7月の終わりに、北海道に里帰りをして、そのまま、ヒロシマに行き、そこから、クルディスタンをまわって、ヨルダンからシリア、そして今度は陸路で国境を越えてイラク国内の難民キャンプを訪問、一昨日東京に帰ってきた。
この約一ヶ月の旅は過酷だった。ヒロシマも熱かったが、クルディスタンが格別だ。40〜50度の暑さである。ホテルは冷房がきいているし、タクシーだって冷房がきいているのだが、ホテルからタクシーにのる一分間の歩行で、へばってしまうほどの暑さである。
ハラプチャという村が、イラン国境の近くにある。ここは、イラン・イラク戦争の末期に、イラク国籍を持つクルド人たちが、イランと結託しているとして、サッダーム・フセインは毒ガス兵器を使用し、約5000人が死亡したといわれている。1988年のことだ。
生存者の証言は生々しい。トラックの荷台にのって、逃げようとした所、運転手は、意識を失い、荷台に乗っていた人たちも次々と意識を失って倒れていった。ジャーナリストが2日後、荷台の中に生存者を発見し、イランの病院に連れて行ったという。そんな彼らは、ヒロシマ・ナガサキとハラプチャを並べ、非人道兵器の禁止を訴え、平和を呼びかける。でも、2003年のイラク戦争は、「アメリカは正しかった」と言い切る。イラクには大量破壊兵器は無かったのに?といっても、「いずれは、手に入れるだろう。手に入れた暁は使わないわけはない。私たちが生き証人である」という。
でも、イラクでは子どもたちがたくさん殺されてしまったのに?
「それでも、戦争は必要だった」と譲らない。
ハラプチャの人たちは毎年、ヒロシマ・ナガサキの原爆記念日に追悼イベントをやっているが、日本が敗戦し、いかなる武力行使も放棄するといった平和憲法を採択したのとは、異なる。やらないとやられちゃう。これは、ホロコーストを体験したユダヤ人にも当てはまる。彼らは、常にアラブ人を威嚇し、核武装までしてしまった。
しかし、話をヒロシマに戻してみれば、日本政府は、オバマ大統領が、核廃絶を宣言したことに、焦りを感じているという。核の傘が無くなったら困るから、核廃絶はやめてほしいと迫っているという。核廃絶に向けて今まで、先陣を切っていた日本が実は違った。これからの日本は自ら核武装すべきであると考える人もいる。
イラク戦争を支持した日本政府、その理由は、ハラプチャの人たちを代弁している。恒久平和という言葉がぐらつく。やられたらやり返す、やられる前にやってしまえ。世界は、ますますやる気満々になってしまっている。
私は、その後も旅を続け、戦争犠牲者の子どもたちの話を聞いた。未だに、怪我の痛みを訴える子どもたち。身体には手術の傷跡がくっきりと残っている。戦争はもうたくさんだ。