代表的なインドネシア舞踊とは?

いま、NHKの「あまちゃん」では、全国47都道府県(でも実際には5,6都道府県)から集めた地元アイドルのグループがデビューできそうなところまできている。で、アイドルではないけれど、複数の地方代表を集めてパフォーマンスというのは、インドネシア文化の紹介ではよくあることだ。というわけで、今月は、インドネシア文化の地方代表について。

まずは基礎知識から。インドネシアは約300種族からなる多民族国家で、その中の最大多数派が40数%を占めるジャワ民族。けれど、「多様性の統一」を国是としているので、インドネシア文化の紹介では、必ず5、6種の代表的な民族の文化が紹介される。中でも、定番中の定番はジャワ文化(スラカルタ様式、ジョグジャカルタ様式)、スンダ=西ジャワ文化、バリ文化、次いで定番といえばミナンカバウ=西スマトラ文化に東ジャワ文化というところ。

これは、国立の芸術高校(旧コンセルバトリ)や芸術大学(旧アカデミー)の所在地にはっきり表れている。芸術高校の所在地(開校順)はスラカルタ、バンドン(スンダ)、デンパサール(バリ)、ジョグジャカルタ、スラバヤ(東ジャワ)、芸術大学の所在地はジョグジャカルタ、スラカルタ、パダンパンジャン(西スマトラ)、デンパサール、バンドンである。ちなみに、1976年に大学となったジャカルタ芸術大学は、ごく最近に国立大学に準じる扱いになったが、最近までインドネシア文化の代表ではなかったと言っていい。これらの定番地域は、単に地理的なブロックで選ばれた訳ではない。島は大きくても、カリマンタン(ボルネオ)島とスラウェシ(旧称セレベス)島には芸術高校や大学が1つもない。

ジャワ島とバリ島がインドネシア(蘭印)の文化の代表だというのは、オランダ植民地時代から変わらない。1931年に開催されたパリ植民地博覧会ではバリ舞踊が初めて海外で上演されて、一躍有名になったけれど、実はこの時、ジャワ舞踊の上演案もあった。ジャワの窓口となったスラカルタ王家の王族の判断でそれは結局実現しなかったが...。スダルソノ(1998年、第9回福岡アジア文化賞を受賞した舞踊研究者)の著書にも『ジャワとバリDjawa dan Bali』というのがあって、インドネシア芸大の舞踊論講座の必読書だった。ジャワとバリにスマトラ島を加えた地域には、古代にヒンズー仏教が栄え、鉄道も通っているという共通点がある。1930年頃の映像で、客船や鉄道を使ってのバリ島、ジャワ島、スマトラ島の旅の記録を見たことがあるが、これらの3島は、西洋人にとって、アクセスしやすく、かつ古代アジアの文明へのロマンをかきたててくれる地域だ。植民地政庁の拠点や西洋人が観光にやってきた地域が、今度はインドネシア文化の代表地域になっていったと言える。

インドネシア代表の舞踊は、ジャワ=宮廷舞踊、スンダ=仮面舞踊、バリ=ヒンドゥー舞踊、スマトラ島=社交(男女で踊る)舞踊、東ジャワ=民衆舞踊という地域の特徴というか役割もそれぞれ強調され、それらはお互い被らないようになっている。国是の「多様性の統一」を強くアピールできるよう、地域差に加えて宗教や舞踊ジャンルの多様性も強調される。だから、定番以外の曲だと、政治な要因で新たにクローズアップされたり、されなくなったりする舞踊がある。

たとえば、1960年代前半にインドネシア政府が広めたスマトラ舞踊「スランパン・ドゥアブラス」。1961年にインドネシア芸術使節団が初来日したとき(水牛2011年12月号を参照)にも上演された。これは、スカルノ大統領が、ロックなど不健全なアメリカ文化の流入を食い止めるべく「ナショナル・ダンス」として広めようとした舞踊で、いまでもスマトラでは伝統舞踊として踊られているけれど、スハルト大統領時代になって下火になった舞踊である。1970年、つまりスハルトが政権を取って早々にインドネシア情報省が発行した『インドネシア・ハンドブック』では、この曲は忘れられたと書かれている(笑)。スハルトにとっては、忘れてしまいたい舞踊だったのだろう。

2011年、アチェのサマン舞踊がユネスコの無形文化遺産緊急保護リストに登録された。アチェは北スマトラの都市で、イスラムが強い地域であり、アチェ=イスラム舞踊という性格が強調される。インドネシア政府の芸術使節団で1960年代から海外に派遣されていた舞踊家レトノ・マルティ女史が言うには、アチェの舞踊は大阪万博(1970年)の頃はまだインドネシア使節団のレパートリーには入っていなかったらしい。しかし、1982年に発行された『インドネシア舞踊Indonesia Menari』にはアチェ舞踊の写真が出ている。この本の著者は芸術使節団の団長をよく務めたプリジョノで、掲載写真はそれまでに芸術使節団のプロモーション写真に使われたものが多い。ということは、1982年より前に(たぶん1970年代に)、アチェ舞踊の重要性が増してきたのだろう。アチェは1976年に独立を宣言して以降、スハルト大統領に弾圧され続けた地域だから、インドネシア政府は、アチェはインドネシアの一部であるということを内外にアピールしたかったのではないか、と推測している。(まだ他の裏付資料がないけど...)

首都ジャカルタの先住民ブタウィの舞踊については、上述の『インドネシア舞踊』の本でも全然言及がないどころか、1996年にハラパン・キタ財団(スハルト大統領夫人が代表理事)が出版した事典『⑦インドネシアの伝統舞踊』にも言及がない。スハルト政権が倒れ、2000年以降は華人文化の復権が認められてきてから、ブタウィ舞踊がフィーチャーされるようになった気がする。つまり、華人文化とマレー民族の文化との融合、華人文化も多様性の1つということを強調する必要が出てきて、ブタウィ文化はインドネシア文化に昇格したように思うのだ。