しもた屋之噺(136)

杉山洋一

ここ暫くミラノずっと長雨が続いていて、早い梅雨に見舞われた感があります。さて、長らく無政府状態だったイタリアにも政府が戻りました。尤も、個人主義が徹底しているイタリアでは、対外的な信用不安を別とすれば、国家元首がいなくとも特に大きな変化は起きず、文句を言う相手もいないので各人粛々と仕事を継続することになります。つまり、全体としては無秩序に向うはずですが、拡大して個々を眺めると、存外に効率よく物事が進むことに国民性の違いを実感します。外の公園は塵芥にまみれながらも、自宅は隅々まで磨き上げなければ気がすまないイタリア人が大多数ですから。

4月某日 09:01 ミラノのバス車内

思いがけず、水牛の仲宗根さんから、賢順について書かれた坪井三恵さんの文章が届いて、心を躍らせながらよむ。先に「六段」について書いたのがきっかけだった。大分でキリシタン音楽に影響された筑紫筝の創始者「賢順」が書いた「六段」は、キリスト教禁止とともに秘曲となり、伝授された玄恕をとおして、八橋検校に伝わった。彼が、秘曲を調子を変えてまで演奏させた動機とは、何だったのだろう。音階を歪め表面上の体裁を変えてなお残る、音で表現できる何か。

このように周りの人に懇切丁寧に教えて頂きながら、自分の興味が広がり、見えてきたものもあるし、気づくこともある。筑紫筝や琉球筝に興味を覚えるのは、思えば子供の頃「阿知女」の和琴や、管弦の楽筝の鄙びた音と和音が好きで、ピアノやヴァイオリンで真似して遊んでいたことと無関係ではあるまい。何十年もすっかり忘れていたけれど。

4月某日 08:00 自宅にて

セレーナより、カニーノ家直伝のナポリ料理を振舞うからと招かれたので、アルドと出掛けた。互いに同世代で、気を置かずに存分に話せるのはうれしい。彼らは同じヴァイオリンの生徒を違う場所で教えあっているので、互いに生徒に教える指使いや弓使いをカラカイ合う。料理はパスタと主菜、ケーキまでナポリ流が徹底されていて、しつこさもなく美味。
カニーノがナポリ出身なのは知っていたが、家事は一切出来ないと聞いていたので、何故君は料理がこんなに上手なのかと尋ねると、ミラノ出身の母親がナポリの姑から仕込まれたからだという。「さもなければ、結婚生活に破綻を来していたかもしれないわ」。
尤も、セレーナは料理が趣味なので、小料理屋を開きたいくらいだそうだ。15人や30人分の夕食会を3日かけて準備し、自宅で開くのが楽しみだというから、あながち冗談ではないのだろう。反面、掃除やアイロンかけは嫌いだと聞き、安堵する。

彼女は3匹の雌猫と古いミラノ風共同住宅の地階に住んでいて、窓に網を張られているのは、猫に逃げられないため。1匹は脚が一本なく、1匹は片目が潰れていて、唯一五体満足の猫は、彼女曰く「おつむが弱い」。「こんな猫たちだから、家を出たらすぐに野垂れ死んでしまいそうでしょう」、と心配そうにいう。実家ではずっと犬を飼っていたが、彼女の父は犬が怖いのだそうだ。それでも奥さんへの愛情から、10匹の犬と同居をしたこともある、と娘は誇らしげ。パリに3年住んだセレーナ曰く、「フランスの音楽家は誰もが中の上か上の下ばかりで詰まらなくなって、イタリアに戻ったのよ」と笑った。

4月某日 02:30 マチェラータのホテルにて

ドレスリハーサルと本番の合間に、マチェラータのラウロ・ロッシ劇場脇の美大のスペースで、スコダニッビオを偲ぶロドリーゴ・ガルシアのインスタレーションをみる。ロドリーゴはアルゼンチン出身の舞台演出家で、マドリッドに住む。
昨晩ホテルに程近い「井戸」亭で、「明日から『亀』と『サラダ』を使ったヴィデオのインスタレーションをするから」、と右手にワイン、左手で葉巻をいじりながら、スペイン語とイタリア語のチャンポンで話しているのを聞いたときは、全く内容を想像できなかった。10畳ほどの縦長のスペースに、スコダニッビオ自身が残した音響素材が流され、ロドリ-ゴのヴィデオが映写される。画面は色味が殆どなく、殆ど白黒に近い。スクリーンに大写しになったフン転がしのような虫を、執拗に追いかけるアングルが印象に残る。フン転がしは、仰向けに寝かされた上、ばたつく脚にマッチ棒を絡ませられてながら、何とかマッチ棒に掴まり起き上がろうともがき続ける様子を、長廻しでただ追う。

スクリーンの前に、蓋が開かれたコントラバスのハードケースが一つ置かれていて、中に土が詰まっている。仄暗く狭い部屋に鎮座するさまは、棺桶のよう。ケースの中の土には本物のサラダが10株ほど植え込んであり、瑞々しい葉をひろげる。コントラバスの巨大なケースの手前に、15センチほどの海亀が薄く水を張った透明な水槽に入れられていて、外に出ようと何度となく立ち上がる姿は、時には影絵のように画面の昆虫と同期し、亀の打つ軽い水音がスコダニッビオの音響の手前に浮き上がる。

昨晩は、「朝に大通りをサラダを目一杯抱えて歩く男を見かけたらオイラだぜ」と笑っていたロドリーゴに向かって、「君のインスタレーションには打ちのめされたよ」と言うと、「そうだろう」、と彼は口の端だけを少し動かして悪戯っぽく微笑んだ。ネルーダやマルケスのような、ラテン・アメリカの強烈な個性が羨ましいと言いかけ、我ながら余りに安っぽいと思わず口を噤んだ。

4月某日 13:59 オーズィモ ヌォーヴァ・フェニーチェ劇場にて

マレーサ・スコダニッビオの車で、レオパルディの故郷、レカナーティの丘を走る。彼女は昨年より元気そうで安心したが、気丈さが却って際立って、周りで見ていて少し辛い。だから、昨晩食堂で食後のデザートに齧り付いている様子に、一同少し胸を撫で下ろした。マチェラータのプディングは独特で、横にジャムが付いてくる。キャラメルをかけてとろとろになったプリンの上に、更にスグリのジャムなど付けて食す。「わたしも、ここに嫁いで初めてプリンにジャムをつけてくるのを見たわ」「でも、わたしデザートには目がないの」。

車中、先日、8歳の息子の小学校の担任二人との父兄面談に出掛けた話をする。
「お宅の息子さんはよく頑張っているんですが、日本語やら合唱やらピアノやら、ちょっと勉強し過ぎで一同心配しております」。
「すみません、親としては余り音楽などやらせたくないのですが」。
「最近など、わたしに向かって、バッハとモーツァルトとベートーヴェンのどれが一番偉いかなんて聞くんです。こちらも答えに窮する有様で」。
「そんなことを聞くんですか」。
「その上、先日は、ふうと大きなため息をつきましてね」
「先生、もう昨夜はピアノの練習のし過ぎで疲れてしまって、どうにも宿題ができませんでした。許してください、と言うんです」。
「すみません。言葉もありません」。実際のところ、ピアノはせいぜい10分しか弾いていないし、宿題を忘れたどさくさ紛れの言い訳なのだろう。彼の演技力の賜物だ。
「その上なんです? 今度は映画にまで興味の範疇を広げてしまったのですか」。
「は、なんのことです」。
「何ですって、今朝、彼ときたら、あたくしに『ソフィア・ローレン』をどう思うかと尋ねてきたのですよ」。

そこまで言うと、車内は爆笑に包まれた。
あの後帰宅してから真っ先に息子に口止めしたことは、息子が見たのは彼女が売春婦役で出演する「ボッカチオ70」の「くじ引き」であることと、それを見せたのは父親だということ。
8歳の息子がそれ程まで「くじ引き」を好きになるとは、誰が想像できるというのか。

4月某日 10:30 アドリア海沿いに走る列車内にて

つい先ほどまで、チヴィタ・ヌォーヴァで乗り合わせたサックスのジャンパオロと話し込んでいた。イタリア人が、これほど熱心に、ピエルネやフローラン・シュミットについて熱弁を振うのを、初めてみた。
イタリアの風景はどれもそれぞれ美しいけれど、低い丘が棚引くようにどこまでも連なるマルケの美しさは飛びぬけている。何重にも重なった丘のシルエットの彼方に、まだ雪を頂くアペニンの山々が聳えたつ。眼前一面に濃い新緑の絨毯が敷きつめられ、ところどころ、固まった黄や白の花が沸き立ちアクセントをつける。何の変哲もない牧歌的な春の風景で鳥肌が立ったのは初めてだ。

ホテル前の坂を降りたところの中庭にある「中庭屋」で、奨められるままにボンゴレのスパゲッティを頼むと、見たこともない旨い逸品が運ばれてきた。手で打ったばかりの太めのスパゲッティに、小さめのアサリが存分に放り込まれて、出汁も申し分ない。こんなとびきり美味いものを口食べながら、この端麗な風景の中で暮らしていたら、人生はずいぶん違ったものになるだろう。などと考えるのは、厭世観に包まれたレオパルディの理解には程遠い、自分がごく普通の小市民である証か。

4月某日 12:12 自宅にて

グリゼイの「時間の渦」を読む。どうも昔から自分は良いスペクトル音楽の理解者ではないと思いこんでいる節があり、理由を考える。そもそも和音で音楽を作ることに対して、無意識に薄い拒否反応を起こす自分に気がつくのは愉快な経験だ。何しろ、意識したわけでもなくともグリゼイと自分の作曲のプロセスの共通項はとても多いのだから。大体、演奏に際してはいつも和音を考え音を聴けよと生徒にがなり立てるくらいだから、和音で音楽を作ることに何ら矛盾はない筈だ。ただ、自分が作曲するとき、縦の響きは確かに横の響きの後に見えている。それどころか、敢えて明確な和音を避けようとする傾向も自覚している。今のところ、長三和音のように分りやすい和音でなければ、和音として聴こえない和音がいいらしい。和音をぼかすというと、既にスペクトル的発想だから、ぼかすのではなく、和音として一義的に存在しない縦の響きとでもいうべきもの。この楽譜を勉強した後は、決まって軽い眩暈に襲われるのは文字通り題名の通りで、感嘆せざるを得ない。
先日は野平さんの楽譜を読みながら、「時間の渦」の部屋の奥のドアを開くと、またその奥に広い別の部屋が広がって錯覚を覚えた。すべての調度品が丁寧に磨き上げられ、金縁ロココ調の少しくぐもった鏡が、覗き込んでいる自分の顔をうつしだしている。

4月某日 0:11 自宅にて

イタリアは解放記念日。近所の公園で、ニコライのお母さんフランチェスカと、子どもたちが遊ぶ間に少し話す。ニコライがもうすぐ中学進学なので進路について話していると、思いがけず拙宅の前のある「リナッシタ(再生)」中学が、元来筋金入りの共産党系中学校だったことを知る。家から近いし、他の中学が午後2時で帰宅させるのに比べて、「リナッシタ」は4時まで預かってくれるから、是非入れたい気持ちもあるが、左寄りの教育が心配なのだそうだ。彼女が中学生の頃は、「リナッシタ」は先進的実験校として教科書さえ使わない教育を施していたそうで、到底怖くて通えなかったという。彼女に言わせれば今通っている公立小学校でさえ、ブルーカラーの家庭が優先されていて、「わたしなんて母子家庭で彼らより生活が苦しいのに、インテリのスノッブだと決めつけられてしまって、クラス会費の徴収料だってブルーカラーの子どもより多いのよ」。

ニコライが先日小学校で受けた歴史の授業で、古代バビロニアで街を城壁が囲んでいたのはアリストクラシーの保身のためで、敵が攻め込んでくるとき、彼らは農民ら城壁の外の人間を見捨てたのだと教わったとと憤慨している。彼女曰く、それは間違いなのだそうで、城壁の外に住んでいた農民も、敵が襲ってきた場合、城壁のなかに逃げ込めるよう二重構造になっていて、そもそも古代バビロニアに、現在のような複雑なヒエラルキーはまだ成立していなかった、とまで言われても、無学の人間は何も分らないので、取り敢えず、と相槌を打ってみる。

彼女が大学で学んだ歴史の教授は共産党に属していて優秀な学者だったが、あるときテレビ・インタヴューで、場末のケバブよりもトラットリア(イタリア小料理屋)の料理が好き、と発言したところ、思想に問題ありとして左遷されたという。医者や貴族の子供の扱いは、公立学校に於いては現在でも不当、というのが彼女の持論だった。

今朝、どこからか大勢で「不屈の民」をスペイン語で合唱しているので不思議に思っていると、続いてスピーカーから大音量で「インターナショナル」が流れてきた。続いて「ベッラ・チャオ」という戦時中のパルチザンの歌をギター伴奏で合唱しているから、どこかで共産党の集会でもやっているのか、珍しいなと思って外を見ると、目の前の中学の校庭で楽しそうに学生と父兄がバーベキューパーティーを開いていた。それはそれで、どことなく時代錯誤的な懐かしい感じがしたのと、子どもたちが「不屈の民」をスペイン語で歌えることに妙に感心。

4月某日19:00 「ピカソ」喫茶にて

レッスンに来たパラグアイ人の生徒が、12月にアスンシオンで演奏会を開くというので、パラグアイのオーケストラのメンバーは親切かと尋ねると、パラグアイ人は普通だが、中にいるアルゼンチン人は意地悪だという。暗譜で振る指揮者を試そうとわざわざ違う音を弾く輩にしばしば出会うそうだから、気をつけなければと顔を顰めた。「それなら楽譜を見れば良い」、と茶々を入れそうになったが、彼は元来弱視だから、暗譜は必須なのだ。もちろん、こちらが内心アルゼンチンから、敢えて経済状態の悪いパラグアイに仕事に出掛ける音楽家に感心したとは言えない。

アルゼンチンの友達に愉快なパラグアイ人の生徒の話をしたところ、「あら、パラグアイ人はだめよ。アルゼンチンには沢山パラグアイ人移民がいるけれど、彼らの犯罪率がとても高くて、怠け者で、本当にどうしようもない人たちなんだから」と憤りを隠さない。やはりどちらもどちらという感じだ。因みに、このタガが緩んだ感じのとぼけたパラグアイ人は、実直で勤勉なメキシコ人生徒と仲良しで、彼から細々とした手続きのアドヴァイスを受けて何とかやりくりしているようだ。

同じ言葉を話す印象なのか、ラテン・アメリカの人々が一見どうも似通って見えてしまうけれども、実際は国ごとの国民性のヴァラエティに驚く。きっと理解すればアラビア語圏も似ているのかも知れないが、少なくともスペイン語は、元来侵略者によって強制された言葉だから、そこには何か違いが存在するかも知れない。尤も、スペイン語で塗りつぶされて、母国語の個性が国民性を保証していない印象は、ケチュアなど中南米の在来言語を全く解さないからかも知れないし、アフリカ諸国よりもずっとスペイン語一色に塗り固められているからかも知れない。
グロバリゼーションが進んで、世界全体が英語を主要言語として纏まってゆけば、100年200年後には、世界の国々が一見没個性のラテンアメリカのようになるのかもしれないが、案外その頃には互いに言葉など解さずに、直接理解するコミュニケーション手段が発明されているのかもしれない。

(4月30日ミラノにて)