東京ステーションギャラリーに『月映(つくはえ)』展を観る。「回覧雑誌めいたものを造ってはどうかな」。下宿に集まる美術学生のひとりが何気なく口にしたこのひとことで、詩などを書いた原稿用紙と、スケッチブックやカンヴァスに描いた絵を台紙に貼付けたものなどをリボンで綴じただけの、3、4人の仲間による雑誌『ホクト』がまもなくできたそうだ。田中恭吉と藤森静雄がそれぞれ編集した2冊(1911)で終わったが、2年後には田中が個人作品集として始めた『密室』がまたまた回覧雑誌となり、9号まで続くことになる。
冊子のいくつかは綴じ紐をとかれて、表紙をひらいて額装されていた。2つか4つ穴の平綴じで、両表紙にある美しい作品やタイトルをなるほどこのようにして見たくなるものだとは思ったが、折りじわをていねいに伸ばしたのだろう、やや白味を帯びた2本のラインに、からだのかたいひとが背中を押されて開脚前屈しているのを見ているような、なにかこう、こちらの脚の付け根がぴくぴくしてくるような、そんな気がしたことも確かだ。よもや100余年後に、こんな姿でたくさんのひとに額を寄せて見られることになろうとは。
『密室』には途中から恩地孝四郎が参加するようになり、田中、藤森、恩地の3人で自刻の木版画集を作ろうと盛り上がる。当時やりとりしたはがきも展示されていて、これがまたいい。田中が恩地にあてたものには、〈ねむれなかった〉、〈月映はどう? わたしは月映といふ字づらのすっきりしたのがこのもしい〉、〈刀がとどいたのできのふは半日とぎやさんを二人で、した、こんな仕事は一緒にやりたくおもふ、おもしろおかしく〉などなど。書名は『月映』と決まり、たとうに挟むかたちで最初は3部、そして1914年には200部の出版が叶う。
はじまりに手作業は良く似合う。高田敏子は最初の二冊の詩集を作るにあたって、子どもたちの助けを借りたそうだ。長女、久冨純江さんが『母の手 詩人・高田敏子との日々』(2000)に書いている。『雪花石膏』(1954 200冊)は表紙カバーを折るだけだったが、『人体聖堂』(1955 300冊)は、〈カバー用の厚紙に黄色いリボンをつけ、詩集を包んで結〉ぶのを妹の喜佐さんと手伝ったそうだ。リボンをどう結んだのだろう。ウェブで見ると、段ボール地のカバーに黄色のリボンをつけたようだ。みんなで蝶結びしたのだろうか。〈茶の間が黄色に染まった〉。母、二人の娘とも器用だったから造作ないことだったろう。にしても、300はうんざりだったのかもしれない。