写真論

管啓次郎

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詩にvouloir-direはない、と誰か哲学者がいっていた。詩は別に何もいいたいことがないのだ、詩それ自身以外には。詩がいいたいのはまさにその詩が詩としてあるそのことだけ、それで「マウイ島ラハイナの海岸で砂に埋もれたまま立ちつくす墓標のかたわらにぼくも佇みラナイ島越しに沈んでゆく夕陽を見ていたことがあった」と私が書くとき、それはまさにそういうことなのだ、背後はない、寓意も、教訓も。詩のdictionに要約はいらない。詩が実現した並びはそれ以上の置き換えを求めない、なぜなら詩人がその流動を止めたから。詩人がその獣を殺してしまったから。それは写真家がシャッターを押すのとおなじこと、スナップ(噛み付き)が世界の動脈を食い破り、「一瞬」の名のもとに複数の時を整列させたのだ。詩と同様に写真は要約できない。詩と同様に写真はあまりによく死んでいる。

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「失敗した写真なんか、ない」(Ben,1956-2000)。そうだよ、何も映っていなくても写真は「存在する」だけで成功だ。その先にどんな判断や評価をもちこもうともちこむまいと、写真は人が生きる時間をたしかにarrestする、攪乱する。だからといって詩と写真が似ているといえるだろうか。私にとって詩はむしろ絵画に似ている。「アヴィニョンの娘たち」が視点の不自然な背反を含むように、ひとつの視点、時点からはけっして見えないものを描くように、詩も時間をわたり場所をさまよいつつみずからを書こうとする。それはパンクローヌをめざすパントープの作業。絵画の画面は時間の廃棄の反対だ。絵画は時間を表面として造形する。見る者には絵画において初めて経験する時間がある。写真はどうか。写真が構成する時間の奥行きは映された事物のさまざまな時間の奥行き、写真がめざすのは多数の集結によりひとつの絵画的な表面にいたること。

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音楽について若い友人と話した、「音楽は時間の芸術だというよね。音楽の時間は要約できない、短縮しても延ばしても曲は台無しになる。一瞬ごとの音はそれをリアルタイムで耳にしているとき、まだ音楽ではない。ただ音が消えて次の音にその場を丸ごとゆずりその連なりが瞬間ごとにもやもやした回想として組み上げられたなら、消えた音の印象のことをわれわれは音楽と呼び、良いとか悪いとかすべてが無音の回想の中で言葉に語られる」。それからひとりになり詩のことを考えた。詩は紙の上の言葉として目に見えるものであっていい、だが見えなくてもおなじこと。心が言葉のつらなりを瞬時に回想し、思い出したそのときのもやもやした印象が心を動揺させる(そのとき言葉は姿を消している)。それから写真を考えた。目の前にあるとき写真は見たいだけ見ていられる、だが写真の感動だって本当は回想の中にあるのではないか。くりかえし回想される写真、目の前にない写真、思い出の中で、しだいにぼやけ薄れてゆく写真、忘れてゆく輪郭、色彩。薄れながらなお、人にいつまでも呼びかける、何かの痕跡、存在の名残。