「水牛」を読む(4):『水牛新聞』第4号(福島亮)

「水牛通信」を読む

 今回は『水牛新聞』第4号を読む。刊行されたのは1979年4月1日である。以下では、前回扱った喜納昌吉と白竜の「誇りと笑いの祭」の後日談を紹介する。ついで、「ことばについて」と「玄関」という二つの文章に触れる。ただ、今回はあまり多くの記事を紹介できないので、上記三つの記事を紹介する前に、第4号にどのような記事が掲載されているのか外観だけでもおおまかに示しておこう。

 

演劇、言葉、アイデンティティ

 第4号掲載記事を最初から最後まで一通り読むと、これまで読んできた創刊号から第3号までの連続線上にやはりこの第4号もあり、そこで一貫しているのは、演劇、言葉、アイデンティティという要素である。

 まず演劇についていうと、第一面に掲載された「在米フィリピン人による人民のための演劇——シニング・バヤンの運動」という記事は興味深い。シニング・バヤン(Sining Bayan)は「74年にサン・フランシスコのベイ・エリアで生まれた文化活動のグループ。名前の意味は、“人民のための芸術”」であり、もとはフィリピン民主党(KDP)の文化活動の一環として生まれたものだという。教育的効果を狙った集団創作による演劇活動を展開し、政治意識の強い団体だった。例えば、『ナルシソ/ペレツ』という芝居は、「ナルシソとペレツというふたりの看護婦の不当解雇反対のため」に作られたものであり、実際に二人を守る会に多くの人を巻き込むことに成功したという。ところで、記事には、「フィリピンのラディカルな新聞『カティプナン』紙がこのシニング・バヤンのメンバーにインタビューし、グループの歴史、活動の内容などを尋ねているが、その一部をここに紹介したい」とある。『水牛新聞』第4号にこの記事が掲載されたのはどういった経緯によるのだろうか。というのも、シニング・バヤンについては日本語や英語で調べてみても、あまり多くの情報が出てこなかった。この記事はそういう意味でも大きな資料的価値を持っていると思うのだが、この記事は誰が書き(あるいは訳し)、どのような経緯で『水牛新聞』に掲載されたのか、できることなら知りたいものである。

 また、演劇にかんして目をひくのは「解放教育のなかの劇場——湊川高校の実践」という記事である。竹内敏晴が行った湊川高校での演劇教育を詳細に報告したものである[1]。記事を読んでいて最も印象に残ったのは、演劇に対する生徒たちの反応の鋭さ、そして、そのみずみずしい感受性が、非常にもろい言葉で表現されている点である。例えば、1977年11月に、「竹内スタジオ」は湊川高校学園祭で清水邦夫の『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)を上演した。この難解な作品に対して、「つまらない」という反応はなかったという。ではどのような感受性がその時示されたのか。生徒の感想文をここで孫引きしておこう。「私たち、あまり劇には遠い存在である。しかし、その劇を見てとても感動した。劇をする皆さんよくやってくれました。でも、僕たちにはなにがなんだかわからない。全然いみのない劇である。あれをするために、わざわざ東京からやってきたもんだ! 僕は劇を見終わったとき、涙が出た。もう今後こんな劇はやめろ。まんざいしでもつれてきたほうがよい」温かく、しかし屈折した、言葉で言い表せないような言葉がここには綴られている。私はこの感想を読むことができただけでも、この号を読む意義があったと思っている。

 第4号には他にも、「ウリ・スンニ・ハリラ——アジアの女たちの会の集団創作劇」「ヤマトの腹中で沖縄文化をつくる」そして、佐藤信の「主題・アジア演劇論2」が演劇を扱っている。

 言葉については、後に「ことばについて」という文章を扱うが、それ以外にも、まず有原学「朝鮮語——その抵抗の言語」という文章がある。面白いのは、「ヨクロル(辱説)」と呼ばれる罵り言葉について述べたくだりが、本文後半においてキム・ジハの『蜚語』の分析につながるところである。また、言葉、というよりもは詩を扱ったものだが、「チット・プミサック」と題された文章は、この号の中でも特に目立つ記事である。というのは、文章の横に、紙面の四分の一ほどの大きさでプミサックの肖像が掲載されているからである。1930年に生まれ、若くして「作家、翻訳者、詩人、作曲家、ジャーナリスト、評論家、歴史学者、考古学者、言語学者」として活躍し、「生きるための芸術」を唱え、しかし1958年には国家治安法違反で投獄され、釈放後、武装闘争に加わるも1966年に射殺されたプミサク。この人の生については、水牛の本棚に置かれた、荘司和子の編訳による『ジット・プミサク——戦闘的タイ詩人の肖像』が詳しい[2]。

 また興味深かったのは、「太平洋の島々で詩の運動がはじまった」と題された記事である。フィジー共和国のスバで1975年に出版された『ゴング』というアンソロジーをもとにしているのだが、このアンソロジーは太平洋の島々で高校生たちによって書かれた「ピジン・イングリッシュの詩と英語の詩」を集めたものである。このアンソロジーはエファテ島ヴィラにあるイングリッシュ・スクールの生徒たちが1972年から1974年まで3年間刊行しつづけた雑誌から選んだ22篇の詩と文章から構成されているという。アンソロジーの現物を確認することはできなかった。でも訳出されている文章には次のように記されている。「英語で教育された若い少年少女が英語と、書き、撮り、編集し、印刷する技術をつかいこなして、ニュー・ヘブリデス的ななにものかをつくりだし(…)ニュー・ヘブリデスの島々からの声をひびかせる。」

 アイデンティティにかんしてなかなか読みごたえがあるのは、李潤植の「音楽と民族精神」である。紙面を一面まるまる使用したこの論考は、文末を読むと、もともとは『漢陽』という媒体に1971年に掲載されたものだという。どのような経緯でこの文章を訳し、掲載することになったのか。誰が翻訳したのか。ぜひとも知りたいものである。アイデンティティという言葉は、この第4号の他の記事にも見られるものであり(例えば、上にあげた『ゴング』や、これから読む「玄関」など)この号の記事の全体を貫くテーマだといってもいいかもしれない。

 以上、演劇、言葉、アイデンティティという枠組みで第4号の記事をざっと見渡したが、この他にも、第4号には「タイ農民小説の世界『ゾーイ・トーン』」やタイ映画「田舎の先生」の上演会の知らせ、「合言葉をつくる——全国一般南部支部のたたかい」、韓国の風刺的マンガ「コバウおじさん」、そして、非常に感動的なのだが、カラワン楽団のスーラチャイ・チャンティマトンから届いた手紙が掲載されている。これらの記事の中から今回選んだのは、まずは前回紹介した記事の後日談ともいえる「誇りと笑いの祭のあとで」である。

 

誇りと笑いの祭のあとで

 喜納昌吉、白竜(記事では「白龍」と表記)、そして青生舎によって1979年3月8日に行われた「誇りと笑いの祭り」について前回紹介した[3]。そこで引用したのは、次の文章だった。「千人の会場は、けっして広くはないが、79年春にふさわしい意欲と熱気、さらに根拠ある熱狂で埋めつくしてみたい。3月8日は確実に、根のある動きを糾合し、ゆるやかに出会う一つの水路となるだろう。」どんなコンサートだったのか気になっていたところ、第4号にその後日談が掲載されていた。コンサート企画の経緯について次のように書かれている。

 企画は、まず、内申書裁判をたたかう「青生舎」の呼びかけに、「筑豊と共闘する会」「沖縄講座実行委員会」が、共同企画に加わり、これに、『水牛』編集委員会が、協賛した。/とくに、在京の沖縄青年を主体とする「筑豊」「沖縄講座」は、自分たちの運動の一貫として、コンサートの〈場づくり〉にとりくみ、チラシ配りからチケット売りまで、お互いの労働のあい間をぬい、都内にある沖縄料理点を歩くなどして、ひろく仲間に呼びかけた。

 これを読むと、「誇りと笑いの祭り」に水牛がかかわっていたことがわかる。ただ、「筑豊と共闘する会」および「沖縄講座実行委員会」については、どのような組織なのか今回調べがつかなかった。住民図書館編『ミニコミ総目録』を参照すると、「筑豊と共闘する会」については『筑豊通信』という機関紙を発行していたことだけが記されており、「沖縄講座実行委員会」の方については何も記されていない。『筑豊通信』については、立教大学の共生社会研究センターと滋賀県立大学朴文庫に所蔵されていることがわかったので、日本に帰国したら調べてみたい(ちなみに朴文庫は朴慶植が遺した資料を整理したものである)。また、『筑豊通信』の写真が一枚だけインターネット上にあったが、内容まではわからなかった。

 当日、会場は満員だったという。その熱気については次のように説明されている。

 千人の会場をうめつくした当日のコンサートは、舞台からの歌と語りに、客席はわき、前半分は、たちあがり踊った。/(…)/「基地問題」や「反CTS(石油備蓄基地)闘争」が語られ、さんしんによる沖縄民謡が聞こえてくる。つき動かされるものが、じっとしていられないものが、人びとを立ちあがらせる。

 実はこの紹介を書きながら、喜納昌吉と白竜の音楽を聞いた。特に白竜の「アリランの唄」は聴いていると引き込まれてしまい、文章が書けなくなった。文章を通してこの歌声や熱気に手を伸ばすことなどできるのか、という思いも兆してくる。そう思いながら『水牛新聞』創刊号をもう一度読み返していると、そこには「新しい風よ、吹け! 玄界灘から白竜のメッセージ」と題された小さな記事があった。この記事自体は白竜が書いたものではなく、白竜の言葉を紹介する形で書かれている。この記事には署名がない。だから誰が書いたのかはわからないのだが、この記事の約半年後に「誇りと笑いの祭」が行われていることを考えると、このコンサートの準備の過程でこの記事が書かれたと推測するのが自然だろう。この無署名の記事は先に述べた歌声と熱気をさらに深くイメージさせてくれると思うので、最後に少しだけ触れておこう。

 そこには白竜の経歴が、1977年9月に行なった在日韓国人政治犯支援コンサート「無言のままでいられない」から始まったことが記されている。その後、1978年7月の沖縄における喜納昌吉との出会いまでが短く記され、そして白竜の次のような言葉が引用される。「1980年代とは、醒めている人たちが燃える時代だ。これまでの、アンハッピーで、ただ、がむしゃらに自分の感情をぶちまけていたような歌ではなく、あたらしいメッセージ・ソングを、どんどん歌ってゆくつもりだ」。この言葉は、「誇りと笑いの祭」のコンセプトとも、また「アリランの唄」の中の歌詞「さてさて 俺たちのアリランは ともに笑い歌いながら 海を越えて響き渡る 喜びのうた」という歌詞とも強く共鳴している。

 この共鳴、「誇りと笑いの祭り」を包む、新しい風を巻き起こさんとする息吹の背後には、それでも少し、不穏な陰りがある。このコンサートの約2年後、白竜は第二アルバム『光州City』を出すことになるが、それは発禁処分になるだろう。「誇りと笑いの祭り」とこのアルバム発禁処分の間に起こった出来事について、それでも今はまだ触れない。それに触れるのは、もっと先の方、1980年6月16日に急遽刊行された『水牛通信』号外を扱う時以降である。

 

「ことばについて」

 前回、水牛の文体について述べた。文体について言及したのは、『水牛新聞』第3号でそれが問題となっているからなのだが、それに加えて、後に扱う『水牛通信』の文体をめぐる仮説がちらちら頭に浮かんでいるからでもある。どういう仮説か。これは私の感覚なのだが、『水牛新聞』と『水牛通信』との間には何か違いがあり、それは(タブロイド新聞から冊子へというスタイルの変更はいったん括弧に括ると)文体なのではないか。非常に暴力的に言い切ってしまうならば、『水牛新聞』の文体は非常に硬質で、熱く、しかもどこか客観的なところもある。それに対して、『水牛通信』になると別の性格、もっと柔らかで入り組んだ手触りの文体になるように思われる。実は、このような違いを感じている人は当時の読者にもいたようで、『水牛通信』1980年3月号にはこの違いを指摘する読者投稿もある[4]。ただ、強調しておきたいのだが、この文体の違いは『水牛新聞』と『水牛通信』との断絶ではない。『水牛新聞』から『水牛通信』の間で変わらずに受け継がれた文体もあれば、両者の間で徐々に生成していった文体もあり、さらにはきっぱりと違いがある文体もある。ただ、いいたいのは、『水牛新聞』の段階から胚胎されていて、それが『水牛通信』への移行とともにはっきり顕在化した文体があるのではないか、ということである。なぜこんな仮説をくだくだ書いているかというと、これから読む二つの文章のうち、特に「玄関」には先に述べた新しい文体の萌芽が見られるように思うからである。そこで、まずは前回述べた文体の問題をさらに掘り下げ、文体が水牛にとって重要であることを再確認させてくれる「ことばについて」という文章を読む。ついで、「ことばについて」で語られている文体が来るべき文体へと徐々にうつろっていく「玄関」を読んでみよう。

 前回検討したのは、「水牛は何をめざすか」という文章だった。そこでめざされている文体についてのくだりをもう一度引用しておこう。

 この文体は「私」をしらない。すべてを「私」にひきうけるのではなく、一人のものもみんなにわかちあうことが、文体の上でも必要だ。内面の表出ではなく、りんかくのはっきりした身ぶりをつくりだすことば、白紙の上にかきおろされた新鮮さがそのまま引用の持つむだのなさであるようなリズムを発見することだ。

 ここでいう文体とは何か。この問いについて前回はっきりと述べていなかったので、今回はその点に少しだけ触れておきたい。まず、上の引用箇所で述べられている文体は、文体という時に普段私たちがイメージする語義とは違うように思われる。一般的なイメージとは、文の体裁やある書き手に特有な文章の傾向のことである。ごく素朴な見方として、文体は「個人の精神的個性と結びついている」ものとして了解されているはずだ[5]。ところが、先の引用ではのっけからそれが否定され、「この文体は『私』をしらない」と宣言されている。

 では「『私』をしらない」文体とは何か。まず思いつくのは、無署名の文章、誰が書いたのかわからないような文章、要するにジャーナリスティックな文章がもつ文体である。これは、いってみれば字義通りの解釈だ。そこではまず、署名の有無が問題となる。実は、第4号の「編集後記」を読むと、実際、水牛のメンバーがこのような無署名の記事を書くある種の実験をしていることがわかる。前回、金武湾の祭りを論じた津野海太郎の文章に署名がなされていないことを指摘しておいたが、署名がなかったのは、そのためだったのである。「編集後記」にはこう書かれている

 前号あたりから、翻訳や評論のほかに、編集委員会のメンバーが「取材」をして書く、無署名の文がおおくなった。/それにつれて、われわれが「水牛」の運動をつくりだしてゆくために、どのような「ことば」が必要なのか、という問題が生じてきた。新聞をつくるひとつひとつの段階で、かならず、そのことが問題になった。

 これだけ読むと、ごく普通の新聞に掲載されているような、その日その日消費されていくだけの無署名の文章が求められているようにも読める。だが、そう言い切ってしまうのは早計である。というのも、この引用の後には次のように続くからである。「『私』からながれだして、また『私』にもどってくるのではない——そのような『ことば』の必要に直面しているのは、もちろん、『水牛』だけではない。」

 新しい要素が出てきた。「ことば」である。「『私』をしらない」文体とは、「ことば」それ自体をどう捉え直すのか、という問いかけの果てに生まれる文体、新たな「ことば」で綴られた文体ではないか。先ほどの字義通りの解釈に対して、こちらは思索的な解釈、反省的な解釈である。「『私』からながれだして、また『私』にもどってくるのではない」「ことば」の探究とは、そうなると、具体的にこれというモデルを指し示すことのできるものではなく、「ことば」という概念をずらし、別様に眺めてみる試みのこととなる。では、新たな「ことば」の捉え方とは具体的にはどういうものだろうか。第4号に掲載されている高橋悠治の「ことばについて」という文章は「ことば」についてより具体的なイメージを与えてくれる。

 「長い年月音楽をやっていると、ことばがほしくなる」という一文で開始するこの文章は、「ことば」を「かたち」として捉えようとする。引用しよう。

 ことばが理念を意味するのではなく、かたちをしめすとすれば、そのかたちは日本語の「かたち」の語源とはすこしちがうだろう。金属でできたいがたよりはしなやかで、衣服のように身につけることができて、かたちは着るひとによってすこし変わる、そんなものをかんがえてみる。/ことばを意味でとらえれば、解釈が問題になる。ことばをかたちでおさえれば、身につけることが問題になる。それが実践だ。

 衣服のように身につけることができるもの、という「ことば」のイメージは興味深い。同じことばなのに、それを話す人によって(たとえ同じような文脈や状況であったとしても)微妙に雰囲気が異なるということは経験がある。ただ、ここで力点が置かれているのは、そのようなことばの雰囲気や佇まいというよりも、むしろその「かたち」としてのことばを身につけることのほうである。それはもしかしたら、楽器の演奏に近いものなのかもしれない[6]。それでもまだ「かたち」とは何なのか掴めない。具体例が欲しくなる。続きを見てみよう。

 昨年四月、石川県七尾で火力発電所建設に反対する漁師たちは一向一心なむあみだ仏ののぼりをかかげた小舟をこぎだした。このことばは数百年の歴史のなかで風化し、いまは一向一心(ひたすらに心をあわせ)ということをなむあみだ仏とたたえているにすぎないかもしれない。だがもともとは、なむあみだ仏の方がことばの本体だった。

 ことばの「かたち」としての「一向一心なむあみだ仏」。たしかに、念仏はひとつの「かた」を持った言葉の連なりであり、それを唱えるためには、少なくとも「一向一心なむあみだ仏」ということばを身につけなくてはならない。念仏のような習得されるべきことばの組み合わせがここでは「かたち」の一例として提示されているわけである。

 無視できないのは、そのような「ことば」が要求されている文脈、すなわち民衆運動という文脈である。現在の七尾太田火力発電所は住民運動を経て、建設地が一転二転した挙句に現在の場所に建設されたものだった。闘争の経緯については、ある短い回想録をインターネット上で読むことができる[7]。また、当時の新聞を参照すると、「昨年四月」にあたる1978年4月について、読売新聞は、4月3日の朝刊で、「反対漁民が“海戦”」としてこう報じている。「北陸電力が石川県七尾市に建設する七尾火力発電所の海面埋め立て工事が、2日早朝、地元の反対派住民約800人が激しく抵抗する中で強行着工された。漁民たちは30隻の漁船に乗り込んで海上ピケを張り、ナタやトビロを振るって作業船上の作業員に襲いかかるという“海戦”を展開」[8]。また、4月ではないが、この頃の七尾市の住民が置かれていた状況について、朝日新聞は1978年6月19日に「燃え上がる『海の成田』」として報道しており、前回の金武湾闘争の報告でも述べられていたように、地域住民が賛成・反対両派に分かれて分断されている様子が見て取れる[9]。また興味深いのは、ここで七尾火力発電建設結果が成田空港建設問題との類似として報じられていることである。住民への説明が不十分なまま、強制的に力づくで発電所や空港がつくられるという事態が類似しているのもあるが、何よりも問題なのは、生活の糧、生命のよりどころが無理やり汚され、はぎとられるという、住民にとって圧倒的に不条理な状況が共通しているのである。

 ただし、上の引用で「一向一心なむあみだ仏」という「ことば」の使用に、ある留保を加えていることは無視できない。それは、「このことばは数百年の歴史のなかで風化し、いまは一向一心(ひたすらに心をあわせ)ということをなむあみだ仏とたたえているにすぎないかもしれない」という箇所である。たしかに「一向一心なむあみだ仏」という「ことば」によって一つになることができる。だが、それだけでよいのか。それではこのことばは結局スローガンのようなもの、標語のようなものなのか。こういった疑問、そして別の可能性が直接的に表されるのは次の箇所である。

現代の民衆のたたかいの場で一向一心なむあみだ仏ののぼりをみかけるとき、百姓の国は民衆の心にまだ息づいていることを知る。と同時に、現代の民衆運動があたらしいことばをつくりえなかったことをおもう。詩人キム・ジハは東学農民戦争のかかげた人乃天を「めしは天」と変え、現代世界のどん底に生きる民衆が天にさかのぼる革命の歌とした。民衆の心に生きている革命の伝統をことばを変えてうけつぎ、あたらしい状況にあったかたちに再生する作業がいま必要だ。

 「一向一心なむあみだ仏」は標語でもスローガンでも、ましてや法でもない。そうではなく、理念でも法でも救えない「民衆の自己解放」の「実践」である。かたちをもったことばが民衆を立ち上げる。『水牛新聞』から離れてしまうが、この民衆を立ち上げる実践としての「なむあみだ仏」の見方は、守中高明が『他力の哲学』という本の中で提示する親鸞の見方をある程度先取りしていると思われる。守中は吉本隆明の『最後の親鸞』(1976年)を批判する形で、親鸞の思想のうちにある「マイノリティ(へ)の生成変化」という新しい回路を開き、そのような生成変化によって創出された「念仏者による階級闘争」を取り出した[10]。守中が(ドゥルーズ&ガタリを引きつつ)提示する「マイノリティ(へ)の生成変化」という視点は、このあと読む「玄関」とも共鳴するところがあるかもしれない。

 とはいえ、実践としての「ことば」はどこにあるのか。そう自問した時に気がつくのは、新たな言葉を作り出してこなかった、という言葉の欠落である。「ことばについて」では、中国労農紅軍の三項規律と六項注意を「対話の規則」としてあげたうえで、「いまの状況から対話をひきだす規則、人間関係をつくりだすことば、そんなことばがどこにあるのか」と述べられている。実践としての「ことば」への切望、それは同時に実践としての「ことば」をめぐる内的貧困への気づきも意味する。「『私』を知らない」文体の探究は、この「私」の内部にある言葉の欠乏を見つめ直すことでもあるのだ。

 次に読む李銀子の「玄関」では、小さく折り畳まれた薄布がゆっくりとほどかれるように、「自己の内的世界」が拡がっていく様子が見て取れる。その時重要となるのは、「出会い」。「ことば」を一人で占有するのではなく、それを人から人へと受け渡し、まさしく対話することが重要となるのである。

 

「玄関」

 「玄関」とは、なんだか不思議なタイトルである。パリに住んでいると、玄関は二重三重が当たり前で、それぞれにセキュリティーコードがある。でも、フランスの田舎に行くと、玄関は木の扉一枚だ。あるいは日本の田舎の家を思い返してみると、薄い乳白色の曇りガラスが嵌っていて、よく見ると何だか頼りなくもある。それでも玄関には、「よそもの」を侵入させない何かがあるのはたしかだ。

 「建築後、30年近くたつわが家の玄関は、『ガラ、ガラッ』と音をたててひらく、昔ながらのガラス戸だ」とあるから、この文章でイメージされている玄関も、あのちょっと頼りないような玄関ではないかと思う。「外から家のなかに入るとき、あたしは、透明のガラス越しに、家のなかの様子をうかがう。そして心をいれかえ、『ただいま!』と一声かけて入る。」自分の家ではあるけれども、外から内へと境界線を跨ぐとき、「心をいれかえ」ねばならないというのは、なぜだろう。「玄関」という文章の書き出しは、玄関のイメージをめぐって、何やらその境界線に纏わりつく微細な心の動きが暗示されている。そのことが明示されるのは、「コールタールのように」という見出しで始まる次の部分だ。

在日する朝鮮民族の二、三世は、はじめて「朝鮮人なんだ」と思わされる瞬間を、それぞれの心に刻んでいるのではないだろうか。/例えば、16歳になって、はじめて「外国人登録証明書」のきりかえに自分で行かされた時のことはどうだろうか。/(…)「さあ、中に入ってきてください。指紋をとりますから」と言われて、指示されたところからカウンターのなかに入ると、五本の指には黒インクがべったりと塗られ一本ずつ順に指紋をとられる。その黒インクが、私には道路工事のときにあつい熱気を放つ、あのコールタールのように思えてならない。

 内と外との境界線は、私的な世界と外的な世界との境界線だけでなく、「朝鮮人」というアイデンティティをめぐる境界線でもある。内にいるのに、「他者」であると意識させられるのは、たとえば指紋をとられる瞬間、「朝鮮人」であることを知られ習い事の先生がなんとなく素っ気なくなる瞬間、「くにはどこ?」ときかれ、「日本です」と答えてしまった瞬間——。

 そして玄関の前に立ち、明るい声で「ただいま!」と声をかけるが、心は、机の抽き出しにしまわれてある日記帳へとむかう。そんな経験を、二世の誰れもが持っているのではないだろうか。/「朝鮮人なんだ」と思う瞬間というのは、つねに〈他者〉から与えられるものだった。〈他者〉からの「朝鮮人像」に「私」ははめられ、与えられる「朝鮮人像」に私もしがみつこうとする。そうでもしなければ、わたしは「私」の身の置きどころ見失いそうになる。ここで言う「他者」とは、日本人のことであり、朝鮮人のことでもある。

 今回、「玄関」を最後に読むことにしたのは、この文章が『水牛新聞』から『水牛通信』へとうつろっていく文体の変化の最初のきっかけがこの文章にあるのではないか、と感じたからだった。ここまで読んでもわかるように、この文章は、報告ではない。そうではなく、より内密なものの記録である。ただし、その内密なものとは、自己の内側に閉じこもることではない。次の箇所を読むと、「わたし」と誰かを繋ぐ媒体として水牛の存在があったことがわかる。

二月に二日間、私は「水牛」新聞を持って大阪と京都へ行った。その二日間は、私に多くのものを感じさせた。/大阪の猪飼野(いかいの)を一歩一歩歩くごとに、わたしは子供の頃のあたしに戻っていくような気がした。街が、とても若く見えるのだ。

 「私」「わたし」「あたし」というふうに、一人称がずらされていく。「『私』からながれだして、また『私』にもどってくるのではない——そのような『ことば』」というときの「私」それ自体が、実は「私」や「わたし」や「あたし」といった微細なズレを内包し、そのズレのあわいをこの書き手は行き来していることがわかる。「『私』にもどってくるのではない」というのは、単に記述主体としての「私」を「言葉」の占有者の座から引き下ろすことではなく、「私」そのものが変わること、「マイノリティ(へ)の生成変化」をすることではないだろうか。そのような「生成変化」は、「私」という一人称の自明性を問い直してみることでもある。先に挙げた「服」の例を持ち出すならば、他者から着せられた服もあれば、自らが着なければと思って着る服もあり、あるいは家の中だけの普段着もある。「ことば」を「かたち」として捉えるとき、その「かたち」をひとに与えるのは誰なのか、何によってその「かたち」を選びとっているのか(選びとらされているのか)もまた考えるべきものの射程に入ってくるだろう。「玄関」が教えてくれることの一つは、この「ことば」の暴力性と複雑さである。その複雑さを感受するための媒体として『水牛新聞』はあった。でもどうにやって? 水牛を通して人と出会うこと、それがここで示されている方法である。

 私の「大阪」行きは、「水牛」を媒介に、各現場で生きる人々と出会い、また「水牛」の紙面をよりひらかれた〈場〉にしていく、ということが、主要な目的であった。/(…)/これまでは、自分の見聞きしてきたものを、それなりに書くことはできたが、「水牛」に報告されるアジアの活動に触発され、なおかつ自己の立場から「水牛」への参画を試みようとするとき、「私」一人では担いきれないものがある。/「私」をひろげていくには、多くの「わたし」と出会わなくてはならない。

 多くの「わたし」に出会う、とは、他者としての誰かと物理的に出会うことに限定されるのではなく、誰かと生と時間を共有することではないだろうか。いや、共有するとまでいってしまうのは、言い過ぎかもしれない。ただ、ここにあるのは取材とは全く違う誰かとの付き合い方である。それは、「聞く」、だけではなく、「語る」ということとも関係するのかもしれない。

 私は、まず在日する朝鮮民族の二、三世に語りたい。このようにして考え、生きている「私」を、あきらかにしたい。自己の生きているこの「日本」を照らしながら。/この文章を書くとき、大阪で会い、語りあった人々のことが、私から離れなかった。あの体験をどう認識したのか、彼らとの緊張関係を通して、あきらかにしたあい。その出発点として、私は文章に「私」を通過させた。

 このような「語る」文体が、『水牛新聞』から『水牛通信』へとうつろう過程で醸成されていくのではないだろうか。現時点で、私はこのような仮説を立てている。報告するのでもなく、呼びかけるのでもなく、語るような文体が醸成されていくのである。「この文体は『私』をしらない。すべてを『私』にひきうけるのではなく、一人のものもみんなにわかちあうことが、文体の上でも必要だ」という時、分有されているのはそのような語りの時間と空間ではないだろうか。

***

 今回はここまで。毎回『水牛新聞』を読んでいて思うことは、その内容の密度の高さである。次回は第5号を読む。

 

[1] 湊川高校については、2019年の終わりに、かつて教師をしていた登尾明彦による『原初の、学校』という本が書かれている。登尾は1969年から2004年まで湊川高校で教師をしていたようで、『原初の、学校』第三章では「竹内スタジオ」を扱った節もある。登尾明彦『原初の、学校——夜間定時制、湊川高校の九十年』みずのわ出版、2019年。

[2] 次のURLを参照のこと。http://www.suigyu.com/hondana/jit02.html

[3] 細かい話ではあるが、「祭り」の表記には揺れがある。『水牛新聞』第3号では「誇りと笑いの祭り」という表記がなされているが、第4号では「誇りと笑いの祭」、あるいは「誇りと笑いのまつり」という表記がなされている。

[4] 志間耕治「信州より編集部へ」『水牛通信』第2巻第3号、1980年3月10日、17頁。

[5] 佐々木健一監修『レトリック事典』大修館書店、2006年、541頁。

[6] ここで述べられている「かたち」の捉え方は、高橋の音楽と不可分のはずであり、実際、水牛楽団の活動と高橋の音楽については、青柳いずみこが深い考察を行なっている。本稿は『水牛新聞』を読むことを目的としているので、この点についてはこれ以上踏み込まない。青柳いずみこ『高橋悠治という怪物』河出書房新社、2018年。第7章、とくに163-166頁を参照のこと。

[7] 北原久禅「小さな町の小さなたたかい——火力発電所建設反対住民運動」『〈子どもと法21〉通信』173号、2015年11月。次のURLを参照のこと(2021年1月3日最終閲覧)。http://www.kodomo-hou21.net/relay_talk/kenpo18.pdf

[8] 「七尾火電 埋め立て作業船に殺到 反対漁民が“海戦”」『読売新聞』1978年4月3日、朝刊、23頁(ヨミダス歴史館)。

[9] 「月曜ルポ 燃え上がる『海の成田』」朝日新聞、1978年6月19日、東京朝刊、4頁(朝日新聞社聞蔵ビジュアルII)。

[10] 守中高明『他力の哲学——赦し・ほどこし・往生』河出書房新社、2019年、第二章、特に65-67頁。