「なんだか背中や腕が痒いね、乾燥しているせいかしら?」
外では原発反対派によるデモ行進が続き、行方不明の鳥達が行き先もなく定峰峠へ向かって飛んでゆく。
「こう寒くては仕事も進まないし、アイスでも食べたいね。」
そうだね、冬の寒い日だけど、季節に関係なくアイスを食べたくなるよね。
わかった、じゃあコンビニで買って来ようか?
いや待てよ、そう言えば誰かが定峰峠にあるアイス屋の話をしていたね。
ちょっと行ってみないか?たぶん30分くらいで行けると思うよ。
外では細かい塵のように軽い雪が降っていて、その雪は地面に落ちても、息を吹きかければふわりと、落ちて来た時と同じ様にまた軽く飛んでゆく、
そういう雪だった。
さっそく車を走らせ定峰峠へ向かった。
一体いくつの曲がり角を曲がったのか、はっきり覚えてはいないが、とにかくカーブの多い山道だったように記憶している。
風景と言えば、季節のせいもあるかもしれないが、とにかく灰色だった。
しかしあの山の樹々の様子と言えば強く印象的で、あの樹々の姿は我々の心のどこかを揺さぶるには十分すぎる。
悲しみを持った、もう人が入る隙間すらない廃墟のような樹々たちだった。
「ねえ、ちょっと止まってあそこで写真を撮ろうよ。あの樹々はまるで無罪にも関わらず間違った判決により処刑される囚人がその時を待つかのような、見えぬ不安に脅える様子を写真に映し出す、そういう風景に違いないよ。」
時間があればいいけど、雪降ってるし・・ガソリンも少ないからなあ・・・
山の風景を見たり、車を止めて散歩をしているうちに時間は過ぎて、アイス屋に着いた時は結局午後の5時を回っていた。
アイス屋の駐車場に車を止める。
様子が変だ!
店の入り口には小さな札があり「本日臨時休業」とだけ書いてあった。
おかしいな、平日なのに・・・もしかして冬だから閉めているのかな?
いや、きっとこんな山奥だし、人も誰も来ないから閉店したんじゃないかしら?
きっとそうだね、仕方ない。帰ろうか。
夕方の風と共に定峰の雪が強さを増し、風にあたっているうちに、一体いつどこで自分を忘れて来たのかがわからなくなってきた。
顔には冷たい風が切り込み、それはジョルジュ・デ・キリコくらいにしか描けないような風だった。
降り積もるまっ白な雪を見て、
「ああ、ここに吹き出たばかりの生々しい新鮮な処女の血がこぼれ落ちたらどんなに美しいのだろうか」とまで思うほどだった。
次の瞬間パッと現実に戻った。
「せっかくだから、このアイス屋さんの店の前に降り積もったこの新鮮でまっ白な放射能入りの雪を食べて行こうじゃないか、きっとアイス屋の前の雪だから、味はそれなりだと思うよ。」
表面にある雪を右手ですくい取り、できるだけゆっくり腕を動かし口へ運んだ。
「う、これは!!」
「ねえちょっと・・!、やめてよ、そんな雪食べるなんて・・・味はどうなの?味は確かなの?答えてよ・・・答えなさい!」(興奮している)
「おいしい・・おいしいんだよ」
「ほんと?」とやや不思議そうに、でも本当は最初からわかっていたかのように質問を続けた。「何の味がするの?」
「君は覚えているかい、この味を。この味は樹々の香りであり、樹々が樹々になる少し前の風景の味がする。この味は私を運ぶよ。まるで遠い船に自分の心臓だけが独りでに乗りこんだような気分だよ。わかるかい?」
「ええ、わかるわ。よかったじゃない、やっと見つかって。」
「ああ、来てよかった、そして今日が臨時休業で本当によかった。ありがとう私の運命と、この・・・」
「ねえねえ、ちょっと!今こっちの掲示板見たらさあ、閉店はしてないみたいよ、改装工事をするから2月22日までは臨時休業してるだけなんだってさ、よかったね、またアイスを食べに来ようよ。」
そうだったのか、じゃあまた来よう。
• 今日は2月17日。つまりあと5日で店が開くのだ。
翌日、どうも落ち着かない、なぜこんなに不安なんだろう。
仕事をしていても、どうも落ち着かない。
何しろあと5日であの雪を食べる事ができなくなるのだから。
店が開けばあの店の前に積もった雪はかたずけられてしまうに違いない。
大体店の前で雪を食べていたら怒られるに決まっている。
• 初めて雪に触れた時のあの右手、右指の冷たさと体の内部の暖かさの距離が忘れられない。
「おい!いくぞ!早くしろ!」
「はいはい、わかってますよ」(食事の準備を中断する)
臨時休業を狙って店へ(店の前に)行く事にした。
軽自動車に乗り込み定峰峠へ向かった。
今度は風景も見ずに、寄り道もしないで、まっすぐに、スピード違反限界の速度で走り続けた。
目的があってから進み始めると、その目的へ到達するまでの道のりはとても遠いんだね。(驚いている)
「あっ・・、よかった、まだあった・・」
雪は昨日来た時と同じ様に残っていた。
しかし今日は雪が降っていないためその鮮度にはいくらかの違いがあった。
「うわ!何だこれは、昨日と違う・・・」
「そんなはずはないでしょ まだ16時間くらいしか経ってないじゃない」
「なんだと!!」
• 時計の秒針を外し右手に持ち、それを天に向かって振りかざしながらどこかに忘れた私の心臓へと突き刺した。
体内から出たばかりの鮮やかな血は空気と混じりながら雪へ落ちてゆく。
それは永遠に似た苦しみと悲しみと生命の始まる瞬間の風景に似ていた。
「あらま、この雪ホントにオイシイじゃないの。樹々の香りがするわね。
樹々と言うよりはむしろ、「樹々が樹々になる前だった頃」の味がするわね」
• どこかの心臓を取り出して血を拭き取り、止血を終え、すみやかに(何事もなかったかのように)もとある場所に戻す。
•
「そうだろ、うまいだろ!」(犬の様に興奮しながら言う)
その時だった。
店の改装工事をしていた店主が扉を開けてこう言った。
「おい!そこにある雪をそんなにおいしそうに食べちゃだめだよ!」
「きっと店主はこの雪の事を自覚していたのだ、この味を自分独り占めにするつもりだったんだ!くそっ!」
店主は続けて言った。
「そんな雪はまずいでしょう。今は原発もあれだし・・放射能も飛んでいるんでね。そんなマズい雪を食べたら被爆しますよ。はっはっは。」
と最後はやや冗談風に。
「・・・きっとそうやってうまくウソを言って、自分一人でこの雪を食べているんだな。腕のいいパティシエならきっとこの味がわかるんだ、いや、もしかしてこいつはこの雪を求めてこの場所に店を出したのか?。」
「今日は臨時休業中ですが、今やっと片付けが一段落したところです。
せっかくお店までお越し頂いたので、よかったらお茶の一杯も飲んで行きませんか?」と店主は言った。
「そうですか、ありがとうございます、ではお言葉に甘えて。」
店の中へ入る。
改装中のためか物は散乱しまだ店らしくない様子だが、内向的でいい感じの雰囲気の店だった。ブタの形をしたストーブが荒い呼吸をしながら我々を睨んでいた。
穏やかに会話が始まる。
「へえ、日野田町からわざわざ来て下さったのですか?それはそれはありがとうございます、でも22日からは普通に営業をしますので、その時にはうちの自慢のアイスを食べて頂けると思いますよ。今は休業中なのでアイスは作ってなくて食べていただける在庫がまったくないんです。」
そうか、たった1週間の休業でもアイスは作らないんだ・・・。
「まのじ庵」のアイスは近くにいる牛のミルクで作られている。
そのミルクを朝仕入れて、その日に作るのだ。
作って凍らせておけば数日間は持つのだが、「まのじ庵」はコダワリを持ち、その鮮度を重視しているため、作って3日を過ぎたアイスはお客には出さないのだ。
そうか!それであの雪の鮮度も・・・
勇気を出して恐る恐る言ってみた。(と言うよりは、我慢ができなかったのだ)
「あのう・・お店は22日までは休業ですよね?。すいません、お店の前にあるあの雪を食べさせていただけないでしょうか?」
店主はポカーンとした顔でただこちらを見ていた。
「・・・できれば22日までは、あの雪を思う存分に楽しみたいんです。お店が営業を始めれば、あの雪はもう食べられません。考えてみて下さい、あの雪にはこの店のような時間がないのです。」
店主は店の改装作業をして汚れた職人の手で紅茶を入れてくれた。
おそらくダージリンだったと思う。
「まあ、紅茶でも飲みましょうよ。」
会話は続く。
「音楽がお好きですか?」
店内にはマイルス・デイビスの1950年代の録音が流れていた。
「もしかして、ジャズがお好きで?」
「・・・ジャズと言うか・・マイルスが好きなんです。何と言うかその・・・他のジャズはよくわかりませんが、マイルスだけは好きなんです。」
確かによく聴いてみると いい録音だ。
「そうですか、マイルスですか。」
「どうしてこの峠にお店を出そうと思われたのですか?」
「実は、店を出す前に、4年間場所を探し、日本全国旅しました。
そして最終的にいいな、と思ったのが秩父のこの定峰峠で、秩父だけでも2年間場所を探しました。」
秩父だけで2年間・・・
「その心意気、我々も見習わないといけないね、なかなかできる事じゃないですよ。」
・・・さすがのパティシエだ、この雪を探し、この味を見つけ、店を出すまでに6年もかけているのか。
彼のアイスもこの雪のようにおいしいに違いない、とその時確信したが、
あの雪の味を知ってるので、あれよりおいしいとは思えなかった。
しかし、この雪を独り占めしようとし、またそれを隠す店主の事がイマイチ納得がいかなかった。
紅茶を飲みながら話は続く。
「よかったらこのおにぎりや、クッキーもどうぞ。おいしいですよ。」
「あ、ありがとうございます。」
しかし先ほど食べた外の雪の味(風景)の残骸がまだ口の中に、幽かに響いていて、その響きを忘れたくはなかったので、絶対におにぎりを食べるような事は自分にはできなかった。
あの雪からは、樹々たちの・・・樹々が樹々たちになる前の風景が見えていた。
それを犯す事は罪にさえ思え、そもそも無罪なのに誤審をを受け死刑を執行される囚人ではない囚人の様子をまた私に連想させた。
それを洗い流すかのように店内にはマイルス・デイビスのバラードが流れてきた。
今何時ですか?
5時45分だよ。
スッと風が吹いて、店に飾ってあったアイス屋の認定書か許可証か何かの賞状の紙切れが床に落ちた。
「そろそろ帰ろうか?」
「うん。もう暗くなり始めたね。」
「ありがとうございました、臨時休業中なのに中へ入れていただいて、その上紅茶まで飲ませていただいてしまいました、お恥ずかしいです。
それと・・・(やや呼吸が速くなる。)
お話、とても楽しかったです。
また22日以降にアイスなどを食べに来たりしますね!。」
ガラガラっと入り口の扉を開けたとたんに2月のまだ冷たい山の風が店内にぎゅっるりっ、と吸い込まれ店内の空気は一気に変わる。
駐車場に止めておいた車へ戻り、エンジンをかけて走り出す。
「あー、やっぱりおいしかったね、「まのじ庵」。のアイス。」
「うん、さすがだね、あのパティシエは大したもんだよ。間違いなくここらで一番おいしいアイス屋さんだね。」
「まのじ庵」の窓からは、お寺の跡の風景と秒針に溶かされてゆく2月の雪の悲しい涙だけがこちらへむいて、必死に旗を振っていた。