2009年9月号 目次

シクサルサイト――翠の石筍59藤井貞和
製本、かい摘みましては(52)四釜裕子
しもた屋之噺(93)杉山洋一
ジャワ舞踊と動物冨岡三智
ハラプチャから愛をこめてさとうまき
1/4 ガロンの牛乳パック仲宗根浩
オトメンと指を差されて(15)大久保ゆう
メキシコ頼り(24)オアハカのゲラゲッツァ金野広美
最近の野望大野晋
青いこくわの実くぼたのぞみ
音楽すること高橋悠治

シクサルサイト――翠の石筍59

静かなる夕べ、
ひとりを争ひをらむ、
ふたりの男、
ミンゾク学者と、ミンゾク主義者と、
言ひ争へる路上に、
再び 静寂の時は来たり、
見よ、惨劇は行はれたり、
橋上のひとは去り、
血の海に、
きみは仆れて息なし。
あはれ、ミンゾク、
勝利をわれらに。


(問1〈書き取り問題〉、これらのミンゾクに適当に漢字を宛てよ。問2、橋上のひとはだれか、おなじく「きみ」はだれか。以下のすべてのカタカナに漢字を宛てよ。サベツの実態やシテキ在り方やシンテキ構造など、現代人のなかに膠着やシコウ停止がすすむ現在のようで、それなりに硬直する理由があるとすれば、リニューアルないしシンキリフレッシュして、おなじようにストップしているジェンダー理論、ショウスウ者ミンゾク、ショウガイ者サベツや、ちかごろの大学生シュウダンレイプ、根っこはセンソウなのですが、シゼン破壊やエコも同様、「民族」を「民俗」へとひっかけて、ナショナル言説へシュウノウするちかごろの風説のシンキクササ、拉致問題や北朝鮮ミサイルなんたら、サイバン員セイドという骨〈=シソウ〉抜き人間をつくったり、そのシソウの空洞化、もうゾウスイみたいに蔓延している、みんなそのうちどうでもよくなって、シラケ現象ばかりがすすむ秋葉原の若者シンゾウや、人殺し予告や、村上現象と連動するアイドルマスター=風俗ジョウを、『源氏物語』キャラ並みにエッチの対象にシクサルサイト、第二次バカヤロー解散、どうでもよいです。)


製本、かい摘みましては(52)

今年も日記帳作りが校了。小学校1、2年生ころの私にあった心配性が今もこの身体のどこかにあることを感じさせてくれる仕事で有り難いデス。あとは印刷製本屋さんにお任せできれいな仕上がりを待つばかり。製本の観点から日記帳や手帳に求められるのは、まずよく開くこと、そしてそのことによってボロくならないこと。となれば俄然糸かがりが主流となるし、部数もそれほど多くなく、カバーなどの造作も特殊だから最後は手作業によることも多いようだ。製本工場で見かけたことがある。季節はちょうど今頃か。天地小口が金で角丸、しおりひもを2本つけた表紙は革風の深紅の紙、豪華で小さな本ですね、と作業する人の手元を覗いたら手帳だった。

西川祐子さんの近著『日記をつづるということ』によると、日本で最初に印刷製本して出版された日記帳は大蔵省印刷局初代局長の得能良介が1879年に官吏に配った『懐中日記』だそうである。フランス製のアジャンタをモデルにしており、『官員手帳』とも呼ばれて一般にも販売された。明治11年のことだ。本格的に商品化されたのは1982年頃。卓上用の「当用日記」と携帯用の「懐中日記」が作り分けられるようになり、当用日記はイギリスのコリンズ社のダイアリーをモデルとしたようだ。博文館では1895年から日記帳を作り始め、1920年頃までその販路はひたすら拡大、印刷製本は夏の間に終えるようになっていたので1922年9月1日の関東大震災でも被害を受けなかったそうである。

『日記をつづるということ』には日記の分類として、個人の日記と集団の日誌、あるいは秘匿する日記と公開する日記という二分法的分類をしている。さて私はといえば、小学生の頃は担任の先生に提出する日記があり、給食の時間に読んで書いてくれるコメントがうれしかった。中学生になってもその習慣で日記をつけたがその一方で、仲の良い女友達と二人で、あるいは複数の男女での「交換日記」にもセイを出した。たいてい誰かが飽きて数カ月で終っていたが、その日記帳を探すのもまた楽しかった。開きやすさなんて考えたこともない。圧巻はサンリオかなんかの鍵付き(!)ビニールカバーの日記帳。いったい何を書いていたのやら。恥ずかしいことを書いていたことだけはわかる。『日記をつづるということ』、副題は「国民教育装置とその逸脱」。


しもた屋之噺(93)

ここ数ヶ月ずっともやもやと考えていることがあって、それは日本とヨーロッパを自分のなかでどう位置づけたらよいか、それほど明確な問いでもないのだけれど、それに近いことに漠然と思いを巡らせていました。

イタリアで勉強を始めて暫くは、ヨーロッパの技術がどれだけ優れているのか、分かるようでいて余り実感できなくてもどかしさを経験し、何年か経ってその差異が見えた瞬間、今度はとんでもないショックを受けて、自分がそれには及びもつかぬことに苛立ちさえ覚えたのを覚えています。それでも日本人特有の器用さで何とかそのギャップを埋めてゆくと、今度は「日本は何と違うのだろう」、とまるで自分がヨーロッパ人にでもなった心地で数年が過ぎると、それもただ自分の傲慢だった、と猛省するようになりました。別にこれが結論でもなく、今自分がそう感じているだけのことなのですが。

今日グルッペンで初めて3つのオーケストラを合わせるセッションがあり、指揮の沼尻さんと一緒に、大音響のなかサントリー小ホールの真ん中で、必死に楽譜を追っていたのですが、その折、先日沼尻さんが都響を振られた現代作品の演奏会のお話を少し伺いました。先日の沼尻さんの演奏はとてもすばらしかったので、演奏会中、傍らに座っていらしたO先生とも、これだけの演奏をヨーロッパのオーケストラでどれだけ聴くことができるだろう、世界に本当に誇れるものですねと話していたし、すぐ後ろの席に座っていた、細川さんのオペラを指揮したヨハネス・デビュスも深く感動していました。当日のリハーサルを見ていたスザンナ・マルッキも、翌朝ホテルで会うなり、日本の演奏会の水準の高さについて、興奮気味に話してくれました。

たぶん我々日本人は、自分たちが世界に誇れる優れた技術と文化を持っていることを理解しているけれど、ヨーロッパ、欧米に対しやはりどこか劣等感と羨望を捨てきれません。これは音楽に限らず、恐らくごく何にでも当てはめられる、ごく一般的な価値観ではないでしょうか。

これを例えばヨーロッパの国々でどう感じるかと考えると、イタリアに関して言えば、自分たちは世界でもっとも美しい風景の国で、世界に誇れるさまざまな文化が古くから培われてきた国であり、現在経済的には弱く不安定な国、という按配になるかとおもいます。経済的に遥かに豊かなフランスやイギリスに対し、ある種の羨望は隠しもしませんが、自国を貶めることもないように見えます。

今回、ウンスクチンとイリャンチャンの演奏会をやってみて、彼らが本当に韓国人である誇りを表現の強さと糧にしていることに、脱帽しました。もちろん韓国にもいろいろな人がいて、彼らが全てというつもりもありませんが、ヨーロッパ人からすれば、それは至極当然だと感じるに違いありませんし、個性としてとても肯定的に捉えられると思います。ウンスクさんが韓国的な作品を書こうとしているとは思いませんが、彼女にもとんでもない芯の強さと情熱があり、きっとそこに迷いがないのでしょう。聴き手をぐいぐいと引き込んでゆきます。

ぼうっとして、帰りの銀座線を反対方向に乗ったことすら暫く気づかなかったほど感動した細川さんの「班女」も、晦渋に音を絞るだけでは、あの鋼のように輝く表現力は生まれないはずです。細川さんの裡にある時間、個として、文化としての時間、それら全ての肯定的な発露こそが、「班女」の深い魅力につながっているようにおもいます。別に日本的かどうかは、最早大した意味はないともおもうのです。ただ、迷わずに自分の表現をきっぱりと言い切れるか、表現しきれるかどうか。ですから、日本人の演奏、日本的演奏、日本的作曲。そんな薄い言葉で現在カテゴライズできるかどうか。すべきものかどうか。出来たとして、それにどれだけの意味があるのか。それは否定なのか、肯定なのか。善悪で判断できるものなのか。そんなことをここ数ヶ月反芻しながら日々をやり過ごしています。

言うまでもなく、ヨーロッパでもたとえば、フランス、ドイツ、ロシア、イタリアとそれぞれ演奏や作曲のスタイルは違います。日本の土壌がそれらとまるで違うのは当然ですが、それら全てを否定すべきものだとも思えません。今の学生は「モデラート」の意味すら知らない。どう伝えたらよいでしょうね、と尋ねられたのですが、今の自分にはそれをどう伝えてよいのか、正直言葉がみつからないのです。こんな風に悶々としながらあと数年経って、何かが吹っ切れ迷いがなくなることを祈るばかりですが。

今日はこれからグルッペン練習のハイライト。昨晩2時までかけてスタッフの皆さんが設営してくださった大ホール仮設舞台での稽古にでかけてきます。この8月は、たくさんの若い演奏家や指揮者の、そして日本のオーケストラのすばらしさに触れることができて、そしてまた、自らの誇りを豊かに表現するたくさんの作品に出会えたことで、忘れることのできないものとなりました。明日のグルッペン本番も、皆さんの思いがぎっしり詰まった、歴史に残る名演になるに違いありません。
そこに立ち会える幸運に感謝しつつ。

(8月30日東京・三軒茶屋にて)


ジャワ舞踊と動物

今回は、ジャワ舞踊でどんな動物が登場するのか紹介しよう。(最後に、登場しない動物も一例挙げたが...)一口に動物と言っても、動物の姿を描いた舞踊もあれば、シンボルとして意味を持つものもある。いずれにせよ、人々が身近に感じている動物であることには間違いない。

●象(gajah)
舞踊の振りには、象と付くものがいくつかある。ゆったりと揺れ動くような動きの形容によく使われる。

ガジャ・ゴリン(gajah ngoling)という動きでは、胸から目の高さの位置に右手を上げ、手頸を返しながら、手で摘まんでいるサンプール(舞踊で使う羽衣のような布)を引っ掛けたり払ったりする。左手は腰から下の位置で、その動きのバランスを取るように、やはりサンプールを払う。こう説明すると、手の動きだけが目に入るが、実はこの動きで大事なのは、上体を左右に揺することなのだ。だから、この部分では、音楽は少しテンポを落とすと格好いい。

ガジャ・ゴンベ(gajah ngombe)は「象が水を飲む」という意味。下ろした右手を、甲から上へ吊りあげられるように持って行き、耳の横でポーズを決める動き。最後のポーズはウクル・カルノの終わりのポーズと一緒だが、ウクル・カルノとガジャ・ゴンベでは、右手が経過するコースが違う。ちょうど、象が水を飲むのに鼻を持ち上げているようなポーズなので、この名前がある。

この動きは、次のガジャ・ガジャハンという男性舞踊の動きの中で使われる。しかし、ガンビョンという女性舞踊の中でも使われることがある。ガンビョンのテンポが移行する部分のつなぎの振りとして、ふつうはウクル・カルノを使うところ、故・ガリマン氏(舞踊家・振付家)はガジャ・ゴリンに変えて使っていたと、私の師匠は言っていた。

ガジャ・ガジャハン(gajah-gajahan)は「象のように」という意味。様々な動きが組み合わされていて複雑なので、一言で表現できない。またンガジャ(ngajah)という振りもある。「象になる」という意味だろうか?一言で言えば、体を左右に揺らせながら、後ずさりしてゆく振りで、シンプルだが重々しい。いずれも、宮廷男性舞踊のアルス(優形)で使われる。それはおそらく象が王の象徴であり、自己抑制されたアルスな状態の象徴であるからだろう。ちなみに、ジャワの王宮ではかつて象が飼われていた。その象使いが住んでいた地域がガジャハン(gajahan)である。
●孔雀(merak)
やはり宮廷男性舞踊のアルスの中に、ムラッ・カシンピル(mrak kasimpir)という動きがある。一般的に良く知られた「パムンカス」という舞踊の中にも入っている。「孔雀が羽を広げる」という意味だが、動きは非常に抽象的。振付の前後のつながりを見ていると、何か、最終的に到達した境地を象徴しているように感じる。たぶん孔雀も、宮廷では何らかのシンボルを担っているのだろう。

宮廷とは全然別の系統で、「ムラッ」という舞踊がある。これは孔雀の動きを模した舞踊で、餌を取るように首を突き出したり、肩を揺らしたり、手につけたマント(羽を表す)を広げたりする。子供から若い女性まで踊れる演目だが、動きがちょっとセクシーに感じられる。生物学的に言えば、色鮮やかな羽を持つクジャクはオスなのだが、舞踊では、孔雀の性別は明らかに女性である。「ムラッ」は、中部ジャワでも、西ジャワでも、東ジャワでも踊られている。(これら3地域は様式が異なる)

●サル
ジャワのサルの舞踊には種類が多い。これは1961年に始まった観光舞踊劇「ラーマーヤナ・バレエ」のために、多くの型が創りだされたからなのだ。アセアン各国の共同制作公演の「ラーマーヤナ」に出演していた私の師は、他のアセアンの国では、サルの型はジャワほど多くないようだと言っていた。ジャワで一般的に知られたサルの舞踊といえば、まずは「ワノロ」である。これも「ラーマーヤナ・バレエ」の時に創りだされた演目で、だいたい小学校低学年ぐらいまでの男の子用の演目であり、大勢の子どもたちが一度に踊る。だいたいこの年頃の男の子なんて、やっていることはサルと大して変わらないから、舞台を走り回っていたら本当にサルに見える。ハヌマンなどのキャラクターは花形なので、もっと年齢が上で、経験のある男の子のための演目である。

●ウサギ(kelinci)
ウサギの踊り「クリンチ」も「ラーマーヤナ・バレエ」のために創りだされた演目で、森の中の場面で登場する。私が不思議だと思うのは、ウサギなら女の子用の演目だと思えるのに、ジャワでは男の子用の演目になっていること。舞踊の動きとしては、男の子がやっても女の子がやってもよさそうな内容で、お遊戯会の踊りという感じである。

●イヌ
ここに挙げておいて何だが、現在、イヌの踊りはない。「ラーマーヤナ・バレエ」が始まったとき、ウサギの踊りと共に創られたという。私の師は、「ラーマーヤナ・バレエ」が始まって翌年か翌々年くらいから「クリンチ」に出演していた。その時にはすでにイヌの踊りがなくなっていたが、歌詞には「イヌとウサギが〜」という文句が残っていたという。

イヌの踊りがあったというのも驚きである。ジャワではイスラム教徒がほぼ9割を占めるが、イスラム教徒は犬を嫌う。さらに日本だと犬には忠義や忠節のイメージがある―たとえば、忠犬ハチ公や桃太郎にお供するイヌのように―が、そんなプラスイメージはジャワには全くないという。そういう理由で、イヌの踊りは用いられなくなったらしい。でも、そうなることは始めから分かりそうなものだ。私でも、なぜイヌの踊りを作ったのだろうかと思う。

余談だが、犬は嫌われるとはいえ、ジャワでは犬肉は薬食いとして食べられている。サテ・ジャムーというのがそれで、サテは串、ジャムーは漢方薬のこと。焼き鳥のように、串刺しにして食べる。体が温まるという。


ハラプチャから愛をこめて

7月の終わりに、北海道に里帰りをして、そのまま、ヒロシマに行き、そこから、クルディスタンをまわって、ヨルダンからシリア、そして今度は陸路で国境を越えてイラク国内の難民キャンプを訪問、一昨日東京に帰ってきた。

この約一ヶ月の旅は過酷だった。ヒロシマも熱かったが、クルディスタンが格別だ。40〜50度の暑さである。ホテルは冷房がきいているし、タクシーだって冷房がきいているのだが、ホテルからタクシーにのる一分間の歩行で、へばってしまうほどの暑さである。

ハラプチャという村が、イラン国境の近くにある。ここは、イラン・イラク戦争の末期に、イラク国籍を持つクルド人たちが、イランと結託しているとして、サッダーム・フセインは毒ガス兵器を使用し、約5000人が死亡したといわれている。1988年のことだ。

生存者の証言は生々しい。トラックの荷台にのって、逃げようとした所、運転手は、意識を失い、荷台に乗っていた人たちも次々と意識を失って倒れていった。ジャーナリストが2日後、荷台の中に生存者を発見し、イランの病院に連れて行ったという。そんな彼らは、ヒロシマ・ナガサキとハラプチャを並べ、非人道兵器の禁止を訴え、平和を呼びかける。でも、2003年のイラク戦争は、「アメリカは正しかった」と言い切る。イラクには大量破壊兵器は無かったのに?といっても、「いずれは、手に入れるだろう。手に入れた暁は使わないわけはない。私たちが生き証人である」という。
でも、イラクでは子どもたちがたくさん殺されてしまったのに?
「それでも、戦争は必要だった」と譲らない。

ハラプチャの人たちは毎年、ヒロシマ・ナガサキの原爆記念日に追悼イベントをやっているが、日本が敗戦し、いかなる武力行使も放棄するといった平和憲法を採択したのとは、異なる。やらないとやられちゃう。これは、ホロコーストを体験したユダヤ人にも当てはまる。彼らは、常にアラブ人を威嚇し、核武装までしてしまった。

しかし、話をヒロシマに戻してみれば、日本政府は、オバマ大統領が、核廃絶を宣言したことに、焦りを感じているという。核の傘が無くなったら困るから、核廃絶はやめてほしいと迫っているという。核廃絶に向けて今まで、先陣を切っていた日本が実は違った。これからの日本は自ら核武装すべきであると考える人もいる。

イラク戦争を支持した日本政府、その理由は、ハラプチャの人たちを代弁している。恒久平和という言葉がぐらつく。やられたらやり返す、やられる前にやってしまえ。世界は、ますますやる気満々になってしまっている。
 
私は、その後も旅を続け、戦争犠牲者の子どもたちの話を聞いた。未だに、怪我の痛みを訴える子どもたち。身体には手術の傷跡がくっきりと残っている。戦争はもうたくさんだ。


1/4 ガロンの牛乳パック

今年も旧の七夕の墓掃除を済ませたあとからすこし、風が涼しくなった。八月ももう終わりではないか、前々から懸案のささくれ畳を一気に替えてしまおうということになった。ここに住むようになって十二年、畳替え、というのを初めてやった。畳の部屋が二つで全十六枚全部取っ替えた。この借家の畳、一枚一枚が微妙に幅と長さが違っている。だから八畳間とはいえない。同じ畳八枚が敷かれている部屋だが微妙に広さも違う。まあ家賃も十二年値上げ無しだからそのまま住んでいるけど、畳替は自腹だと、大家。

畳替えとなると畳の部屋にあるものすべて移さなければいけない。一番物が多い板の間に。それで板の間がえらいことになっている。まだ片付いていない。新しい畳が敷かれた部屋は物が少なく広くなったのでなんとかこの広さを保ちつつ、捨てるものをいろいろ探している奥さんにこの家で「一番物を持っているのはあんたよ!」と責められる。十年くらい前、CD類は千枚超えないように、と定期的に数えていて聴かなくなったものはどんどん処分して、八百枚に抑えていたけど、いつの間にかその縛りも解けてまた増えはじめている。何年も数えていない。一年前にずいぶん処分したけど。買ってまだ読んでない本もたまってきた。休みの日はただただ寝てごろごろするのに時間を使うから本読む時間がない。畳が新しくなると余計にごろごろの時間は長くなるわさ。今の畳替えは畳屋さんが朝来て畳を全部車で持って行き、機械で表替えされたものを夕方に車で持って来て敷いてしまう。そうか、現場作業ではなくなったんだ。ドカベンの山田太郎のおじいちゃんのような畳屋さん、というのはもう遠い昔のことなんだ。

ごろごろしていると八月が終わりすぐ旧盆に入る。スーパーでは旧盆の必需品、線香、ウチカビ(あの世で使うお金)、最近はウチカビを燃やすための専用のボールも売っている。肉屋では豚の肩ロース肉、三枚肉がブロックではだかのまま並べられ、豚の中身のボイルも計り売り。子供の頃はまだ肉屋さんは斤を使っていたけど今、斤を使うのは食パンくらいか。でも牛乳のパックは1000mlではなく復帰前とおなじ946ml=1/4ガロンのまま。


オトメンと指を差されて(15)

ドラマ『オトメン(乙男)』面白いですね! 毎週欠かさず見ています。そういえばこういうことあったなあ、とか、やけにかわいい系の男の子に慕われることが多かったなあ、とかそういう昔のことを思い出しながら、一視聴者として楽しんでおります。

我々オトメンはあのような感じの生き物なのですが、やはり個人差というものもあるわけで、たとえば私はお化けとか幽霊とかが全然怖くありません。妖怪とか怪物とか宇宙人とか、とにかくオカルトといったものが(あくまでも娯楽として)大好きです。昔から怖い映画も平気で(むしろ笑いながら)見ていて、しかも絶叫マシンなんかに乗っても基本は笑ってます。ジェットコースターで大爆笑する人です。そんでもって一日じゅう乗り倒して、最終的には三半規管がおかしくなってホテルでぐったりするようなそんな感じ。

お化け屋敷は別ですよ、あれは怖がらせるものじゃなくて、びっくりさせるものです。驚かされたらさすがにあわてるんですが、それは幽霊とかお化けが怖いとはまた違うものじゃないですか。あくまでもびっくりしているのであって、怖いのではないのです。

ともかく、私はお仕事としては童話の翻訳やらホラーの翻訳やらをしているわけですが、よくよく考えてみればどちらもいわゆるフェアリーテイルなのです。ほんわかした妖精も、おぞましい怪物も、突き詰めればどっちもフェアリーですし、童話だって時に残酷なお話があるように、ホラーだって時に切ないものや愉快なものもあります。

私のなかではそのふたつに差はなくて、というか、私にとっての三大童話作家は、アンデルセンとグリムとラヴクラフトなのです! アンデルセン童話・グリム童話などと呼ばれるように、クトゥルー神話などもラヴクラフト童話と呼ばれてもいいのではないかと思うのです。神話に出てくる怪物たちのかわいいぬいぐるみだってありますし。ポニョのぬいぐるみと並べてもまったく違和感がありませんよ!(むしろポニョの方が怖いです。あれは本物の恐怖だよ、と周囲の人に力説するもあまり理解してもらえず。こちらを参照。)

当人も幼少の頃、童話などをよく読んでいたといいますし、作品もどこか子どもの見る悪夢じみたところがありますからね。あんまり言い過ぎると怒られるかもしれませんが、実際、少年少女向けの文庫で数社から出ていたりもします。今思い出してみれば、あのあたりのラインナップって相当変でした。特にSFとかミステリとかホラー方面で。ラヴクラフトだけじゃなくて、ディックとかレ・ファニュとかポリドリとかあったし、あれはポプラ社や金の星社、岩崎書店あとあかね書房でしたか、その節は非常にお世話になりました。

「童話」と言いますか「ジュヴナイル」というものは、言い切ったもの勝ちみたいなところもありまして、翻訳の仕方次第(文体次第)で何でも化けさせることができてしまう、不思議な不思議なくくりであったように思います。これって翻訳の魔法のひとつですよね。私が「朗読向け」として使う文体には、このあたりの本の影響が多々あります。白木茂さんや南洋一郎さん、亀山龍樹さんや久米元一さん、那須辰造さん――下手な逐語訳・完訳よりもずっと面白かったんです。

純文学も大衆文学もSFもホラーもミステリも何もかもがいっしょくたになるある種の「翻訳ジュヴナイル」という枠がかつてあったことは、のちにもっと勝手放題な「ライトノベル」という枠が育っていくことにもつながるのだと思いますが、それは別の話として。

私も最近はオトメンらしく、手すさびというか手あそびというか手なぐさみというか、児童文学を書いてみたりしていたりするわけなんですがもにょもにょ。あまり大声では言わないんですけどね。書いては気に入らず破り、書いては棄てというようなことを繰り返しているのですが、たまに知ってる人に内緒で読んでくださいというような感じで渡すこともあり。

翻訳だと結構人様に見せられるというか、そもそも人と人をつなぐためのものなのでおおっぴらに公開しても全然大丈夫なんですが、オリジナルなものっていうのはどうしても私的で、個人的なつながりのある「読みたい」と思っている人に渡すような側面があるように思っていまして、ほら、気恥ずかしいじゃないですか、何かそういうのって。

だからブログはかなり苦手で(毎日プライヴェートのことを書くとか絶対無理!)、SNSはちょっとはマシですけど......って、そういうことを考えてるからオトメンって言われるんでしょうけど。そこのところは「カフカみたいだね」と言ってもらった方がまだいいかも。私はカフカの翻訳もしましたけど、正直、未出版の草稿から翻訳されているものを見ると「お願い、やめてあげて!」と同情みたいなものを感じてしまいます。

けれども書いたものをおずおずと友人に差し出すカフカもわかるので、出版されたものは翻訳しちゃうんですけど。喜んでくれる人が目に見える形で何かを書きたいんでしょうね、きっと。翻訳はそのお手伝い、かな。


メキシコ頼り(24)オアハカのゲラゲッツァ

メキシコでは日本の七五三にあたる、子供の成長を願うための大きな行事が3歳の誕生日に行われます。私の友人のデルフィーナが「妹の孫のフィエスタ(誕生会)が7月24日にオアハカであるので行かないか」と誘ってくれました。折りしも7月27日はオアハカのインディヘナの民族舞踊の祭典であるゲラゲッツァも開かれるので、これも見ることができると二つ返事で招待を受けることにしました。

オアハカにはデルフィーナのいとこのマウロの車で行くことになり、7月23日の夜、彼女の息子2人とマウロ夫婦の総勢6人で夜0時半メキシコ・シティーを出発しました。2時間ほど過ぎ、私がうとうとしていると、車が急にストップしました。なんとタイヤと車体をとめてある5本の軸のうち3本が折れたのでした。運転手のマウロはすぐ電話で連絡をとっていましたが、なにしろあたりは何もない真っ暗闇、星だけがきれいに光っているだけです。

4時間ほどすると修理人が車で着きましたが、部品がないとかでマウロと一緒に行ってしまいました。そして程なく別のマウロの親戚の修理工だという人がやって来て直してしまいました。マウロも帰ってきて、さあ出発しようとした時、その親戚の人がもう片方の車輪もとれそうなのに気づき、それからまた部品を買いに行ってしまいました。そして待つこと3時間、やっと両方の車輪が直り、車が止まってから8時間後にようやく出発できました。

くねくねした山道を車はすごいスピードで走ります。マウロの運転があまりに荒いので生きた心地がしなくて、早く着いてくれないかと願っていると、2時間後、またしても車がストップ。なんと今度はエンジンから煙が上がっているではありませんか。エンジンオイルが空っぽになっていました。「もー信じられなーい」でもこれで車から降りることができると内心はほっとしました。この車まだ新らしそうだったのに、メンテナンスが全くできていなかったのです。

メキシコでは車はとても高いのです。給料は日本の半分以下なのに車の値段は同じくらいです。そのため大半の人は月賦で車を買うため、返済に追われてメンテナンスにはお金をかけない人が多いのです。おまけに運転が荒いので道路にはトペといって小さな山型の障害物がたくさん作られています。トペの前ではブレーキをかけてゆっくり通過しないと頭を天井にぶつけてしまいます。何度も何度もブレーキをかけなければならないため車は早く痛みます。だから余計にメンテナンスが必要なのですが・・・・。

おまけにメキシコでは免許証は買うもので、日本のように自動車教習所のテストに合格しないと受けられないものではありません。運転は親に習い、メンテナンスの知識も十分ではありません。友人の話によると、たいがいの人は定期点検などせず、車は故障するまで乗り、故障したら親戚の車に詳しい人に直してもらうというのです。なんとも恐ろしい話です。私はもう二度と個人の車には乗らないことに決めました。

このように散々な目に会いながらも、バスとタクシーを乗り継いで着いた彼女の妹さんの村は、オアハカのパトロナル・デ・サンティアゴ・アポストルという、山あいにある人口300人の小さな村で、緑にあふれたとても静かな美しい村でした。夕方6時に着いたためフィエスタはすでに始まっていました。白のスーツを着たこの日の主役のオスカル君はとてもかわいい子で、みんなに祝福され、はしゃぎまわっていました。バルバコアというトウモロコシの実をつぶしてゆがいたものの上にやわらかい肉がふんだんにのったお祝い料理をいただき、ビールをいっぱいご馳走になりました。祭りのときには呼ばれて演奏するというギターを抱えた親子が、にぎやかなバンダやコリーダ、ランチェーラを演奏し、私もみんなと一緒に踊りました。
村の半数は親戚だといわれるくらいの村なので招待客の数も半端ではありません。多くの人が入れ替わり立ち代り朝まで飲み、食べ、踊り明かすのだそうです。しかし、私たちは前夜ほとんど寝ていないので、11時ごろにはひきあげさせてもらいました。

ぐっすり眠った次の日、デルフィーナたちと別れ、私はゲラゲッツァが開かれるオアハカセントロに移動しました。ここにはホテルで働くベトという友人がいるので彼のホテルに直行。そして同じく友人のエリもやってきて1年半ぶりの再会に話がはずみました。

ゲラゲッツァは年によって開催日が違うのですが、今年は7月20日と27日の月曜日に2回づつステージがあり、この期間中は他のインディヘナの村でも小規模の民族舞踊の祭典が開催されます。華やかなパレードが通りを練り歩き、フェリア・デ・メスカル(ここの名産のお酒メスカルのお祭り)が開かれ、広場では市がたち、メキシコ各地からだけでなく海外からも多くの人がやってきてとてもにぎやかになります。私もベトたちと街を歩き回り、広場では踊りの輪に加わりながら夜遅くまで飲んで、食べて、踊って楽しく過ごしました。

次の日の朝、ゲラゲッツァ会場があるフォルティンの丘に行きました。1万2000人が入る会場は満員で1時間前に着いたにもかかわらず、席を確保するのに苦労しました。1人でうろうろしていると年配のメキシコ人の男性が「ここが空いているよ」と教えてくれ、その男性の隣に座りました。会場では楽団が演奏を始めていたので観客はすでに盛り上がっていて、踊っている人もいました。

今年は12の地域からそれぞれの村に伝わっている踊りが披露されました。サン・パブロ・マクイルティアンギスの「エル・トリート・セラーノ」という踊りは、女性が牛に扮し、男性を打ち負かすというユーモラスな踊りで、男性が舞台から落とされるたびに大きな歓声がわき、マッチョの国でのせめてもの抵抗の踊りのようでなかなかおもしろかったです。また、ビージャ・デ・サーチラからはダンサ・デ・ラ・プルマという大きな直径1.5メートルはある丸くて平たい羽飾りをつけて踊る踊りがありました。これはスペインによるアステカ帝国征服の様子を表したもので、ピョンピョン跳びながら踊るものですが、あとでこの羽飾りを持たせてもらいました。あまりの重さにバランスをとるだけでも大変なのに、これで踊るのだからすごいなあと感心してしまいました。

黒地に色とりどりの花模様をあしらった素晴らしい刺繍の衣装が目をひく、シウダ・イステペックの踊りの音楽は、にぎやかなマリアッチで演奏するワルツで、優美な中に輝く太陽のような明るさのある興味深い踊りでした。このほかにも収穫の喜びを表現したものや、男女の恋のかけひきを表したものなど、それぞれにカラフルな民族衣装と相まってとても美しく楽しいものでした。そして、各踊りの最後にはパンや果物、帽子など、各村で採れたり、作られたものが舞台から客席に投げられ、観客は立ち上がって掴み取るのに一生懸命でした。私は何もゲットできなかったのですが、となりの男性が、獲得したパンをひとつくれました。ほのかに甘くて素朴な味わいのあるおいしいパンでした。

この男性は毎年ゲラゲッツァを見に来るそうで、「インディヘナの伝統舞踊も民族衣装もメキシコの宝で、メキシコ人の誇りだ」と熱っぽく語りました。しかし私は彼の言葉を聞いたとき、思わず反感を覚えてしまいました。それは、メキシコ人が彼らの伝統芸能や美しい手工芸品をメキシコの誇りだというのなら、なぜインディヘナに対する根深い差別を放置しているのかと聞きたくなったのです。

ゲラゲッツァの日だけインディヘナはメキシコ中の、そして、世界からやってきた観光客の注目を一身に浴びて踊ることができます。しかし、次の日からはまた、過酷な日常が待っているのです。彼らがきらびやかに、そして晴れ晴れとした表情で踊れば踊るほど、私はとても悲しくなってきました。そして舞台が終わった時、私一人が祭りの余韻の中、トボトボと歩いていました。


最近の野望

さて、なんとなくタイトルは物騒ですが、本人はいたって物騒なことは嫌いだったりします。まあ、騒ぎを起こすのは好きかな?

このところ、青空文庫で狙っているのは10年留保というベルヌ条約の抜け道で著作権が切れている書籍の登録がひとつです。著作権は現在の日本では50年間保護されるのですが、これがなんとも長いこと。最近の変化の激しい出版の世界では一年一昔の感もあり、10年だととんでもない昔。50年なんて著作が残る年数ではありません。しかし、世界の趨勢は某ネズミ国のロビー活動の成果もあって70年、100年と延びる傾向にある。これが問題。そんなに長く読まれる著作なんてほんの一部なのに、その一部のために全てが振り回されている感じがします。

その伸びる著作権保護期間にあって、10年で著作権が切れてしまうといううれしい制度が「10年留保」。日本の著作権が改正された1970年以前の海外著作であれば、10年間日本で翻訳されることがなければ自由に、翻訳権の取得なしに翻訳出版できるといううれしい制度です。しかも、日本だけのローカルルールというよりもベルヌ条約で認められていた国際的な権利なんですね。(まあ、戦時加算や挿絵などの権利は保護されるなど考えるべき項目は多いんですけどね)これを使って、まだ化石になっていない著作を青空文庫の本棚に置いてみたいなあと思っております。ふふふ。

特に、探偵小説、ミステリーといった分野は昔から少数のコアな推進役(出版、研究、そして執筆)とコアな読者が中心になって形作られていますから、比較的書誌情報は整備されていますので、この分野のオールドミステリー(クイーン、クリスティあたりの初期のものまで入りそうですが)を中心に探して見たいと思っています。

もうひとつは校歌だとか、県歌だとか、寮歌だとか、そういったものを青空文庫に収集していきたいなあと。以前から、野口雨情の童話を登録してみたりと「うた」を入れておきたいという気持ちはあったのですが、昨今の流れから過疎化や市町村合併から古くからある小学校などが廃校になる事態が進んでいますし、そうでなくても古い歌詞は難しいので今の子の感性にあわないと、校歌が作り変えられることが多くあります。しかし、そうやって、捨てられた歌は残念ながら卒業生や古い地域の住民の記憶に残っても、やがてはそういった人たちの存在とともに消えていってしまう命。ならば、記録として、どこかにアーカイブしておきたいなあ、というのが背景です。

とりあえずは長野県歌「信濃の国」の作詞者の浅井冽が書いた校歌が松本市教育委員会が編纂した書籍にまとめられていますから、これをなんとかやっつけようかと。もひとつ背景としてあるとすると、まあ、消えていく存在として寮歌というものがあって、自分も随分とお世話になった寮歌をどこかに残せないものだろうか?という思いがずっとあったというのもあります。(春寂寥なんて前説からしていいですよ)大学の寮自体の存在が変化し、そしてその存在自体がなくなろうとしているとすると、そこに大正の時代から綿々と存在した寮の歌というのもどこかにのこしたいなあと。

ただ、難しいのが著作権の確認が非常に取りにくいんですね。もともと、当時旧制高校の学生だった(私の専門学部の方の寮歌は実は先生も作っていたりもするんですが)作者をどう特定して、著作権の有無を確認しようとすると大きな壁が立ちふさがっています。ただし、寮歌の存在自体は、昔から寮歌として採用されたら公共物と、今でいうパブリックドメインあつかいだったりしますから、過去、現在の寮生に言わせると、そんなもの、出して文句を言われる筋合いじゃない、ということになるんですが。

一部の著作権管理団体に管理委託されている作者の寮歌ではない限り、実際の問題は少なそうに思っています。これも、どういう手順、どういう手続きを持って、青空文庫の本館に置けるか?というのが当面の課題です。当面の長野県歌をやっつけたら、次は土井晩翠作詞の旧制松校校歌かなあ。。。

話は変わりますが、青空文庫のアクセスランキングリストというのが最近公開されましたが、これをぱらぱらと見ていると面白いことに気付きます。なんと、テキスト版とHTML(Web)版とでランキングに上がっている著作の構成が違うんですね。Webの方はどうも有名指向というか、文庫本などのランキングに近いものがあるのに対して、テキストはあきらかにミステリー指向。ずらっと探偵小説、推理小説、スリラー、ミステリーが多くランキング上位に並んでいます。たぶん、テキスト版はiPodやiPhoneに入れると持ち歩けるために、通勤や通学、旅行などの合間に読むためにダウンロードしているのだろうなとの推測ができて面白い。日本人、やはり、かなりのミステリー好きのようです。このランキングに新しいカテゴリーから何件入るか?楽しみです。

以上、小さな野望ですが、過去、青空「時代劇」文庫化計画や青空「探偵小説」文庫化計画、青空「大衆文学」文庫化計画などをしかけた(と本人は思っている)だけに、また、当分、こういった感じでなにが起きるか楽しもうと思っています。
やはり、私って物騒な人間かもしれません。


青いこくわの実

擦り傷だらけの
うで、ひじ、すね
抱えてかえる山道で
もぎとったこくわの
熟れる前の青い実は
白い白い米粒の奥深く
ずずずっ
と埋めておくんだもん

押し入れをあける
いきなり浮かぶ
「水銀ボルドー」
ダンボール箱に印刷されて
目線の高さに
八歳の

真四角な晒布
三角に折って
しんに新聞紙入れて
さっと頭巾結びする母さんの
素手が撒く──ららら
白い粉は
ぬめり、ぬめる、泥濘の深みから
空にむかってつんつんのびる
青い刃の
葉先にかかり
朝露にぬれた
畦草にかかり
立ちつくす少女
の目にもかかり
のど粘膜に着地して
みごとな刻印をのこす

思えばとおい
不知火の海も北の大地も
ららら列島
科学の子のおともだちよね
やがて
こくわの実もあまく熟して


音楽すること

まデイヴィッド・グレイバーの出るシンポジウムをききにいった 資本主義ももう長くない すべてを監視するセキュリティー装置は高くつく いらない商品をますます大量に作り 売れなければ 先物買いをする すべてが負債でうごいている 権力は要求を拒否し それができなくなると部分的に取り込み それでもたりなければ戦争を起こして注意をそらす というようなことをひとりで笑いながら言っていたが それが日本語に翻訳されると おなじ話もどこか暗くまじめで笑えないものに変わっていた 

ベトナム戦争中の1968年はたしかに世界を変えた 制度も一枚岩の反体制も信用されなくなった しかし運動自体は継続できなかった まだ非日常的で コミューンの日々が終わり 日常がもどってくると 解体し 消えていった 反逆は制度に部分的にとりこまれ 回収された 日常のなかでの革命は それでもすこしずつすすんでいた 権力や公認された位置をもとめない女たちや先住民のなかに 1989年から2001年の頃 社会をうごかす大きな流れになってまたあらわれた時は 非中枢 非権力 非統一の考えかたがうけいれられるようになっていた それでもアフガニスタンやイラクの戦争が起こる グレイバーの考えでは それはアメリカ人の注意を権力からそらすための戦争だったということになるが それでは殺されたイラク人たちは犠牲の羊ということか

先月書いたことのつづきだが 「すでにないもの」の記憶 と「まだない」夢とのあいだにゆれている「いま」の半透明のスクリーンに映るはためく翼の重ね書きのずれた線の束が ここをすぎていったかたちのないうごきの軌跡となって 不安定にゆらぎつづけるのが音楽ならば ざわめくひびきをつくりだす息づかいや指先は 外側から見える書かれた楽譜や 結果としての音の分析からではなく ひとつではない複数の身体の内部運動とそれらを顧みる内部感覚が途絶えずに「音楽している」プロセスを支えているということが 音楽がつづいているあいだは 声や楽器や演奏者をききわけながら 音楽の内側で音楽として生きられ 経験されている 音楽がやむと この全体は失われ 音がうごきまわっていた空間も 跡形もない 「いま」は記憶と夢に回収され 語ることばは 音楽にとどかない 記号としての音楽 表象としての音楽ではない 記憶であり夢である創造のプロセスを手放さないでいれば 音楽は世界とつながっている 歴史 文化の伝統 政治 社会 自然 それらのなかで「音楽する」ことは ひとつの交換であり 世界をともに感じる生きかたでもあるだろう

20世紀の音楽は 設計図にしたがって 部品を集めて組み立て みがきあげた機械のように 中心や統一や構成に支配されていたし 産業化し 技術化し 商品化して回収されるものだった 作曲家と演奏家と聴衆は 資本家と労働者と消費者のようなヒエラルキーを崩せないで 新しさをもとめる作曲家は 不要な商品をつくりつづける資本家のように 無目的な開発と理解されない悩みのあいだで 道はないが進まねばならないと自分をなぐさめるばかりだった 冒険や発見を否定したり 後もどりはできないし 回収された技術は 音楽を古い規則から自由にしたこともたしかだ 創造の場のヒエラルキーをこわすやりかたはあるだろう 生産と消費 あるいは理論と実践のような産業的科学的なたとえでなく 音をきく 音楽をする という行為の共有から生まれてくるもの さまざまな場 状況 条件のなかで変化しながら維持される活動を反省しながら確実なものにし 人びとのあいだへとひらいていく方向があるはずだ