しもた屋之噺 (127)

この原稿を書くとき、まず原稿が何回目なのか「水牛」を開いて確認するのですが、今回は8月に演奏するドナトーニについて書くつもりが127回目と知って、少しばかり動揺したことを先に告白しておきます。ドナトーニは音楽の道に進む前に経理士の資格を取っていて、家が裕福ではなかったために自分でくいぶちを見つけられるようにと親から勧められたのだそうです。そうしてヴェローナの銀行にでもつとめながら、夜はアレーナのオーケストラでアルバイトでも出来ればよいと、親がヴァイオリンを習わせはじめたのが音楽との出会いでした。

ドナトーニの「数」への偏愛が経理の勉強と繋がっているのか分かりませんが、とにかく彼のお気に入りは27でした。生まれ年が1927年だったからです。127というと27が入っていることはもちろん、1927から9を抜いた数ですし、9は2と7の和にもなっています。1927と127の両端の数を選ぶと、17というイタリアの忌み数になりますが、ドナトーニが最後にニグアルダ病院に入院したとき、ベッドが17番で縁起が悪い、変えてもらおうと言っている間に、さっさと8月17日に亡くなってしまい、電話をもらってニグアルダの地下の一階の霊安室に駆けつけると、小さな霊安室は17番で、びっくりしましたものです。そういった数遊びや冗談がとても好きな人でしたから、127と見て、ああまたか、と思ったわけです。ロシアのホテルの食堂でも、ドナトーニの数遊びの話しになり、何気なく彼女の年齢を尋ねると27歳でした。
ドナトーニが1980年に書いた「経緯X」の中にある「数」という項を少し訳出することにしました。

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7月X日19:00クラスノヤルスク・ホテル
クラスノヤルスクの隣町レソシベリスクまで昨晩の演奏会に出かけた。確かに隣町だが250キロ離れていて、バスで4時間かかる。バスはパトカーに先導されて走る。一台でも車とあればメガホンで退くよう大声で命令するので、救急車か消防車にでも乗っている気分だ。数軒ぽつねんと軒を並べる村を通過すると、乳牛の一団が道路を占拠していた。パトカーはやはり牛にどくように叫んでいるが、なかなか動かない。尤も、人影のないタイガを4時間走り続けて、パトカーの頼もしさを痛感。日本の45倍の国土を治めるのだから、当然違うアプローチが必要になる。レソシベリスクの会場に入る折、ロシアのしきたりに従って、民族衣装に身を包んだ男女から差し出されたケーキ状のパンを千切り、てっぺんの塩をつけて口に運んだ。
時代を感じさせる木造の大ホールは満員御礼。ロシアの観客はとてもあたたかい。木材が豊富だからか、イタリアでは見られない木造の建造物がとても多い。猛烈な寒さには石造りの方が暖かそうだが、案外違うのかもしれない。
帰りの道すがら、バスは数軒ある喫茶店の一つでしばし休憩。コーヒーを飲もうとカウンターに並ぶと、飛んできた通訳I嬢に、危険なので食べ物を買わないよう注意され、続いてコーディネーターのJからも、衛生状態が悪いので気をつけるように言われる。カウンターには、さまざまなケーキがトレーに載せて並べてあり、レジ横には昔、乾物屋に吊ってあったような、赤茶けた魚の干物が数本。エスプレッソマシーンで淹れたコーヒーを一杯飲むだけだと説明すると、それなら一番安全と笑った。傍らに並んでいたオーケストラの団員たちも、揃ってここの食べ物は危険だと注意してくれる。勿論彼らも、食べ物には一切手をつけない。


7月X日15:00クラスノヤルスクホテル
リハーサルと本番の合間。ホテルのベッドに寝転がって、ドナトーニの資料を読む。辺りのコンビナートのせいか、光化学スモッグが酷く空は白く霞んでいる。何れにせよ、一人で外を歩くことは許されていない。
...彼がボローニャ音楽院で作曲のディプロマをとり、かねてから憧れていたぺトラッシに会うためローマへ出かけた。
最初ぺトラッシは「まず僕の話からしよう」と言って、小麦やぶどうが満載の荷車で田舎からローマへ出てきた話や、教会で合唱隊をしていた話、音楽関係の専門店で働きながら暮らした話などをして場を和ませてから、「では、何か聴かせてください」とドナトーニに水を向けた。ドナトーニが書き上げたばかりのぺトラッシ風「オーケストラのための協奏曲」を暗譜でピアノを弾いてきかせると、1楽章が終わったところでぺトラッシはドナトーニを遮った。「わかりました。あなたはこのぺトラッシズムから遠ざからなければいけませんね」と言って卓上のスイス葉巻を勧め、話は続いた。
「僕が作曲を続ける価値はあるでしょうか」と青年ドナトーニが尋ねると、ぺトラッシは「その価値はあると思います」と答えたことが、ドナトーニの背中を押すことになった。
「サンタ・チェチリアのアカデミーに登録されてはどうでしょう。ピッツェッティのクラスは興味を引かないかもしれないけれど、奨学金が貰えるはずです。それであなたはローマに住むことができますし、いつでもあなたが望むときにわたしに会えますから」。
その言葉通り、ドナトーニはサンタ・チェチリアに入学し、ローマに住んだ。足繁くぺトラッシのもとを訪れては、長い時間を共に過ごした。このときのぺトラッシの青年作曲家への優しさは、作曲教師となったドナトーニにそのまま受け継がれることになる。


7月X日12:00成田エクスプレス
昨日の朝、通訳D嬢が連れていってくれた民俗博物館が実に面白かった。ネネツ人、ドルガン人、ヌガナサン人、ハカス人など、クラスノヤルスクに近い地方の少数民族の風俗を紹介しているのだが、深い雪用にすっぽり被る形の衣服や、雪の反射から目を守るための木製のサングラスなど、見ていてどこもまったく飽きない。日本人の起源はバイカル湖畔のブリヤート人という説もあるそうで、親近感すら覚えた。ロシア各地に残る民族音楽や民族舞踊も、衣装の色柄、ゆったりとした舞など、雅楽や神楽の立ち振る舞いをしばしば思い出させ、アジアの懐の広さと深さを想う。
オーボエの2番奏者がモンゴル人に似た顔立ちだったので、聞くとトゥバの出身だそうだ。フェスティバルにはトゥバ共和国の伝統音楽や民族舞踊団もきていて、ホールの楽屋で民族衣装の彼らと談笑している姿が印象に残る。楽屋のドア脇の廊下で、横笛の調律を直して、ホーミーの倍音にあわせて馬頭琴をチューニングしていた。
通訳のD嬢に、ああいう少数民族を見るとどんな印象を持つかと尋ねると、「アジア人だとおもいます」。D嬢自身エキゾチックな顔立ちで、聞くと父親はウズベク人で母親はモスクワ生まれのロシア人だそうだが、ウズベキスタンには何の親近感も湧かないという。ボーイフレンドは朝鮮族で、キムチは好きだがロシア人のアイデンティティしかないそうだ。ウズベク語も朝鮮語も話さない。
その彼と7月末に日本を初めて訪れる予定で、「たこ焼き」と「温泉」、「ディズニーランド」と「東京タワー」を楽しみにしていた。シベリア大日本語科のロシア人の先生から、日本に「こんにゃく」という不思議な食べ物があると聞き、興味津々。メドジェべフの北方領土訪問については、なにも知らない。


7月X日22:00自宅にて
原稿書きのためIn Caudaの分析。
In Cauda I のスコアを読みII, IIIの素材とした部分を探し出し、どのような作業が介在したのかを曲ごとの方向性が見えるまで比較と検討を繰り返す。
ドナトーニが素材として使用した「In Cauda I」第3部のブランドリーノ・ブランドリーニのテキストは、イタリア語のなかに、ラテン語と英語が雑じる。

III

ちょっと   ふざけて
愛で     彼女を愛すよ
誘き寄せて  行キハヨイヨイ 必要ナノカ?

うお座の   懐疑
黄道帯の   反響言語
沈黙の    連続

用済みの   一羽の雄鶏が
説明する   喉って
声ダゼ    行キハヨイヨイ!


誘惑された   必要ナンダ    餌を-必要ナンダ-ネコガ-餌を-必要ナンダ-ネコガ-餌を
尾ッポハ    彗星       目標を-尾ッポハ-くれる-目標を-尾ッポハ-くれる-目標を-尾ッポハ

あの娘は    彗星の尾     でも-だれ-お前は愛す-でも-俺-だれ-お前は愛す-でも-俺
だん だん   消えつつ     お前-歯-消えて-お前-歯-消えて-お前-歯
宇宙に     いけ ゆけ    向かって-いけ-ゆけ-向かって-いけ-ゆけ-向かって-いけ
エピファニー  ゆけ いけ    ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ


「Duo pour Bruno」を作曲した頃のドナトーニ自身の回想を読む。
「探究心の欠如が意味するものは、作曲をやめるべきというサインだった。それくらい僕の鬱はどうしようもないところまで行っていた。3月のある日、音楽院に出かける道すがらサンドロ・ゴルリに出会い、彼に外から見ても僕の鬱が分かるかと尋ねてみた。鬱が最終段階に入ると外見にまで変化を来たすからね。少し戸惑いながらサンドロは分かると答えてくれた。だから僕は医者の友人に電話をして、病院に部屋を用意してもらった。発作は1967年僕が40歳の頃から始まっていた。1972年僕はベルリンにいたがとても孤独で辛かった。だからイタリアに戻ると妻の助言に従い神経科へ出かけた。医者は僕にパルモダリンという薬を与えてくれたが、お陰ですっかり薬の依存症に陥っていたことにずっと後で気づいた。薬のお陰で物凄く作曲をする元気が湧いたのだけれども、その薬は僕の人格までも変えてしまい、結局長い結婚生活で築いた、夫としてのささやかな評価すら失墜させられてしまった。当時は女と見れば追いかけ廻していたわけだ。しかし73年母親が死んで僕はまた鬱に逆戻りしてしまった。前よりも酷く、どんどん酷くなリ続ける欝だった」。
これを読むと、前妻スージーと2人の息子、ドナトーニの恋人マリゼルラが、互いに葛藤はありつつも、最後は家族のように親しく交わっていたのかが、少しわかる気がする。


7月X日12:50ヴェローナ駅構内
原稿を書き終え、ヴェローナの記念墓地まで12年ぶりにドナトーニの墓参りにきた。何度も来ようと思いながら、一人では来られないだろうと諦めていたが、実際に来てみれば駅からも思いのほか近く事務所の女性も親切で、すぐに場所を印刷してくれた。地図に従って、入口から足を踏み入れ、四方をパンテオンで囲まれた比較的小さな墓地群を突っ切ると、向かいのパンテオンの礼拝堂から人が大勢出てきたので、きっと大層美しい教会に違いないと覗き込むと、どうやら故人を悼むミサをしていたようで、不謹慎なことをしてしまった。
左脇の木扉から外に出て、別の門から入ると、そこは、明らかに富裕層とわかる、立派な墓が並び、何人もの庭師が故人の芝を刈ったり、家政婦らしい女性が個人の墓の窓みがきをしている。一つずつの墓が家とも礼拝堂ともつかぬ立派な造り。
それを横目にずっと奥まで歩を進めると、壁に横穴式に棺桶を入れていくスタイルの集合墓地群がある。12年前に来た時は出来たばかりで、随分空いていた覚えがあるが、今回はぎっしりとどこにも故人の写真が張られている。それどころか、場所が足りないのか、ほんの小さなスペースが確保された墓も新設されていて、火葬された故人用なのだろう。
集合墓地は1ブロックが横に7基、縦に6基整然と並んでいて、巨大な駅のロッカールームという印象を与える。床も墓石もすべて磨いた朱色の石で、一基ごとのスペースはとても小さく、花受けもないので、本物の花束が手向けられた墓は、この辺りはほとんど見かけなかった。
ドナトーニの墓は、その集合墓地の一番左奥から入ったそのまた左奥にあった。12年前のあやふやな記憶ではこれほど奥まった印象はなかったので、意外だったが、その左奥にあるブロックの真ん中の一等上段にドナトーニの顔写真が見えた。
近くにあった大掛かりな脚立を動かし、上まで花を手向けに昇ると、目の前に墓石があった。花もロウソク状の飾りもなかったが、誰が作ったのか彼の作品名をちりばめた詩が刻まれていた。そこに墓地の入口で買った小さな花束を何とか引っ掛け、挨拶替わりに何度か墓石をなでてから手をあわせ脚立を降りた。
ひんやりとした集合墓地は人影もほとんどなく、正午前の明るい日差しもいい具合に差し込んでいて、そっけなくひんやりしたニグアルダの霊安室をほんの少し、思い出させるものだった。


7月X日15:00自宅にて
幾ら見直しても納得できなかった「Prom」のテンポ表示の謎が漸く解ける。途中に2度同じ速度表示が無意味に繰返されており、全体の纏まりのなさがずっと喉もとに閊えていたが、「In Cauda II, III」を原曲と比較して分析したおかげで、ヒントがつかめるようになった。何が役に立つか分らないものだ。彼は速度表示を後で出版社に指定するつもりだったが、書き終える前に発作で倒れたため、それっきりになっていたに違いない。そして(自分を筆頭に)周りも本人も既に音符が書き上がっていた部分について何も疑うことなく完成させてしまったのが原因だった。ただ素材を丹念に見直してゆけば、どの速度表示がどの部分に相当すべきか分かるようになり、作品にメリハリがついて活きてきた。
今まで教えてきたクラシック部門ではなく、現代音楽部門の長から呼び出されて学校に出かけると、今やっている耳の訓練の他に作曲科生のために指揮の基礎を教えてやってほしいという。旧知の学長の粋な計らいとすぐに分かった。クラシック部門では、市との契約上の厄介と人間関係のシガラミが複雑に絡んで今以上の仕事を頼めないが、とにかく踏ん張って居残ってくれと去年から頼まれていたのはお世辞ではなかった。こういう友人のお陰で、イタリアで今まで生きて来られたのだと改めて感謝している。


7月X日16:00自宅にて
「Esa」譜読み。明らかにオリジナルの素材を貼り間違えた場所があって、直すべきか随分悩む。間違いにも後天的に理由付けが可能だというドナトーニのスタンスを知っているので足が踏み出せない。多かれ少なかれ誰においても言語は、そうした小さないい間違えと、無意識的、意識的なこじつけの連鎖によって成立する。思いがけず出てきた言葉に合わせ、次の単語を無意識に選択し、構文を選択していきながら、韻を踏むなり、外すなりし、言葉が一つの形態を次第に整えられていく。ごく当たり前のことだ。
閑話休題。少なくとも今回の貼り間違えに関しては、いくら探しても何らメリットも見出せないので訂正することに決め、補足としてオーケストラへ送るメモに書き足した。
この万華鏡のような音楽は何だろう。素材が元来持っている方向性、重力を否定し、一つ一つをコンテキストから取外して組立てると、そこに後天的な意味すら充分に見出されるのである。
繰り返しが描き出す模様が次第に減って、「In Cauda I」でブランドリーノ・ブランドリーニが書いたテキストのように、宇宙へ全ての素材が解き放され漂うようにもみえる。
ケージとの出会いで生まれた偶然性、古典的な作曲に回帰しながら自己の介在を否定した自動書記、自動書記に纏わる誤りにおける後天性の理由付け、それらは最終的に「Esa」において素材のシャッフルという形に帰結する。全てはドナトーニの肉体から引きはがされたドナトーニが操作した結果だ。ペッソアのように自分があって、自分であって、自分ではなく、自分はない。


「どうも誤解があるようだ。なぜならわれわれの言葉は正確ではないからね。感情と魂は何ら関わりがないのさ。感情はうつくしい魂を作りあげる自意識過剰のブルジョアのセンチメンタリズムが作りあげるもので、抽象化された理念はその自意識過剰の自我とは無関係なんだ。この死んだものが、感情なんだ。この死んだものが、主観なんだ。心理学的な意味にいおいて自我はもちろん死んではいない。われわれの内側で何時でも息づいているからね。でも主観なんてものは、今日もはや何も信じることは出来ない。主題(テーマ)はもはや存在しない。ただ、われわれの内面に無意識に動きまわる感覚というものがあって、その感覚こそが我々のその他の感覚をみちびいている。ぼくは作品を書くとき、無意識で自覚もない、この感覚の仲介役になっているわけさ。では無意識とは何だろう。それは意識的には望まれていないこと。それはまだ合理的ではないこと。だから表明された感情なんていうのは、死んだんだ。たとえば愛情をつき動かすにせよ、この意味において、もはやレゾンデートルすら存在しない。なぜなら、二人の関係は感覚によって結ばれるものでも、感情によって結ばれるものでも、愛情によって結ばれるものでもなく、物質によって結ばれるものだからさ。現在、興味があるのは、書くことではないんだ。なぜなら書くことによって存在を、イデオロギーを、さもなければ革命を、伝えなければならないからだ。書くことは個人的な鍛錬であって、自らに改革を起こすべく、自分自身を見出すことなんだ。自らの内面に向かわない限り、何ら向上は望めないというウェーベルンの言葉を思い出せば充分だろう」。(フランコ・ドナトーニ1982)