しもた屋之噺(139)

昨日は本当に妙な天気で、晴天と暴風雨が1時間ごとに繰返され、何でもミラノ近郊では大きな竜巻も発生したそうです。昨春同じマンションに越してきた日本人一家が完全帰国するからと、今朝挨拶にみえると、ほんの1年足らずの間にすっかりイタリアに馴れた小学生の息子さん二人が、見違えるように逞しくなっていました。

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7月某日 三軒茶屋自宅

角田さんバンドとのリハーサルで大久保に出かけた。スウィングする箇所を決め、音量のバランスを整えたりして、練習は思いの外とても愉しい。尤も、あとで聞けば彼らの普段の練習スタイルとはまるで違ったそうだから、メンバーの皆さんが楽しめたかどうかは非常に怪しい。練習後、着替えて挨拶に戻ったところ、全員で直した箇所を一つ一つ丁寧にチェックしていらして、感激するやら、頭の下がる思い。

理由は分からないが、大久保の練習場に出かけると、ガード下の立喰いそばに寄らずにはいられない。成田空港に着くと無性にカツカレーが食べたくなるのと同じだろう。今日に至っては、昼飯を食おうと直前に駆けこんだものの練習時間になってしまい、頼んだ鴨ソバを食べ切れずに帰りがけに天ぷらそばを食べ直した。

口を出して伝える大切さを思う。言わなくても分る、言っても無理、言うのは失礼、後で伝えようという心遣いは、一見細やかな優しさに見えるが、自己を堅固な殻で守る詭弁に過ぎない。可能でも不可能でも、口に出して初めて見えてくるものがあるし、明快なヴィジョンはその先の吸引力をもたらす。正論かどうかはともかく、政治のスローガンなど最たるものだろう。指揮者だって、技術より結局は本人の個性そのものが魅力的かどうかに尽きる。伝えたい内容さえ伝われば、道程や手段は問題とされない場合もあるのだ。コミュニケーションにおいて、思ったり感じたりした内容を道理立てて言葉にするのは易しくはないけれど、面倒くさがってはいけない。

先日七重さん宅に吉川さんと坂本さんのリハーサルのためお邪魔すると、格段に音楽が円やかになっている。前回「お二人が古典をやるようにでも弾いてくだされば結構ですから」などと分かったような口を叩いて失礼したが、七重さん曰く、今や古典の箏曲は鋭い演奏スタイルが求められるので、この物言いでは通じないという。みなさんは自主的に、作曲者の趣味を理解して「レトロでセピア色な」音楽に作り直して下さっていた。傍らで眺めていると七重さんのアドヴァイスは当然ながら実に的をえていて、素人は感心するのみ。やはり言いたいことがあるだけでは、コミュニケーションは成立しないものらしい。

キッチンで譜読みをしていると、息子が小学校の保健の先生に付添われて帰宅。朝の登校時に自宅前で派手に転んで目の脇を擦り剥いたという。「ご両親が驚かれると思いまして」と優しそうな先生。本人も随分ショックだったらしく、暑かったしシャワーで汗を流したらと言うと、沁みるからと嫌がる。が、そのくせ温泉で傷を癒すときかないので、祖師谷温泉に連れて行くと、嬉々として風呂に浸かりご満悦。大変加減がよろしいとかで、2日続けざまに祖師谷温泉に通う。


7月某日 三軒茶屋自宅にて

昨日は夜明け前より息子の調子が悪くなり、医者につれてゆくと熱中症による急性胃腸炎とのこと。朝は家人が留守のため、寝かしつけて譜読み。前日に本牧までイワシ釣りに出かけたせいか。外道で30センチのアジを釣ったのに、もう一息というところでバラしてしまったと鼻をふくらめせて興奮していたが、熱中症では困る。それはともかくこちらは今日は筝曲の本番なので、夕方家人と入替わりで慌てて家をでる。空いた時間に錦糸町ホール前の古い喫茶店でサンドウィッチを頼むと、出来立ての温かいオムレツがはさまれた逸品がでてきて思いのほか美味。昔ながらの食べ物は、手間がかかっている分おいしい。帰りの地下鉄でユージさんに拙作の感想をうかがうと、「半分形になったヒヨコを食べる何とかという料理」に似ていたそうで、我が意を得たりの感あり。


7月某日 横浜より東急車内にて

ミラノに戻る直前、息子と親父と連れ立って堀ノ内に出かけた。息子は親父と先に釣り始めていたが、こちらは駅前で仏花と線香を購い、海と反対側にある祖母の墓に出かける。このところ茹だるような暑さが続いていて、水をかけると墓石が実に心地よさそうにみえる。花を活け線香を焚いて手を併せた途端、どこからともなく大きな黒蝶がやってきて目の前の仏花に留まり、そのまま暫く羽を休めてから、ゆったりと去っていった。海に向かって、現在は普通の住宅になってしまった京急ガード下のしもた屋跡を通り過ぎながら、向田邦子の文章に、たびたび「しもたや」が登場するのを思い出す。岸壁につくと、息子は早速クサフグとイワシを釣ったと大喜びしている。息子は、昨日は金沢八景でカサゴ、今日は堀ノ内でフグが釣れたのが嬉しくて仕方がない。飯のタネにイワシ釣りに出かけた筈だが、あまり事情が呑み込めていない。


7月某日 ミラノ自宅にて

涼しく日当たりが良いので、息子の勉強机で譜読みをしている。時差ボケで3時くらいには目が覚める。昨日は朝出かけるぎりぎりまでカーターの粗読み。一見掴みどころがなさそうな音楽に、半ば大胆に切り込むようにして、自分なりのフレーズ構造を作ってゆく。これは演奏上の都合だから、実際の作曲構造とはかけはなれているに違いないが、それはクラシック作品でも同じ。ざっと切り口を入れると、真空パックの食品をナイフで開けたときのように、空気が少しずつ通うようになる。どんなに単純な作品でも、念のため現代曲はいつも譜割りをするのは、全く別の側面が見えてきて、それを気がつかずにやり過ごすのが怖いから。

尤も、気がつけばよいかどうか、分からないこともある。先日カドルナ駅で久しぶりにエミリオと話し込んだとき、開口一番「日本の放射能汚染は随分進んでいるそうじゃないか。どうして子供を日本に連れていったのか」、強い調子でそう言われて怖気づいた。大丈夫な筈だと応えても「日本政府は何も真実を発表しないから」と諦めたように言われて、後が続かない。ちょうど選挙が済んだところで福島の汚染水漏れの発表があり、トレンチから高濃度汚染水が発見されたとニュースで知ったばかりだった。

人間が生きる上で、すべてが無数の矛盾を孕んでいる事実は認めざるを得ない。人と出会うのは、別れがあるからだし、自分に仕事があるのは、誰かの仕事がないからだ。自分が食べていると言えるのは、自分に食べられる存在あってこそだろうし、こんなに安価で嬉しいと飛び上がるのなら、そんな対価で苦しむ人はどこかにきっと存在している。

原発再稼動はせめて福島の処理の目処がついてからと願うけれど、自分が軽々しく言うのも無責任だろう。放射能は手に負えないように見えるけれど、同時に火力発電に使う石油をめぐって、今までどれだけの人間が死んできて、今も死に続けているか考えれば背筋が寒くなる。かといって、それが再稼動の正当化に直結させられるのも困る。人間が生きる上で、絶対的な正義などたぶん存在しないことだけでも、やはり折につけ思い出しておくべきかもしれない。

(7月30日ミラノにて)