ポンプは幼い子どもにとって「飲み水」を意味した。台所で地下水を汲み上げる道具だったからだ。オランダ語の「ポンプ=pomp」が日本語に入ってきたのはいつだったのか。水を汲み上げる器械、からくり。江戸期あたりだろうか。
緑の屋根の小さな家には、3畳ほどの台所に木製の流しがあった。システムキッチンの「シンク」ではなく、木枠で手づくりされた台所用の流し台だ。ちょうど胸の高さだった。踏み台に乗って見下ろすと、深さが10センチほど、内側はブリキで被われ四隅がハンダ付けされて、底面は手前からゆるやかに傾斜し、左隅に水が流れ落ちる穴があった。
胸の高さの流し台が腰の高さになるころ、その子はポンプで水が汲めるようになった。さあ、自力で冷たい水が飲める。
緑色の鋳物でできた円筒形の胴体内部を上からのぞくと、ゴム製の分厚い弁が見える。そこから金属の棒が垂直に上昇して、ポンプの最高部で柄に繋がっていた。柄の部分を人が押し下げ、押し上げ、地下水を汲み上げるのだ。
その子の家では、柄の部分に長めの木の幹が接続されていた。そのほうが冬場、握ったときの冷たさが少ない。ところどころ節くれの名残りがあって、握りがつるつる。水はブリキの筒を通り、先端にくくりつけられた、金気や不純物を濾し取る白い布袋から、太い水流となって流れ落ちた。
流しの下はいつもなんとなく湿っていた。流しの穴から伸びた排水管がまっすぐ床板を突き抜け、地面に達して、山羊小屋の隣に掘られた小さな溜り場へつづく。流れ落ちた水は、地面に半分埋め込まれた木製の樋を走った。その樋にこれまた木製の被いをつけたのはおそらく父だ。
農家の三男坊として生まれた父は、思いつくことをなんでも自力でやる人だった。さしずめ「DIYの精神」と呼びたいところだが、そもそも旧植民地ではこの精神がなければ生きてゆけない。開拓農村から徴兵されて満州、南洋諸島と、あの戦争を生き延びて、戦後まもなく、まだキリスト教の布教が盛んだったころ、隣町の教会で見初めた女性と結婚した。子供もひとり生まれた。そこで実家の田んぼのまんなかに、緑の屋根の小さな家を建てた。その家には仏壇も神棚もなかった。いまにして思えば底の浅い理想主義を不器用にかかげて、二人目に生まれた女の子に、結婚前から温めていた名前をつけた。
その子にとって戦争の記憶は、父の物語る南洋の船の話と結びつく。満州で鉄砲を構えながら空に撃ったという逸話も思い出される。昼間は田んぼに出ている伯父たちが、本家に集まり、元復員兵の弟たちを囲む酒席の場で、不気味な卑猥話の混じる記憶の薄暗がりにも結びつく。ふと浮かんでくるいくつかの場面──酒が入って赤らんだ顔、顔、顔、美しい尺八の音色に江差追分のこぶし、ときおり声が低くなり、やおら、どっと湧く哄笑。抑圧された感情が、ぎらりと障子の向こうで暴発する。子どもの目に、それは得体の知れぬ黒々しいものと映った。戦場の暴力をめぐる自省のかけらもない語り、と名づけられるようになったのは、ずいぶん時間がたってからだ。
北海道という土地が戦場となることはなかった。割烹着を着た女たちは、土間につづく台所で酒の肴を用意し、鉄瓶で銚子を温めながら、戦争にとられて帰ってこなかった夫の、息子の、弟の「不在」を仏前で嘆き、溜め込んだ感情を台所の日常のなかに紛れ込ませて、埋めた。
その子は踏み台に乗って流しを見下ろしながら歯を磨く。上を向くと、正面に明かり取りの窓があり、そこから白樺の大きな枝が見えた。取っ手のついたホーローのコップで口をゆすぐ。計量カップのような形をしたそのコップは、外側が赤く、内側が白い。母が北大の看護学校時代からもっていたものだ、と何度もくりかえし聞かされた。母の自由だった時間と分ちがたく結びついていたのだろう。コップはその後も母の異動とともに、北海道から九州、大阪、東京、ふたたび札幌へと旅をつづけた。母の最期に付き添ったのは子供たちではなく、おそらくそのコップだった。