仙台ネイティブのつぶやき(45)住み続けたいという思い

西大立目祥子

 この春もまた、我妻勝さん、美智子さんご夫婦から、春祭りにいらっしゃいとお誘いを受けた。かつて暮らしていた集落の明神様、大和神社の春祭りだ。美智子さんはいつもヨモギの香りのする草餅にお煮しめ、何種類もの漬物、色とりどりの寒天など手づくりの料理をテーブルいっぱいに広げて待っていてくださる。お招きはもう3回目で、心踊らせていそいそとうかがった。

 我妻さんとは2014年の冬に、仙台市沿岸部の津波被災の取材で知り合った。暮らしていたのは仙台港の南に位置する和田という地区で、すぐそばを七北田(ななきた)川が流れている。
 大津波はこの川を何度も逆流して押し寄せて一帯を水に沈め、我妻さんの家もがれきと泥に襲われた。そのとき、一人家に残った勝さんは2階に逃げ、美智子さんは生後一ヶ月の孫やお嫁さんらと車で避難したところを水で高く持ち上げられ、近くの家の屋根づたいに車から脱出して命を拾った。

 それでも家は流されず何とか無事だった。行政が修復して住むことを許可したこともあって、勝さんは自ら手を入れ、年老いた母のみさをさん、美智子さんとここでの暮らしを再開した。取材にうかがったのはそんな暮らしもいくらか落ち着いた頃だったと思う。庭先では、ザルに広げた切り干し大根がやわらかな冬の日射しを受けていた。手をかけて暮らしてきたようすがうかがえ、災害で荒れた風景の中にあって人の気持ちの通うあたたかさに触れたような気がしたものだ。

 台所からつぎつぎと手料理を運びながら、美智子さんは「ここは何やるにつけてもすぐにまとまるいい町内だったの」と静かに話し、それを受けて勝さんはこういった。「殿様が中心にいたからな」と。
 殿様? そう、この地域には殿様がいたのだ。実体ではないけれど影でもない、その間くらいの、でもかなりしっかりとした存在として。

 ここは古くから「和田新田」とよばれていて、その名は、伊達家の家臣、和田為頼、房長親子に由来している。京都伏見で伊達政宗に召し抱えられた為頼は領内の大がかりな河川改修工事を推進した人物で、その息子の房長も水上交通の基盤をつくりあげた。和田家が藩から与えられたのがこの地で、殿様の暮らす館があり、整然と道が切られ家中の人々の屋敷が並んで、いわば小さな城下町のような集落が江戸時代を通して維持されてきた。
 こうした集落は領内のあちこちにあったのだけれど、ここが特異なのは和田家が昭和に入ってからも暮らし続け、代替わりしても固い家中の結束が保たれたことだ。

 和田家が奈良から勧請した大和大明神を守る明神講、近くにあるお地蔵さんを守る地蔵講、葬儀を近所で助け合う契約講…などなど。集落の人々が力を出し合ってきたかかわり合いはいくつもある。勝さんから「俺たちは“契約兄弟”とよんだんだ」とうかがって、戦後の経済成長の時代、みるみる都市化する仙台の片隅にこうした暮しが息づいていたことに驚かされた。

 特に私が興味深く聞いたのは、一軒では難しい重労働を助け合いで実践した一つにお茶づくりがあったことだ。家々のまわりに育てていたお茶の新芽を摘み取って、みんなで集まり蒸して揉み、1年分のお茶をつくったという。杜の都仙台の“杜”はもともと自給自足の暮らしを支えた屋敷林をさすのだけれど、そこに確かにお茶の木も植えられていたのだ。「田植えのあとのもうクタクタになっているときなんだけど、蒸して一晩おいて、次の日は団子つくって持ち寄って、1日中揉む作業するの」と美智子さん。玉のような汗をかきながら作業をするうち小屋の中にはお茶の香りが充満してきて、さぁ一服だとつくったばかりのお茶を入れ、ああうまい、今年はいいね、などとといいながらにぎやなひとときを過ごしたのだろうか。そんな共同作業を一軒一軒めぐりながらやったという。

 しかし、そんな親しく緊密だった地域の暮らしは、津波で大打撃を受けた。当初、住み続けられると家を修復したものの、その後仙台市がこの地区を災害危険区域としたことによる混乱があって、早々と移転を決めてしまう人、少しでも長くとどまろうとする人など集落内の人の思いは次第にばらけ、集団移転の道筋が見出せないままに、
我妻さんご夫婦は予想もしなかった集落解散という事態に追い込まれていった。

 出会いから1年後にうかがうと「町内会もいよいよ解散だよ」と勝さんは苦渋の表情で話し、美智子さんは「解散とかお別れ会とか、ほんとはいやなの」と意気消沈していた。地域への深い愛着のことばを聞くたび、こうした住民の思いに耳を傾けることから復興計画をつくることはできなかったのだろうかと私は半ば怒りを覚えなら繰り返し思い、簡単に住み替えや買い替えを考える都市的な発想では、そもそも我妻さんのような“土地に根ざす”ことへの想像力を持つことは無理なのかもしれないと考えたりもした。

 なぜか、移転を決意してから、我妻さんは取材で出会った私たち(取材は3人でクルーを組んでいた)を、地域の大切な大和神社の祭りによんでくださるようになった。
私たちが関心を寄せて話を聞いてきたからなのか、地域の大きな変化をちゃんと見届けてと伝えたいからなのか、真意をたずねたことはないのでわからないのだけれど。

 結局、我妻さんは2017年の秋に、もとの場所から車で10分ほどのところに新居を立てて移り住んだ。そして、離れてなお、大和神社をひんぱんに訪れて掃き清め、見守り、地域の人々が守ってきたお地蔵様に冬になればマフラーを巻いてやり、お供えのお菓子を見ては、誰か訪ねてきた人がいることを確かめている。あたりがどんなに様変わりしたとしても、二人は体が動く限り通い続けるだろう。

 いつもお祭りにお招きを受けたときは、まずはいっしょに神社にお参りをする。始まった工事で神社は向きまで変わっていた。七北田川にはのっぺりとしたコンクリートの堤防が築かれ、その前にお地蔵様が北向きに置かれ、何となく居心地が悪そうに見えた。地域のシンボルだった松の大木は変わらない姿なので「松はそのままですね」と聞くと「あの松も移転したんだ」と勝さんはいい、「だから、神社の桜も何とか移してくれ、と仙台市に頼み込んだんだ」と新しく区割りされた小さな境内の桜を指差した。ピンク色のつぼみがほころんでいる。勝さんの気持ちもいくらかはなぐさめられただろうか。

 津波のあと、一人でこの地域を歩いたことがあった。和田家の屋敷跡ははっきりと認識でき、城下町を思わせる道筋や集落のまわりの土塁もしっかりと残っていた。小城下町の原型としてこのまま保存されればいいのにと思ったものだ。発掘調査が行われて埋め戻され報告書がつくられたが、結局のところ区画整理事業が進められて数年後には工場地帯になるのだろう。暮らしは時代とともに変わるし、災害が打撃を与えることもある。でも最も大きな変化をもたらすのは、人為によるものではないのか。動き続ける重機を見ていると、そんな思いが頭をもたげてきた。
 
 お参りを終えてごちそうをいただいた。大根に大豆や細切りにした昆布やスルメを入れた漬物、レンコンやシイタケのはさみ揚げ、マヨネーズを使ったという寒天…毎年同じものが重ならないようにと気づかいながらつくってくださる料理をいただきながら、美智子さんにとってはこうやって料理をつくってもてなすことが、以前の暮らしを取り戻すことでもあるのだな、と気づかされる。

 食事の合間に、集落で不幸があったときみんなで念仏を唱えながらまわしたという数珠を見せられた。集落が解散したいま、もう使われることはない数珠。「どうしたらいいのかしらね」という美智子さんのことばに、みんなで顔を見合わせる。
 住み続けたかったという思いを胸の底に押し込め移転した我妻さんご夫婦。我妻さんだけでなく、仙台の大津波の被災地で私は多くの人から同じ思いを聞いてきた。人はなぜそこに住み続けようとするのだろう。一人ではかかえきれないような大きな問いに、いつもたじろぐ。