製本かい摘みましては(196)

四釜裕子

武蔵野美術大学図書館で「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展を見た。向井周太郎さん(1932-2024)は、2003年に同学を定年退職する際に自作の中から28点を選んでシルクスクリーンで再制作して(制作:STUDIO UDONGE 渡部広明、用紙:別漉 楮 平漉襖判和紙、漉元:株式会社五十嵐製紙)同学美術館・図書館に寄贈していたそうで、「向井周太郎コンクリートポエトリーアーカイヴ研究」(2021年度-2025年度)の研究成果発表の機会として企画された展示とのことだった。図書館1階左奥の巨大な扉の奥の展示室が会場で、その手前で、まずは椅子の作品《開=閉[または正=負]の空間椅子》が迎えてくれた。会場に入ると、大きな作品が壁面に端正に並んでいる。刷られた和紙のサイズはほとんどが90cm×90cm。例外的に長いものでも180cm×90cmで、例えば《大気ーはひふへほ》(1970-74)の説明には、〈当初180×90cm大の写真に引き伸ばし、パネル化してASA展に出品したので、その大きさを再現した〉とあった。

1点ずつ間近に見ていく。向井周太郎著『かたちの詩学』(美術出版社 2003)などでも見ていた作品ではあるが、印象がだいぶ違ったのは大きさのせいではなく刷られた紙によるものだろう。四辺が断ち切りでない耳付き和紙、しかも厚くて質感にニュアンスがあるので、具体詩作品が、ただそれだけで目に入ってこない。美しい和紙がかけがえのない台紙として在り、極めて勝手な感想だけれども、”作品然”として、向井さんの作品に似合わないように感じてしまった。会場には他に、「向井周太郎 具体詩の文脈」と題した緻密な具体詩作家相関図と、作品制作の資料や直筆原稿、写植を切り貼りした版下なども並び見応えがあった。

ひととおり展示を見るも名残惜しく、壁面から離れてもう一度会場全体を見渡したとき、突然違う感慨に襲われた。これ、「ふすま」? 「ふすま」で囲まれてる? 

向井さんの父・向井一太郎さんは経師・表具師で、おふたりには『ふすま』(中公文庫 2007)という共著がある。前半で向井さんが一太郎さんの作業に見入っていた幼い頃の思い出にも触れながら「ふすまという現象」を深く広く論じ、後半ではおふたりが「ふすまの技と意匠」と題して対談している。向井さんの生まれ育った家の様子とからかみの文様について書かれたところを、ほんの一部引用してみる。

〈ぼくが生まれ育った生活空間は、外側のあかり障子のほかはすべて襖の間仕切りでしたし、壁面も多くが押入れか収納棚で、その表戸の多くは引き違いの小襖でした。つまり、そのほとんどが襖で構成された生活空間でした。間仕切りや押入れ襖の表は、鳥の子の白無地か、あるいはその白地に白きら(雲母)押しの唐草紋か縞ものでした。(略)小襖はたいてい縁なしの「たいこ張り」でした。こうした生活空間としての襖の経験によって、ぼくの「ふすま」のイメージとしては、「清浄さ」、「神聖さ」、「優しさ」、「細やかさ」、「温かさ」、「柔らかさ」、「静けさ」、「軽み」、「渋さ」、「いき」というような感覚がはぐくまれてきました〉(91p)

〈日本人にとっては、自然や世界を写す言語的表現も、図像的表現としての文様も、そこにはなんの区別もなく、二つはまったく一つのものであるということです。(略)こうして、「からかみ」の「文様」は日本人の自然や世界ないしは宇宙の心を表わし、それを伝えることばとして展開されてきたのです〉(144p)

向井さんが90cm×90cmの襖判和紙に作品を刷って遺したのは、作品を”版”として、”周太郎からかみ”を刷り上げたようなものではなかったかと思えてくる。とすれば、「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展とは、”周太郎からかみ”、つまり向井さんの具体詩作品柄で仕上げたふすまで間仕切りをした空間に迎え入れられる体験だったと言える。先に「”作品然”として向井さんの具体詩に似合わないように感じた」と書いたけれども、なるほどだから1点ずつを単体で鑑賞するために用意されたものではないのかもしれない。というか、そういう鑑賞を拒否する作戦だったのかもしれない。なにしろ向井さんの作品は、これまでどれだけ多くの展覧会やら雑誌やらネットやら論文やらに展示・掲載・引用されてきたことだろう。今後も続くに違いないけれども、それとは別に、作品たちの揺るぎない居場所というか休息所みたいなものを、向井さんは感謝を込めて用意したかったのではないかと想像している。いい展示だった。