カラヤン後

今季はいきなり川崎ミューザの坩堝の底の最前列で、インバルの禿頭を見ながら千人を聴くというとんでもない経験から始まった。あまりの強烈な経験だったせいか、ところどころ記憶が怪しくなっているが、一番記憶に残ったのが若手指揮者の台頭である。

ちなみに今年は、かのヘルベルト・フォン・カラヤンという偉そうな名前の人気指揮者の生誕100年だったそうだが、若手の演奏を聴くと、我々もそろそろ、カラヤンの呪縛から醒めてもいい頃だろうと思った。クラシックに限らず、ジャズやロックといった幅広い音楽の影響を感じる彼ら若手のつむぐ音楽は、ある意味、即興的で、ビートが利いていて、オーケストラに限らず観客とも双方向のコミュニケーションが成り立っているように感じた。そうした実演を聴いていると、計算された美しさを再現するカラヤンの美学のようなものから、聴く側も少しずつ変化していく必要があるようにも思えるのだ。

さて、つい最近聴いたわが国の若手は、少々、そういった意味では不満を感じざるを得なかった。萎縮した感じを覚えたからだ。音楽性も、芸術性も、音符の再現も、解釈も、そんなものを観客はのぞんでいるわけではない。むしろ、若いながらの暴走も許されるのだから、オーケストラや観客との人と人とのコミュニケーションから何かを作り出すある種の化学反応を期待したいと思う。だから、できれば、音楽の勉強以外にも、人の動かし方、人の感動のさせ方を掴むことに力を入れて欲しい。

オーケストラは、100人以上の人間の集まりなんだから、その一人ひとりを人として、気持ちよく動かすことで、表現できる音楽の幅が違ってくることに気付いてほしいと思った。同じくらいの歳の、外国の指揮者にはできるんだ。日本の君たちにだってできないわけはない。