掠れ書き 9(カフカのことばを歌う)

高橋悠治

36の断片のうち11片はうたわれるので、メロディーだけを先に書く。原文のドイツ語と日本語訳文をみながら、まずドイツ語を歌にして、それを日本語によって修正する、ドイツ語でも日本語でもない歌の姿があらわれてくるように。単語のリズムや抑揚をメロディーにするよりは、フレーズ全体が指し示す方向と、一つのフレーズから次のものへすこしずつ移り変わっていくような音の運動をつくりだす、ことばの身振りが声の身振りになるように。だれが歌ってもいいように、オクターブよりすこし広い地声の音域の範囲内で、3種類の音の長さ、短い(16分音符)、長い(2分音符)、その中間(8分音符)、3種類の中断、コンマ、フェルマータ(停止)、中間休止の記譜に限定する。歌われるシラブルと語られるシラブルを混ぜようと思ったが、それを指定すると複雑になり、指示されたことにしたがうだけで、指示にはとどかない、したがう時間の遅れがだんだん大きくなる、軌道から外れて取り残されるのではないか、そう考えると、指示が指示それ自体に先立つ瞬間へと、時間の縫い目のほころびからさまよい出して、方向のない空間をうごきまわれるような示唆としてはたらくようにならなければ、「そこへ行け」「あれをやれ」というような指示を、いくらか遅れて不器用に反復するだけで、たとえば階段をのぼっていて、あるべき距離に次の段がなかったり、予期しない凹凸や敷石の継ぎ目のずれでつまずきそうになる、そういった細部に注意を向けるような指示でもないかぎり、だれのものでもない、どこから来るのかわからない声という、自動的行為の出現をさまたげるのではないか、と思ってもいた。メロディーを歌うのでもなく、節をつけて語るのでもなく、自分を歌いあげない、相手に直接語りかけない、陶酔や説得の熱気を離れて、何もない空間に眼をそらしながら、夢を見ている時のように、自分の喉から自分でないだれかの声がきこえてくるのを聞いていて、それをどうすることもできない感じ、自由間接話法、隠された意図を持たない引用、思いつきが止める間もなくそのまま口を衝いて出て、しかも抑制された調子で、壁の向こうで話されていることを繰り返しているような。

歌のメロディーを書いてしまった後で、最初の断片にもどり、楽器のパートを書きはじめる。思いついた音から書きはじめ、その音についていく。こんなふうに音楽を作るようになったのはいつからだろう。以前はシステムがあった。材料をそろえ、可能な組み合わせを書き出し、全体の構成や、そのなかでの要素の配分や変化を決める方法があった。20世紀後半の音楽は、音列技法はもちろん、さまざまな技法を使い、どんなに前衛的にみえようと、全体の統一をめざす限り、ドイツ・オーストリア的な一元論や普遍主義から離れられなかった。偶然性でさえも管理され、全体の構図の枠のなかに収まっていた。調性音楽の文法はなくても、メロディーと伴奏、低音の支えがあれば、和声的構造が機能しつづけている。音程が自由になっても、リズムの規則性がはたらいて、そういう音楽を古典のカリカチュアかパロディーのように思わせる。

思いついた音からはじめても、そこから思うままにうごかしていくのではなく、思うままにならない音を追って曲がり、先の見えないままにすすむのは、即興とどこがちがうだろうか。作品のもつ完結性やスタイルが排除しているのはなんだろう。書かれた作品は「この音を弾き、次にこの音が続く」という指示でも、それを書いているときには指示ではなく、流れに追いついていくなかで起こることを見ているだけ。発見があるのは、予期しないことが起こる時だから。

『もしインディアンだったら、すぐしたくして、走る馬の上、空中斜めに、震える大地の上でさらに細かく震えながら、拍車を捨て、拍車はないから、手綱を投げ捨て、手綱もなかった、目の前のひらたく刈り取った荒地も見えず、馬の首も頭もなくなって。』(カフカ『インディアンになる望み』)

ことばを書けば、それが存在しはじめる、ただしこの世界のなかではなく、どこともしれない文学空間のひろがりのなかで。書きすすめるにつれて、人の姿が現れてくる、走っている馬に飛び乗って、身をのりだしている、だがもう走りだしてしまった後だから、拍車や手綱は着けられない、震える大地は感じられても、目の前の風景はあとから作れない、首も頭もない馬の走りだけがある。

einfallenは「起こる」こと、字義通りなら、落ちてくること。落ちてくることばに突き飛ばされて、思ってもいない方向に走りだす。そこで別なことばにぶつかり、方向が変わる。さらにその跡をなぞる(nachziehen)と、「生活の輪郭がはっきりして」道が見えてくるのだろう、降りかかってくる障害を避けて曲がる角が濃くなぞられて。