2008年11月号 目次

針(はる)――翠の石室49藤井貞和
菊酒、カーウガミ仲宗根浩
製本、かい摘みましては(44)四釜裕子
オトメンと指を差されて(5)大久保ゆう
ジルベルト・ジルの来日公演三橋圭介
しもた屋之噺(83)杉山洋一
カラヤン後大野晋
トルコのビール泥棒さとうまき
メキシコ便り(14)金野広美
「トロイメライ」のあとさき高橋悠治

針(はる)――翠の石室49

峠に針が、
つきささっている。

紐を縫いかけの、
行路死人が針をつきさしている。

はるも(=持)し、はるもし、
声の迷う峠に、
骨の針をだれかがひろう。

針よ、ゆびの血で、
うたをそこに書いてください。

(むがし、弘法さまが近江の国に行ったど。峠にかかったら、一人の年寄りが斧ば研いでだど。「爺さま、何すったどごや」「ん、針にするべて」「斧研いで何年すて針なるや」「はて、何年だべな。ほでもなんねても言わんねべ」。ほんで弘法さま、はっと悟ったど。したらば「わしは峠の神だ。それで悟りが開けたべ」て、居ねぐなったど──『語りの廻廊』〈野村敬子著〉より。「くさまくら─旅のまる寝の紐絶えば、あが手とつけろ。これの針〈はる〉持し」〈『万葉集』20、4420歌〉より)


菊酒、カーウガミ

ここ最近、鼻の中がかさかさする。乾燥してきた。これで秋だ。秋になった。秋になったからといってもTシャツでないと暑い。クーラーを使わず、扇風機だけで過ごせるのが私的に定義するここでの秋だ。晴れの日、日差しは強く、少し日向にいたら日焼けする。でも風は涼しくなっている。

所用で糸満まで行く。片道三十数キロ。行き先は市役所、通り過ぎることしかなかったので滅多に使わないカーナビを設定する。糸満市内に入ると市役所の示す標識とカーナビが案内する方向が真逆になっている。うちの中古車のナビは2001年版、ナビ上では道無きところ走るのはよくあること。標識のとおりに行くと立派な新しい市役所に着く。用事を済ませたあとに最近多い、大きな野菜の直売所に行く。こういうところにも観光客がいる。ドラゴンフルーツが空港の三分の一の値段で売っていればそれは来るはな。隣りに魚の直売所もできている。ここら辺はどんどん埋め立てられ近くにアウトレットモールや新しいショッピングセンターがあり、昔の市街地は他のところと同じようなシャッター通りと化している。

何年ぶりかで九月九日、ウガミ(拝み)に行った。
旧暦の九月九日(十月七日)は仏壇やヒヌカン(火の神)に菊酒をお供える。それと集落で共同で使っている井戸や川を拝む、カーウガミの日でもある。戦前に親の世代が水汲みに行った川は基地の中にある。九月十一日の事件以前はゲート前に車で集まり、手続きが済むと基地の中にある拝所に行っていた。基地に入ることも手続きが難しくなったのでその拝所は基地の外に移され、碑が建てられ、今ではそこに集まるようになった。隣にはアシビナー(遊び庭)の碑もある。それぞれの碑に線香を供え、手を合わせる。菊の葉が浮かぶ泡盛の杯をまわす。天気が怪しくなったので片付け、昼頃には解散した。こういう行事もいつまで続くのだろうか。当時、その場所の記憶がある人は何人くらいいるのだろうか。代がかわり、参加するひとも少なくなり、当時の記憶がある人も少なくなる。


製本、かい摘みましては(44)

ベルリンのデザイナーが、本の背がむき出しになっている装丁を「日本綴じ」と呼んでいるという書き込みをネットで読んだ。写真によると、表紙となる厚紙を本文の前後に順番に糸綴じして、そのうえからいわゆる「表紙」をくるまないタイプで、うちの本棚から似たつくりの本を探すとすれば蜂飼耳さんの『食うものは食われる夜』(装丁は菊地信義さん)。ベルリンのデザイナー氏は「日本綴じ」と呼んでいるのはあくまで「僕らの間で」としているが、「和綴じといえばページをめくる部分が輪になっていて中身と表紙を一緒に糸で綴じたもの」だとし、「この装丁は糸をそのまま見せるという意味で、日本流と呼んでいる」と説明している。面白い。

「和綴じ」と聞いて私がまず思い浮べるのはベルリンの彼といっしょだ。小口が袋になっていて表紙と本文をまとめてブスッと穴を4つ明けて糸でかがったもの。そして次の段階として、線装本袋綴じで穴の数を増やした亀甲綴じや麻の葉綴じ、康煕綴じのこと、ぐるぐる巻きの巻子本や坊さんたちがよむお経のような折本もあるなあ、となる。研究者や愛好者でなかったら、日本人でもそれ以外でもワトジ本のイメージとはこんなものだろう。でも『食うものは食われる夜』を前にして、日本人ならたとえ仲間うちだけでもこれを「日本綴じ」とは言わないだろう、というところが、面白い。

今月、東京国立博物館の「大琳派展」でみた光悦謡本は美しかった。いずれも綴葉装(てつようそう)冊子本で、金銀泥の下絵に雲母摺りのあるもの、表裏両面に胡粉がひいてあったり色替わりの料紙が束ねられたもの、表紙にのみ雲母模様をほどこしたものなどさまざまで、特製本、色替り本、上製本と呼び変えるらしい。桃山文化とともに一度途絶えて慶長期に復活した雲母摺りで表紙に大きく鹿を配し、本文料紙は雲母も色替えもなしという「殺生石」にはことに見惚れた。琳派的には地味なこのタイプは光悦謡本の早い時期に出されたようで、他の豪華絢爛に比べ比較的多く残っているそうだ。琳派の工芸、たとえば硯箱なら蓋裏が好き、という嗜好に近い。

綴葉装の特徴のかがり糸の始末は、ガラスケースの中に展示されてあるから見ることはできない。かがり終わりの4つの穴から出た糸は「リーグ戦」の図のように2つずつ結んで最後は本の天地幅に揃えて切るのだ。かがり始めも蝶結びのようにする場合があるから、どう結ばれているのか見てみたかった。この糸の始末をはじめて見たときは驚いた。どうしてここにかがり糸を出す? しかもわざわざ結んで。いらぬものなのだからできるだけ目に触れないようにすればいいのになんとかならないのか。この邪魔さ加減が、綴葉装が和綴じとして後世にうまく伝わってこなかった理由のひとつではないかとも思うが、結びの文化の延長であろうし、装飾の大きなポイントになっていたことは間違いない。

上田徳三郎さんは『製本』(図解:武井武雄さん)で、この綴じ方は見習い時代にちょいちょい手がけたとして紹介している。紅白の綴じ糸を使って始まりに蝶々結びをしていたことから、宴会のメニューなどに応用したらいいんじゃない?とも記す。吉野敏武さんの『古典籍の装幀と造本』で「この装幀の場合には、綴じの時に細糸数本を使って綴じていることが多」いと読んでいたから、光悦謡本ではどうなのか見たかった。あとで中野三敏さんの『江戸の板本』を開くと、綴葉装は「江戸期に入っても専ら写本に用いられることが多く、板本に用いられた例は極めて少な」く、「田中敬氏の『粘葉考』下巻に収められた同氏経眼の著目を見ても「大和綴刊本」として掲げられるのは僅か四種、その一は光悦謡本百種......」とある。光悦謡本がなぜ綴葉装なのか、開きのよさのためなのか趣味か過去の再現か――。

藤井敬子さんはやさしい製本入門としてまとめた『お気に入りをとじる』に、アレンジを加えた綴葉装をとりあげている。糸は1本どりで始末は最後だけ。この本をテキストとしてテレビでも放映されたわけだが、この和綴じがどのように受け止められたのか、興味がある。藤井さんが綴葉装の見本として作ったのは画帳で、表紙には小紋柄の友禅和紙を用いた。説明を読まずに写真だけ見たら、和紙を使った洋綴じと思うかもしれない。これが洋紙だったら、もう和綴じには見えないだろう。そうなのだ。綴葉装を洋紙でやったら和綴じに見えなくなるが、線装袋綴じを洋紙でやっても、和綴じに見えるのだ。


オトメンと指を差されて(5)

というわけで今回は、いわゆる男性のなかに混じったときのオトメンの苦悩について書くつもりでした。ぶっちゃけてしまうと、「私は今までこんなことにセクハラを感じて生きてきたのだ!」という心の叫びだったのですが、書いてみたら書いてみたで「これって読む人にとってもセクハラになるんじゃないか」というような内容になってしまったので、一晩考えた挙句、自粛することに致しました。(私にはあんな言葉とても表に出せないっ!)

今でもそうなのかどうかはよくわかりませんが、男子小学生とか男子中学生とか男子高校生とか、とんでもなく「セクハラ魔人」ですよね。「魔」がつきますよ「魔」が。いろんな意味で。子どもだから許されているところもあるんでしょうが。結局「色恋」などと言いますが、基本的に「色」の話しかしませんから。そして女子に「いやらしい」とかいう感じで冷たい目で見られるというのが普通だと思うのですけれど、まあ、そこはそれぞれ異性として距離があるから、他人事として感じられるんでしょうが、真っ只中にいた身としてはどうにも耐えられない環境であったわけです。

私は「色」よりも「恋」の話題の方が好きなんですよ! 没にした原稿のことを考えながら書き直してますけれど、「怨念じみた色」なんて話、聞きたくもないわけですよ! 「嫉妬深い」と言おうか「見苦しい」と言おうか、もうため息しか出ません。

何と言いますか、あの男子と女子の温度差は、何やら二次性徴が女の子の方が早いからという噂も耳にしたりするわけですが、そのことを考えると、私個人はかなり早熟であった記憶があります。身体的に成長が周りの男子諸君よりもかなり早かったんですよね。そういう意味でも、メンタリティ的にそういう温度差があったのだと思うのです。

そんな冷静な考えを持った上で、没原稿を眺めてみると、相当嫌だったんだなということが伺われます。もちろん自分が男の子であることが嫌であったわけではなくて、おそらく男の子として周りの子たちが「紳士的」ではないところに不満があったのではなかろうかと思われます。いや「紳士」ではないか。うーん、「王子的」? マンガとかアニメとか小説に出てくる格好いい男の子はそんなんじゃないぞ、みたいな規範があったのでしょうか。

ほら、自分の原稿見てみると、ため息の成分とか分析しちゃってたりしてますよ。

「その成分は、「あきれ」が50%に、「あきらめ」が30%、そして「絶望」が15%。」

もはや95%くらい負の要素じゃないですか。どうした私。これを書いたときに何か嫌なことでもあったのか私。当時のさわやかさの裏にはこんなものが隠されていたのか私。

そして男の子に突っ込みを入れている文章もテンションがおかしかったりします。

「誰にだ!? その本人に? 世の中に? それはたぶん自分にですよ! 自分の妄想に騙されていたんですよ! 自分のなかにあったそれこそ「偶像」に対して裏切られたとか思っているだけですよ! って本人関係ないじゃないですか!」

これはおそらくあれですよね、彼(てゆうか私なのですが)のなかにあるフェミニズム的な何かの逆鱗に触れたのでしょうね。男の子の持ってしまいがちな「理想像」であったり、「きれいな妄想」であったり、そういうのはすごく嫌悪してますからね。どっちかというと少女マンガ的な「そのままの君が好きだ」的な教条主義を貫いているわけですが、じゃあ現実にそれはどうなのかというと往々にして「そのままの自分」が嫌いだという人もいるので、逆効果だったりするんですけどね。

あ、ここはまともっぽいからそのまま引用してみましょう。

「もうひとつその続きでため息が出るのが、「××がタイプ」などという好み論議。どういう人が好きかとかいうわけですが、私にはどうにも苦手で。別にタイプとかありませんよ。好きな人は好きだから好きなのであって、タイプに合ってるからとか容姿がどうとかスタイルがどうだとか年齢がどうだとかどうでもいいじゃありませんか。そのときそのとき好きな人が好きなのです!

その人が目の前にいて不思議な縁があって好きになったからその人が大事なのであって、別に目の前にいない架空の人とか、未来に会うかもしれないとかいうよくわからない人のこととかどうでもいいんですよ。そういう架空の理想像とか嗜好がないとおかしいなんていう目で見るのは本当にやめてください!」

しかし、タイプ論議は別に男性に限ったことではないから、これは個人的な感想だったんじゃないかなと思わないでもない現在。でも、どちらかというと女性って全体的な雰囲気とかを重視する反面、男性は小さな部分(いわゆるパーツ)を大事にしたりするから、そこに違和感があるといえばあるかもしれません。てゆうかあるんだ。すごくあるんだ。あるんだああああああ。待て。抑えろ私。いいか落ち着くんだ。ここで抑えなければ没原稿の二の舞だ。

にこにこ。

さて、改めて没原稿を見てみると、「ため息」という単語が無数にあります。具体的に言うと32個も出てきます。どれだけついているんだ私。私の少年期青年期において同じ男性たちにいかに不満があったのかが如実に現れる数字ですね。

えっ、今ですか? 今は私も大人になりましたよ。それに不満があったのは主に学校なり何なりで生活をともにしていた同年代の人に対してでしたから、別段、大人の男の人たちにどうとかということはありませんでしたし、周りの人も大人になっているから、特にこれといって。

にこにこ。

(ああ......どうしようもない男の女性に対するろくでもない行動のせいで、日々揉め事に巻き込まれている昔の自分が思い出される......)

にこにこ。(頑張れ! 笑顔だ!)

次回はそのような話をするのかしないのか、そして冷静に書けるのか書けないのか、そのへんも含めて生暖かい目でお楽しみください。


ジルベルト・ジルの来日公演

60年代終わりから、カエターノ・ヴェローゾやトン・ゼーなどとともに、「トロピカリア」という実験的な芸術運動によってブラジル・ポップス界をリードしてきた66歳のジルベルト・ジルが10年ぶりに来日し、大阪、東京などでライブを行った。10年ぶりというのは、2003年から約6年にわたり、文化大臣の職にあったこともあるだろう。だが、7月30日にルーラ大統領との会合によって辞職が決定し、8月には11年ぶりのオリジナル・アルバム「バンダ・ラルガ・コルデル(ブロードバンドのパンフレット)」とベスト盤「グレイテスト・ヒッツ」を発表、そのワールド・ツアー「ブロードバンド・バンド・ツアー」によって音楽活動に全面的に復帰を果たしたなかでの来日となった。しかも今年は日本ブラジル移民100周年の記念の年でもあり、日本ブラジル交流年特別記念イヴェントに音楽家としてジルが参加したことは意義深い。満員の会場は、ジルが舞台に登場したときの熱狂ぶりからもその来日がいかにファンにとっていかに待ち望まれていたかがわかる。ニューアルバムとベスト盤を中心にしたプログラムから次々と繰りだされるジルの強烈なリズムの音楽は、われわれの参加を呼びかけ、巻き込んでいく。ノリノリの「ナゥン・グルーヂ・ナゥン」ではダンス会場に変え、途中、日本ブラジル移民100年としてブラジル公演を行ったガンガ・ズンバの宮沢和文が「島歌」をジルと歌い会場を盛り上げた。また9.11だったこともあり、ジョン・レノンの「イマジン」やボブ・マレーの愛をテーマにした曲なども披露した。しかし圧巻はシンセサイザーの効果音や照明を巧みに使ったラップ風の「世界の穴」で、日本語も使って貫禄の舞台を見せつけた。今回、ブロードバンドという名の通り、ライブに参加した人のビデオ録画、録音、写真などがフリーにされ、それらをYouTube(http://www.bandalargacordel.com.br)にアップすることも呼びかけられている。実際、携帯の写真やビデオを録画している人がたくさんいたが、YouTubeには日本公演を含め、この世界ツアーのさまざまな映像がアップされ、情報を共有することができる。「芸術と科学」「伝統と革新」をテーマに取り組んだアルバム「クアンタ」から11年、インターネットなど新しいメディアやコミュニケーション・ツールだけでなく、今回のライブはジルの音楽世界の新たな広がり(ブロード)を実感することができた。ジルは宮沢にいった。「トロピアリアはイズムではく、態度(アティチュード)なんだ」と。このことばは今もジルベルト・ジルのなかに息づいている。

(9月11日、東京国際フォーラム・ホールC)


しもた屋之噺(83)

ヴェニスから1時間ほど電車で下ったところに、アードリアという小さな街があり、ファシズム時代に建てられた、一目でそれととわかるいかめしく大きな、この街は不釣合いなほど立派な劇場があって、今晩そこで、メルキオーレが書いた新作オペラの初演をするため、昼寝をしに部屋へもどってきました。

アドリア海と同じ地名ながら、実際の沿岸までは20キロほど離れた内陸にあって、今でこそ農業なども盛んなようですが、戦前は泥ばかりで土壌もわるく、それを開墾して農業用に作り変えた、ファシズム期の開墾政策の成功記念に、立派な劇場が建築されたようです。当時はセラフィンがこの劇場でタクトを取っていたそうで、とても古い木製のオーケストラピット用の譜面台など、おそらく当時のものに違いありません。そう思うとちょっと緊張するのですが。

現在では、あまり劇場として多くの演目は抱えていませんが、ヴェネチアやヴェローナを初めとするヴェネト州の数多くの劇場の、仕込みをするための劇場として機能させようという試みが始まったところで、今回はヴェローナのアレーナのプロダクションと一緒にアードリアに来ていて、明々後日から2公演、ヴェローナのフィラルモーニコ劇場で再演することになっています。

アードリアの劇場は、内装を作り直したばかりですが、客席など、古い椅子がそのまま使われていて、とても趣があります。舞台もとても広いので良いのですが、困るのは、劇場としては珍しく、天井が大きなクーポラになっていて、教会のようにひどく残響が残るのです。

オーケストラ・ピットの方が舞台よりも客席に近いわけで、当然、オーケストラの音はまるでマイクで拾ってかつ加工されたかのように大きく響き、舞台上の声はあまり飛ばないのです。ピットも決して広くはなく、ここでセラフィンが蝶々夫人などやっていたというのは、ちょっと信じられない気がします。

リブレットは川端康成の「名人」をもとに、作り上げられていて、歌手は4人。イギリス人のソプラノとメゾ、それにイタリア人のテノールとバリトン、それに25人の合唱にここの狭いピットになんとか入るだけの小編成のオーケストラ。せりふのある俳優が二人に、彼らと一緒に動く俳優たちが4、5人で80分ほど。全体的に叙情的なオペラで、日本人からすると、あの静かな「名人」がどうオペラになるのか不思議な気がしますが、なるほど西洋人の目であの囲碁の対局を描くと、実に劇的な、文字通りのオペラらしい展開になっていました。

舞台は、奥に和風の櫓が組んであり、そこに洋風の棺桶がおいてあります。名人が亡くなった、というところから物語が展開するので、まず棺桶ありきなのです。そして、幾つかある対局の場面にそって、碁盤のセットが3箇所あつらえてあり、歌手たちの着物は、アレーナなのでもちろん、という言うべきか、蝶々夫人のものを転用しているらしい。

劇場に着いて大道具を初めてみたとき、客席でさんざん指示を出していた演出家に、「どうこの棺桶のセット素敵? これで日本風に見えるかしら」と尋ねられ、彼女にさんざん振り回されていた大道具係が横で「ああ頼む、OKだって言ってくれ!」と声を押し殺しながら真剣に頼まれたのも可笑しかったです。

囲碁を指す姿が禅僧のように映るのか、化粧を施すたびに、主人公の二人がますます坊さんみたいになってくるのも愉快でしたが、目に隈取をしたあたりから、お坊さんもいよいよ歌舞伎かトゥーランドットかという按配で、今晩どんな姿で現れるのか楽しみです。

それはともかく、各歌手や合唱のパートなど決して易しくはないものの、皆さんとてもよく勉強してきてあり、音楽稽古はとても楽でしたし、歌手どうしも、他の裏方の皆さんとも、とても気持ちよく練習ができたのは嬉しかったです。オペラを準備する楽しさは、普通の音楽会を準備するのと違うものですから、もう初日かと思うと、ああでもないこうでもないと楽しみながらやってきた練習が名残惜しい気もします。

ここまで書いて睡魔には勝てず、布団にもぐりこんで昼寝をし、昨夜無事に初日を終え、今朝、朝一番の電車で久々に一週間ぶりにミラノの自宅に帰ってきました。すぐにヴェローナには戻るのですが、洗濯やら何やら雑用がたまっているのと、基本的にホテル暮らしが好きではないものですから。

さて、昨日の公演は、まさかアードリアに現代オペラの観客なんていないだろう、と演奏者は全く期待していませんでしたが、蓋を開けてみて意外な位劇場が埋まっていて驚きました。ですから、きっと蝶々夫人のつもりでやってきたお客さんもいたに違いありませんが、公演後、なかなか拍手が終らないのにはびっくりしました。


本番直前に劇場に入ったとき、主役のマウリツィオから、お礼のメッセージと、可愛らしいマグカップを貰ったのには感激しました。そのカップでアールグレーを啜りながら、この原稿を書いています。思えば、昨年サーニのオペラをやった時も、初日に、主役のイッシャーウッドからシチリア土産のハチミツとメッセージが譜面台に載っていて嬉しかったのですが、オペラには詳しくないので知りませんが、これは習慣なのか、それとも偶然なのでしょうか。いずれにしても嬉しいことには変わらないのですが。

今から一週間ほど前には、パリオペラ座の小ホールで、「パリの秋」音楽祭のため、ニーウ・アンサンブルとアルディッティさん初め素晴らしいソリストの方々と演奏会がありました。オランダ人はみんな真面目で陽気なのか、練習はいつも楽しく、練習後も、アムステルダムではインドネシア料理やら、パリでは当然ビストロやブラッセリーで舌鼓をうっていて中々ゴージャスなひと時だったのですが、パリでは晩御飯のアントレーは何年も食べていなかった牡蠣を、思わず毎日食べてしまいました。フランス料理は、全体的にイタリアよりずっと重厚だけれども、本当に美味しい!

演奏会後、楽屋に早々に千々岩くんが顔を出してくれたのも感激でした。みさとちゃんや細川さん、筝の後藤さんやペソンのようになかなか会えない人たちの顔も見られて、夏に東京でお会いしたばかりの、湯浅先生や岡部先生も駆けつけてくださったのも心強かったし、今回初めてご一緒した筝の川村さんや作曲のポゼ、今井さんも、みなとても気持ちが良い方ばかりでした。彼らと一緒にやる上手で飾らないニーウ・アンサンブルとの練習はいつも無駄もなく、方向性と互いの信頼がぴったりと合い、かつ愉快でした。

1年ぶりくらいに会ったペソンが、まずそのニーウ・アンサンブルの皆にリクエストしたことは、床を靴でこする動作の精確さについて。素早く、そして正確で、揃っていること。物凄く正確すぎて、それが思わずコミカルに感じられる程に!ということなのですが、これが本当に難しくて、でも楽しいので、みなケラケラ笑いながら何度もリハーサルをしました。

ポゼはものすごく丹念に書き込まれた楽譜と、細かいドイツ語書きの注釈、敬称でやりとりしているフランス語のメールの印象でどんな人かと想像していましたら、実際現れてみると、大凡ドイツ人にしか見えない風貌で、でも物凄く感じのよい、実直な作曲家で、すぐにフライブルグに戻って、オール・シューベルトのプログラムでフォルテピアノの演奏会があるから準備しないと! と話してくれました。遺作のソナタと、幾つかの小さな舞曲集をやるんだが、ソナタよりこの舞曲がね、すごく難しいんだよ、と声を弾ませました。あの複雑な楽譜を書く作曲家の姿と、シューベルトや古典を演奏する鍵盤楽器奏者の姿が、一見到底つながらないようにも思うのですが、その実、本当に古典的な意味でとても音楽的に書かれている彼の作品の素晴らしさを鑑みれば、それは実に自然で調和が取れているようにも感じます。

アルディッティさんは、特に本番での音楽の豊かさ、懐の大きさ、深さに胸を打たれました。波長もばっちりと合って、いや良かったねえと本番後に二人で大喜びしたのですが、演奏会最後の曲目だった、ポゼの前に袖に引っ込んだとき、どうせソリストの譜面台も立てたりするので時間もあるかとトイレで用を足していると、隣に独奏者が右手に楽器を携えたまま入ってききて、こちらが仰天していると、「自然の摂理には勝てんだろう!」と、楽器を持ったまま器用に左手で用を足し、「その後どうするの」と心配になり尋ねると、さすがに手を洗うときには楽器をベンチに置いたので、ほっとしました。そして、「さ、行こうぜ」と言って、二人で大笑いしながら舞台に出て行ったのです。

(10月26日ミラノにて)


カラヤン後

今季はいきなり川崎ミューザの坩堝の底の最前列で、インバルの禿頭を見ながら千人を聴くというとんでもない経験から始まった。あまりの強烈な経験だったせいか、ところどころ記憶が怪しくなっているが、一番記憶に残ったのが若手指揮者の台頭である。

ちなみに今年は、かのヘルベルト・フォン・カラヤンという偉そうな名前の人気指揮者の生誕100年だったそうだが、若手の演奏を聴くと、我々もそろそろ、カラヤンの呪縛から醒めてもいい頃だろうと思った。クラシックに限らず、ジャズやロックといった幅広い音楽の影響を感じる彼ら若手のつむぐ音楽は、ある意味、即興的で、ビートが利いていて、オーケストラに限らず観客とも双方向のコミュニケーションが成り立っているように感じた。そうした実演を聴いていると、計算された美しさを再現するカラヤンの美学のようなものから、聴く側も少しずつ変化していく必要があるようにも思えるのだ。

さて、つい最近聴いたわが国の若手は、少々、そういった意味では不満を感じざるを得なかった。萎縮した感じを覚えたからだ。音楽性も、芸術性も、音符の再現も、解釈も、そんなものを観客はのぞんでいるわけではない。むしろ、若いながらの暴走も許されるのだから、オーケストラや観客との人と人とのコミュニケーションから何かを作り出すある種の化学反応を期待したいと思う。だから、できれば、音楽の勉強以外にも、人の動かし方、人の感動のさせ方を掴むことに力を入れて欲しい。

オーケストラは、100人以上の人間の集まりなんだから、その一人ひとりを人として、気持ちよく動かすことで、表現できる音楽の幅が違ってくることに気付いてほしいと思った。同じくらいの歳の、外国の指揮者にはできるんだ。日本の君たちにだってできないわけはない。


トルコのビール泥棒

ヨルダンから会議のためにイスタンブールに飛ぶことになった。イラク人のビザが、他の国では難しいというのだ。埃っぽいアラブの国とは違い、かつてのオスマン帝国、国の規模はでかく、上品な町並みだ。イラク人たちもおおはしゃぎで、観光に繰り出す。

この国は、イスラム教徒が大半だが、世俗主義を掲げているので、街中でも平気でお酒などを売っている。レストランやバーでお酒を飲んでも大丈夫そうな雰囲気がたまらなくいいのだ。ヨルダンでも酒を売っているのだが、部屋で飲んでも、空き缶を捨てるのに一苦労。人目が気になり、最近は、高級ホテルのバーくらいじゃないとなかなか飲もうという気になれない。というわけで、トルコに来るとなんとなくうきうきしてしまうのだ。

しかし、今回、私は、体調を壊していて、寝込む羽目になってしまった。会議以外はホテルで動かず、じっとしてひたすら体力を保つという戦法を取らざるをえなかった。ところがホテルがオーバーブッキングになっていたらしく、「申し訳ないのですが、相部屋にしていただけないでしょうか?そのかわり、今晩のディナーをサービスさせていただきます」というのだ。合計14名だから、5万円くらいのサービス。

というわけで、私の部屋には、イラクのローカルスタッフのイブラヒムが転がり込んできた。私は、ずっと寝ていた。ディナーの時間になったが体は動かず断念。夜中に目をさましたが、イブラヒムはいなかった。「はて、夜遊び?」と思いもしたが、私は再び深い眠りについた。翌朝、イブラヒムに、夜遊びに行ったのかと追求すると、私がせきこんでいるので、風邪が染らないように、別の部屋に避難したそうだ。さすが、イブラヒムである。体力を温存し、毎日会議が終わると、観光とおいしいものを食いに外に出かけていったようだ。

会議もどうにか無事に終わり、チェックアウトしようとすると、「ビールを飲みましたね」とお金を請求される。なんだって! 体調を壊して今回の滞在では、大好きなビールも飲んでいないというのに。
「いや、冷蔵庫から、もって行ったでしょう」
「何を言う。飲んでないぞ」
「いや、飲んだ」
「何だと、このぼったくり野郎!」

フロントでもめていると、イブラヒムがとおりかかり
「ワタシ・デス」というのだ。
「何で、お前がビールを飲むんだ!」
「イブラヒム、ジュースだと思ってアケマシタ」
ビールだと気がつくと、あわててトイレに流し、身を清めるためにシャワーを浴びたのだという。
「何だって!」
「ワタシワ、イスラム教徒デス。お酒は、禁止デス。ケガラワシイネ」
それは、いいんだけど何でトイレに流すんだ! 俺が飲んだのに。もったいない!


メキシコ便り(14)

日本でひところ前、消費者金融のCMで有名になったチワワ犬の原産地チワワに行ってきました。この犬はメキシコ古来のテチチ犬から交配されたもので、その小さな体で鉱山労働者を暖める目的もあったといわれています。街にはチワワ犬に似た犬や、全然似ていない大きな犬などがいたるところにねそべったり、悠然と歩いていたりで、犬の多い街だなというのがチワワの第一印象でした。チワワはメキシコシティーから北に飛行機で2時間、バスだと21時間かかるメキシコ最大の州チワワ州の州都です。今回の旅の目的はこのチワワと太平洋側のロスモチスを結ぶ全長653キロのチワワ太平洋鉄道に乗ることと、この沿線にあるグランドキャニオンの4倍の大きさを誇るといわれている海抜2400メートルの銅渓谷を見て、このあたり一帯に住む山岳民族のタラウマラに会うことでした。

朝7時、太平洋鉄道に乗り、銅渓谷の近くのクリールに着いたのが昼の12時半、とにかく遅いのです。横の道路を走る車にどんどん追い抜かれていきます。おまけに料金が高い。クリールはチワワから4つ目の駅ですが、料金は2等で389ペソ(約3890円)これで終点のロスモチスまで行くと約1万円近くかかります。もし1等だと17000円余りかかります。緑豊かな渓谷をぬうようにゆっくりと走る電車はとても風情があり、時間とお金に余裕があればこんなに贅沢な旅はないのですが、どちらかでも欠けるとちょっとつらい旅になります。だってバスだとクリールまでかかる時間は1時間短く、値段は約半分なのですから・・・・。それでも車中は観光客で満員、ゆったりとした大きな座席で車窓から見える緑をみんなぼんやりと眺めながら旅を楽しんでいました。

クリールはこのあたりの観光の基点となるところで、多くの乗客が下車しました。私もここで降り、宿をとり街にでかけました。鉄道駅を中心にした小さな街ですが、ホテルやレストラン、みやげ物店がたちならび、結構にぎわいをみせています。線路沿いには柵がなく、人々は線路の上を自由に行き来しています。そんななか、なんでも屋のショーウインドーのカセットデッキを熱心に覗き込んでいる親娘がいました。タラウマラの民族衣装のひだの多い色鮮やかなスカートをはいた娘の名はチャべラ20歳で、お母さんはレホヒア43歳でした。やはりほかのインディヘナの女性と同じくレホヒアはとても43歳とは思えず、60歳くらいに見えました。子供は8人、ここからバスで3時間のところのバランカ(断崖)に住み、毎日、民芸品を売りにくるといっていました。このあたりは、その高さ1879メートルのバランカ・デ・ウリケから1000メートルのバランカ・デ・タラレクアまでバランカが11箇所あり、朝日と夕日に照らされ銅色に輝くということで、もっとも有名なコブレ(スペイン語で銅の意味)渓谷で1300メートルです。

タラウマラはララムリ、;ララ(タラウマラ語で足の意味)ムリ(走るの意味);とも言い、70パーセントがララムリ語(タラウマラ語)を話し、人口は121,835人、主に銅渓谷を中心に住み、その語源から走る民族といわれています、ララヒッパレという15センチの木のボールを足でけりながらまる1日走り続ける競技を今も催している、世界有数の長距離走者の民族なのです。断崖の頂上あたりと、渓谷の谷間あたりを移動しながら、だいたい150人くらいの村落を形成して暮らしています。頂上あたりはりんごや桃の保存には適していますが、冬にはマイナス10度にもなります。一方、渓谷はパパイヤ、マンゴーなどが採れますが、夏には45度から50度の猛暑です。このようにあまりに厳しい自然環境のためタラウマラは半定住生活を余儀なくされてきたのです。そして、中には断崖の横穴を住居にしている人たちもいます。銅渓谷では遠くからですが、そのクエバ(スペイン語で穴の意味)といわれる横穴と前にはためく洗濯ものを見ました。しかし、今では山頂でも渓谷でもない台地(メセタ)や街中のクリールに住むタラウマラもいます。

チャべラに「カセットデッキが欲しいの?」と聞くとかすかにうなずきました。値段は358ペソ(約3580円)です。もちろん彼女の家には電気はありません。でも音楽が大好きだそうで、これなら音楽が聴けます。私が「一生懸命働けば、いつか必ず買えるよ」というと、うれしそうに小さくほほえみました。母親のレホヒアに「夫はどんな仕事をしているの?」と聞くと、「お酒ばかり飲んで少しも働かない」と困った表情をしました。私が「どうして文句をいわないの?」というと、あきらめたような表情で首を横に振りました。全員が全員ではないでしょうが、タラウマラの男は酒豪が多く、その酒代を稼ぐために働くのは女性だといわれています。これはタラウマラのクルトゥーラ(文化)だから仕方がないという人もいますが、8人もの子供を産み、育てて、毎日3時間もおんぼろバスに揺られて、作った民芸品を売りにクリールまで来るレホヒアが本当に気の毒になり、その夫を力一杯蹴っ飛ばしてやりたくなりました。


「トロイメライ」のあとさき

トロイメライは夢
夢のあとさきでは 漫画だな
如月小春はトロイメライは子守唄という意味だと思っていた
シューマンの「子供の情景」というタイトルをつけた曲集のなかに
「トロイメライ」がある
三宅榛名が弾いた「トロイメライ」をきいて 演奏は自由なものだと知った
それまでは 設計図である楽譜にしたがう精密な実現でしかなかった
いま考えると あれもまだメロディーの流れる時間だった
このごろは音楽を空間として観ている
音色と音色の間の距離 渦 泡 幻として
終わりのない質問 みたされない思い たちまち消える瞬間の光
作家としては失敗だったと自覚したアンデルセンが「雪の女王」を書いたとき
一人暮らしのサミュエル・ベケットが転んで
意識をとりもどした病院のベッドで書いた最後の詩
comment dire / what is the word
ことばにならないことば 声にならない声が あらわれ きえる
またあらわれ またきえる
この もどかしさ
わずかなことばのあいだに しのびこむ書かれない沈黙
声を待つ身体の
浮かび漂う
力がぬけ 力ないかたむき
おもわずよろけこむ曲がり角
逸脱からの創造 クリナメン
あそび プレイ 付け加えるのではなく 取り去る即興
手根管症候群の進行するデレク・ベイリー だが
決まり文句をつづりあわせて物語を紡ぐホメーロスではなく
穴だらけ ぼろぼろの「トロイメライ」
如月小春との出会い 「黄金虫」 孤独な身体のもがき
少女たちの空虚なことばあそび
水牛楽団と旅した「高い塔のうた」 ありふれたあいさつの 明るい闇
如月小春は広場だった
もう思い出せない「マタイ1985」
京都大学で 白い地球をかぶった浅田彰と如月小春が連弾した「トロイメライ」
その頃からの「トロイメライ」計画
配役なし 演技なし 装置なし 振付なし 白い地球以外の道具なし
舞台は薄暗く 客席は薄明るい
演劇を解体して 最小限の単語とフレーズをパフォーマーに配分する
深夜放送で知った如月小春の死
弔辞のなかによみこんだ「都市」「杉並区の自動販売機」
わ わわ わわわた わた わたし たしがこ ここに いる しらせ せせ
切れかかるくもの糸
夢で会ったものは
めざめたときにみつからない
演劇に 物語になっていった あの広場を
すべての鏡のかけらが
ほかのすべての鏡のかけらを映す夜の光に
とりもどして りもどし りも も
鳥のように地上をすぎ
as pessoas não morrem
ficam encantadas
麗という字は 並んだ鹿の角
遠くはなれた場所にいても
世界のどこかにいることを知っていた
ともだちを ひとり ふたりと みなうしない
という尹東柱の「たやすく書かれた詩」を
つぶやきうたうカヤグム奏者と小合奏のために書いた
「夜の雨がささやいて」がソウルで演奏されたのは
つい先日のこと そこには行かず
「トロイメライ」のあとは
休日もなく 他人のためにピアノを弾いてすごした
音楽はどこかよそにある
見える 一瞬だけ
見えると思いたい
なにか
なんというか
あの 遠い