒状の膠を外に出して、その上に積もった雪が溶けるときに膠が水を吸ってアクが抜けていくから、それを干して使え、とあるそうだ。そうしたことへの関心は取り残され、現在の日本画界にも案外継承されていないようだ。
山本:膠は単独の物質としては不安定であると。それで日本画家たちはやってきているんだよね。僕らは与えられたものになんにも疑いを持たなかった。それでいいのですかということを上田さんは言ってきたんだよね。
上田:そう。言ってきたんだけど現実にそれがね、腐るとかカビが生えるとかそういった見かけの問題としてしか物証がなかった。(略)日本は、膠の物質性を理解しないまま現在に至っている。
狩野派の絵師による桜の絵の屏風を修理した表具屋さんから聞いたという話もおもしろかった。その表具には、楮紙と、炭酸カルシウムを漉き込んだ紙(三栖紙)と、白土を漉き込んだ紙の三種類が使われていた。三層構造にすることで、開いたり閉じたり巻いたりが滑らかにできるようになるという。上田さんは「私なりの考え」としてこう話す。〈例えば雨季に入ると、炭酸カルシウムの紙が湿気を吸い込んで、白土入りの紙がその水分を蓄えるんです。一方で、乾燥の気になる季節になると、今度はこの白土入りの紙から水が出るんです。こういうシステムによって、昔の屏風は安定した湿度を調整していたのではないかと思うんです〉。「三層構造」という言葉に、ふと300年後を思うのである。2321年の世界は、300年前の世界が三層構造などのマスクにあふれていたことをどんな感慨で振り返るのだろう。
実は昨年早々に銀座線の渋谷駅ホームが移動してから、宮益坂を下りきったところにあるウエマツの前をよく通るようになった。店頭のウィンドウも楽しんでいる。このお店を1932年に上松絵絹店として開業した上田さんは、日本画の絵の具を作っていこうとしていたが、作ったものが「きれいすぎて使えない」と画家たちにひんしゅくを買い、それで膠を作ることにしたのだそうだ。以来さまざまな研究開発を重ね失敗もあったというが、上田さんが作ったアートグルーを〈武器〉に新しい作品の境地を開いたという山本さんが、上田さんのことをこう言っている。〈ひるまないんだよ、人になにを言われても〉。
山本:製造者の上田さんに「狂気」がないと、続かなかったよ。情熱の持続が狂ってるもん。
上田:私が?
山本:うん。だから言ったでしょ? あるとき、こうやって話しているときに、アートグルーの悪口さんざん言ってたら、「僕がアートグルーだ!」とか言い出したんだよ。なにそれっ? て思った。フェデリコ・フェリーニの「私は映画だ!」と重なったんだ。あの場末の喫茶店で。
上田:そうだったねえ。
私自身はふだん膠になじみがない。ルリユール工房に通っていたときも、小さな電気コンロに適温で用意されたものにそのつど小筆を浸していたにすぎない。当時のノートには「ニカワ」としか記されておらず、何由来なのか、どう用意するのかなどに関心が向いていなかったことがわかる。日本では、妻屋膠研究所の二代目・妻屋弘さんという方が膠液の製造法で特許を取り、印刷・製本関係の接着剤と絵画用の膠の研究開発に専念されてきたそうだ。あのとき電気コンロに溶けていた膠も、そのあと製本工場で何度も見た大きな鍋に溶けていた膠も、妻屋膠研究所のものだったのだろうか。それぞれもとは、どこで、どんな姿で、いつごろ生きていたものたちだったのだろう。