しもた屋之噺(137)

杉山洋一

今日は雲一つない爽やかな日で、随分前にお送りする筈だった楽譜を、漸く七重さんに送信したところです。

「…前にお約束した曲名の種明かしですが、邦楽には全くの初心者ですから、多少は古典の勉強をしようと、まず『六段』の勉強から入ったわけです。結果として、今回の作品は『六段』の主題部分、そして『六段』の原形とも言われるグレゴリア聖歌の『credo I, II, III, IV, V, VI』の『visiblium omnium, invisibilium』の歌詞部分のみを素材として用いることになりました。『六段』が当初違う調子であったことや、琉球箏による『六段』などを聴くにつけ、伝統音楽において作品の本質は、調子を変化させても残るゆくことに強く感銘を受けたのです。ですから今回は、音階や調子そのものが楽器を渉ってゆく作り方をしてみました。悠治さんからギリシャ古代音階のテトラコルドについて沢山教えていただき、本当にありがたかったです」。

それから、特にお世話になった悠治さんと仲宗根さんにお礼を認め、この水牛の原稿を書き始めると、上の階から家人の留守を手伝ってくれている母親の高笑いが聞こえてきます。怪訝に思ってそっと覗きにあがると、座布団に寝転び「飼い喰い」を読み耽っているところでした。そんなに大笑いする本ではなかった気がするのですが、なるほど世代によって笑いのツボにも差があるのかもしれません。

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5月某日ミラノ行車中

日がな一日学校で教えてから、目の前の操車場を隔てた反対側にあるKさん宅へ息子を迎えに行き、中央駅へ走る。駅前にある場末の食堂で簡単な夕食をとり、ホームに向かった。ボローニャで特急から急行に乗り換えたところで、息子にアイマスクをさせて膝の上で寝かせると、ペスカーラに着いた23時過ぎまで、彼は昏々と眠った。彼の頭の上でずっと「時間の渦」の楽譜を開いていたとはしらない。

先日、ジェノヴァへ向かう列車が、トルトーナを過ぎたあたりの草原の真ん中で止まってしまった。ちょうど車掌が検札に回ってきたので次第を尋ねると、牽引していた機関車のパンタグラフが焼切れたという。
「パンタグラフの不具合により列車に遅れを来しております。復旧には最低でも60分はかかる見込みです。ご迷惑をおかけいたします」。暫くして車内放送が入ると、乗客からは一斉に失笑がもれた。2個あるうち片方の無事だったパンタグラフを使って、近くの廃駅までノロノロと走り、乗客はそこで降ろされた。一同ちょうど走ってきた対向列車に拾ってもらいトルトーナまで戻って、別路線でジェノヴァへ向かう。新緑の草原に打ち捨てられた廃駅で、乗客たちは思い思いに記念写真を撮る。天気もよくちょっとしたハイキング気分。

車中モーツァルトの488を読む。こんなに耳に親しい作品が、これほど入組んだ構造になっていたことに新鮮な驚きを覚える。モーツァルトの調性感は、そのまま五感に通じる。イ長調なら488の10年も前に書かれた29番の交響曲も、同じような暖かい手触りがする。クラリネット五重奏や協奏曲と同じ柔和な響き。

5月某日自宅

セレーナから、彼女が指揮を習いたいときいて驚く。聞けばスイス国境のドモドッソラでユース・オーケストラをやっていて、パート練習などで、彼女が指揮をしなければならなかったりするらしい。わたしは内気だから指揮などできないので、手で拍子をとっていると、コンチェルトのソロを弾きに来た彼女の父親がその姿をみて、情けないからお前も少しは指揮を勉強したらどうだ、と言われたそうだ。事情は皆それぞれだが、こちらが教えるのに緊張しそうである。何より、彼女が内気な印象など殆どない。

指揮を勉強してみたいと思う人は、先ず某か自分に表現したいものがあるのが普通ではないか。そして始めてみるとすぐに壁にぶつかる。音楽が自分の言うことを全くきいてくれない。頑張るほど空回りするので、余計もどかしい。もう止めようかと諦めかけたころに、漸く目の前の音楽を初めて自分が受容れられるようになる。音楽は自分でも自分の所有物でもないと理解したところから、演奏者と音楽を通じてコミュニケーションが取れるようになるようだ。その為には、自分の裡から音楽を剥ぎ取り、身体のなかを空にしたうえで、目の前で他者が演奏している音楽と自分がどう対峙するか、客観的に捉えることがもとめられる。音楽家が、自分のなかで湧き上がりほとばしる音楽をそのまま他者に伝えることなど、夢物語だとおもう。自分が考える音楽をまず他者と共有する言語に分解した上で、目の前の音楽にはめこむ。同時に音楽が起こす化学反応に対して再度新しい情報を与える。そのくりかえし。

レッスンで使う頻度の特に高い言葉に「重力」と「惰性」がある。「重力」と「惰性」によって指揮するからだが、「重力」を自身の腕で実感させるのは実はとてもむつかしく、最近はメトロノームに合わせて鉛筆を床に落とす仕掛けで説明を試みている。鉛筆を床に向かって投げつけるのでなく、上から落下させてメトロノームと同期させる。この時、指揮者の意識とは鉛筆ではなく、鉛筆を抓む指先だと理解することが大切になる。

……

コンクールを受けるため、数日拙宅に寓居しているY君は、その昔は共産党系として知られた、とある高名なピアニストが今もラフマニノフを弾かないのは、ラフマニノフが国粋主義者だったからだとイタリアのピアノ教師から習ったそうだ。共産党のお墨付きがなければ活動すらままならなかった、戦後イタリアの文化活動の一端を見る思いだ。現在イタリアもそれなりに豊かになり、彼らの興味の対象は外国へ向けられるようになった。

随分前にY君のピアノを初めて聴いた時のこと。一回聴いた後で何を言おうか少し迷って、とにかく10回、遅いテンポでメトロノームをつけて弾いてもらった。彼は当初納得できない顔をしていたが、5回ほど繰り返したころから、目の前の音を受容する表情に変化して、最後に好きなように弾いてもらった時には、嘘のように音楽的になっていた。一番驚いたのはY君自身で、何しろ自分ひとりで全てが変わったのだから。目の前の音を受け容れる、という一見簡単そうでむつかしい作業は、何も指揮に限った話ではないようだ。

5月某日自宅

「時間の渦」の練習は、管、ピアノと弦楽器をわけた分奏から始めた。グリゼイは、楽譜上でフルート、ヴァイオリンなど高音楽器を奥に、チェロとクラリネットなど中低音楽器が手前に来るよう、通常と反対の配置を指定しているが、やはり通常の配置に戻そうかと思う。クラリネットがどうしてもフルートの音を遮断するので、和音の響きが落ち着かない。
練習中、時間をかけて音程合わせをすると、別の音楽かと見紛うほど和音が豊かに響き、演奏が大層楽になった。
いくら各奏者が各々正しい音程を試みたところで、全体の響きが頭に鳴っていなければ、徒労に終わるところだった。元来和音を根底に据えて作られた音楽なのだから、傾向がより顕著なの当然だが、目の前の必要に迫られ本質を忘れがちになる。
微分音が混じると、基準音そのものが次第に曖昧になるため全体が飽和状態に陥るので、一度明確にしておかないと、各々無為に自分の音を主張して和音が雑じり合わない結果に終わるのだろう。砂鉄で砂絵を書こうとしてうまくいかないときに、紙の下に磁石を置くことで自動的に絵が浮き上がるような鮮やかな感覚。各々が耳をそばだてればそばだてるほど、音そのものも円やかに角がとれてゆく。

……

練習が終わって、トリエステ出身のスロベニア系イタリア人のズィナイダと食事をとった時のこと。
「君は自分はイタリア人だと思っているの。それともスロベニア人だと思っているの」。
「もちろん、スロベニア人よ」。
「家のなかでは何語を話すの」。
「家族とは、もちろんスロベニア語よ」。
「じゃあ、スロベニアに生まれたかったの」。
「それは違うわね。イタリアでよかったわ。でもその前はトリエステはずっとオーストリア領だったでしょう。あのまま、オーストリア領だったら、もっと良かったわ」。
「へえ、どうして」。
「イタリアは、各地方それぞれすごく特徴があるけれど、トリエステは特にイタリア文化とは歴史的に全く関係ないの。ずっとオーストリア領だったし。今でも文化はオーストリア文化のままよ」。
「ふうん。じゃあトリエステを分捕ってしまったイタリアが厭じゃないの」。
「お爺ちゃんの世代までは、イタリア人と交際でもしたら大変だったそうだけれど」。
「例えばさ、日本は今でも領土問題をずっと引きずっているんだけれど、トリエステのように微妙な地域を抱えながら、どうしてイタリアでは領土問題に発展しないの」。
「既に文書で条約が取交わされているわ」。
「スロベニアに復帰したいとか、思わないわけ」。
「思わないわね。今のスロベニア人は、過去のスロベニア共産主義時代を恥だとおもっているの。そこに触れられたくないから、スロベニアにも戻りたいなどとは考えないわ」。
「じゃあ、君は自分がイタリアの少数民族だという意識はあるの」。
「もちろんよ」。
「分かるようで分からない不思議な感じだ。生まれ育った日本にはない環境だから、実感できないのだろう。イタリア人との対立意識はないわけだね」。
「それはもちろんないわ。ほら、これを見て」。
そう言って、彼女はイタリア語とスロベニア語が併記された身分証明書を差し出した。

5月某日 市立音楽院教室休憩中

日本でお世話になっていた老婦人が亡くなり、可愛がっていただいた息子がメッセージを書いた。
「おばあさんがなくなって、ぼくもかなしいです。ミラノから、おいのりしています。たとえば、空で元気でいますかとか、くもの上で元気にねていますか、とかです」。

……

息子と路面電車で家に戻る途中、毎朝パンを買うジャンベッリーノ通りのパン屋の斜向かいに、乳児用品老舗「チェルーティ」という屋号があることに気がついた。69年に大ヒットしたガベールのナンバーに、「チェルッティ・ジーノのバラード」があって、当時ガベール自身が住んでいたジャンベッリーノ通り50番地の実在の喫茶店「ジーノ」が舞台になっている。
そこに屯する仲間の一人、場末のジャンベッリーノで働きもせずのらりくらり暮らすジーノが、あの夜スクーターを盗んで運悪く捕まっちまってサ、と歌うのだが、この「チェルッティ」のネーミングが、ジャンベッリーノ39番地にその頃から店を構える、ベビーカーやベビーベッドを売る、愛想もなく苦虫を噛み潰した顔のこの店主から何らかの霊感を受けたのは間違いない。苦虫店主とは毎朝パン屋で会うので、明日にでも経緯について尋ねてみようと思っている。

(5月28日ミラノにて)