風が吹く理由(11)彼女の名前

長谷部千彩

姪は、誕生日を迎え、四歳になった。女の子は男の子にくらべ、成長が早いというけれど、彼女を見ていると、つくづくそれは真実だ、と思う。最近は髪の毛が伸びてきたのが嬉しくてたまらないらしく、幼稚園に行く前に髪を結ってやってもほどいてしまうと妹がこぼしていた。髪をなびかせて歩くことに得意になるなんて、子供も大人も同じだな、と笑ってしまう。

彼女が大人になる頃、二十年後には、どんな世の中になっているのだろう。私の世代には間に合わなかったけれど、例えば、夫婦別姓は選択できるようになっているだろうか。結婚することと自分がどう名乗るかは別個の問題である―ということが、当然と考えられる世の中になっているといいけれど。少しでも多くの自由を―自由というのは選べるということで、選ぶという行為は時に厄介さをともなうけれど、それでも少しでも多くの自由を彼女の世代が享受できますように、そう願っている。

もしもその時、姓の選択について姪に相談されたら、私は何と答えるだろう。とりあえず相手に、「別姓にしたい」と言ってみたら?と答えるかな。そこでどんな話になるか、相手を知る絶好の機会だと思うから。現実には、別姓が問題として浮上するとすれば、当事者間のどうこうよりも、相手の家の考え方によるところが大きいだろうけど。姓なんてさほど重要ではない、ふたりが納得いくようにすればよいという家。名前を残すことに重きを置く、「家」という概念の強い家。こちらの姓を名乗らないなら、結婚は許しません、とか?
墓には入らないと決めている私のような人間にはリアリティがないけれど、信教だとか地域社会だとか、日常会話には出て来ない、それぞれの家の”当たり前”がきっとこの世には無数に存在し、絶えず擦れあい、ひとびとは違和感を呑み込んだり吐き出したりしながら暮らしている。そして、それはいまも昔もこの先も、たぶんずっと変わらない。

ただ、その時が来たら、私は彼女にこのことだけは伝えたい。
「昔はね、大抵の日本の男のひとは、結婚したら女性が自分の姓を名乗るものと思い込んでいたの(女のひともね)。それがデフォルトで、それ以外は何か事情があるとか、イレギュラーなことだと思っていた。どちらの姓を名乗ることもできるのに、どちらの姓を名乗ろうか、というフェアな話し合いをするカップルはほとんどいない。そして、婚姻時に名前を改変することが当たり前だと思われているという現実が、やはり女性に―対等であることを望んでいた女性たちにも―強烈ではないにしろ、自分が脇役であるかのような意識をじわじわと与えていたと思う。だから、名前について自覚的に考えられるとか、ふたりでちゃんと話し合って決められるというのは、長い目で見た時には結構大事なことなのよ」

受話器を取ると、姪の弾んだ声が耳に飛び込んできた。姪は、近頃、長電話の楽しさを覚えたようで、時々、こうして電話をかけてきては、小鳥のさえずりのようなお喋りを私に聞かせる。
「ちいちゃん、今度、お山に一緒に行こうね、お山で一緒にアナとエルサとオラフの歌、歌おうね!」
「いいわよ、一緒に歌おう!」
「一緒に歌ったら楽しいね!」
「そうね、一緒に歌ったら楽しいわね!」
何がそんなにおかしいのか、姪はくすくす笑っている。
ありのままに、と歌いながら育つ彼女が、どんなことを”ありのまま”と感じるようになるのか。それがわかるのはもう少し先のこと。ならばいまはこう言おう。
大きな声で歌っていいのよ。自分が好きな歌を好きに歌っていいのよ。
言えることは、いまはそれだけ。私が言えることは、ただそれだけ。