製本、かい摘みましては(44)

ベルリンのデザイナーが、本の背がむき出しになっている装丁を「日本綴じ」と呼んでいるという書き込みをネットで読んだ。写真によると、表紙となる厚紙を本文の前後に順番に糸綴じして、そのうえからいわゆる「表紙」をくるまないタイプで、うちの本棚から似たつくりの本を探すとすれば蜂飼耳さんの『食うものは食われる夜』(装丁は菊地信義さん)。ベルリンのデザイナー氏は「日本綴じ」と呼んでいるのはあくまで「僕らの間で」としているが、「和綴じといえばページをめくる部分が輪になっていて中身と表紙を一緒に糸で綴じたもの」だとし、「この装丁は糸をそのまま見せるという意味で、日本流と呼んでいる」と説明している。面白い。

「和綴じ」と聞いて私がまず思い浮べるのはベルリンの彼といっしょだ。小口が袋になっていて表紙と本文をまとめてブスッと穴を4つ明けて糸でかがったもの。そして次の段階として、線装本袋綴じで穴の数を増やした亀甲綴じや麻の葉綴じ、康煕綴じのこと、ぐるぐる巻きの巻子本や坊さんたちがよむお経のような折本もあるなあ、となる。研究者や愛好者でなかったら、日本人でもそれ以外でもワトジ本のイメージとはこんなものだろう。でも『食うものは食われる夜』を前にして、日本人ならたとえ仲間うちだけでもこれを「日本綴じ」とは言わないだろう、というところが、面白い。

今月、東京国立博物館の「大琳派展」でみた光悦謡本は美しかった。いずれも綴葉装(てつようそう)冊子本で、金銀泥の下絵に雲母摺りのあるもの、表裏両面に胡粉がひいてあったり色替わりの料紙が束ねられたもの、表紙にのみ雲母模様をほどこしたものなどさまざまで、特製本、色替り本、上製本と呼び変えるらしい。桃山文化とともに一度途絶えて慶長期に復活した雲母摺りで表紙に大きく鹿を配し、本文料紙は雲母も色替えもなしという「殺生石」にはことに見惚れた。琳派的には地味なこのタイプは光悦謡本の早い時期に出されたようで、他の豪華絢爛に比べ比較的多く残っているそうだ。琳派の工芸、たとえば硯箱なら蓋裏が好き、という嗜好に近い。

綴葉装の特徴のかがり糸の始末は、ガラスケースの中に展示されてあるから見ることはできない。かがり終わりの4つの穴から出た糸は「リーグ戦」の図のように2つずつ結んで最後は本の天地幅に揃えて切るのだ。かがり始めも蝶結びのようにする場合があるから、どう結ばれているのか見てみたかった。この糸の始末をはじめて見たときは驚いた。どうしてここにかがり糸を出す? しかもわざわざ結んで。いらぬものなのだからできるだけ目に触れないようにすればいいのになんとかならないのか。この邪魔さ加減が、綴葉装が和綴じとして後世にうまく伝わってこなかった理由のひとつではないかとも思うが、結びの文化の延長であろうし、装飾の大きなポイントになっていたことは間違いない。

上田徳三郎さんは『製本』(図解:武井武雄さん)で、この綴じ方は見習い時代にちょいちょい手がけたとして紹介している。紅白の綴じ糸を使って始まりに蝶々結びをしていたことから、宴会のメニューなどに応用したらいいんじゃない?とも記す。吉野敏武さんの『古典籍の装幀と造本』で「この装幀の場合には、綴じの時に細糸数本を使って綴じていることが多」いと読んでいたから、光悦謡本ではどうなのか見たかった。あとで中野三敏さんの『江戸の板本』を開くと、綴葉装は「江戸期に入っても専ら写本に用いられることが多く、板本に用いられた例は極めて少な」く、「田中敬氏の『粘葉考』下巻に収められた同氏経眼の著目を見ても「大和綴刊本」として掲げられるのは僅か四種、その一は光悦謡本百種......」とある。光悦謡本がなぜ綴葉装なのか、開きのよさのためなのか趣味か過去の再現か――。

藤井敬子さんはやさしい製本入門としてまとめた『お気に入りをとじる』に、アレンジを加えた綴葉装をとりあげている。糸は1本どりで始末は最後だけ。この本をテキストとしてテレビでも放映されたわけだが、この和綴じがどのように受け止められたのか、興味がある。藤井さんが綴葉装の見本として作ったのは画帳で、表紙には小紋柄の友禅和紙を用いた。説明を読まずに写真だけ見たら、和紙を使った洋綴じと思うかもしれない。これが洋紙だったら、もう和綴じには見えないだろう。そうなのだ。綴葉装を洋紙でやったら和綴じに見えなくなるが、線装袋綴じを洋紙でやっても、和綴じに見えるのだ。