厩橋で隅田川を渡る少し手前で浅草寺方面を見ると、2本の道がディバイダ―みたいに広がる。股には細いホテルが建っている。向かって右の国道6号(江戸通り)を行くと雷門、道の下は都営浅草線、左の都道462号を行くと浅草ビューホテル、この下をつくばエクスプレスが走っている。左の道は、通り沿いにある浅草ビューホテルが建つ場所に1982年まであった国際劇場にちなんで国際通りと呼ばれていて、その先の三ノ輪で昭和通り(国道4号)と明治通りが交差するすぐ手前で昭和通りに合流する。途中、そのディバイダ―の左の脚は吉原神社を囲うようにしてわずかに膨らむ。江戸から分かれた国際が昭和に合流して明治に交わる。
その国際通りにまた新しい店ができていた。雑貨屋かなとのぞいたら本屋だった。フローベルグさんといって、昨年横浜から移ってこられたそうだ。国内外の絵本をメインにした古書店で新刊本もあった。木島始さんのエッセイ集『ぼくの尺度』を買う。表紙の挿画も木島さんだ。「本の生まれかた広がりかた――手稿・私家本・市場本」の中に、木島さんの『空のとおりみち』(1978)のことが書いてあった。同書で1990年に第二回想原秋記念日本私家本図書館賞を受賞されたそうだが、これは最初から私家本を意図したわけではないという。さて、どんな事情が。
朔人社の高頭祥八さんが、青森・八戸の坂本小九郎先生の指導による子どもたちの版画を手にやってきて、絵本にしたいので文章と構成を担当してほしいと頼まれたのがそもそものきっかけだそうだ。〈見るなり、ある強い感動があって、引受けることにし、大きな写真版を狭い部屋の三方に貼りつけ、毎朝、毎晩、ながめていたのでした〉。それは〈ひたすら待つ、むりなくことばが流れでてくるまで待つ〉木島さんなりの制作方法で、どうやらそれは半年も続き、胃だかみぞおちだかが痛み出し、しかしなんとか完成させたが、〈坂本先生の師にあたるかたが、子どもたちの作品を売りものにしてはいけないと、出版に反対されたとかで〉頓挫してしまう。
しかし雑誌への紹介ならばということで、当時出ていた月刊「絵本」へ掲載することになった。そこで木島さんは100部か200部かの抜き刷りを申し出て、それを製本したのが『空のとおりみち』だという。つごう何冊かわからないけれど、製本してタイトルを書いた和紙を貼るところまで、そのすべは画家の梶山俊夫さんに教えてもらったとかで、どうも全部ご自分でやられたようだ。完成した『空のとおりみち』は、親しい人たちに渡すほかは渋谷の童話屋で販売したそうだ。
どんなふうに製本したのだろう。ネットで探したら、まんだらけにあった。注文してすぐに届いた。『絵本ぷろむなーど 空のとおりみち』詩・木島始 版画・八戸市立湊中学校養護学級共同作品(指導・坂本小九郎) 月刊絵本/1978年3月1日発行。値札はまんだらけの「Kioku×Daiyogen」。
本文は、最後の1枚(2ページ)をノドに貼り付けた18ページひと折りで、10穴糸綴じ。2ミリ厚の黄ボール紙をそのまま表紙にしてあって、「ドイツ装」と呼んでいいだろうか。ひと折りで薄いながら、2ミリ厚のボール紙をごく細く切って芯にしてオレンジ色の洋紙で巻き、それで角背に仕立ててある。見返しは同じオレンジ色で、木島さんのサインがある。切るのも折るのもかがるのも貼るのも、仕事はみなきれいだ。手でかがるには穴の数が多くて糸も細すぎるような気がして機械でかがったのかなとも思ったけれど、機械を使うほうが手間だろう。書肆田高さんのサイトをはじめいろいろ見ると、木島さんは同様の方法でいくつも詩集を作っておられるようだ。これはそうとう手慣れていると推察。やはりご自分でかがったに違いない。
『空のとおりみち』の大きさはB5判。版画はどれも横長で見開きいっぱいに配置されている。本文の数ページに、ノドのあき9ミリあたりに目打ちで開けた穴が4つずつあるのを見つけた。もしや平綴じでやってみようとした痕跡か。ノドのあきを詰めて版画をつなげて見せたくて、だいぶ迷ったのかもしれない。実際の作品は、2メートル×1メートルのシナベニア板に彫ってあったそうだ。坂本先生が八戸市内の中学校で昭和31年から50年代にかけて指導した、子どもたちの共同制作による大きな版画だ。1枚ずつに題名があって物語もあり、それら全部を「虹の上をとぶ船」というシリーズタイトルで呼んだらしい。木島さんはその中のいくつかの作品を再構成して、全体をひとつの流れにしてことばを添え、『空のとおりみち』とした。
版木はほとんど残っていないようだ。しかし作品の多くは刷りたてのように黒々として力強いと、別のところで坂本先生が話していたのを読んだ。実物を見てみたい。と思ったら、4月から始まる町田市立国際版画美術館の「彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動」展に同シリーズからの出品も予定されていることがわかった。副題に「工場で、田んぼで、教室で、みんなかつては版画家だった」とある。「みんな」というけど自分はどうだったかなと思うに、木造の美しい校舎で初めて習ったゴム版画も木版画も時間が足りなくて焦った記憶ばかりだ。図工や習字はいつも体育館に貼るとか展覧会に出すとかがゴールにあって、それが力になる子はいいが私はそれで大人をなめるようになってしまった。あなた、ただ楽しめばよかったのにネと、すねた昔の自分の頭をなでてやりたい。町田の展示はきっと見に行こう。