出先で読む本を鞄に入れようとして、いつものように帯とカバーをはずす。棚におさめるときにカバーはかけ直すけれど、帯はなくなっていたり捨ててしまうことが多い。帯にあるのは宣伝文句だから、本を読み終えてなお読みたい文言が書かれている帯はほとんどない。それによって買う買わないを左右されることはないが、手にとるとらないには大きくかかわるからやっぱり大事なんだろう。紀田順一郎さんの数年前のコラムに、判明している限り最古の帯は阿部次郎『三太郎の日記』(1914、東雲堂)に付された「読め!」とだけ書かれたもの、とあった。実物を見たことはないが見たらきっと手にとるし、買ったら帯も捨てないだろう。読んだあとになってまで読みたい文言ではないけれど。
この日鞄に入れようとしていたのは2冊同時刊行された北園克衛の詩集『記号説 1924-1941』と『単調な空間 1949-1978』。何気なく何もかもはずしたあとで手がとまったのだった。逆回しみたいにカバーをかけて帯をかけ直す。もう一度はずしてまた逆回し。もう一度。もう一度。全部かけたとき、帯がはずれたとき、カバーもはずれたとき。自分の手が幕をめくって場面転換を起こしたような、帯とカバーと表紙が装置になっているとでも言えばいいか。しかも帯の文言で2冊が互いを誘い込むものだから、それぞれの表紙に最も大きく描かれた「1924-1941」と「1949-1978」の文字を八の字ループして眺めるうちに、空いた7年間が浮かび上がってくる始末。
さてこれは北園克衛が1924年から1941年にかけて書いた『記号説』と1949年から1978年にかけて書いた『単調な空間』という2つの詩集ではもちろんない。そんな風には書いていないし、いずれの表紙カバーにも「selected works」の文字があるが、「北園克衛」を初めて知ったひとにそう感じさせるには十分のデザインだ。帯にそれぞれ大きく「モダニズム詩集」「実験詩集」とあるから詩であることはわかる。しかし帯がはずれていたら詩であることはわからない。まして背には「北園克衛 記号説 思潮社」「北園克衛 単調な空間 思潮社」とだけあり、棚にさしてあるのを見たら北園克衛というひとがそういうタイトルでまとめた本とだけ思うだろう。表紙には年号が記されるが、「selected works」の文字はない。
編者の金澤一志さんが記す栞もある。重複のない文字情報によって、栞、表紙カバー、帯のどれもが不可欠である。しかしこれは読み手の勝手で、編者は逆のことを考えているのかもしれない。栞、表紙、表紙カバー、帯、その全体のデザインに、誤解を怖れることのない清潔と、むしろいざなう愛を感じるからだ。開いてみな。読んでみな。ほらもっと。もっともっと。汗をかいてかなしくキヤラメルを甜めながら、100回目をおわります。
……/七月の午後/海はうるさく/恋人もパラソルもうるさい/かなしくキヤラメルを甜め/汗をかき/退屈する 北園克衛「熱いモノクル」より