2013年8月号 目次

105 緑富士──ガボン藤井貞和
ギターが消えた(その2)スラチャイ・ジャンティマトン
しもた屋之噺(139)杉山洋一
月を追いながら歩く(4)植松眞人
イラクからスハッドちゃんが日本にやってくるさとうまき
しろくまはどこに 行った大野晋
オトメンと指を差されて(休)大久保ゆう
璃葉
アジアのごはん(57)万願寺と伏見森下ヒバリ
五年ぶりに海へ仲宗根浩
代表的なインドネシア舞踊とは?冨岡三智
ケベック少年(ダニエル・ラノワによる)管啓次郎
掠れ書き31 ここ高橋悠治

105 緑富士──ガボン

 本格的動力炉の第一号は天然ウランを使用して一九六六年七月に営業運転を開始している。当時の一枚漫画に農家のオヤジが原子炉を購入して風呂を焚いているというのがあって好景気下に家電並みである。石墨(黒鉛)の制御棒を積み上げた炉心からコードを引っぱってくる。この制御棒を造るのがたいへんだということはそれとして(だから省略する)天然ウラン利用ならば私にもできるのではないかという長年の夢だ。臨界になれば(制御できないから)「それきり」であっても原子炉には違いない。富士山麓の山梨県上九一色村の貸し別荘を借りて最初にピッチブレンド人形石トロゴム石燐灰および燐銅ウラン鉱などありったけの含ウラン鉱を磨りつぶしてペースト状の緑色ケーキに造る。これだけでも発熱してくるから面白いただし根気との斗いである。電源は深夜電気と充電器とでこれもありったけ集めておき「起爆」装置としてひたすら圧縮型のJ4格納容庫に時間をかけることにする大量にナトリウムを買い付けて補填剤とする。これから亡霊が原子力規制委員会と日本政府とへレターを書く国内商業原子炉の稼働ならびに再稼働および海外への「死の商人」をやめよと。もし強行するなら富士山があぶないよ、怒るよ。


(ときどきこういう「詩作品」が送られてくるよな。暗号が籠められており原子力規制委員会のメンバーならば分かるはずだという。八巻さん、危険かもしれないから掲載しないほうがよいと判断するならボツにしてください。)


ギターが消えた(その2)

荘司和子 訳

わたしのバンドはメンバーがちょくちょく変わるのだが、ギターが無くなるという事件は一度しか起きていない。10年も前のことだったから、どんなことに気を付けているべきかをすっかり忘れていた。

その日はバンコク郊外の大きなライブハウスでの演奏だった。生きるための歌が一番ヒットしていたころで、集まってきた人で活気にあふれていた。演奏が終わるといつものように荷物を次々に車に運んで積んでいく。

好意でギターを運んでくれて車に載せてくれた者がいた。ところがその車はわたしたちの車ではなかったのだ。その辺りのタクシーかなんかだったのだろう。それ以来わたしはファンの連中をあまり信用しないことにしていた。ずっと気をつけていたので、何も無くなるということはなかった。細かいもので、太鼓を叩くばちとか、足踏みのエフェクターとかは無くなっても後日戻ってきたものだ。

そして今回だが、パッタルンで起きた。パッタルンはタイの南部で初めてどころか毎年来ているところだが、いまだかつて何か盗まれたということはなかった。こそどろだろうとなんだろうと、だ。ここの人たちとはなしてみると、なんやらかんやらいろいろ言われた。

「ここの人間はこんなものなんだ」という者がいた。
「ひとさまの物をもってきて自分の宝物にしてしまう。それが腕自慢みたいなことで、貧困でやるとかいうのでは全くないのさ。ときには自分へ挑戦というのもある」
「へぇ〜」とわたしは頷くだけはして、それから自分がどれくらい不注意だったのか考えてみた。車をしっかりロックしていなかったのではないか、窓を閉めるのを忘れてはいなかったか、とか。何故かと言えば消えたギターは窓のそばに置いてあった。ただし降りてきたときドアはしっかり閉めた。車もロックした。ギターの持ち主はホテルに入るまではずっとギターをかかえていた、と主張している。ただ今回は部屋まで持ち込まなかったのだ。何故かというともうすでに明け方だったので、2、3時間なら心配ないだろうし、車もホテルの真ん前に停めてあったし、という。

信じられないほどあきれたことを言うやつもいた。
「えっ、ぼくがギターをさがしてくるんですか? え〜っ! ぼくの村ではですねっ、2、3ケ月前ですがね、頭のすっごくいい子供の象が車を盗んでそれに乗ってジャングルに入ってどこへ行ったか分からない。ショーに出ている象の子供ですよ〜。また盗むこともできますよ。今どこにいるんだか誰にもわからないんですよ〜」

わたしは笑いを禁じ得なかった。

「この辺では車がひっくり返って壊れているのを見つけると、村の連中が手押し車をもってきて中の物を家に持ち帰ってみなすましている」と、こんなはなしまで飛び出した。


しもた屋之噺(139)

昨日は本当に妙な天気で、晴天と暴風雨が1時間ごとに繰返され、何でもミラノ近郊では大きな竜巻も発生したそうです。昨春同じマンションに越してきた日本人一家が完全帰国するからと、今朝挨拶にみえると、ほんの1年足らずの間にすっかりイタリアに馴れた小学生の息子さん二人が、見違えるように逞しくなっていました。

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7月某日 三軒茶屋自宅

角田さんバンドとのリハーサルで大久保に出かけた。スウィングする箇所を決め、音量のバランスを整えたりして、練習は思いの外とても愉しい。尤も、あとで聞けば彼らの普段の練習スタイルとはまるで違ったそうだから、メンバーの皆さんが楽しめたかどうかは非常に怪しい。練習後、着替えて挨拶に戻ったところ、全員で直した箇所を一つ一つ丁寧にチェックしていらして、感激するやら、頭の下がる思い。

理由は分からないが、大久保の練習場に出かけると、ガード下の立喰いそばに寄らずにはいられない。成田空港に着くと無性にカツカレーが食べたくなるのと同じだろう。今日に至っては、昼飯を食おうと直前に駆けこんだものの練習時間になってしまい、頼んだ鴨ソバを食べ切れずに帰りがけに天ぷらそばを食べ直した。

口を出して伝える大切さを思う。言わなくても分る、言っても無理、言うのは失礼、後で伝えようという心遣いは、一見細やかな優しさに見えるが、自己を堅固な殻で守る詭弁に過ぎない。可能でも不可能でも、口に出して初めて見えてくるものがあるし、明快なヴィジョンはその先の吸引力をもたらす。正論かどうかはともかく、政治のスローガンなど最たるものだろう。指揮者だって、技術より結局は本人の個性そのものが魅力的かどうかに尽きる。伝えたい内容さえ伝われば、道程や手段は問題とされない場合もあるのだ。コミュニケーションにおいて、思ったり感じたりした内容を道理立てて言葉にするのは易しくはないけれど、面倒くさがってはいけない。

先日七重さん宅に吉川さんと坂本さんのリハーサルのためお邪魔すると、格段に音楽が円やかになっている。前回「お二人が古典をやるようにでも弾いてくだされば結構ですから」などと分かったような口を叩いて失礼したが、七重さん曰く、今や古典の箏曲は鋭い演奏スタイルが求められるので、この物言いでは通じないという。みなさんは自主的に、作曲者の趣味を理解して「レトロでセピア色な」音楽に作り直して下さっていた。傍らで眺めていると七重さんのアドヴァイスは当然ながら実に的をえていて、素人は感心するのみ。やはり言いたいことがあるだけでは、コミュニケーションは成立しないものらしい。

キッチンで譜読みをしていると、息子が小学校の保健の先生に付添われて帰宅。朝の登校時に自宅前で派手に転んで目の脇を擦り剥いたという。「ご両親が驚かれると思いまして」と優しそうな先生。本人も随分ショックだったらしく、暑かったしシャワーで汗を流したらと言うと、沁みるからと嫌がる。が、そのくせ温泉で傷を癒すときかないので、祖師谷温泉に連れて行くと、嬉々として風呂に浸かりご満悦。大変加減がよろしいとかで、2日続けざまに祖師谷温泉に通う。


7月某日 三軒茶屋自宅にて

昨日は夜明け前より息子の調子が悪くなり、医者につれてゆくと熱中症による急性胃腸炎とのこと。朝は家人が留守のため、寝かしつけて譜読み。前日に本牧までイワシ釣りに出かけたせいか。外道で30センチのアジを釣ったのに、もう一息というところでバラしてしまったと鼻をふくらめせて興奮していたが、熱中症では困る。それはともかくこちらは今日は筝曲の本番なので、夕方家人と入替わりで慌てて家をでる。空いた時間に錦糸町ホール前の古い喫茶店でサンドウィッチを頼むと、出来立ての温かいオムレツがはさまれた逸品がでてきて思いのほか美味。昔ながらの食べ物は、手間がかかっている分おいしい。帰りの地下鉄でユージさんに拙作の感想をうかがうと、「半分形になったヒヨコを食べる何とかという料理」に似ていたそうで、我が意を得たりの感あり。


7月某日 横浜より東急車内にて

ミラノに戻る直前、息子と親父と連れ立って堀ノ内に出かけた。息子は親父と先に釣り始めていたが、こちらは駅前で仏花と線香を購い、海と反対側にある祖母の墓に出かける。このところ茹だるような暑さが続いていて、水をかけると墓石が実に心地よさそうにみえる。花を活け線香を焚いて手を併せた途端、どこからともなく大きな黒蝶がやってきて目の前の仏花に留まり、そのまま暫く羽を休めてから、ゆったりと去っていった。海に向かって、現在は普通の住宅になってしまった京急ガード下のしもた屋跡を通り過ぎながら、向田邦子の文章に、たびたび「しもたや」が登場するのを思い出す。岸壁につくと、息子は早速クサフグとイワシを釣ったと大喜びしている。息子は、昨日は金沢八景でカサゴ、今日は堀ノ内でフグが釣れたのが嬉しくて仕方がない。飯のタネにイワシ釣りに出かけた筈だが、あまり事情が呑み込めていない。


7月某日 ミラノ自宅にて

涼しく日当たりが良いので、息子の勉強机で譜読みをしている。時差ボケで3時くらいには目が覚める。昨日は朝出かけるぎりぎりまでカーターの粗読み。一見掴みどころがなさそうな音楽に、半ば大胆に切り込むようにして、自分なりのフレーズ構造を作ってゆく。これは演奏上の都合だから、実際の作曲構造とはかけはなれているに違いないが、それはクラシック作品でも同じ。ざっと切り口を入れると、真空パックの食品をナイフで開けたときのように、空気が少しずつ通うようになる。どんなに単純な作品でも、念のため現代曲はいつも譜割りをするのは、全く別の側面が見えてきて、それを気がつかずにやり過ごすのが怖いから。

尤も、気がつけばよいかどうか、分からないこともある。先日カドルナ駅で久しぶりにエミリオと話し込んだとき、開口一番「日本の放射能汚染は随分進んでいるそうじゃないか。どうして子供を日本に連れていったのか」、強い調子でそう言われて怖気づいた。大丈夫な筈だと応えても「日本政府は何も真実を発表しないから」と諦めたように言われて、後が続かない。ちょうど選挙が済んだところで福島の汚染水漏れの発表があり、トレンチから高濃度汚染水が発見されたとニュースで知ったばかりだった。

人間が生きる上で、すべてが無数の矛盾を孕んでいる事実は認めざるを得ない。人と出会うのは、別れがあるからだし、自分に仕事があるのは、誰かの仕事がないからだ。自分が食べていると言えるのは、自分に食べられる存在あってこそだろうし、こんなに安価で嬉しいと飛び上がるのなら、そんな対価で苦しむ人はどこかにきっと存在している。

原発再稼動はせめて福島の処理の目処がついてからと願うけれど、自分が軽々しく言うのも無責任だろう。放射能は手に負えないように見えるけれど、同時に火力発電に使う石油をめぐって、今までどれだけの人間が死んできて、今も死に続けているか考えれば背筋が寒くなる。かといって、それが再稼動の正当化に直結させられるのも困る。人間が生きる上で、絶対的な正義などたぶん存在しないことだけでも、やはり折につけ思い出しておくべきかもしれない。

(7月30日ミラノにて)

月を追いながら歩く(4)

 その日、邦子は東京駅の二十三番ホームで香と待ち合わせをした。チケットは事前に教えてもらった香の住所に送っておいた。ジュンさんに会いましょうよ、と言い出したのは香だった。邦子も久しぶりに会いたいとは思ったのだが、香のように「会いに行く」という行動に直結はしなかった。しかし、『会いたい』の次は『会いに行く』しかないですよ、と笑う香を見て思わず「一緒に来る?」と誘ってしまったのだ。香はなんの迷いもなく「はい」と答えた。
 邦子はその場で父の妹である叔母に電話をかけ、ジュンさんの連絡先を聞き出した。
「今頃、ジュンさんに何の用なの」と聞かれたのだが、邦子は答えを用意していなかった。それで、正直に「会いに行こうと思う」と話すと、一瞬の沈黙があって「好きにすればいいけど、あの人変わってるから会ってくれないかもよ」と父方の叔母は電話番号と住所を教えてくれながら、呆れたようにため息をつくのだった。
 叔母が教えてくれたジュンさんのフルネームは大久保ジュンだった。「漢字は?」と聞くと、「片仮名でジュンっていうんだよ。ハイカラな名前だってみんなが囃すもんだから、本人は嫌がってたけどね」と叔母は笑った。
 邦子がメモをした名前を香がのぞき込む。
「片仮名でジュン、か。なんだか芸能人みたいですね」
「そうね。私にとっては芸能人とはいかないまでも、きれいで、なんとなく別世界の人だなあって思ったわね」
「そんなにきれいだったんですか」
「顔立ちはどちらかというと地味だったと思うわ。でも、背筋がピンと伸びて、髪型もベリーショートでね。シワのない白いブラウスがなんていうか、こう言っちゃなんだけど、掃き溜めに鶴って感じがしたわ」
 それを聞いて、香が笑っている。
「掃き溜めって、いくらなんでも」
「でも、その時まだ子どもだった私の正直な感想なのよ」
 そう言って、邦子も笑ってしまう。
「掃き溜めの中で、ジュンさんは輝いていたわけですね」
「そう。輝いていたの。だから、そんなジュンさんとうちの父がいつも楽しそうに笑っているのを見るとなんだか、私まで嬉しくなってね」
「ジュンさんに会うの、楽しみですね」
「そうね。この写真のことジュンさんが知っているかどうかはわからないけれど」
「写真のお話をするときには、ちゃんと席を外しますから」
「そんなことを言うあなたが、なんだか嬉しいわ」
 邦子は思った通りのことを言葉にした。
「ありがとう。邦子さんみたいに真っ直ぐ話してくれる人とお友だちになるの、初めてかもしれない」
「真っ直ぐ話すと、時々人を傷つけたりもするんだけど......」
 邦子は笑いながら香に言う。

 東京駅を出発して一時間と少しで新幹線は長野駅に着いた。
「スキーのできない季節に長野に来るなんて初めてです」
 そう言って笑う香を邦子は連れて、レンタカーを借りた。香が運転するというのを断り、邦子がハンドルを握る。半分電気で、半分ガソリンで走るのだというレンタカーは、アクセルを踏むと、驚くほど静かに加速した。
 セットされたカーナビは、ジュンさんの住む場所へと二人を導いていく。走り出してから、邦子はカーナビの音声案内に集中していて言葉を発しない。香もそんな邦子を見守っていて黙っている。
 うまい具合に青信号が連続して、赤信号に当たるまで十分以上、黙ったままで邦子は車を運転した。久しぶりに運転で緊張していたせいなのか、長野という初めて走る土地のせいなのか、信号待ちの瞬間、大きなため息をついた。
「大丈夫ですか? いつでも交代しますよ」
 香にそう言われ、邦子は自分の何が心配されているのかわからなかった。
「どうして?」
「だって、とても大きなため息をついたから」
「ため息?」
「そう、ため息」
「少し緊張していたのかも。でも、大丈夫、疲れてはいないから」
 青信号になって、邦子は再びアクセルを踏む。
「なんか、楽しみなんだ」
「ジュンさんに会うのが?」
「それもあるけど、別に会えなくてもいいの」
 邦子がそう言うと、香は不思議そうな顔をした。ジュンさんに会いに来たのに、会えなくてもいいってどういうことだろう。そう考えている顔だ。そして、邦子はその顔を目の端に捉えて、問わず語りに話し出す。
「新幹線に乗っている間に、いろいろ考えたの」
「.........」
「叔母が言う通り、ジュンさんが会ってくれなかったらどうしようとか」
「でも、電話はしたんですよね」
「うん、電話したよ。とても懐かしいって喜んでくれて」
「じゃあ、きっと待ってくれていますよ」
「そう思う。でも、新幹線に乗っているときに、なんとなくだけど、本当はジュンさん、私に会いたくないんじゃないかと思ったの」
「どうして?」
「それはわからない。とても、喜んでくれているんだけど、心の底から喜んでくれているんじゃなくて、なんだか迷っているようなそんな感情が一瞬だけどあったような気がするのよ」
「声のトーンとか?」
「そう、声のトーンとか」
「はっきりとはしないけれど」
「そう、はっきりとはしないけれど」

 車は幅の広い幹線道路から折れて、一車線対抗の県道へと入ってきた。邦子はとても広い駐車場がある小さな洋菓子屋を見つけて車をとめる。
「お土産を買っていくわ。香ちゃんの好きなケーキを買ってきてくれる?」
 そう言って、邦子は香に紙幣を渡した。
 香がケーキを選んでいる間、邦子は車を降りて背中を伸ばした。そして、数日前に電話をしたとき、なぜ、ジュンさんが「会いたくない」と思っていると感じたのか、考えていた。考えてもわからないのだが、あの時の声のトーンを思い出していた。
 ジュンさんは邦子のことをはっきりと覚えていた。父のことも母のことも覚えていて、懐かしいと言ってくれた。そして、こちらから切り出す前に、「会いたいわね」と言ってくれたのだ。だから、これから会いに行って、会ってくれないということはないはずだ。にも関わらず、邦子はほんの一瞬抱いた、ジュンさんは私に会いたくないんじゃないか、という気持ちを完全に消し去ることはできなかった。
 そして、その気持ちをもう一度振り返って見ようと空を見上げた。
 その時、あの写真の空が見えた。真っ青なはずの空と雲がモノトーンで邦子の目の中に飛び込んできた。ふと足元にうずくまってしまいそうなくらいに驚いた。そして、その感覚から少し遅れて、邦子は本当に自分の足元にうずくまった。
「大丈夫ですか」
 香が驚いて声をかける。手に持ったケーキの箱が揺れている。
「大丈夫よ」
 邦子が応える。
「それより、ケーキがくずれちゃう」
 そう言って笑うと、香は慌ててケーキの箱を両手で包み込むようにして持ち直した。
「本当に大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。あの写真と同じ空だって思ったら、びっくりしちゃって」
 邦子は車のドアを開け、自分のバッグから、父が撮った数枚のモノクロの写真を取り出した。その中の一枚の空の写真を手にすると、それを空にかかげて見比べてみた。雲の位置は少し違っていたけれど、確かに長野の空に見えた。
 だけど、と邦子は思う。この写真が本当に長野で撮られたのかどうかは、ジュンさんに聞くまでわからない。邦子は思うのだった。ジュンさんが私に会いたくないと思っているのではない。きっとジュンさんはこの写真が長野で撮られたかどうかを知っていて、そのことを自分の口から話したくないのではないだろうか。そんな気がした。
 邦子はもう一度モノクロの写真を見た。そして、また空を見上げた。雲は風に流され、さっきよりも写真の雲の形に近づいているように見えた。


イラクからスハッドちゃんが日本にやってくる

2002年、初めて僕がイラクに行った時に、出会った少女。スハッドちゃん、9歳だ。目がキラキラと輝き、おりづるを折ってくれた。僕は、彼女の中に「サダコ像」を見たのだ。

「もし戦火が避けられないならば、われわれは正義の名の下、正しい方法で戦う。それは、罪のない人々に対する危害をできる限り避けることである。米国と同盟国は、イラクの人々に食糧や医薬品などの救援物資、そして自由をもたらす。」
ブッシュ大統領は、2003年の1月一般教書演説でのべた。しかし、イラクにもたらしたものは、多くの一般人の犠牲者だった。

スハッドは、バグダッドが戦禍にまみれたときおとなたちに手紙を書いた。
「私たちは戦争が好きではありません。なぜ戦争をおこしたの? 平和だけが好きなのに。私たちは、戦争はきらい。そして怒っています。私たち子どもは、なぜあなたたちが戦争を始めたのか聞きたいのです。」
10歳の子どもに福田康夫は、イラク戦争から10年たった2013年、わかりやすく答えている。
「(イラク攻撃支持は)日本のプレゼンス(存在感)を高め、小泉・ブッシュ関係(強化)の決定打になった」と。判断に誤りはなかった。(朝日新聞)

スハッドちゃんの父は音楽バレエ学校の用務員。貧しかったが、学校に住み込んでいた。戦争が始まると、校庭の防空壕に逃げて一夜を過ごしたことも。いよいよ米軍がバグダッドに迫るとイラク軍が、「ここを出たほうがいい」というので、郊外に疎開した。

バグダッドは、その後、内戦状態になり、道路には毎日のように遺体が転がっている状態になった。外に出られないスハッドちゃんたち家族は、学校で楽器をいじって過ごした。ユースオーケストラの楽員になってオーボエを吹くようになっていた。2011年、津波が日本を襲うといち早く手紙を送ってくれた。
「イラク戦争から8年が過ぎました。数万という多くの犠牲者がでました。子どもとその母親達は引き裂さかれ、子どもはその母に甘えることはできなくなり、母親はその子に触れることができなくなってしまいました。一体いつまで、私の故郷は苦しみ続けるの? 世界は小鳥のさえずりで目覚めるのに、私達は爆発音で眠りから起される。しかし、暗闇からのぞく一筋の光のように、希望が存在しました。辛い時を過ごしても、この経験が私に忍耐を与え、強くしてくれるだろうと信じていました。日本のみなさん、いつも私達が共にいるということを忘れないで下さい。みなさんは愛、敬意、そして称賛という言葉こそが相応しい人々なのです。」
そして、バグダッドで開催された日本のためのチャリティコンサートでオーボエを吹いてくれたのだ。その時の募金は、石巻の相川小学校に届けられた。津波で流された運動会の帽子を購入したそうだ。

イラク戦争から10年。僕は、大学生にイラク戦争の事を話すこともある。しかし、10年前と言えば、彼らは10歳。イラク戦争の事など記憶にないかもしれない。これからの日本を担う若者たちがと平和を考えていくのに、「イラク戦争はなんだったのか」を問うことは避けて通れない。同年代で戦争を体験したスハッド達と交流してほしいと思う。そのために、スハッドちゃんを日本に呼ぶことにした。

しかし、バグダッドは、今年に入ってから治安は悪化し、毎日のようにテロのニュースが入ってくる。無事にバグダッドを出ることができるのか不安だ。

8月19日から9月1日までスハッド(オーボエ20歳)と妹のハディール(バイオリン17歳)が来日。東京でのコンサート8月25日ほか、福島や石巻を訪問します。
今回のツアーには180万円ほどかかります。是非カンパをお願いします。
詳しくは、http://www.jim-net.net/event2/2013/07/post-9.php まで


しろくまはどこに 行った

近所の雑貨屋で買おうか?買うまいか? 迷っていたしろくまのフィギュアがいなくなってしまった。店の内装が少し夏バージョンになったタイミングで、もといたところから消えてしまったのだ! こうなると、俄然、買わなかったことへの後悔が湧いてくる。なぜ、お前はあのとき、買っていなかったのか? 2000円なにがしという価格が惜しかったのか? とおかしなことを考えるから困ったものだ。

さて、ここ数年の長期休みの楽しみは、めずらしく日本放送協会がFM波でやっている一日中ある決まったテーマの音楽をかけっぱなしにするという「XX三昧」という番組、特にテレビアニメの主題歌や挿入歌を専門にかけるアニソン(アニメソングの略称)三昧と決まっていた。生まれた時から、アトムやジャングル大帝で育った世代にとっては、アニソンは長期間刷り込まれた生来の音楽になっている。まあ、他愛もなく気楽に聴けるということで、車の運転中に眠気覚ましに聞くにはもってこいだったということなのだが。

そのアニソンが、この春からレギュラー番組化した。某日本放送協会が他局の番組の曲をかけるということ自体がここ数年では珍しいと思う。まあ、数年前までは映画音楽でひと番組できていたのだから、それを考えればあたりまえか? その番組を聴いていて思うのは、リクエストをする世代が50代、40代、30代に集中し、20代、10代が非常に少ないという傾向だ。そういえば、最近、テレビを見る機会が減ってはいるが、聞くところによると、テレビアニメの放送枠が減り続け、最近は深夜枠に残るようになったのだとか。深夜、放送するアニメというのは、昔の深夜番組よろしく、10代の若者が隠れてこそこそ見るとも思えないから、30代以上の大人用になってしまったのだろうか。テレビアニメは、今後、時代劇のように消え去る運命なのかもしれない。

消えたと言えば、書店にあれほどうず高く積まれていたコミックも最近は減少し、店の片隅に追いやられるようになった。まあ、こちらは私が学生時代を送った30数年前に戻ったとも言えるかもしれない。

時代はどんどんと立ち止まらずに流れていく。しろくまがいなくなったように、知らない間に何かが消えてしまったということに気づくことも、今後もあるだろう。

コミックと言えば、知らない間に夏と冬の2回開催になっていた(おそらく、冬だけではおへそを大胆に出すコスプレイヤーが風邪をひくから配慮したのかもしれない?)コミックマーケットに出店する同人誌2誌に、技術系の雑文を掲載することになった。昔はコミケと言えば、漫画同人誌の即売会だったのだが、最近ではマンガに限らずノンジャンルの同人誌の即売会になったらしい。ここでも、時代は変わっていくようだ。

さて、最近は同じ雑貨店で大きなゾウのフィギュアが気になっている。買ってどうする? と言われると手をひっこめるしかないのだが、果たして来月どうなっているのか? しろくまのその後とともに楽しみにしていて欲しい。


オトメンと指を差されて(休)

暑中お見舞い申し上げます。
猛暑のなか皆様いかがお過ごしでしょうか。わたくしはただいま17世紀にて旅をしております。本当は絵葉書などをお送りできるとよかったのですが、いかんせん想像のなかの世界というものは、実体を取り出せぬものでありまして、たいへん申し訳ございません。今回はある男の足取りを追っているのですが、そいつはまずヴェネツィアに現れ、そのあとロンドン、さらに大西洋を越えて、アメリカにも渡っている模様。見えるものをすべて〈風光明媚〉と言えると気持ちは楽になりそうですが、もはやこれは過酷というほかありません。はやくびわこにかえりたい。お土産は論文ひとつでよろしいでしょうか。それとも旅のさなか慰みにした翻訳でしょうか。いやむしろ面白そうな本を何冊か持ち帰った方がいいかもしれませんね。ご期待に添えるよう頑張ります。どうかみなさまくれぐれもご体調には気を付けてお過ごしくださいませ。

17世紀の真夏のある日より  


風が吹いている
光を掴みながら、
いつもと変わらず、旅をしている
雨も降った
寂しい音が枯葉に落ちた

影の中に隠れる人たちがいる
あの街は生きているのか
眠っているのか
そっと見ている人たちがいる

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アジアのごはん(57)万願寺と伏見

一年ほど前から鶏肉が食べたくなくなった。さらに追い打ちをかけるように、今年の2月にインド帰りのタイで卵にアタってから、卵にも食指が動かない。豚肉や牛肉は、量は食べられないが、いまもおいしくいただけるので、決してベジタリアンへの道を歩んでいるわけではない、が。

わが家の食生活の柱は、長きにわたって野菜と魚と豆腐製品、そして鶏肉と卵であったので、鶏肉や卵を使う料理はよく作ってきた。なかでも手羽元と大根の煮込み、その翌日の煮汁を使った気配だけの親子どんぶり、とか、ル・クルーゼでたっぷりのオリーブオイルで作る鶏肉とじゃがいもとニンニクの蒸し焼き(ローズマリーの枝を入れる)などしょっちゅう作っていた。

思い返してみると、そういった料理は去年から今年にかけてほとんど作っていない。そういえば、カレーの肉も手羽元から豚こま切れになっている(かたまり肉だと重すぎるので)。鶏肉を食べてもおいしく感じないし、嬉しくない、ということに気づいてからはほぼ自分で鶏肉を料理しなくなってしまった。

なぜなのかはわからない。食物アレルギーをいろいろ持ってはいるが、アレルギーともなにか微妙に違うようなのである。わたしの食物アレルギーのパターンはだいたい3つある。1つ目は、口は嫌がらないのに、食べてしばらくすると気分が悪くなってくるもの。乳製品や豆の皮がこのパターン。2つ目は口が入れるのを拒否するもの。ブルーチーズやスパイスの八角、アールグレー紅茶のベルガモットなどがこのパターン。間違って口に入れると、たいがい吐き出す。それでも気分が悪くなる。3つ目はある一定以上食べるとじんましんがでるもの。さばとか貝とか。

そういえば、3.11後にゼオライト鉱石からつくったゼトックスという液体(セシウムをはじめ重金属の排出作用がある)をしばらく飲んでいたら、コーヒーが飲めなくなってしまったが、この感覚と似ているかもしれない。コーヒーは徐々においしく感じなくなり、必要性も感じなくなり、最後には飲むのが苦痛になった(これは、わたしだけでなく、ゼトックスの愛用者の口コミにもそういう人が何人かいたので、ゼオライト鉱石は重金属の排出だけでなく、脱カフェインまで促すようである)。この感覚がまさに、いまの鶏肉・卵なのだ。

鶏肉が使えないとなると、あとは魚か豆腐製品ぐらいしかメインディッシュの柱となるものがない。魚も毎日はしんどい。というわけで、ついつい豆腐とかお揚げに登場をお願いすることになる。豆乳ヨーグルトは毎朝食べているし、もう大豆にはほんとうにお世話になりっぱなしである。

京都に住んでいてよかったと思うことのひとつは、おいしい豆腐とお揚げがかんたんに手に入ることだろうか。いつも食べているのは長岡京の「あらいぶきっちん」という店のお豆腐やお揚げである。何でもうまいが、ここの絹厚揚げをじっくり焼いて食べるのは、まさに口福。

ここのお豆腐は、近所のおからはうすで週に一回、または引き売りの有機八百屋さんで買う。買えないときは、スーパーで売っている北野とようけ茶屋のお豆腐を「ま、いいか」と買う。東京から遊びに来た友達に、ごめん今日はセカンドの豆腐しかないねん、と供したら「これがセカンドぉ? ぜいたくです!」と叱られた。とにかく、あらいぶきっちんのお豆腐は、夏は冷やっこ、冬は湯豆腐、さらに白和えなどなどとあまり手をかけずとも十二分においしいので本当に助かる。お揚げも味噌汁、炒めもの、焼きもの、あぶってサラダに入れたりと大活躍。

さて、この暑い夏の最多登場メニューは、冷やっこのほかには、万願寺とうがらしとお揚げの焼いたん、そして伏見とうがらしの焼いたののおかかまぶし、である。万願寺はちょっと太めのとうがらし、伏見は細長いとうがらしで、どちらも辛くはない。京野菜なので、どこの地方にもあるわけではないだろうが、この二種のとうがらしの美味なことといったら。しかも、フライパンにちょっと油を引いてこんがり焼き、しょうゆを回しかけるだけでいいのだから、楽ちん極まりない。

万願寺は姿のままでもいいし、2つか3つに切って焼いてもいい。中の種も出す必要はない。これにおいしいお揚げさんを食べやすく切って、一緒に焼いてしょうゆをかけて食べる。ビールもすすむ、すすむ。

伏見のほうは、切らずに長いまま焼く。お揚げさんもなくてよく、代わりに皿に載せてからおかかを振る。ショウガなどもいらない。これもしょうゆだけで味が決まる。じっくり噛みしめて食べるとうまみがじわじわ。タイに来るまでに何回食べたことだろうか。もっとも、出発間際にもう一度食べたくなり、いつもの有機八百屋さんになかったので、近所のスーパーで買ってみたが、うまみがあんまりなくて、がっかりしたけれど。

というわけで、食生活の柱から鶏肉・卵が脱落して、最近は豆腐と野菜ばかり食べていた。5日前にタイのバンコクにやってきて、ランナム地区で月貸しアパートを借りた。ここは今回初めてのアパートである。もっとも友人が長いこと住んでいるし、お気に入りのタイ東北食堂が近所にあるところで、なじみのある場所だ。

さっそく、豆乳ヨーグルトをつくろうと、豆乳を売っている屋台を探したが、まだ見つけられていない。このあたりは中華系住人が少ないせいかも。スーパーで売っているわりと質の良い豆乳で試してみると、まずい豆腐のようなヨーグルトになってしまった‥。仕方がないので、日系デパートの伊勢丹に行って「卯の花」という日本人のお豆腐屋さんの豆乳を買い、それで作ってみると、なかなかおいしくできた。これで、なんとかバンコクでも豆乳ヨーグルト生活ができそうである。

もっとも京都で満喫している豆腐生活のほうは、バンコクでできるとは思っていないが、その分、京都に戻った時のたのしみ、と思っておこう。そうでもなければ、たくさんの人が原発推進・憲法改正・TPPをすすめる政党に票を入れるような国に帰って来たくなくなるではないか‥。


五年ぶりに海へ

近所の居酒屋に行くとスクの刺身のメニューがあるので頼んだ。スクはアイコの稚魚、それも孵化してすぐ餌を食べる前に網で獲られる。餌を食べた後だと臭みが出るため食べられないと。それを塩漬けにし瓶に詰められ豆腐の上にのっけられたり、から揚げにされたりする。スク漁の時期、旧暦六月一日の直後だったのでから揚げと刺身があったが迷わず初めての刺身を食べた。自らが初めて餌を食べようとする前に人に食べられてしまうのがスクの運命。おいしくいただきました。

こちらは連日最高気温三十三度のままの毎日。夜、仕事先から車で帰るときはクーラーをつけずにすむくらいに、暑さにも少しづつ慣れてきた、というより鈍感になったのか。通勤時に車中で三年以上繰り返し流していた「ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ」も今ではザ・バンドのライヴ盤「ロック・オブ・エイジス」に変わった。これも何度聴いても全然飽きない音楽。

子供たちは夏休みに入る。夏休みに入る前、小四女子が新しく浮き輪を買ってもらっている。今年は海に行きたいと、本人の希望。わたしはその子の問うた。「あなたは車に乗るとすぐ酔うのに大丈夫か?」と。いくら海が近いとはいえ一番近いビーチでも車で十五分から二十分はかかる。その程度でも酔うのに本当に大丈夫かどうか確かめたら本人は海に行くのに車に乗らなくていけないことを「忘れてた。」と返事。「我慢する。」というので海に行く日、満潮の時間を調べ満潮になる三十分前くらいにビーチに着くように家を出る。大潮ではないので急に潮が引くこともない。平日の昼過ぎ、駐車場も混んでいない。近場といえ人工ビーチ、透明度を期待してはいけない。それでも海に目をやると正面には慶良間諸島がきれいに見える。左側は宜野湾のコンベンションセンターの建物とその先には発電所。右側からは嘉手納飛行場から訓練のためF15が頻繁に離陸し輸送用ヘリがすぐ近くを低空で旋廻する中、五年振りくらいに海に入る。まわりを見ると、地元の人間は日差しの怖さを知っているので、海に入るときは水着の上から肌を出さないようにTシャツなど何かを上から着て入っている。水着のまま肌を露出している人は観光客。こちらも日差し武装をしていたので腕だけが焼け赤くなった。帰るときはシャワーとか面倒なので、足についた砂を洗い流し、適当に身体を拭き、車に乗ってもシートを濡らさないよう、バスタオルをで養生してそのまま帰り、家でシャワー。これだと着替えも要らないので荷物も少なくて済む。

八月は平日午前中に開放している小学校のプールにいっしょに行って泳ぎも教えてくれと頼まれている。聞けばビート版を使いバタ足をしているとまっすぐ進まないという。うちの奥さんが言うには左右のキックのバランスが悪いのではないか、と。いやいやそれは違うでしょ。水の中でちゃんと目を見開いていればヒトというのは歩いているときと同じようにちゃんとキックを修正してラインに沿っていくはず。おそらくびびってゴーグルをしているにも関わらず目を開けてプールのラインを見ていないからだと。海でも波を怖がってすぐに入ることができないほどのびびりだから。


代表的なインドネシア舞踊とは?

いま、NHKの「あまちゃん」では、全国47都道府県(でも実際には5,6都道府県)から集めた地元アイドルのグループがデビューできそうなところまできている。で、アイドルではないけれど、複数の地方代表を集めてパフォーマンスというのは、インドネシア文化の紹介ではよくあることだ。というわけで、今月は、インドネシア文化の地方代表について。

まずは基礎知識から。インドネシアは約300種族からなる多民族国家で、その中の最大多数派が40数%を占めるジャワ民族。けれど、「多様性の統一」を国是としているので、インドネシア文化の紹介では、必ず5、6種の代表的な民族の文化が紹介される。中でも、定番中の定番はジャワ文化(スラカルタ様式、ジョグジャカルタ様式)、スンダ=西ジャワ文化、バリ文化、次いで定番といえばミナンカバウ=西スマトラ文化に東ジャワ文化というところ。

これは、国立の芸術高校(旧コンセルバトリ)や芸術大学(旧アカデミー)の所在地にはっきり表れている。芸術高校の所在地(開校順)はスラカルタ、バンドン(スンダ)、デンパサール(バリ)、ジョグジャカルタ、スラバヤ(東ジャワ)、芸術大学の所在地はジョグジャカルタ、スラカルタ、パダンパンジャン(西スマトラ)、デンパサール、バンドンである。ちなみに、1976年に大学となったジャカルタ芸術大学は、ごく最近に国立大学に準じる扱いになったが、最近までインドネシア文化の代表ではなかったと言っていい。これらの定番地域は、単に地理的なブロックで選ばれた訳ではない。島は大きくても、カリマンタン(ボルネオ)島とスラウェシ(旧称セレベス)島には芸術高校や大学が1つもない。

ジャワ島とバリ島がインドネシア(蘭印)の文化の代表だというのは、オランダ植民地時代から変わらない。1931年に開催されたパリ植民地博覧会ではバリ舞踊が初めて海外で上演されて、一躍有名になったけれど、実はこの時、ジャワ舞踊の上演案もあった。ジャワの窓口となったスラカルタ王家の王族の判断でそれは結局実現しなかったが...。スダルソノ(1998年、第9回福岡アジア文化賞を受賞した舞踊研究者)の著書にも『ジャワとバリDjawa dan Bali』というのがあって、インドネシア芸大の舞踊論講座の必読書だった。ジャワとバリにスマトラ島を加えた地域には、古代にヒンズー仏教が栄え、鉄道も通っているという共通点がある。1930年頃の映像で、客船や鉄道を使ってのバリ島、ジャワ島、スマトラ島の旅の記録を見たことがあるが、これらの3島は、西洋人にとって、アクセスしやすく、かつ古代アジアの文明へのロマンをかきたててくれる地域だ。植民地政庁の拠点や西洋人が観光にやってきた地域が、今度はインドネシア文化の代表地域になっていったと言える。

インドネシア代表の舞踊は、ジャワ=宮廷舞踊、スンダ=仮面舞踊、バリ=ヒンドゥー舞踊、スマトラ島=社交(男女で踊る)舞踊、東ジャワ=民衆舞踊という地域の特徴というか役割もそれぞれ強調され、それらはお互い被らないようになっている。国是の「多様性の統一」を強くアピールできるよう、地域差に加えて宗教や舞踊ジャンルの多様性も強調される。だから、定番以外の曲だと、政治な要因で新たにクローズアップされたり、されなくなったりする舞踊がある。

たとえば、1960年代前半にインドネシア政府が広めたスマトラ舞踊「スランパン・ドゥアブラス」。1961年にインドネシア芸術使節団が初来日したとき(水牛2011年12月号を参照)にも上演された。これは、スカルノ大統領が、ロックなど不健全なアメリカ文化の流入を食い止めるべく「ナショナル・ダンス」として広めようとした舞踊で、いまでもスマトラでは伝統舞踊として踊られているけれど、スハルト大統領時代になって下火になった舞踊である。1970年、つまりスハルトが政権を取って早々にインドネシア情報省が発行した『インドネシア・ハンドブック』では、この曲は忘れられたと書かれている(笑)。スハルトにとっては、忘れてしまいたい舞踊だったのだろう。

2011年、アチェのサマン舞踊がユネスコの無形文化遺産緊急保護リストに登録された。アチェは北スマトラの都市で、イスラムが強い地域であり、アチェ=イスラム舞踊という性格が強調される。インドネシア政府の芸術使節団で1960年代から海外に派遣されていた舞踊家レトノ・マルティ女史が言うには、アチェの舞踊は大阪万博(1970年)の頃はまだインドネシア使節団のレパートリーには入っていなかったらしい。しかし、1982年に発行された『インドネシア舞踊Indonesia Menari』にはアチェ舞踊の写真が出ている。この本の著者は芸術使節団の団長をよく務めたプリジョノで、掲載写真はそれまでに芸術使節団のプロモーション写真に使われたものが多い。ということは、1982年より前に(たぶん1970年代に)、アチェ舞踊の重要性が増してきたのだろう。アチェは1976年に独立を宣言して以降、スハルト大統領に弾圧され続けた地域だから、インドネシア政府は、アチェはインドネシアの一部であるということを内外にアピールしたかったのではないか、と推測している。(まだ他の裏付資料がないけど...)

首都ジャカルタの先住民ブタウィの舞踊については、上述の『インドネシア舞踊』の本でも全然言及がないどころか、1996年にハラパン・キタ財団(スハルト大統領夫人が代表理事)が出版した事典『⑦インドネシアの伝統舞踊』にも言及がない。スハルト政権が倒れ、2000年以降は華人文化の復権が認められてきてから、ブタウィ舞踊がフィーチャーされるようになった気がする。つまり、華人文化とマレー民族の文化との融合、華人文化も多様性の1つということを強調する必要が出てきて、ブタウィ文化はインドネシア文化に昇格したように思うのだ。


ケベック少年(ダニエル・ラノワによる)

強い硫黄の匂いが空気中に漂っていた
川沿いの道に沿って丸太の山が続いていた
自分たちが貧乏だという事実については
あまり考えなかった
(子どもはそんなことを考えはしない)

木造の橋は雪を避けるため
鳥の巣箱のように周りを覆ってあった
雪解けの時期が来る
冬眠していた木々の枝を
雪解け水が上がっていく

メープルウォーターを沸騰させて
積もっている雪に注ぐ
馬が引っ張るソリの足元には
暖を取るために熱した
煉瓦が敷き詰めてあった

畑を耕す代わりに
トウモロコシをもらう
石を投げて水切りをしたり
ペニー硬貨を線路に置いて
電車が潰すのを見たりした

私たちの好奇心を理解して
形がいびつになった
タイルをこっそり分けてくれる人もいた
(幼い頃からボブと私は
生産的であることが好きだった)

父に会えたうれしさで私たちは
車に飛び乗った
500マイルかけてケベックに戻った
父は街で大工仕事をしていたので
週の平日は子どもたちだけで生活していた

森の中での歩き方を教えて
くれたときのことを覚えている
父はこれをインディアンから教わっていた
野生と一体になるということだ
一歩踏み出し立ち止まって耳を澄ます

耳を澄ますことで次の一歩が決まってくる
そしてまた耳を澄ましさらに一歩進む
積もった雪は秘密を隠す
暑い季節には松の木から
したたる松脂が救いの神となる

近所には砂地があって
そこでは空にむけて弓矢を放った
目をつぶって矢が落ちてくるのを待つ
もちろん私たちのすぐ
そばに落ちてくることもあった

一番年下のロンは弓矢遊びはしなかった
料理に忙しく五歳児にして
薪ストーブの隣で椅子を踏み台にしていた
人々が自分の行動に責任を取らないことに
私はずっと興味を惹かれている

英語に馴れるのは大変だった
私は歩くのが好きだった
ハミルトンは製鉄の町なので
よく大気中に
焦げるような匂いがしていた

先生たちは修道女
学校は子どもたちに
小さな牛乳パックを配った
冷蔵庫はなかったので牛乳パックを
窓枠にずらっと並べて冷やしておいた


ダニエル・ラノワ『ソウル・マイニング』(鈴木コウユウ訳、みすず書房)からの引用のみで構成しました。


掠れ書き31 ここ

いまいる場所が「ここ」になる。「ここ」があるのは、「ここ」でない場所と区別するときだから、「ここ」を指す行為、あるいは「ここ」の意識は、分けた結果、あるいは分けた半分に光をあてるようなものだろう。「ここでない場所」があるから「ここ」があるとも言えるなら、行為や意識の裏側に「ここでない場所」が張り付いているはずだ。

ここはなぜ「ここ」なのか。「ここ」はここでなくてもよかったのではないか。ここが「ここ」である理由や根拠をあげることもできたかもしれないが、それらが後知恵でないと、どうして言えるだろう。あらかじめ全体の構図や目標があって「ここ」が選ばれたと納得できるのも、全体の地図が見えてからのことではないだろうか。それに、「あそこ」に行く道が一本しかないとしても、ではなぜ「あそこ」なのかということについて、おなじ疑問をもつこともできるだろう。

逆に、ここが「ここ」なのは偶然にすぎないとすれば、全体は閉じられたシステムになる。庭のように、そのどこにいて、どのように歩きまわってもいい。庭は平面ではなく、起伏があり、見る方向によって、風景は変る。世界が一つの庭だったとしても、おなじことが言えるだろう。その外側が内側からは考えられないとしても、庭や世界があるというだけで、それらには境界があり、境界があればその外側があるはずだ。外側に何もないとしても、「定義できない無」という外からの風が侵入して、内側に変化と崩壊や再生をもたらすのだと想像もできる。と言うのも、どんな世界にも、そこにない「もの」が考えられないとしても、「ないこと」、「ありえないこと」が考えられるとすれば、完全ではなく、不完全であれば、不安定であり、外から何かをもちこまなくても、内部の運動や構成要素の組み換えだけで、変化するにはじゅうぶんだと言える。

構成要素を将棋の駒のようにそろえ、それらをうごかす規則を作り、それからゲームがはじまるという順序ではなく、ゲームがあり、動きのルールが抽出されて何種類かの齣のかたちに圧縮され、それが動きにフィードバックされてゲームの「手」が洗練されるというように、手続きから見ていくと、有限数の要素のほとんど無限の組み合わせではなく、定跡をくつがえす別なゲームの可能性が生まれるのかもしれない。

閉じたシステムは循環する。循環は、かならずしも円のようにいつもおなじ軌道をめぐるだけではなく、おなじ場所に帰ってはちがう道に出るような、「ここ」が動かない一点ではなく、「この辺り」というようなひろがりのある不安定な場所で、その揺れ動く場所が別な軌道をひらくかもしれない「自己言及」と考えられるのではないだろうか。「自己言及」はただの反復ではなく、そのたびに変わり、編集され、その場で探りながら進む即興だが、揺らいでいれば思いがけない場所に逸れていくことがある。

「ここ」と「ここでない場所」を分けるなら、ここが「ここ」とするために「ここでない場所」に眼を走らせる動きがあり、それはうなずくような往復運動で、「ここ」が変化し、移動していくのにつれて方向や振れの大きさを変えていく。同時に「ここ」の範囲をたしかめる動きもあれば、それは小刻みな首振り運動になり、ずれていく中心を追って回転するだろう。往復と回転をともないながら、循環が以前通った地点を通過するとき、それは回旋運動になる。軸の傾き、方向、振動を含む揺らぎは、ダーウィンが観察した植物の葉や根の成長、また昼夜の変化、自転しながら公転する地球、庭をめぐる人の視点の変化にも起こるだろう。

おなじパターンが現れるたびにかたちを変えるが、それと認められるのは、音楽でも言えることだ。輪郭のゆがみとも言えるし、連続性と近さから見れば位相空間とも言える。

「ここ」は対象をさぐっている身体であるかもしれない。指が楽器に触れるとき、「ここ」は指の触れている表面にある。「ここ」に留まっていれば感触は消える。「ここ」を感じ続けるためには、指を動かしていなければならないだろう。「ここ」を感じ取る指の運動には、往復とズレがあり、感触範囲はひろがって、触覚空間のようなものが現れる。「ここ」は一点ではなく、さまざまな運動のパターンを作りながら維持しているようだが、運動の中心も一時的な支点にすぎず、どうしようもなく、おたがいに共振する部分はあっても、自然にいくつかの点で枝分かれして崩れていく。

「ここ」は楽器に触れている指先なのか、それとも楽器の響きにまで延長されて、音の変化する触手で空間をさぐっているのか。その響きが返って来て楽器を操る身体を浸し、身体の周りを繭のように包む、その空間が「ここ」なのか。

音楽が続いているあいだ、「ここ」は先端でもあり、境界の向こうの空間の感触でもあり、響きが還ってきてひろがる音の霧かもしれないが、それらすべてが身体の動きを確かめるスクリーンにすぎないとも言える。身体の固有感覚をことさらに意識しないでも、運動感覚を失わないでいなければ、瞬間ごとの発見に対応して方向を変え、動きの質や大きさを調整できないかもしれない。