2012年8月号 目次

翠の数式94――終わりは来るか藤井貞和
ラマダンにはいいことをしよう さとうまき
早く夏終われ仲宗根浩
気まぐれ飛行船(2)若松恵子
しもた屋之噺 (127)杉山洋一
オトメンと指を差されて(50)大久保ゆう
オチャノミズ(その3)スラチャイ・ジャンティマトン
犬狼詩集管啓次郎
犬の名を呼ぶ(3)植松眞人
アジアのごはん(48)口の中の金属森下ヒバリ
学会と観光冨岡三智
おみなえし大野晋
夕刻を馳せる璃葉
まのじ庵笹久保伸
掠れ書き21高橋悠治

翠の数式94――終わりは来るか

括弧はちいさいが
正確な一語を容れる

括弧のなかは正確
正確な日本語によって

無理数
対数計算

輪を包囲する
くうかんの「虚」に投げいれる

ついに
数値が終わる日の

せめて前夜なりとも
好きな人といっしょにいましょう

文末を正確にね
最終の句読点


(「石牟礼道子さんの『苦海浄土』を事故後に読み直して、自分もああ言ったきちっとした正確な日本語で表現できたらいいなということを考えています」〈若松丈太郎〉。「できれば福島原発の『苦海浄土』を書きたいなと。できれば、ですけど」〈同、日本経済新聞〉。終わる日の前夜は好きな人と一緒に、と小出裕章さん。誰もが死を覚悟した瞬間、と前福島県議会議員高橋秀樹。)


ラマダンにはいいことをしよう 

いつの間にか、月が欠けて、見えなくなるとラマダンが始まった。

日中、空腹を感じ、貧しい人のことに思いを馳せ、日が落ちると一気にご馳走を食らう。ここ数日、ホテルでラマダン明けの食事を取ったが、これがまた半端じゃない量だ。僕は、イスラム教徒ではないから断食はしないけど、ここヨルダンでは、レストランはほぼ全部しまっていて日中は食べるチャンスをなくし、なんとなく断食ぽい生活をエンジョイしている。

さてさて、空腹に耐え、貧しい人のことを考えた暁には何かいいことをしなければいけないのだ。そこで、羊を買って、シリア難民に振舞うことにした。難民支援で集まったお金で生きた羊を1頭買ってあげようということになり、シリア人のバシールに車を出してもらって郊外の羊市場を探した。バシール君は、ホムスから逃げてきて自身も難民だが、他の難民たちの面倒をよく見ている。

しかし、かみさんが最近切れたそうだ。出歩いてばかりいて、自分の家にはほとんどお金もたまらない。人助けもほどほどにしなさい!と離婚を迫られているという。近所に住んでいるヨルダン人のハッジが何とか説得したが、宗教裁判所に行ったりしているみたいで、大変なようだ。

そんな愚痴を聞きながら、車は、郊外の、資材置き場というが、ゴミ捨て場のようなところにやってきた。見るからにやばいものが取引されているような場所。商談が成立しないと、ずどんとやられて、そのまま、遺体は干からびて犬にでも食われそうな場所だ。こんなところの羊はまずそうなので、バシールを促して、もっと砂漠の奥深くへいくことに。

なんでもエジプト人がやっている羊屋さんがあり、この地方では見かけないオーストラリア産の羊も輸入して売っている。毛並みもよくて上品な顔している。やっぱりここは地産地消だ。ヨルダンの羊を注文すると、いつものちょっと下品な羊が出てきた。子羊は、僕はどうも苦手。はやり、十分人生を楽しんだ後のじいさんがいい。

で、ちょっと大き目の羊を選んだ。はかりにのせられるとメーメーと泣き出した。自分の運命を知ってのことなのだろう。体重は丁度50キロで360ドル。早速手足を縛って車のトランクに入れて持ち帰りだ。途中何度も、暴れる音が聞こえた。なんだか、かわいそうになってきた。一体、自分はいいことをしているのだろうか? 羊にとっては、とんでもないやつに違いない。第一手足を縛って車のトランクにいれて、最後は、ナイフで頸をきる。これって、イラクやシリアではびこっているテロリストがやっていることじゃないのか? そこで、僕の正義感がわいてきて、いっそ逃がしてやろうかともおもうが、所詮、誰かに食べられる運命なのだ。ならば、強欲な金持ちに食われ、食い残されたりするよりは、羊とて、貧しいシリア難民に骨の隋までしゃぶってもらいたいだろう。

そうこうしているうちに、屠殺場についた。こちらでは、たいてい肉屋が屠殺場になっている。羊を持ち込むと、1000円くらいで解体してくれる。あっという間に頚動脈を切り、血がどくどくと流れ出る。見事なものだ。見た目は残酷そうでも、苦しむ事はほとんどない。皮をはいで、内臓を取り出して、肉片にわけて。。あっという間でもなかったが、手際よく作業は進み、ビニールに入れて13家族分に分けた。羊が犠牲になり、シリア難民の命をつなぐ。まさに、「頂きます」の言葉の重みを実感した。
 
難民支援募金はこちらから http://kuroyon.exblog.jp/


早く夏終われ

休みなのでいつものようにおやつの時間から飲む。外は台風が少し近くなったので風が強い。

六月から週四日、朝から昼過ぎまで別の仕事を始め、そこが七月繁忙期に入り休日出勤二回ばかり。そしたらあっと言う間に月末。がんばれをやたら煽るオリンピックが始まってもそんなに興味なく、働くおじさんに徹する。

聴けずにたまっていた一週間分のポッドキャストをまとめて聴く。兄が送ってくれた立川談志のDVD二十枚くらいは九月にならないとゆっくりと見る暇がないので、見たいというものにすぐ貸した。買ったばかりの最新リマスター、モノラル・ヴァージョン初CD化(こういう言葉についついのっかってしまう)のビーチ・ボーイズの初期三枚も封も開けぬまま。五月に来たシカゴの日本でのライヴ盤に収録されている「A Hit By Varese」という曲を聴いて、ヴァレーズのCDがあることを思い出し引っ張り出したたままでそころらへんに置きっぱなし、昔の「音楽芸術」にヴァレーズについて記事と年譜があったことを思い出し、本棚にあったものを引っ張り出したままこれも置きっぱなし。

最近、やたら家の上を飛ぶいろんな飛行機。もう少しするとあのオスプレイも加わるのか。じぶんちの上を飛ぶことがわかると、あちこちでみんな騒ぎはじめる。

近所の立ち飲み屋でビールを飲んでいると、町ぐるみの演劇フェスティバルがいつの間にか始まっているのを知る。だらだらと家で、早く涼しくなってくれ、と思いながら寝っころがっていたら眠ってしまい、起きたら夕飯をみんな食べ終わってた。


気まぐれ飛行船(2)

「柘植ディレクターは『きまぐれ』は音楽番組ですと断言した。」という言葉が1979年7月発行の『FM fan』のなかにある。79年6月30日に東京新宿のツバキハウスできまぐれ飛行船5周年を祝うパーティーが開かれた。その様子を伝える記事のなかの柘植有子さんの発言だ。

この記事を見ながら、「きまぐれ飛行船について、音楽番組ですか? トーク番組ですか? とよく聞かれましたけれど、音楽番組として作っているからという気持ちがいつもあった。」と柘植さんは話してくれた。「インタビュアーに"トークばっかりの回もありますよね"と、つっこまれたりしたのだけれど、たとえ1曲しか掛けなかったとしても音楽番組なのだという気持ちだった。」という。

今は、ダウンロードすることで多様な音楽を手に入れることができるようになったけれど、かつて、聴きたい曲があって、レコードを手に入れることも出来なくてラジオにリクエストして掛けてもらって聴くという時代があった。ラジオが唯一音楽を届けてくれる魔法の箱だったのだ。

「片岡さんは、ラジオからエアチェックして自分の好きな曲だけを集めた特別のテープをつくるリスナーの気持ちが分かっていたから、イントロにかぶせて曲を紹介したり、途中でフェードアウトしたりすることが決して無かった。可能な限り、1曲をきちんと初めから終わりまで掛けた。」と柘植さんはいう。
オンエアのなかで、録音しやすいように、まず先にまとめて紹介して、曲を続けて掛けますと言って、レコード会社から苦情を受けたこともあったそうだ。「曲が終わった後、テープを止める間をとってから話し始めるので、放送事故にならない程度に編集で間を詰めたこともある」と笑いながら話してくれた。

番組で掛けた曲が順番に記載されているキューシートを柘植さんは長い間保管していたという。事務所を引っ越す時に残念ながら処分してしまったという事で、もう見ることは叶わないけれど、『FM fan』に載っているほんの一部の曲目を眺めるだけでも充分楽しい。ある回に掛った曲を探して、その並びで聴いてみるという遊びをいつかしてみたいと思う。

「たとえ1曲しか掛らなかったとしてもきまぐれ飛行船は音楽番組」という言葉は胸に響く。たしかに、この1曲が聴けただけでも満足。そういう曲と出会える番組だったのではないかと思う。ラジオというもの、音楽というものを両方深く理解している人たちがつくっていたことが、番組の魅力につながっていたのだと思う。

これは、大名曲ばかり掛ったということではなくて、例えば1978年11月27日の「蔵出しおもしろLP大会」で掛けたミセス・ミラーという人はイギリスの有名な大音痴おばさんで、オーケストラをバックに朗々と歌うはずれ具合が大爆笑だったというが、そういう奇妙な曲も掛る稀有な番組だったのだ。中華街で見つけてきたという美人歌手「李成愛」の特集をしたり、柘植さん持参のレコードにスクラッチが入っていて困った時に片岡さんは「スクラッチが入っていないのはつまらない」と言っていたという。

もちろんビートルズの1962年のオーディションテープを紹介したり、日本語でロックをやる人やレゲエをいち早く紹介するという正統のすごさもあった。
「番組を通して片岡さんに色々な音楽を教えてもらいました。LPのおもしろさを教えてくれたのも片岡さん。それまではヒット曲を集めたベスト盤を買っていたけれど、LPはアーティストが自分の音楽をどのように聴いてほしいかが表れていて、流れがあるから本来は全部最初から最後まで順番に聴くのがアーティストへの礼儀だということを教えてくれました。」と柘植さんは言う。番組の中でLPを1枚ずつ紹介するコーナーもあった。「スイート・ハーモニー」(マリア・マルダー)「欲望」(ボブ・ディラン)「MENTANPIN Ⅱ」(まんたんぴん)「島田祐子メルヘンをうたう」(島田祐子)「スマイル」(ローラ・ニーロ)...取り上げられたLPの題名を見ていくだけでもうれしい。

冒頭で触れた『FM fan』の記事に、片岡さんの言葉が紹介されている。
「いかにも"作っている"という感じの番組にはしたくない。自由な感覚で選曲し、話をしていく、そこからリスナーが感動とまではいかないが、ちょっと幸福な気分になってくれたら、それで最高です。いま、スタッフ全員で南の島にでも行き、そこで買ったレコーとその島の話題で番組を作る、そんな夢を抱いているんですよ」
夢の番組は実現されたのだろうか? 片岡さんがこんなことを想いながらマイクの前に座っていたというだけでも充分だけれど。


しもた屋之噺 (127)

この原稿を書くとき、まず原稿が何回目なのか「水牛」を開いて確認するのですが、今回は8月に演奏するドナトーニについて書くつもりが127回目と知って、少しばかり動揺したことを先に告白しておきます。ドナトーニは音楽の道に進む前に経理士の資格を取っていて、家が裕福ではなかったために自分でくいぶちを見つけられるようにと親から勧められたのだそうです。そうしてヴェローナの銀行にでもつとめながら、夜はアレーナのオーケストラでアルバイトでも出来ればよいと、親がヴァイオリンを習わせはじめたのが音楽との出会いでした。

ドナトーニの「数」への偏愛が経理の勉強と繋がっているのか分かりませんが、とにかく彼のお気に入りは27でした。生まれ年が1927年だったからです。127というと27が入っていることはもちろん、1927から9を抜いた数ですし、9は2と7の和にもなっています。1927と127の両端の数を選ぶと、17というイタリアの忌み数になりますが、ドナトーニが最後にニグアルダ病院に入院したとき、ベッドが17番で縁起が悪い、変えてもらおうと言っている間に、さっさと8月17日に亡くなってしまい、電話をもらってニグアルダの地下の一階の霊安室に駆けつけると、小さな霊安室は17番で、びっくりしましたものです。そういった数遊びや冗談がとても好きな人でしたから、127と見て、ああまたか、と思ったわけです。ロシアのホテルの食堂でも、ドナトーニの数遊びの話しになり、何気なく彼女の年齢を尋ねると27歳でした。
ドナトーニが1980年に書いた「経緯X」の中にある「数」という項を少し訳出することにしました。

---

7月X日19:00クラスノヤルスク・ホテル
クラスノヤルスクの隣町レソシベリスクまで昨晩の演奏会に出かけた。確かに隣町だが250キロ離れていて、バスで4時間かかる。バスはパトカーに先導されて走る。一台でも車とあればメガホンで退くよう大声で命令するので、救急車か消防車にでも乗っている気分だ。数軒ぽつねんと軒を並べる村を通過すると、乳牛の一団が道路を占拠していた。パトカーはやはり牛にどくように叫んでいるが、なかなか動かない。尤も、人影のないタイガを4時間走り続けて、パトカーの頼もしさを痛感。日本の45倍の国土を治めるのだから、当然違うアプローチが必要になる。レソシベリスクの会場に入る折、ロシアのしきたりに従って、民族衣装に身を包んだ男女から差し出されたケーキ状のパンを千切り、てっぺんの塩をつけて口に運んだ。
時代を感じさせる木造の大ホールは満員御礼。ロシアの観客はとてもあたたかい。木材が豊富だからか、イタリアでは見られない木造の建造物がとても多い。猛烈な寒さには石造りの方が暖かそうだが、案外違うのかもしれない。
帰りの道すがら、バスは数軒ある喫茶店の一つでしばし休憩。コーヒーを飲もうとカウンターに並ぶと、飛んできた通訳I嬢に、危険なので食べ物を買わないよう注意され、続いてコーディネーターのJからも、衛生状態が悪いので気をつけるように言われる。カウンターには、さまざまなケーキがトレーに載せて並べてあり、レジ横には昔、乾物屋に吊ってあったような、赤茶けた魚の干物が数本。エスプレッソマシーンで淹れたコーヒーを一杯飲むだけだと説明すると、それなら一番安全と笑った。傍らに並んでいたオーケストラの団員たちも、揃ってここの食べ物は危険だと注意してくれる。勿論彼らも、食べ物には一切手をつけない。


7月X日15:00クラスノヤルスクホテル
リハーサルと本番の合間。ホテルのベッドに寝転がって、ドナトーニの資料を読む。辺りのコンビナートのせいか、光化学スモッグが酷く空は白く霞んでいる。何れにせよ、一人で外を歩くことは許されていない。
...彼がボローニャ音楽院で作曲のディプロマをとり、かねてから憧れていたぺトラッシに会うためローマへ出かけた。
最初ぺトラッシは「まず僕の話からしよう」と言って、小麦やぶどうが満載の荷車で田舎からローマへ出てきた話や、教会で合唱隊をしていた話、音楽関係の専門店で働きながら暮らした話などをして場を和ませてから、「では、何か聴かせてください」とドナトーニに水を向けた。ドナトーニが書き上げたばかりのぺトラッシ風「オーケストラのための協奏曲」を暗譜でピアノを弾いてきかせると、1楽章が終わったところでぺトラッシはドナトーニを遮った。「わかりました。あなたはこのぺトラッシズムから遠ざからなければいけませんね」と言って卓上のスイス葉巻を勧め、話は続いた。
「僕が作曲を続ける価値はあるでしょうか」と青年ドナトーニが尋ねると、ぺトラッシは「その価値はあると思います」と答えたことが、ドナトーニの背中を押すことになった。
「サンタ・チェチリアのアカデミーに登録されてはどうでしょう。ピッツェッティのクラスは興味を引かないかもしれないけれど、奨学金が貰えるはずです。それであなたはローマに住むことができますし、いつでもあなたが望むときにわたしに会えますから」。
その言葉通り、ドナトーニはサンタ・チェチリアに入学し、ローマに住んだ。足繁くぺトラッシのもとを訪れては、長い時間を共に過ごした。このときのぺトラッシの青年作曲家への優しさは、作曲教師となったドナトーニにそのまま受け継がれることになる。


7月X日12:00成田エクスプレス
昨日の朝、通訳D嬢が連れていってくれた民俗博物館が実に面白かった。ネネツ人、ドルガン人、ヌガナサン人、ハカス人など、クラスノヤルスクに近い地方の少数民族の風俗を紹介しているのだが、深い雪用にすっぽり被る形の衣服や、雪の反射から目を守るための木製のサングラスなど、見ていてどこもまったく飽きない。日本人の起源はバイカル湖畔のブリヤート人という説もあるそうで、親近感すら覚えた。ロシア各地に残る民族音楽や民族舞踊も、衣装の色柄、ゆったりとした舞など、雅楽や神楽の立ち振る舞いをしばしば思い出させ、アジアの懐の広さと深さを想う。
オーボエの2番奏者がモンゴル人に似た顔立ちだったので、聞くとトゥバの出身だそうだ。フェスティバルにはトゥバ共和国の伝統音楽や民族舞踊団もきていて、ホールの楽屋で民族衣装の彼らと談笑している姿が印象に残る。楽屋のドア脇の廊下で、横笛の調律を直して、ホーミーの倍音にあわせて馬頭琴をチューニングしていた。
通訳のD嬢に、ああいう少数民族を見るとどんな印象を持つかと尋ねると、「アジア人だとおもいます」。D嬢自身エキゾチックな顔立ちで、聞くと父親はウズベク人で母親はモスクワ生まれのロシア人だそうだが、ウズベキスタンには何の親近感も湧かないという。ボーイフレンドは朝鮮族で、キムチは好きだがロシア人のアイデンティティしかないそうだ。ウズベク語も朝鮮語も話さない。
その彼と7月末に日本を初めて訪れる予定で、「たこ焼き」と「温泉」、「ディズニーランド」と「東京タワー」を楽しみにしていた。シベリア大日本語科のロシア人の先生から、日本に「こんにゃく」という不思議な食べ物があると聞き、興味津々。メドジェべフの北方領土訪問については、なにも知らない。


7月X日22:00自宅にて
原稿書きのためIn Caudaの分析。
In Cauda I のスコアを読みII, IIIの素材とした部分を探し出し、どのような作業が介在したのかを曲ごとの方向性が見えるまで比較と検討を繰り返す。
ドナトーニが素材として使用した「In Cauda I」第3部のブランドリーノ・ブランドリーニのテキストは、イタリア語のなかに、ラテン語と英語が雑じる。

III

ちょっと   ふざけて
愛で     彼女を愛すよ
誘き寄せて  行キハヨイヨイ 必要ナノカ?

うお座の   懐疑
黄道帯の   反響言語
沈黙の    連続

用済みの   一羽の雄鶏が
説明する   喉って
声ダゼ    行キハヨイヨイ!


誘惑された   必要ナンダ    餌を-必要ナンダ-ネコガ-餌を-必要ナンダ-ネコガ-餌を
尾ッポハ    彗星       目標を-尾ッポハ-くれる-目標を-尾ッポハ-くれる-目標を-尾ッポハ

あの娘は    彗星の尾     でも-だれ-お前は愛す-でも-俺-だれ-お前は愛す-でも-俺
だん だん   消えつつ     お前-歯-消えて-お前-歯-消えて-お前-歯
宇宙に     いけ ゆけ    向かって-いけ-ゆけ-向かって-いけ-ゆけ-向かって-いけ
エピファニー  ゆけ いけ    ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ-ゆけ-いけ


「Duo pour Bruno」を作曲した頃のドナトーニ自身の回想を読む。
「探究心の欠如が意味するものは、作曲をやめるべきというサインだった。それくらい僕の鬱はどうしようもないところまで行っていた。3月のある日、音楽院に出かける道すがらサンドロ・ゴルリに出会い、彼に外から見ても僕の鬱が分かるかと尋ねてみた。鬱が最終段階に入ると外見にまで変化を来たすからね。少し戸惑いながらサンドロは分かると答えてくれた。だから僕は医者の友人に電話をして、病院に部屋を用意してもらった。発作は1967年僕が40歳の頃から始まっていた。1972年僕はベルリンにいたがとても孤独で辛かった。だからイタリアに戻ると妻の助言に従い神経科へ出かけた。医者は僕にパルモダリンという薬を与えてくれたが、お陰ですっかり薬の依存症に陥っていたことにずっと後で気づいた。薬のお陰で物凄く作曲をする元気が湧いたのだけれども、その薬は僕の人格までも変えてしまい、結局長い結婚生活で築いた、夫としてのささやかな評価すら失墜させられてしまった。当時は女と見れば追いかけ廻していたわけだ。しかし73年母親が死んで僕はまた鬱に逆戻りしてしまった。前よりも酷く、どんどん酷くなリ続ける欝だった」。
これを読むと、前妻スージーと2人の息子、ドナトーニの恋人マリゼルラが、互いに葛藤はありつつも、最後は家族のように親しく交わっていたのかが、少しわかる気がする。


7月X日12:50ヴェローナ駅構内
原稿を書き終え、ヴェローナの記念墓地まで12年ぶりにドナトーニの墓参りにきた。何度も来ようと思いながら、一人では来られないだろうと諦めていたが、実際に来てみれば駅からも思いのほか近く事務所の女性も親切で、すぐに場所を印刷してくれた。地図に従って、入口から足を踏み入れ、四方をパンテオンで囲まれた比較的小さな墓地群を突っ切ると、向かいのパンテオンの礼拝堂から人が大勢出てきたので、きっと大層美しい教会に違いないと覗き込むと、どうやら故人を悼むミサをしていたようで、不謹慎なことをしてしまった。
左脇の木扉から外に出て、別の門から入ると、そこは、明らかに富裕層とわかる、立派な墓が並び、何人もの庭師が故人の芝を刈ったり、家政婦らしい女性が個人の墓の窓みがきをしている。一つずつの墓が家とも礼拝堂ともつかぬ立派な造り。
それを横目にずっと奥まで歩を進めると、壁に横穴式に棺桶を入れていくスタイルの集合墓地群がある。12年前に来た時は出来たばかりで、随分空いていた覚えがあるが、今回はぎっしりとどこにも故人の写真が張られている。それどころか、場所が足りないのか、ほんの小さなスペースが確保された墓も新設されていて、火葬された故人用なのだろう。
集合墓地は1ブロックが横に7基、縦に6基整然と並んでいて、巨大な駅のロッカールームという印象を与える。床も墓石もすべて磨いた朱色の石で、一基ごとのスペースはとても小さく、花受けもないので、本物の花束が手向けられた墓は、この辺りはほとんど見かけなかった。
ドナトーニの墓は、その集合墓地の一番左奥から入ったそのまた左奥にあった。12年前のあやふやな記憶ではこれほど奥まった印象はなかったので、意外だったが、その左奥にあるブロックの真ん中の一等上段にドナトーニの顔写真が見えた。
近くにあった大掛かりな脚立を動かし、上まで花を手向けに昇ると、目の前に墓石があった。花もロウソク状の飾りもなかったが、誰が作ったのか彼の作品名をちりばめた詩が刻まれていた。そこに墓地の入口で買った小さな花束を何とか引っ掛け、挨拶替わりに何度か墓石をなでてから手をあわせ脚立を降りた。
ひんやりとした集合墓地は人影もほとんどなく、正午前の明るい日差しもいい具合に差し込んでいて、そっけなくひんやりしたニグアルダの霊安室をほんの少し、思い出させるものだった。


7月X日15:00自宅にて
幾ら見直しても納得できなかった「Prom」のテンポ表示の謎が漸く解ける。途中に2度同じ速度表示が無意味に繰返されており、全体の纏まりのなさがずっと喉もとに閊えていたが、「In Cauda II, III」を原曲と比較して分析したおかげで、ヒントがつかめるようになった。何が役に立つか分らないものだ。彼は速度表示を後で出版社に指定するつもりだったが、書き終える前に発作で倒れたため、それっきりになっていたに違いない。そして(自分を筆頭に)周りも本人も既に音符が書き上がっていた部分について何も疑うことなく完成させてしまったのが原因だった。ただ素材を丹念に見直してゆけば、どの速度表示がどの部分に相当すべきか分かるようになり、作品にメリハリがついて活きてきた。
今まで教えてきたクラシック部門ではなく、現代音楽部門の長から呼び出されて学校に出かけると、今やっている耳の訓練の他に作曲科生のために指揮の基礎を教えてやってほしいという。旧知の学長の粋な計らいとすぐに分かった。クラシック部門では、市との契約上の厄介と人間関係のシガラミが複雑に絡んで今以上の仕事を頼めないが、とにかく踏ん張って居残ってくれと去年から頼まれていたのはお世辞ではなかった。こういう友人のお陰で、イタリアで今まで生きて来られたのだと改めて感謝している。


7月X日16:00自宅にて
「Esa」譜読み。明らかにオリジナルの素材を貼り間違えた場所があって、直すべきか随分悩む。間違いにも後天的に理由付けが可能だというドナトーニのスタンスを知っているので足が踏み出せない。多かれ少なかれ誰においても言語は、そうした小さないい間違えと、無意識的、意識的なこじつけの連鎖によって成立する。思いがけず出てきた言葉に合わせ、次の単語を無意識に選択し、構文を選択していきながら、韻を踏むなり、外すなりし、言葉が一つの形態を次第に整えられていく。ごく当たり前のことだ。
閑話休題。少なくとも今回の貼り間違えに関しては、いくら探しても何らメリットも見出せないので訂正することに決め、補足としてオーケストラへ送るメモに書き足した。
この万華鏡のような音楽は何だろう。素材が元来持っている方向性、重力を否定し、一つ一つをコンテキストから取外して組立てると、そこに後天的な意味すら充分に見出されるのである。
繰り返しが描き出す模様が次第に減って、「In Cauda I」でブランドリーノ・ブランドリーニが書いたテキストのように、宇宙へ全ての素材が解き放され漂うようにもみえる。
ケージとの出会いで生まれた偶然性、古典的な作曲に回帰しながら自己の介在を否定した自動書記、自動書記に纏わる誤りにおける後天性の理由付け、それらは最終的に「Esa」において素材のシャッフルという形に帰結する。全てはドナトーニの肉体から引きはがされたドナトーニが操作した結果だ。ペッソアのように自分があって、自分であって、自分ではなく、自分はない。


「どうも誤解があるようだ。なぜならわれわれの言葉は正確ではないからね。感情と魂は何ら関わりがないのさ。感情はうつくしい魂を作りあげる自意識過剰のブルジョアのセンチメンタリズムが作りあげるもので、抽象化された理念はその自意識過剰の自我とは無関係なんだ。この死んだものが、感情なんだ。この死んだものが、主観なんだ。心理学的な意味にいおいて自我はもちろん死んではいない。われわれの内側で何時でも息づいているからね。でも主観なんてものは、今日もはや何も信じることは出来ない。主題(テーマ)はもはや存在しない。ただ、われわれの内面に無意識に動きまわる感覚というものがあって、その感覚こそが我々のその他の感覚をみちびいている。ぼくは作品を書くとき、無意識で自覚もない、この感覚の仲介役になっているわけさ。では無意識とは何だろう。それは意識的には望まれていないこと。それはまだ合理的ではないこと。だから表明された感情なんていうのは、死んだんだ。たとえば愛情をつき動かすにせよ、この意味において、もはやレゾンデートルすら存在しない。なぜなら、二人の関係は感覚によって結ばれるものでも、感情によって結ばれるものでも、愛情によって結ばれるものでもなく、物質によって結ばれるものだからさ。現在、興味があるのは、書くことではないんだ。なぜなら書くことによって存在を、イデオロギーを、さもなければ革命を、伝えなければならないからだ。書くことは個人的な鍛錬であって、自らに改革を起こすべく、自分自身を見出すことなんだ。自らの内面に向かわない限り、何ら向上は望めないというウェーベルンの言葉を思い出せば充分だろう」。(フランコ・ドナトーニ1982)


オトメンと指を差されて(50)

みなさま、夏でございます。蒸し暑い日々が続いておりますが、こうなると何かしらひやりとするものが欲しくなって参りますよね。いつもならばオトメンらしく、そこで氷菓子やら冷スイーツなどなどをご紹介するところですが、いやいや怖い話、背筋の凍る怪談も捨てがたいわけなのです。

以前にホラーを見ると大笑いする、という私の奇癖についてお話したかもしれませんが、他人が(生命の大事に関わりない範囲で)怖がるというのも、これまたひとつの愉悦。おかげさまで恐怖小説の朗読のために訳稿を拵える仕事もしておりますが、では時折オリジナルのものを作るのかと聞かれることもございまして。しかしここが悩ましいのです。

なぜか私が怖いと思うものを人様にお話しすると、首をひねられるか、お笑いになるかで、ちっとも怖がってもらえないのです。えっ? 自分が怖いものを見聞きして笑うのだから、相手が吹き出しても何もおかしくないじゃないかって? いえいえ、そもそも私は、人様の恐れ怖がるものを〈勝手に〉笑っているだけであって、その恐ろしいものが本質的に笑えるものではないのです。ですから、〈怖いんじゃないかな〉と思うものは、やはりみなさんにとっても恐ろしいものであるはずなのです、よね?

たとえばひとつ例を挙げましょう。

あるところにひとりの大学生がおりました。その方は毎晩、夢枕に幽霊が立つもので、金縛りに合ってたいへんうなされておりました。あるとき、その学生は幽霊がいつも何かを呟いていることに気が付きました。耳を澄ませてみると、幽霊はこう言うのです。「見つからない、見つからない。」いったい何が見つからないんだろう、学生はこう感じて、ついに幽霊のことを調べることにしました。大家さんに聞いてみると幽霊の身元はすぐに判明しました。何でも何人か前の住人に翻訳家がおり、外出したときに車にはねられて死んでしまったと。化けて出そうなのはそいつしかいない、ということでしたが、結局何が見つからなかったのかはわかりません。「見つからない、見つからない。」学生は夜に現れた幽霊に思い切って聞いてみました。「何が見つからなかったんだい?」するとその翻訳家の幽霊は、悲しそうな顔をして、6文字のアルファベットを声に出して、ふっと消えたのです。むろん学生は早速その言葉を辞書で引いてみます。ところが、色んなサイズの、様々な言葉の辞書を引いてみましたが、そんな単語はいっさいないのです。また大家さんと話してみると、ああそういえば、とさらなる情報が入りました。そのときその翻訳家が訳していたある本の題名を教えてくれたのです。そこで学生は書店へ行って原書を買い、目を皿のようにして確かめたのですが、どうにも原書にもそんな単語はありません。結局何がどう見つからなかったんだろう、と思っていたのですが、ふと何となく大学の図書館から版の古い原書を借り出してみると......なんとその言葉がありまして......そうなんです、その翻訳家、原書の言葉がわからず考えあぐね、図書館へ調べものをしようと出かけたときに交通事故にあったのですが......その単語は、〈誤植〉だったのですッ!

ぎゃあああああああ。さらにさらにもうひとつ。

ある翻訳家がエッセイを訳しておりました。それは先頃自殺した作家の絶筆で、その訳者さんは長年その人の書き物を訳してきていて、ほとんど専属に近いといってもいい人でした。ですから相手の言いたいことや考えもわかって、いつもすらーっと訳せるんです。ところが、そのときは、不思議とある一節で止まってしまって。何てない文章なんです、文法も正しいし、意味もまあわかる、他の人からすれば普通の表現なんですが、その人はなぜだか引っかかって、言葉にならない、訳せない、というのも何と言うか、単語の選び方、これがいつもの相手じゃないんです。だから相手のヴォイスというか、声に乗ってこない、なってくれないわけです。おかしいな、おかしいな、何でなんだろう、うまく行かないな......とその訳者さんは思っていたのですが、そんなときいつもやることがありました。癖というかコツというか、原文を書き写すんです、いわゆる写経で、これが不思議なもので、わからない文章でも一字一句写しているうちにだんだんとわかってくるものでして。で、わかるまで様々な形で書きまして、そのままのときもあれば、文章をぐるぐる円状にしたり。そして、ふと何とはなしに一単語ずつ改行してみたんです......実は、その訳者さん、相手の作家とは面識があって、対談やプライヴェートで会ってて、もちろん訳すときの苦労や癖も話していまして......はっとしました。一つずつ縦に並べた単語の先頭のアルファベットをつなげて読んでみると...... タ ス ケ テ コ ロ サ レ ル!

ぎえええええええええ。

なんて恐ろしい。身体の震えが止まりませんよ。ひええええ。......あれ、......う〜ん、......どうやらやっぱり、怖さが伝わっていないみたいですね。なんでなんでしょう。

ん? んん? ......今気づいたことがあります。えっと、人様の怖いものが私は面白いんでしたよね。でしたら、もしかしたら私の面白いものこそ人様に怖いんであって、これみたく、私の怖いものはむしろ人様には失笑もの?

......あらあら。困ったものですねえ。(おしまい)


オチャノミズ(その3)

荘司和子訳

ギターを売る店はよく覚えていて、どの店も案内してもらわなくても行けるくらいだ。10年ほど前ギターを修理してもらったカワセという店などとくによくわかる。店主は相変わらず愛想がいい。ただ髪に白いものがふえたことと、動作に機敏さが衰えたことに時の流れを感じる。彼の方ではわたしが誰だか覚えていないに違いない。何百、何千という客がこの長い年月、日々入れ替わっていったことだろうから。

ショーケースの中には高価でまぶしいようなギターがいくつも並んでいた。正札の数字についているゼロの数は数えたことがない。最初の数字をぱっと見ただけで値段がわかるから。円というのは数えやすい通貨だ。何年も前から円はわれわれ貧乏人には垂涎の的だったのだが、世界中の投資家にとっては一層垂涎の的であろう。

「あれ見ろよ、100枚以上だぜ」わたしは友にささやく。とても自分の手に届くものではない。100枚どころか20枚ですら考えられない。枚が何かって、マン、つまり万札のことだ。

50年代のものかそれより古いギターはアメリカから買い占めてきたものだ。日本というのはこういうところだ。ギターだろうと古いジーンズであろうと、ほとんど全部を買ってきて、今ここで見ているようにショーケースに飾っている。

弦とボディとからは実に美しい音色が響く。ボディの木が硬いのはいいギターの証である。歳月がたつほど木はさらに乾燥してくるが、それがまたギターの価値であり値段でもあるのだ。

「あれはぼくとおない年くらいだな」わたしはユーゾーさんにつぶやく。
「ぼくはもう何年も見てるよ」と、彼は眼を輝かせてささやく。いつもの笑顔で。

朝10時に目覚ましをかけてここへやってきたのだ。できるだけ多くの時間をここで費やしたい。日本では、たった一ケ所に来るだけで1日が終わってしまう。

ギターを売る店は30軒以上ある。全部に入る必要はない。10軒ですら無理というものだ。いずれにせよ、あの高いギター、あれが自分のほしいものなのだ。でもそれを買う、という意味ではないが。けれどもそれが自分の欲求でありこころの奥底にある希求なのだから、今のこの状態は、欲求を刺激して全身から瞳に至るまでを湧き立たせているようなものである。

日本へ来るたびにわたしはこの街へ来ている。大して買うものがなくても何かしら買い物をする。少なくともギターの糸とか、ピックやカポタストとかを。アメリカのギターのほかに日本の古いギターでもいいものがあって捨てがたい。知っている限りでは初期の日本のギターはアメリカのものをコピーして作っているからだ。日本というのはまずコピーから始めて徐々に追い越し、ついには先頭に立っている、そういうところがある。


犬狼詩集

  73

つつじとポピーと蒲公英の共存が異様なほどはなやかな朝だった
タンポポがひたひたと水に浸る野原の夢をよく見る
心にいくつかのrefugeが必要だとは以前から提議されていた
鳥たちが大勢集まってくれたがその名も言葉も知らない
日没を迎えて西の稜線が星のようにくっきりした
創造が可能で創造が瞬間の中にあるなら今がそれかもしれない
砂浜にむかって砂が打ち寄せる海岸を乗組員たちはめざしていた
木造の小屋を中から突き破って樹木が孔雀のように羽をひろげる
瞬間と瞬間が断絶してそのすきまで何かが生まれるらしかった
砂にむかって砂よ上陸せよ砂のための城砦を自己実現してごらん
詩はreminderでありいつも何かを思い出させていた
日本語の構文が少しずつまちがった英単語を海綿のように吸収している
母になりすますとき私は普段とは別のアクセントで話していた
いつもあちこちの路上の言語を適当に組み合わせて使っている
かれらの大きな問題はこのあたりの地名を知らないことだった
何もないと見なしていい地点だって実在と意味とオゾンで充満している


  74

「見せかけの自伝」という題名のラテン語訳をラテン語教師に相談した
黄砂が降りそそぐ街角で道路は勝手に波動する
鉄道の遅れはロバが線路を歩いていたせいだった
セント=キルダの砂浜ではアザラシに犬が吠えている
海進はさほど昔のことではなく水はここまで来ていた
小島だった小高い丘にかりそめの祭壇を作る
名前を概念化し表情を図案化した
花粉の団子を与えて抵抗力をつけさせている
花を欠くとき花柄のシャツを着て花の季節を追悼した
タロとヤムとコンニャクイモの区別を地元の中学生に教わっている
指をそのまま彫り出して指環に見せる技が開発された
どうしよう足が痛くて今日はもう歩けない
3ピースの少女ロックバンドが驚くべきデビューを果たした
花粉を床にしいて黄色い光を部屋に充満させる
同期を失ったテレビにときどき過去が映っていた
木製のはきものの花緒は白黒紅の三色で染められている


  75

ミントが香る小路に逃げこむようにして曲がった
衰弱した巨大なマスチフが寝たまま尾を振っている
幾何学的にはこの都市の地形はいくつかの円錐体だった
道標のようにコーヒー豆を落としながら進む小学生がいる
光の髭に包まれた篤学の長老たちだった
朝をライムのようにスライスして窓ガラスに貼りつける
午前七時にモーリタニア人とスペイン語で挨拶を交わした
十分な上昇気流がなくて砂埃が舞い立たない
メスキートの藪からたぶん鶉が飛び出した
鉛筆を削るためにきみと物置小屋に入る
このシャツを最後に着たのは二〇〇二年夏至のパリだった
ある名は何度も口にされ、ある名はけっしてされない
"A perplexing question" と円卓が突然にしゃべりだした
ヘブライ人の問いには輝くてんとう虫を対置する
この店の裏に鹿が来ることもあると女主人に聞かされた
掌の跡をそのままで崇拝の対象とする宗教があるようだ


  76

ポラロイドで身の回りのものを撮りコラージュを作っていた
心の崩壊と統合はつねに同時に起きている
コーヒーカップの赤が妙に鮮やかに見える朝だった
電車の窓ガラスにオレンジ色の口紅で女が長い線を引いてゆく
Over the rainbowという想像力が恐ろしくて震えたことがあった
神にフィルムはなく精霊にフォルムはなくかれらはすべてを忘れる
津波の動画を百一回くりかえし見たとき記憶の組成が変わった
つながりが見えない語と語の間に螢のような存在が住みつく
土地の「遠さ」を忘れることをみずからに禁じた
あの哲学者は州間高速道路でも方角を見失うらしい
未舗装の道を五時間走ってやっと村に着いた
教会の奥の祭壇から声が聞こえても絶対に見ないほうがいい
経験が見出した法則以外は空論にすぎないと先生に叱られた
雨が上がって二時間してやっと飛行が可能になる
虹の出現は予測可能だがそれでも虹を見ずにはいられなかった
悲しみを灰色と呼ぶのは間違いでいつも虹と希望の色をしている


  77

水溜まりの泥色の水面に古代と昨日が同時に見えたようだった
海の清浄に比べてなぜか沼にはいつも不安になる
自分に投錨地があるとしてそれは現代のうちに探すしかなかった
自然遷移で森林化するより早く虹の下まで逃げてゆく
クーガーマウンテン以前のおれなんておれですらなかった
皮膚を刻むことでかれらは自我を表面化する
燃えるスカラベを掌に載せて森のはずれに立っていた
スプーンからスープの表面へと稲妻がバチバチ飛ぶ
「十代終わったんだなあ」と早朝の路上で晴れやかに叫ぶ娘がいた
アサイの果汁の色のドレスをずっと探している
詩を救出するのはいつも動物の不意の出現だった
視野の端から端まで光が何度も往復する
台風がこれから通過する都市を一歩も出る気がなかった
巨大な藍色の瞳の奥で星たちがまたたいて見える
コップ半分以下の排気量であんなにスピードが出るなんてと驚いた
目を慣らす訓練が必要だがそれだって脳の問題だ


  78

Blade runner といっても刃の上を俊敏に走ってゆく人ではなかった
切断された脚の代わりに独特なばねを使って彼女は走る
ボルトとホイペットの競走では圧倒的に後者が速かった
蓮の葉をわたる競技では誰(どの動物)が勝つかを賭けてみる
鉄道員だった父親にベラクルス州のすべての駅名を教わった
標高と気分の関係を彼女はいつも正確にモニターしている
フラメンコを踊れなくて裸足でフォックストロットを踊った
肩越しに梅雨空とスカイツリーが見えてついクリスマスと破滅を考える
参会者たちがメビウスの環のスナップ写真を撮りまくっていた
アメリカ軍のヘリコプターが頭上を無音で通過する
韓国とペルーのコーラの味の違いを議論する人々がいた
すべてがメキシコに救われるときわれわれは死とも和解する
おれの仕事はひとつの場所に留まることで初めてなされると友人がいった
「火星人」が到着して「すばらしい、珍しい」と感嘆を隠さない
通信の不思議に私たちは心を燃焼させた
私の最終的な単語をWhy?として本日の挨拶を終える


犬の名を呼ぶ(3)

散歩に出かけようとして、ドアを開けた瞬間だった。ブリオッシュが駆けた。ずっと以前から、いつか逃げ出してやろうと虎視眈々と狙っていた、という感じではない。ただ、ドアの隙間が自分の通り抜lけられるぎりぎりの広さになった時にまるでスイッチが入ったかのように駆け出してしまった。そんなふうに、ブリオッシュは高原の目の前から消えた。

いつもなら、きちんとリードを付けて、スニーカーを履き、糞の始末をするための道具を入れた小さなショルダーバッグを持ってから、ドアを開けているのに。なぜ、今日に限って半年間も毎日行っている手順の通りにしなかったのだろう。

ブリオッシュが逃げ出したことよりも、そのことの方が気になり高原はしばらくの間立ち尽くしていた。天気が気になってドアを開けたのだったか、何かの物音を確かめようとしたのだったか。なんにせよ、いつもと違う手順のせいで高原はブリオッシュを見失っている。

すぐに後を追いかける気にもなれず、高原は玄関のあがりかまちに腰掛けて小さく息をついた。どこを探せばブリオッシュに会えるのだろう。とにかくいつもの散歩道をたどってみようと高原は思った。あれだけ大きな犬なのだから、すぐに見つかるはずだと思い、そのすぐ後から大きい犬が町をうろつく姿を思った。

この家に連れて来られた時には、まだ小さな子犬だったゴールデンレトリバーも半年ですっかり大きくなった。年々、体力の衰えを肌で感じている自分への当て付けかと思うほどに、すくすくという音が本当に聞こえそうなほどに、順調に育った。大きさだけなら、もう立派な成犬だ。しかし、その内にはまだ未成熟な甘えがあり、道行く見知らぬ人にも唐突にじゃれついたりすることがあった。そんな情景を思い浮かべた途端、高原は立ち上がった。世の中は犬が好きな人ばかりじゃない。そんな人にあんな大きな犬がじゃれついたら騒動が起こってしまう。もしかしたら、驚いて怪我でもさせたら大変だ。

高原はドアを開けて外に出た。いつもの散歩道をいつもよりも、ほんの少しだけ速く歩いた。歩き始めてすぐに、高原の息は切れた。息が切れて初めて、高原は、自分がブリオッシュの速さで毎日歩かされていたのだということに気付いて苦く笑う。

「うちはマンションだから飼えないんだけど、私も聡子もこの子が気に入っちゃって」
と、無責任きわまりない言い訳をしながら、まだヨタヨタとしか歩けないゴールデンレトリバーの仔犬を、娘がこの家に持ち込んだ日のことを高原は思い出していた。

金魚さえ飼ったことのない俺に犬なんて飼えるか!という一言が可愛い孫娘の前では出てこない。こちらが黙っているのをいいことに、娘は亭主への愚痴と、犬を飼うためのあれやこれや一式を残して、あっと言う間に帰っていった。可愛い孫娘は車の助手席の窓を開けて、「おじいちゃん、元気でね」とでも言うのかと思っていたら「ブリオッシュをいじめないでね」と念押しする始末。

「ブリオッシュ...」

高原はほとんど初めてブリオッシュの名前をまともに呼んでみた。それでも恥ずかしくて大きな声では呼べない。何度も何度も小さな声で「ブリオッシュ、ブリオッシュ」と繰り返しながら歩く。ブリオッシュとならすぐにたどり着くはずの小さな公園がやっと今頃になって目に入ってきた。少し小高くなった公園へのほんの数段しかない階段を、手すりをたぐるように上がる。一人で歩いてみて初めて、ここまでの道のりが案外遠かったのだと気付く。本当に小さな公園だがその真ん中に一人で立って見ると、いつもより広く感じられる。

公園には二人がけのベンチがぽつんと置いてあり、他には水飲み場があるだけだ。時折、ブリオッシュにここで水を飲ませたりしていた。そんなことを思いながら、高原は勢いよく水を出して顔を洗った。最初は生ぬるかった水が少し冷たくなり、それを口に含んでみる。濡れた顔を拭こうとポケットのハンカチを探すが見つからない。水滴が頬を伝う。高原はその水滴を払うために首を左右に振ってみた。まるで、ブリオッシュのように首を振ってみると、ほんの一瞬、犬の喜びのようなものを感じられた気がした。自分で起こした風が気持ちよかった。ブリオッシュになった気持ちで公園の真ん中で足を踏ん張り、これから行く道を見すえた。公園の向こうは二手に別れていて、いつも行く道が右側に伸びていく。もう一方の道は左へぐいっと逸れている。

高原は思った。きっと今日、ブリオッシュはいつもとは違う左側の道を選んだのだろう、と。そして、この道をたどりもう少しだけ歩けば、きっとブリオッシュがいて俺の方をすまなさそうな顔をして見ているのだろう、と。もし、本当にそうなったら、俺はその犬の名をいつもよりも大きな声で呼んでやろう。高原はそう思いながら公園を出て左側の道へと歩き出した。


アジアのごはん(48)口の中の金属

七月から新しい歯医者に通い始めたのだが、二回治療したところで、タイへ来るために休止中だ。この歯医者は、金属アレルギーに配慮してくれるところで、初日にさっそく、いちばん違和感を感じていた差し歯に近いような歯を外してもらった。

すると、すっきり気持ち晴れ晴れで、歯医者を出てから三軒も寄り道して買い物に走り、その後三日間はハイテンションで元気にあふれていたのである。二回目に差し歯の芯を樹脂にして仮歯を入れたとき、「前回はずしてどうだった?」と先生に聞かれ、「三日間すごく元気でした!」と答えると「三日だけか〜」と笑われた。

金属アレルギーがあるのではないかと、思い始めたのは長年はめていた銀の腕輪やピアスが気持ち悪くなった五年ぐらい前のことだが、歯の治療に使う金属のことまではあまり考えていなかった。

食物アレルギーは、乳製品とか大豆とかいろいろあるが、食品に含まれる金属によってもアレルギーが引き起こされるということも知って、どうもそちらの反応もあるかもしれないと疑いを持っていた。ナッツや豆の皮、胚芽などには金属が多い。

学生時代からたいへんな肩凝りで、これがなくなったら人生はどんなに素晴らしいかといつも思うほどなのだが、いろいろ体操をしても治らない。頸椎がゆがんでいるのかというと、そんなこともない。緊張する体質だからなのか。

首筋があまりに張るので、歯が悪いのが原因かと歯医者に通い、治療するが治らない。治療した歯も違和感いっぱいで、ぜんぶはずしたい(泣)。歯の金属の詰め物がよくはずれる。タイやラオスで主食のモチ米・カオニャオや固い肉など噛んでいると外れてしまうのだ。日本でそのころの歯医者の先生に「キャラメルとか食べちゃダメ」と怒られたが、いえ、モチ米なんです、と言っても通じない。

しかし、タイ人やラオス人が歯の詰め物をしょっちゅうはずすとは聞いたことがないし、わたしよりモチ米好きの友人も外している気配はない。もしや、モチ米が悪いのではなく、わたしの体が詰め物を拒否しているんじゃないのか?

そう思い始めたころ、バンコクでたまたまOリングテストに長けた友人と一緒にご飯を食べていたとき、がきっと口の中に違和感がしたと思ったら、また詰め物が外れた。Oリングテストは指で作った輪が開くかどうかで体の反応を見るテストで、たとえばある薬がその人に合っているかとかが分かる。

「これが体に合っているかどうか、チェックして〜!」たったいまはずれた詰め物を、店先で人目をはばからず友人にチェックしてもらうと、やはり合ってない。しかも首筋の凝りにかなり反応した。あ〜。

日本に帰って、金属アレルギーで検索してみると京都にもいろいろな歯医者があった。セラミック至上主義みたいなところも多い。セラミックも夢の素材ではないし、ふと思いついてOリングテストで検索すると、あるじゃないすか。Oリングテストで体に合う素材を探して治療してくれるという歯医者さんが。

だいたい医療保険のきく金属は体質に合わない以前に人体に有害な金属ばかりなのだという。金属アレルギーじゃなくても、体は苦しんでるわけだ。保険外ということは、つまり、かなり治療費はかかるかもしれないが、この口の中の違和感と肩凝りが治るなら、貯金をはたいてもいいです。

と、決心してその歯医者さんの住所と電話番号をメモし、ボードに張ったものの、とくに痛くもないのになかなか歯医者さんに電話する気にならない。歯医者は子どものころからずっと苦手だ。

来週、来月とのばしのばしにすること半年。近所の自然食喫茶を営む友人が、「すごい歯医者にこの間から行ってんねん、金属の芯の入った歯をはずしたら、もうすか〜〜っとしたわ」と満面の笑みでいう。もしや、その歯医者さんて・・。その日のうちに先延ばしにしていた予約の電話をかけた。ちなみにその友人も首筋の凝りは相当なものを抱えているが、金属アレルギーではありません。

というわけで、二回治療したところで、タイへ来るために治療はお休みなったわけだが、八月のバンコクの気温は33℃から35℃と、じつは日本よりちょっとだけ涼しい。雨季といっても基本はスコールで、一日降り続くタイプではないから、そんなに湿気もない・・はずだったのだが、バンコクに来てみると雨が多くて、湿度が高く、実際の気温より暑く感じるではないか。こんなはずじゃなかった。そう、夏のタイへの旅は避暑(の、つもり)なのである。

こんなことなら、関西電力本社前のデモにも行って、歯医者に通いつめればよかった。いやいや、京都のアパートにはクーラーがないからあのままいたら熱中症で倒れるかもしれないし、とデモや歯医者より旅を選んだのではあるが。じつはかなり真剣にタイに来る前に旅をやめて、歯医者に通おうかと考えた。それほど、歯医者に通うのが楽しみでしょうがない。今まで生きてきて、初めての気持ち。


学会と観光

先月7月のはじめに、インドネシアはスラカルタ(通称ソロ)市で開催されたアジア歴史家国際学会(IAHA)に参加した。ソロでの開催、主催はインドネシア教育文化省、協力がインドネシア観光創造経済省とスラカルタ(通称ソロ)市(+当然いくつかの歴史学会も協力)とくれば、私としてはなんとしても参加したい。インドネシア政府の観光政策をもてなされる側として体験する良い機会なのだ。というわけで、この「学会つき観光」の発表に応募。その学会内容はさておき、今回体験した観光内容について書いてみたい。

まず、スケジュールを記すと、

学会会場: ホテル・サヒッド・ジャヤ(旧名ホテル・サヒッド・ラヤ、ガジャマダ通り)

7月2日(月)受付。夕方からクラトン(=カスナナン宮廷)にてオープニング・パーティー。
7月3日(火)8:30〜5:30学会、夜はホテルで学会員だけのディナー。
7月4日(水)8:30〜3:30学会、夕方、ダナルハディ博物館見学。市長公邸にてディナー
7月5日(木)8:30〜夕方、プランバナン寺院にてクロージング・ディナーののちラーマーヤナ・バレエ鑑賞
7月6日(金)午前中、希望者のみサンギラン(ソロ原人の化石が出た所)へのエクスカーション。

●7月2日
ホテルからクラトンまで、私はてっきりバスを出すのだと思っていたのだが...、なんと、ホテルに大量の馬車が集められ、学会参加者全員が三々五々馬車に乗せられて行くという羽目になる。この展開は私の予想外。学会参加者は予定だと300人近く、結局来なかった人も多いが、少なく見積もっても200人くらいはいたはず。1台の馬車に4人ほど乗り合うので、50台くらいは馬車が集められた計算になる。これだけの馬車が、このパレードのために特に交通規制もしていないスラマット・リヤディ通りの端を通っていくのだから、えらい渋滞。バスで行けば10分以内で着く距離に、1時間かかった。このサービス、私たちの方こそ見世物にされているみたいで、私の周りの参加者にはえらい不評であった。ちなみにこの馬車、会議の偉いさんたちが乗った豪華なやつは市役所所有で、他は個人業の人たちに動員をかけて集めたらしい。時々、イベントで動員されるのだと、私たちの乗った御者のおじさんは語っていた。

クラトンに着くと、なんと正面の中央扉が開けられている。正面には3つの扉が並んでいて、普段は、中央の大扉は閉まっており、左右の扉から出入りする。中央扉が開けられるのは、位記念式典の日、ジャワ暦大晦日の夜、市内を巡航する宝物(槍など)を持った宮廷の人々が中から出てくるとき、など限られた時しかない。これは、この学会が宮廷の一級の賓客としてもてなされたということなのだ。それも、私たちが、教育文化省つまりは国のお客様だからだろう。

開会はホンドロウィノというガラス張りのレセプションルームにて。開会の挨拶が終わり、食事(ビュッフェ式)の間、女性舞踊「ブドヨ・ドゥラダセ」(約30分)、男性舞踊「ウィレン・ボンドユド」(約10分)が提供される。王の即位記念日に上演される「ブドヨ・クタワン」だけは未婚の踊り手たちによって舞われるが、客人を迎えての場合は、結婚して「ブドヨ・クタワン」は引退したベテランの踊り手が踊ることも多い。私が宮廷の練習に参加していたときに現役だった人たちだ。さらに、王女の娘(先代の王の孫)も含まれている。その子たちはまだ初々しいが、宮廷はこの上演に力を入れているということがよく分かる公演だった。

●7月4日
ホテルから博物館を備えたバティックのお店、ダナルハディへは、歩いていくには面倒だが(日本国内なら歩く距離なんだけど)...という微妙な距離。ベチャででも行くのかしらん、と思っていたら、なんと大型観光バスが来る。そして、思い切り遠回りして10分以上かかってダナルハディに横付けしてくれるので、これまたどっと疲れた。しかも、突然、出発がスケジュールより1時間も繰り上げられる。しかし、ディナーの開始時間は決まっているから、バティック店見学のあと無意味に市内をバスで廻り、その間何の市内ガイドもない。あまりにも無駄な時間...。だいたいバス手配係からして、今自分たちのロケーションを全然把握していない。彼らはソロ地元民でなかったのだ。参加者が減ったから発表時間を削るというなら、休憩時間にしてほしかった。まだ次の日も朝8時から学会はあるのだから。明日の発表者は準備もしたいだろうに。

ダナルハディだが、ソロを代表するバティック企業で、この博物館は必見。ちなみにこの建物は、元はウルヨニングラットの屋敷。ウルヨニングラットというのは、カスナナン王家の王族で、インドネシアの民族独立運動ブディ・ウトモに参加した人として有名。博物館だが、ソロ今回は学会参加費に含まれていたけれど、普通は高い入場料を払う(今でもそのはず)。しかし、その入場料に見合う充実したコレクションで、スタッフもよく教育されていて、質問にも納得のいく説明をしてくれる。さすが私企業、公立ではこうはいかない。今回も私たちは特別扱いで、普段は禁止のカメラ撮影がOK。私が最後に来たのは2007年頃だが、その頃にはなかった「中国コーナー」の展示場が新しくできていた。3年ほど前にできたという。インドネシアで華人文化が復権したので、中国の影響があるバティックを展示してあるのだ。やっぱり、こういう博物館には時々は足を運んだ方がいいと実感。

そして、ディナーはロジ・ガンドロン(市長公邸)にて。これは市長主催なのだが、あいにく市長のジョコウィ(通称)は、現在ジャカルタの知事選に立候補して選挙活動中...。市長公邸はオランダ時代の建物で、ロジは「オランダの官邸」、ガンドロンは「恋する」という意味。その昔、このロジでは夜になるとオランダ人たちがダンス・パーティーに興じていたのを、地元のジャワ人が見て、オランダ人たちが恋し合っていると思った、というのが語源らしい。真偽のほどは知らないけれど。

ロジの車寄せに敷物を敷いて、ジャワの正装した男子が2人座り、1人はグンデル(ビブラフォン)を弾き、1人はチブロン太鼓を叩いている...のだが、唐突に入口の前に座っている感じといい、編成の不思議さといい別になくても良かった気がする。そして、中庭に出れば、クロンチョン楽団が待機していて、パーティー中音楽が流れていた。演奏はうまいと思ったが、BGMとしては音響の音量が大きすぎ、ひっきりなしに演奏されるので隣の人と会話するのが一苦労。

ここでも舞踊があったのだが、なぜか、今入ってきた中門の方が正面になっていて、中庭の奥にあるプンドポは使われなかった。ここでのパーティーには2回出席したことがあるが、2回とも、そのプンドポに偉いさん席が設けられて、そこで舞踊が提供されたのだが...。プンドポを使うまでもないという判断だったのかどうか、気になるところだ。

舞踊は2つで、マンクヌガラン宮廷提供の女性4人による「ルトノ・クスモ」と、市提供の舞踊。予算の都合だろう、カセットで上演というのがいかにも残念。ところで、スラカルタに政府関係の客人が来ると、最初にクラトン、次にマンクヌガランを訪れるのが普通なので(ちなみにダナルハディにもよく寄る)、今回マンクヌガランの正式訪問がないのはなぜだろうと、私は不思議に思っていた。ここでマンクヌガランの舞踊の上演があり、その前に、司会者が「スラカルタには文化の中心が2つあって、それはクラトンとマンクヌガランです」みたいな説明をきちんと入れていたので、これで一応フォローしたということなのだろうか。今回のディナーでは、いつもマンクヌガランでチャーター公演で仕事をしている人たちと再会したのだが(彼らは市の観光局勤務)、クラトンでは何を上演したのかと、こっそり私に聞いてきた。マンクヌガランの芸術を担当している王弟から、そのことを聞き出すように頼まれていたらしい。ということは、やっぱりマンクヌガランには気になるのかも。

もう1つの市の提供による舞踊「バンバンガン・チャキル(見目麗しい武将と羅刹=チャキルの戦い)」は、あまり上手くなかったのだが、踊り手はまだ若そうだし、まあこんなものかなとも思う。ちなみにこの舞踊は商業ワヤン・オラン系統の舞踊で、インドネシア独立前後頃にはすでにソロを代表する舞踊として著名。宮廷舞踊とは雰囲気がダブらないから、市が提供する舞踊としては良い選択。ただ全体として、この市長公邸での一連の演出はパッとしなかった。いったい誰がこの全体構成を考えたんだろう?というか、全体構成を考えた人はいたんだろうか?

●7月5日
4時にロビーに集合し、バスでプランバナンへ。現地6時頃着として、閉会式、ディナー、ラーマーヤナ舞踊劇鑑賞があって、9時半にはホテル帰着という予定だから、30分くらいにまとめた学会用別注・ラーマ―ヤナ舞踊でもやるんだろうか...と思っていたのだが、これも予想が外れた。劇場には私たち招待客以外に普通の観光客もいて、フル・ストーリーのラーマーヤナ・バレエを、普通に3時間やってくれる。終わったら既に10時半。一般公演を見せてくれるなら、終演時間はあらかじめ分かるはずなのに、なんで事務局はその辺をちゃんと押えないんだろう?というわけで、またしてもぐったり。公演を見に来るのが目的でここに来た人なら、公演が3時間でもいい。私個人としては満足。けれど、学会のついでに何も事情が分からないまま連れてこられた一行にとっては、苦行以外の何物でもない。夕方に、閉会のティーパーティをホテルで軽くやって、公演鑑賞はオプションツアーにしたほうが良かったのではないかと思う。バスで1時間半の距離、公演は3時間ということを明示した上で。もっとも、この夜のディナーと舞踊鑑賞を主催した観光創造経済省としては、ぜったいにこの場所に一行を連れてきたかったんだろうけど。

ディナーに関しては、昨日とは違ってBGMは音量が控えめで、落ち着いて話ができる。プランバナン寺院も真ん前に見えるし、いい雰囲気だ。ビュッフェの食事もおいしい。さすが、市より国の方が予算は潤沢なよう。工芸品のお土産つきである。しかし、劇場のトイレがだめだった。女子トイレはたった3つしかないのに、3つとも壊れている。しかも前半と後半の間の休憩時間はたった10分。これに私はぶち切れたので、教育文化省の芸術局長(ここには来ていない)に苦情のSMSをする。今回だけに限らないが、インドネシアの人たちは、トイレやインフラ整備でサービス・レベルに差がつくという自覚がないので、壊れているトイレや水の出ない水道を平気で放置する。予算がないとか、トイレタリ用品の質が悪く壊れやすいというのもあるだろう。けれど、無駄に観光に連れまわしたりお土産をつけたりするお金があるなら、劇場のトイレの修理&増設に予算をつけてほしい。

ラーマーヤナ・バレエの方だが...思った通りロロジョングラン財団の団体が上演。ラーマーヤナ・バレエは、現在ではジョグジャカルタ近郊のいろんな舞踊団が順番で上演するが、ここが一番古い。ラーマ役はパ・テジョでロロ・ジョングランのラーマといえば彼。そして、彼の息子がラーマの弟役をやっていた。ちなみにこのラーマーヤナ・バレエもソロで作られた。ラーマーヤナ・バレエは1961年にインドネシア初の本格的な観光舞踊として始まったものだが、この国にしては、すでに伝統舞踊の域に達している。しかし、ラーマーヤナ・バレエ初演当時にはフル・ストーリー編はなくて、全体を6エピソードに分けて上演した。今ではフル・ストーリー上演の日と6改め4エピソード(よって、4日シリーズで完結)上演の日がある。

今回のフル・ストーリーの公演を初めて見て気づいたのだが、これはラーマの弓取り?姫取り?の場面から始まる(もうちょっと前の場面だったか?)。シータの父王が、強弓を弾くことができる者にシータを与えるというお触れを出して、ラーマがそれを弾いてシータを妃にもらうというシーンだ。このシーンは、ラーマーヤナ物語を舞台化する上では普通入れられるものだが、実はオリジナルのラーマーヤナ・バレエにはこのシーンはない。オリジナルの第1エピソードでは、放逐されたラーマ、シンタ、ラクスマナの3人が森に登場するというメルヘンチックな場面から始まる。

ラーマーヤナ・バレエは元は満月の日をはさんで上演されたので、プランバナン寺院の上空には満月(に近い月)がかかっている。そこに、「パダ〜ン・ブラ〜ン...」と女性の独唱。満月の月が煌々と照り映え...という歌詞で(曲はキナンティ・ジュルデムン)、その声に誘われるようにラーマたちが登場するという具合で、ジャワ語の歌詞が分かる者には感動的な登場の仕方なのだ。往年の出演者にインタビューしても、その登場シーンが、インドとは違う、ジャワ・オリジナルの、斬新なラーマーヤナなのだという声が多い。(カスナナン宮廷詩人が書いたラーマーヤナを基にしている)今回も「パダ〜ン・ブラ〜ン...」の歌で始まったので、私も期待を込めて舞台を見つめていたら、割れ門の奥から登場したのは司会だった...。いきなりがっくりくる。この演出はないだろう。オリジナルを知らない人には分からないかもしれないけれど、これではせっかく作られた舞台の世界が台なしだ。

さらにこの後に続いたのが弓取りのシーンも、長すぎた...。そのくせ、それ以降にあるいくつかの見せ場の戦いのシーンが、どれもあっけなく終わってしまって不満が残る。練習時間不足か?(戦いのシーンというのは、普通、戦う2人の舞踊家どうしで打ち合わせて決める)。時代劇みたいに、息つく間もないほどの緊張した戦いのシーンを、これでもかと見せてほしい。最後に、ラーマーヤナ・バレエ一般の課題なのだが、群舞のシーン(とくに女の子)には、あまりうまい踊り手がいない。プランバナン寺院を借景にした大きい舞台だから、未熟な踊り手では間がもたないのだ。

  ●

7月6日は参加せず。というわけで、言いたいことも山のようにあったが、有意義な学会観光だった。インドネシア側の段取りやらに不満はあるとはいえ、日本でこういう観光とタイアップした学会開催は難しいかもしれない。今回参加した日本人参加者から、その人が参加するある学会が国際大会を日本でしたとき、観光とタイアップしようとしてうまくいかなかったという話を聞いた。その点、インドネシアでは、観光は重要な産業だと認識されているから、観光に関してはとにかく官民一体で頑張っているという感がひしひし伝わってくる。こういうところはやっぱりインドネシアに脱帽だ。

ただ、インドネシアの弱点は、上で述べたようなインフラ以外に、全体像を示すことができない点にある。会議参加者がソロに来て一番知りたいのは、ソロがどんな街かということと、連れて行ってくれる場所の説明なのである。ソロ市の地図とか、カスナナン宮廷、マンクヌガラン宮廷の観光用チラシ、ロジ・ガンドロンのいわれについてのメモ、ラーマーヤナ・バレエのあらすじ(劇場には備え付けでおいてあるけれど)などを学会キットに入れておけば、参加者の記憶にも残り、今後の観光促進にもなるのに。インドネシアでは、今回に限らず、そういう点の努力が足りない。それに、せっかく研究者が大量に来ているのだから、ダナルハディの近くにある本屋や、ホテルの向かいにあるモニュメン・ペルス(プレス関係の博物館)も案内すれば、ソロについて関心を持つ研究者も出てくるかもしれないのに...。観光が芸術とだけしか結びつかないというのも、だめだなあという気がする。


おみなえし

夏も盛んになってふと窓の外に女郎花と吾亦紅が欲しくなった。

欲しくてたまらなくなったので、相模原の植木市場に出かけた。運よく、大きな女郎花の株と吾亦紅の鉢を手に入れ、帰宅した。植木屋の季節はいつも早い。夏の中盤過ぎになって咲き誇る女郎花と吾亦紅が盛んに咲いている。少しずれた季節を見ながら、暑い夏の窓辺から女郎花の黄色い花と吾亦紅の赤い水玉のような花を見ているとやがて来るであろう晩夏の訪れを感じるような気がしてくる。

それでも、ふと、季節を忘れて外に飛び出すとやはり暑い。今年は特にとんでもなく暑い。

季節外れの台風がもたらした塩害の被害で、一部が枯れたようになってしまった木々の様子見がてら、週末の夕方、水やりをするのが日課になった。

水をやりながら草木を見ていると、ぎんぎんに暑くなった庭の傍らの、隣堂の葉のわきに小さなつぼみがついていた。そうか、着実に秋が来る。


夕刻を馳せる

紅茶を一杯 煙草を2本

窓の外は少しずつ暗くなる
鉱石ラヂオから流れる未来の声

煙とノイズ混じりの世界をかき分けて
見えない音に一体どこまで耳を傾けられるだろうか

雲の逃亡 風の警告 空気の飛散 熱室の迷路
海の泣き声、木の幹の嘆き、街の隠し事、魂が消える音

耳を澄ませて聴かなければ
その奥がどうなっているか

城に籠る弱い鳥
ヒトの怒り 
ひとつの風は疑問を投げかける

また一日が終わった

何も聞こえないまま

r_1208.jpg


まのじ庵

「なんだか背中や腕が痒いね、乾燥しているせいかしら?」
外では原発反対派によるデモ行進が続き、行方不明の鳥達が行き先もなく定峰峠へ向かって飛んでゆく。
「こう寒くては仕事も進まないし、アイスでも食べたいね。」
そうだね、冬の寒い日だけど、季節に関係なくアイスを食べたくなるよね。
わかった、じゃあコンビニで買って来ようか?
いや待てよ、そう言えば誰かが定峰峠にあるアイス屋の話をしていたね。
ちょっと行ってみないか?たぶん30分くらいで行けると思うよ。

外では細かい塵のように軽い雪が降っていて、その雪は地面に落ちても、息を吹きかければふわりと、落ちて来た時と同じ様にまた軽く飛んでゆく、
そういう雪だった。

さっそく車を走らせ定峰峠へ向かった。
一体いくつの曲がり角を曲がったのか、はっきり覚えてはいないが、とにかくカーブの多い山道だったように記憶している。
風景と言えば、季節のせいもあるかもしれないが、とにかく灰色だった。
しかしあの山の樹々の様子と言えば強く印象的で、あの樹々の姿は我々の心のどこかを揺さぶるには十分すぎる。
悲しみを持った、もう人が入る隙間すらない廃墟のような樹々たちだった。

「ねえ、ちょっと止まってあそこで写真を撮ろうよ。あの樹々はまるで無罪にも関わらず間違った判決により処刑される囚人がその時を待つかのような、見えぬ不安に脅える様子を写真に映し出す、そういう風景に違いないよ。」

時間があればいいけど、雪降ってるし・・ガソリンも少ないからなあ・・・

山の風景を見たり、車を止めて散歩をしているうちに時間は過ぎて、アイス屋に着いた時は結局午後の5時を回っていた。

アイス屋の駐車場に車を止める。

様子が変だ!

店の入り口には小さな札があり「本日臨時休業」とだけ書いてあった。
おかしいな、平日なのに・・・もしかして冬だから閉めているのかな?
いや、きっとこんな山奥だし、人も誰も来ないから閉店したんじゃないかしら?
きっとそうだね、仕方ない。帰ろうか。

夕方の風と共に定峰の雪が強さを増し、風にあたっているうちに、一体いつどこで自分を忘れて来たのかがわからなくなってきた。
顔には冷たい風が切り込み、それはジョルジュ・デ・キリコくらいにしか描けないような風だった。

降り積もるまっ白な雪を見て、
「ああ、ここに吹き出たばかりの生々しい新鮮な処女の血がこぼれ落ちたらどんなに美しいのだろうか」とまで思うほどだった。

次の瞬間パッと現実に戻った。

「せっかくだから、このアイス屋さんの店の前に降り積もったこの新鮮でまっ白な放射能入りの雪を食べて行こうじゃないか、きっとアイス屋の前の雪だから、味はそれなりだと思うよ。」

表面にある雪を右手ですくい取り、できるだけゆっくり腕を動かし口へ運んだ。
「う、これは!!」
「ねえちょっと・・!、やめてよ、そんな雪食べるなんて・・・味はどうなの?味は確かなの?答えてよ・・・答えなさい!」(興奮している)

「おいしい・・おいしいんだよ」
「ほんと?」とやや不思議そうに、でも本当は最初からわかっていたかのように質問を続けた。「何の味がするの?」
「君は覚えているかい、この味を。この味は樹々の香りであり、樹々が樹々になる少し前の風景の味がする。この味は私を運ぶよ。まるで遠い船に自分の心臓だけが独りでに乗りこんだような気分だよ。わかるかい?」
「ええ、わかるわ。よかったじゃない、やっと見つかって。」

「ああ、来てよかった、そして今日が臨時休業で本当によかった。ありがとう私の運命と、この・・・」

「ねえねえ、ちょっと!今こっちの掲示板見たらさあ、閉店はしてないみたいよ、改装工事をするから2月22日までは臨時休業してるだけなんだってさ、よかったね、またアイスを食べに来ようよ。」

そうだったのか、じゃあまた来よう。
• 今日は2月17日。つまりあと5日で店が開くのだ。

翌日、どうも落ち着かない、なぜこんなに不安なんだろう。
仕事をしていても、どうも落ち着かない。
何しろあと5日であの雪を食べる事ができなくなるのだから。
店が開けばあの店の前に積もった雪はかたずけられてしまうに違いない。
大体店の前で雪を食べていたら怒られるに決まっている。

• 初めて雪に触れた時のあの右手、右指の冷たさと体の内部の暖かさの距離が忘れられない。

「おい!いくぞ!早くしろ!」
「はいはい、わかってますよ」(食事の準備を中断する)

臨時休業を狙って店へ(店の前に)行く事にした。
軽自動車に乗り込み定峰峠へ向かった。
今度は風景も見ずに、寄り道もしないで、まっすぐに、スピード違反限界の速度で走り続けた。

目的があってから進み始めると、その目的へ到達するまでの道のりはとても遠いんだね。(驚いている)

「あっ・・、よかった、まだあった・・」
雪は昨日来た時と同じ様に残っていた。
しかし今日は雪が降っていないためその鮮度にはいくらかの違いがあった。
「うわ!何だこれは、昨日と違う・・・」
「そんなはずはないでしょ まだ16時間くらいしか経ってないじゃない」
「なんだと!!」

• 時計の秒針を外し右手に持ち、それを天に向かって振りかざしながらどこかに忘れた私の心臓へと突き刺した。

体内から出たばかりの鮮やかな血は空気と混じりながら雪へ落ちてゆく。
それは永遠に似た苦しみと悲しみと生命の始まる瞬間の風景に似ていた。

「あらま、この雪ホントにオイシイじゃないの。樹々の香りがするわね。
樹々と言うよりはむしろ、「樹々が樹々になる前だった頃」の味がするわね」

• どこかの心臓を取り出して血を拭き取り、止血を終え、すみやかに(何事もなかったかのように)もとある場所に戻す。

「そうだろ、うまいだろ!」(犬の様に興奮しながら言う)

その時だった。
店の改装工事をしていた店主が扉を開けてこう言った。
「おい!そこにある雪をそんなにおいしそうに食べちゃだめだよ!」

「きっと店主はこの雪の事を自覚していたのだ、この味を自分独り占めにするつもりだったんだ!くそっ!」

店主は続けて言った。
「そんな雪はまずいでしょう。今は原発もあれだし・・放射能も飛んでいるんでね。そんなマズい雪を食べたら被爆しますよ。はっはっは。」
と最後はやや冗談風に。
「・・・きっとそうやってうまくウソを言って、自分一人でこの雪を食べているんだな。腕のいいパティシエならきっとこの味がわかるんだ、いや、もしかしてこいつはこの雪を求めてこの場所に店を出したのか?。」

「今日は臨時休業中ですが、今やっと片付けが一段落したところです。
せっかくお店までお越し頂いたので、よかったらお茶の一杯も飲んで行きませんか?」と店主は言った。
「そうですか、ありがとうございます、ではお言葉に甘えて。」

店の中へ入る。
改装中のためか物は散乱しまだ店らしくない様子だが、内向的でいい感じの雰囲気の店だった。ブタの形をしたストーブが荒い呼吸をしながら我々を睨んでいた。

穏やかに会話が始まる。

「へえ、日野田町からわざわざ来て下さったのですか?それはそれはありがとうございます、でも22日からは普通に営業をしますので、その時にはうちの自慢のアイスを食べて頂けると思いますよ。今は休業中なのでアイスは作ってなくて食べていただける在庫がまったくないんです。」

そうか、たった1週間の休業でもアイスは作らないんだ・・・。

「まのじ庵」のアイスは近くにいる牛のミルクで作られている。
そのミルクを朝仕入れて、その日に作るのだ。
作って凍らせておけば数日間は持つのだが、「まのじ庵」はコダワリを持ち、その鮮度を重視しているため、作って3日を過ぎたアイスはお客には出さないのだ。

そうか!それであの雪の鮮度も・・・

勇気を出して恐る恐る言ってみた。(と言うよりは、我慢ができなかったのだ)
「あのう・・お店は22日までは休業ですよね?。すいません、お店の前にあるあの雪を食べさせていただけないでしょうか?」

店主はポカーンとした顔でただこちらを見ていた。
「・・・できれば22日までは、あの雪を思う存分に楽しみたいんです。お店が営業を始めれば、あの雪はもう食べられません。考えてみて下さい、あの雪にはこの店のような時間がないのです。」

店主は店の改装作業をして汚れた職人の手で紅茶を入れてくれた。
おそらくダージリンだったと思う。

「まあ、紅茶でも飲みましょうよ。」

会話は続く。

「音楽がお好きですか?」
店内にはマイルス・デイビスの1950年代の録音が流れていた。
「もしかして、ジャズがお好きで?」
「・・・ジャズと言うか・・マイルスが好きなんです。何と言うかその・・・他のジャズはよくわかりませんが、マイルスだけは好きなんです。」

確かによく聴いてみると いい録音だ。

「そうですか、マイルスですか。」
「どうしてこの峠にお店を出そうと思われたのですか?」

「実は、店を出す前に、4年間場所を探し、日本全国旅しました。
そして最終的にいいな、と思ったのが秩父のこの定峰峠で、秩父だけでも2年間場所を探しました。」

秩父だけで2年間・・・

「その心意気、我々も見習わないといけないね、なかなかできる事じゃないですよ。」

・・・さすがのパティシエだ、この雪を探し、この味を見つけ、店を出すまでに6年もかけているのか。
彼のアイスもこの雪のようにおいしいに違いない、とその時確信したが、
あの雪の味を知ってるので、あれよりおいしいとは思えなかった。
しかし、この雪を独り占めしようとし、またそれを隠す店主の事がイマイチ納得がいかなかった。

紅茶を飲みながら話は続く。

「よかったらこのおにぎりや、クッキーもどうぞ。おいしいですよ。」

「あ、ありがとうございます。」

しかし先ほど食べた外の雪の味(風景)の残骸がまだ口の中に、幽かに響いていて、その響きを忘れたくはなかったので、絶対におにぎりを食べるような事は自分にはできなかった。
あの雪からは、樹々たちの・・・樹々が樹々たちになる前の風景が見えていた。
それを犯す事は罪にさえ思え、そもそも無罪なのに誤審をを受け死刑を執行される囚人ではない囚人の様子をまた私に連想させた。
それを洗い流すかのように店内にはマイルス・デイビスのバラードが流れてきた。

今何時ですか?
5時45分だよ。
スッと風が吹いて、店に飾ってあったアイス屋の認定書か許可証か何かの賞状の紙切れが床に落ちた。

「そろそろ帰ろうか?」
「うん。もう暗くなり始めたね。」

「ありがとうございました、臨時休業中なのに中へ入れていただいて、その上紅茶まで飲ませていただいてしまいました、お恥ずかしいです。
それと・・・(やや呼吸が速くなる。)

お話、とても楽しかったです。
また22日以降にアイスなどを食べに来たりしますね!。」

ガラガラっと入り口の扉を開けたとたんに2月のまだ冷たい山の風が店内にぎゅっるりっ、と吸い込まれ店内の空気は一気に変わる。

駐車場に止めておいた車へ戻り、エンジンをかけて走り出す。

「あー、やっぱりおいしかったね、「まのじ庵」。のアイス。」
「うん、さすがだね、あのパティシエは大したもんだよ。間違いなくここらで一番おいしいアイス屋さんだね。」

「まのじ庵」の窓からは、お寺の跡の風景と秒針に溶かされてゆく2月の雪の悲しい涙だけがこちらへむいて、必死に旗を振っていた。


掠れ書き21

エリサベス・ル=グインの Boccherini's Body という本がある。演奏する身体的感覚からボッケリーニの音楽を作る姿勢を観察している。チェロの名人で北イタリアの音楽一家に生まれウィーンからパリに行きスペイン宮廷に雇われた。
その頃の音楽は声と劇場が中心で、楽器の音楽も感情の型通りの表現と場面の交代でできていた。語りかけるような調子をもち軽やかで洗練され技術を見せつけないのがよい趣味とされたが、それを際だたせるためにそれに続く部分ではわざと異様な音色や弱音のなかでも表情の微妙なちがいを指示すること......ベートーヴェン的な普遍主義的構成が支配した1960年代までの2世紀のあいだ忘れられていたボッケリーニのギャラント・スタイルにも二項対立の図式が隠れているのか。

「ソナタよ、どうしろというのだ」(ルソーが執筆した百科全書の最後に引用されたベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネルのことばらしいが)そう言われてもソナタやシンフォニーはしのびよってきた。はじめは歌の前奏や間奏や音楽家を訓練するための教育音楽だったものが周辺から音楽活動の中心へ浸透して19世紀以後ソナタ形式は統一・対立・競争を組み込んだ啓蒙主義の音楽原理になっていた。

原理や理論はすでにある音楽から作られる。音楽が先にありそれらをまとめて共通するやりかたや習慣を一般に適用できるかのように単純化し抽象化して作曲法の規則がつくられる。と言っても解剖図から人間を組み立てることができないように教科書の実例を別としてはシステムや方法から音楽が生まれるわけでもないだろう。それでも音楽を作る時まったく白紙状態からはじめることはない。すでに音楽があるから別な音楽が作られる必要も条件も生まれる。そこで意識されないが前提となっている美意識や技術があって別な音楽を作るうちに具体的な場面たとえばこの音に続く音をさがしているうちに前提としたものからちがう道に踏み出していることもある。気づかないうちに規範が崩壊する。

二元的な対立関係が対等なものでなく優劣や上下が最初から前提になっているならば対話もかたちだけで反論は話をおもしろくするためのみせかけのためにおかれて障害物競走のように乗り越えるたびに中心は勢いを増すだろう。

中心に弱いものをおいた場合は対立項は理解できないもの親しめない異様な空気のただよう表現になってそれをくぐり抜けてもどってくる中心のペルソナは亡霊の出現のように傷つき薄れながら消えていく。聴くものにそっと語りかけて情緒に感染させる18世紀の室内楽のなかである人びとからボッケリーニの音楽が危険なものとみなされたというのもありえないことではない。メランコリーの能動的な面が技術の解体プロセスを見せることと反自然の緊張から降りながらゆるんでいくゆっくりしたうごきの解放感であるかもしれないと想像してみる。

ハイドンとボッケリーニは対照的な音楽と考えられていてその対立図式は明暗・喜劇悲劇・男性女性・知性感性と説明されていた。ボッケリーニはハイドンの陰画でハイドン夫人とも呼ばれた。この二人はおなじ楽譜出版社だったから相手のことは知っていたらしいが会ったことはなかった。ハイドンはボッケリーニにてがみを書こうとしたがスペインのいなかアレーナスはどこかもわからないのでやめたという話もある。

二項対立がみせかけのものならばハイドンからベートーヴェンに受けつがれブラームスからシェーンベルクそして1960年代のセリエルまで続きいまは理論化され技術となって学校で教えられている音楽の方法やシステムの権威のかげでいま周辺からしのびよる別な音楽があるのだろうか。それとも生まれる前から要素分析や認知主義に胎内感染しているのか。

対話がみせかけのものになってしまい障害を乗り越えながら続くモノローグから抜け出せないとしたら第3の声はどこから来るだろう。不毛な対話の往復の臨界点からか。