ジョージアとかグルジアとか紀行(その6)

足立真穂

五月晴れの日本を離れて再びジョージアの地を踏んだ。

「一緒にワインを飲む旅に出かけてみない?」と声をかけてくれたのは、日本にジョージアワインを輸入する「ノンナアンドシディ」の岡崎玲子さん。FaceBookで「ジョージア」と連呼していたのが功を奏したらしい。となると、今回は、「ワインのプロ」との旅だ。昨秋この土地を離れる時には思いもしなかった展開だ。こうして書いたりSNSで投稿したり、投げた石はいつのまにか水紋となり広がっていく。

 二度目のジョージア

こうなったらワインの世界をもう少し掘り下げてみよう。

とはいえ、そう言えるほどワインの世界は簡単ではないので、違う目線で見ることにした。

「ジョージア人にとってのワインは、日本人にとっての『鍋』のようなもの」という仮説視点である。単なる思い付きだが、ジョージア人とワインを飲むと、鍋を大勢で囲んだときのような、あたたかい高揚がある。

それは、「同じ釜の飯を食う」感でもあり、安心できる人生の潤滑油のようでもあり、家族や仲間のつながりでもあり、と、ジョージア人にとってのワインは、日本人にとってのワインとは、存在に、桁の違うかけがえのなさを感じるのだ。

右から、ジョン、ショータ、ジョン・オクロ

帰国してしばらくして、3人のワイン醸造者を岡崎さんがジョージアから日本に招くことになったと聞いた。ちょうどこれを書く頃(2019年10月末)に来日し、その3人で、日本の生産者をまわったり、講演会や宴会を開くという。

3人の内、アメリカからやって来てジョージアの有機ワイン興隆の今をつくった立役者のひとりが「PHEASANT’S TEARS(フェザンツ・ティアーズ)」のジョン・ワーデマンその人だ。

もうひとりは、夜景がジョージア一と言われるレストランを持つ、物理学専攻でイギリスの大学で博士号をとったというジョン・オクロ(「OKRO’s Wines (GOLDEN GROUP)」)。ジョンとジョン・オクロ、この二人は同じシグナギという町に住み、ジョンの奥さんとジョン・オクロが幼馴染、だったかそんな近くて古い関係だ。

そして、首都トビリシでの観光業の仕事をやめて北東部の山あいにUターンした、もう一人のショータは30に手が届くかという、次世代のリーダー格(「Lagazi Wine Cellar」)。ジョンがワイン作りの師匠だという。
それぞれ、レストランから畑にまで足を運んだが、クヴェブリの伝統と土地柄を生かしたセンスの良いワインがおいしい。ジョージアのナチュラルワインの世界でも有名な3人だ。

 なぜジョージアなのか?

ジョージアのナチュラルワインの最近は、アメリカ・バージニア生まれのジョンのこれまでをたどるとわかりやすい。菜食主義のヒッピーだった両親の元に育ち、絵を描く才能に恵まれた彼は、モスクワで美術を学ぶ。卒業後、ポリフォニー音楽に惹かれてジョージア中を旅し、トビリシから真東に110キロほどの、「シグナギ」という街で歩を止める。

このシグナギは、ワインの名産地「カヘティ」という地方の地理的な真ん中に位置する。周囲を一望できる山上にあり、18世紀の城の壁に囲まれた、石畳の輝く有名な観光地で、ここから見るコーカサス山脈はこの世のものかという天空の景色だった。この絶景に、ジョンも惚れ込んだのだという。

シグナギの街を隣の丘からのぞむ

「愛の街」としても知られており(街の広場には、コインを投げると恋が成就するといったコイントスの泉もあった)、アートや音楽を愛するジョンには魅力的な街だったのだろう。さすが「愛の街」で、後に結婚するジョージア人女性とも出会い、時々旅をしながらも、落ち着くことになったという。そうそう、ジョンは180センチ近い大柄な体格で、俳優のラッセル・クロウに似ているという人が多い。確かに似ているのだが、ラッセル・クロウをテディベア化したというのが表現としてはしっくりくる。そして、「この人に任せれば大丈夫」と周りの人を安心させる不思議な空気があって、いつも人の輪の中心にいる。

シグナギの街にあるジョンのレストラン「フェザンツ・ティアーズ」。

「なぜジョージアだったの?」と、この話を聞いて、思わず私は尋ねてしまった。「アメリカはどうも性に合わなかったんだよね」と、ジョンは穏やかに答えてくれた。ジョージア人男性は、宴会でポリフォニーで歌うことがあるのだが、ジョンはこの名手と言われており、音楽に惹かれたことも大きいとは言う。けれど、ジョージアは、いまだに道路はガタガタでインフラが整っているのはトビリシなど都市圏だけだ。中心を離れると、電気や水が通っていない地方もまだ多い。豊かなアメリカの方が便利で快適な暮らしではないのか。

観光などで大都市に旅をしたことが数度あるだけの私には、アメリカの実情がよくわからない。ひとつ言えることは、ジョンの幸せの閾値は、アメリカにはなかったということなのだろう。絶景を前にすると、少なくとも便利さは幸せの絶対条件ではないように思う。

故郷で実家が農業を営んでいたわけでもなく、ましてやワイン造りにも土地にも縁がなかったジョンがワインづくりを始めた理由はなかなかおもしろい。「近くに住んでいたワイン農家の人に薦められたから」とだけ当初聞いたのだが、ジョンが親しくしているニューヨーク在住のジャーナリスト、Alice Feiring が書いたジョージアワインをめぐるノンフィクション『FOR THE LOVE OF WINE:MY ODYSSY THROUGH THE WORLD’S MOST ANCIENT WINE CULTURE』(ワインを愛するがため~世界最古のワイン文化をめぐる私の冒険/拙訳)にそれは詳しい。参照しつつ、私が取材したことも含めると、その経緯はこうだ。

子供にも恵まれ、お金はなくとも絵を描く満ち足りた生活の中、ある日、ジョンは畑で絵を描いていた。そこに来たのはトラクターに乗った農家のゲラさん。トラクターの上からいきなり夕食にジョンを誘い、「俺たちは話す必要がある」と叫んで去って行った。唖然とするばかりのジョンの家に次にはやってきて「子供たちを収穫に連れてきて、ぶどう踏み(ぶどうをジュースにする作業)をやればいい。その魔法を見たら考えは変わる」と言う。どうもワイン作りをさせたいらしい。それでもワイン作りには興味がない画家のジョンが放っておいたところ、収穫の最終日にぶどうをトラックに山積みで持参。結局ジョンは、ぶどうを家族と踏み、新鮮なぶどうジュースのおいしさに打ちのめされる。そして、いつしか彼の家でゲラさんの母親の手料理でワインを飲み、ジョージアのブランデー「チャチャ」を一緒に飲むことになっていた。おもむろにゲラさんは語りだす。

「少なくとも8世代にわたって家族でワインをつくってきたこと。ジョージアには520種類ものぶどう品種があること。害虫にも他国の侵略にも負けずにここまで守り抜いてきたこと。ソ連は、市場で人気のワインを大量生産するように仕向けてきたこと。だから手間のかかるクヴェブリは絶滅の淵にあること。でも、ジョージアの固有の品種を守りたいこと。伝統的なクヴェブリの醸造方法を知る最後の世代であり、誰かに伝えなくてはいけないこと。誰かの助けが必要なこと。そして、それはジョンであって、自分の土地を買ってワインづくりをしてほしいこと。」

当時のジョージアの問題を投影してあまりあるその言葉を聞き、農業の経験もない画家は、結局その土地で、ワインづくりを始める。ゲラさんの始めたPHEASANT’S TEARSに参画し、いまでは畑を拡大し、417種の固有種を植え、ワインを作りながら3軒のレストランを運営し、ジョージアのナチュラルワインの興隆ために日本やアメリカはもちろん、世界中を飛び回る生活だ。彼なりに、ジョージアにいる理由を確固とそこに見出したのだろう。

 人をもてなす喜び

ジョージアでは、客が来ると、ないしは少しでも人が集まると、宴会(スプラ)となる。手作りの料理が所狭しと並び、ワインが注がれていく。最初はビールで次はワイン、とチャンポンにすることはめったにないそうだ。このスプラを大事にする姿勢には驚くほどで、宴会を仕切り、盛り上げる「タマダ」という職業さえ存在する。有能なタマダはタレントのように人気があり、よく知られているそうだ。場を見て、うまくまとめるタマダは尊敬される存在でもある。

タマダは役割でもあるようで、参加者のうち、年長者、立場のある人、ホストの誰かが担うことも多い。家にやってきた客を神様が送ってくれたとするジョージアのおもてなしは、本気だ。タマダが最初に、そして参加者が順番にあいさつをし、杯を空けていく。たとえば、私は順番がまわってきたときに「このすばらしいワインをつくってくれたジョージアの大地に!」とやけくそで叫んだところ、大いに場がわいた(と、思わせてくれる)。そしてひとりが何かを言祝ぐたびに、立ち上がって全員が注がれたワインを飲み干すのが礼儀だ(飲めない場合は少な目に頼んだり断ったりすることもできる。そのあたりもタマダ役が見てくれている印象だ、と信じているが……)。その場の誰かの幸せや未来を互いに言祝ぎ、祈ることで場は高揚し、共鳴していく。

それほどに、その場にいる人間が同じ時間を共有し、一致することを尊ぶのだ。どうもこれは多民族多宗教のお国柄だからではないかと思う。ワインを通じて、友好や賛辞の言葉を重ね、杯を重ねることで時間や気持ちを共有し、関係性を築くのだ。それはもはやタマダを含むある種の「型」にさえなっている。

それが日本でいえば、鍋を囲むことに似ているのだ。多様性が高いので、鍋を囲むように悠長にはしていられないのかもしれないし、ジョージアでは自家製ワインを出せる家庭も少なくはない。たとえるなら本来の茶の湯もそうだったと思う。日本でも戦国大名は、武器を置き身動きの取れない狭い茶室で、ともに同じものを口に入れ、茶を一服することで融和を図った。現代でも、茶事で一緒になった相手に対しては強い親近感が生まれる。それと同じことをスプラで行うのだ。

今回、東京での「ジョージアワイン」をテーマにした講演会で彼はこう話をしめくくった。

「ジョージア人にとってワインはa way of life です」。

これをどう訳すかは解釈次第だが、人生のあるべき姿、とでもいえるだろうか。家族の生活の中心にあるものだとも強調していた。ワインを飲む宴会に参加すると、歌い踊り、料理を楽しみ、ひたすら語る。一緒になった人とは、家族のことまで含めて深く知り合い、親しくなれる。ワインは人間の間をつなぐ重要なものだ、と言うのだ。

結局、「ジョージア人にとってのワイン」を考えることは、人間関係の真髄にいつしか触れることになっていく。私が短期間のあいだにジョージアに再び来たくなったのは、この関係性が心地よかったからかもしれないと自分でも思う。

ジョージアで出会ったフランス人が言っていた。

「ワインを飲む原点がここにはあるんだよね。フランスでは、ボルドーの〇〇とか、格付けばかりになってしまっているから」。

日本は、どうだろうか。

<情報欄>

このジョージアの特異な自然派ワインによる人のつながりを描いたドキュメンタリー映画が、『ジョージア、ワインが生まれたところ』と題して日本でも11月1日(金)より公開とのこと(シネスイッチ銀座、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほかにて全国順次公開)、映像で確認できるかもしれない。

また、ジョンは、現在20種類以上のワインをつくっているという。ほかのふたりのものも含め大地を感じさせるジョージアの自然派ワインを飲みたい方はこちらから。