2014年8月号 目次

えげつなき人々さとうまき
ふわ~り ふわ~りスラチャイ・ジャンティマトン
117アカバナー2 化(まぼろし)藤井貞和
台風と台風のあいだ仲宗根浩
棺桶の入る家冨岡三智
風が吹く理由(4)獅子座長谷部千彩
製本かい摘みましては(101)四釜裕子
「ライカの帰還」騒動記(その10)船山理
対立は対立しか生まない大野晋
祈祷、連なり璃葉
しもた屋之噺(151)杉山洋一
新・相馬盆唄若松恵子
ポンプと地下水くぼたのぞみ
島便り(4)平野公子
本を読む子植松眞人
一筆書きと 連句高橋悠治

えげつなき人々

日中は、45℃を超える。夜になっても温度は下がらない。息を吸い込むと熱風がのどを痛めるから、少しずつ息をする。そして、ここ、北イラクのアルビルは、冷房も停電で効かないことが多い。事務所の前には、下水が流れていて、少し臭いが、この水のおかげで少しばかり気温は、低い気もするが、当然不快感は増す。

イラクとシリアでは、「えげつない」戦争が続き、避難してくる人たちが後を絶たない。

僕は7月、写真家の村田信一とともにヨルダン、イラクを旅していた。おりしも、ワールドカップの決勝トーナメントがはじまり、僕は結果が気になっていたのだが、村田氏は、あまりサッカーには関心がなかった。「もともと、戦争で敵の首をはねて、蹴って勝利を祝うところから発生したみたいですよ」と教えてくれる。俄かには信じられないが、イラクやシリアで勢力を伸ばしている「イスラム国」は、シリア軍や、イラク軍兵士の首を切り落とし、橋の欄干に串刺しにしたり、まるで、オブジェの様に切り落とした首をいくつも並べてワイヤーでつるしている。村田氏は、「なんてこった」とため息をつきながら、毎日のように、そういった映像を見つけては、教えてくれた。僕たちは、イラク難民やシリア難民というくくりではなく、「イスラム国」の恐怖から逃れてきたばかりの人たちのキャンプを訪れた。モスルからアルビルに入る州境の検問所の手前にできたハザールキャンプは、テントの数も足らず、駐車してあるトラックや車の日蔭に集まってぐったりしている人々。ペットボトルの配給があると殺気立って集まってくる人々。またアルビル市内の工場の跡地に避難してきた人々は、豚小屋の様にフェンスだけで仕切られ、いくつもの家族が死んだように折り重なって眠っていた。

「なんてこった!」
僕は、言葉を失い、完全に「人道支援」というものにもやる気をなくしてしまった。そして本当に小さな支援活動しかできなかった。

7月8日になると、イスラエルはガザの空爆を開始した。
「なんてこった!」とため息はさらに深まっていく。
「えげつない」としか言いようのない殺し合いが続いている。

しかし、帰国すると、僕が団体のHPに投稿した「えげつない」殺し合いという言葉は、知らぬ間に、「むごたらしい」と変えられていた。問いただすと、関西弁だからだめだという。

「なんてこった!」
このえげつない世界をどう変えていけるのだろうか?


ふわ~り ふわ~り

荘司和子 訳

降りていく 降りていく
ふわ~り ふわ~り
別れには こころも萎える
生きていくことは
こうもはげしく疲れ
消耗するものか
それでも
感銘がある

はるかに遠い昔のこと
ひとに応えた経験
扉に向かって耳を傾ける
風の音がする
強く 速く
ヒューン ヒューン

降りていく 降りていく
ふわ~り ふわ~り
それはきっと愉しいことだった
何処へ行く
健康そうな少女
プルメリアの花が一面に散っている
樹は空へ向かってすっくと立ち
その枝は月に届いて
月に寄りそう

わたしは倖せ
わたしは哀しい
寂しい 寂しい 寂しい
孤独だ
海に想いをはせる
人気のない岩礁
山に想いをはせる
まだらに禿げた山
霧と露を想う
しずくが ポト ポトッ

今夜はきっと哀しい
しょんぼりと座っている
楊枝をつまみあげて
前歯で噛んでみる
かじる かじる かじる
そして 捨てる
静寂がやってくる
喉の奥でうたってみる
寡黙に奏でる
そして暗闇にまっしぐらに落ちていく

(1983年作品)


117アカバナー2 化(まぼろし)

月しろの光、 光のくさむらに、 (のたうつかげのわれらの― 不乱
舞茸を舞々つぶり、 食えば舞う。 (かなしむ― 月光下の、 撒(さん)である
月の兎、 (腐肉の犠牲。 いま明かり行く真性の菌(たけ)に  食われて
夏越しの茅の輪、 (燃える地上にかげもまたスリラー、 潜るスクリーン
うしろ正面の磔。 (怪かしの来てむさぼる、 ぼろぼろの鬼ごっこ
地底に届く足と、 (浮く手と、 眠りの擬態と、 月しろの磔刑
再びひきこもり― (君(きみ)、 さくらじま、 火のなだれくる無慚を恋えば
美神― 君咲く。 地の底の(「火の壁を越えよ」と声がする、 抗議
Spirited away!  脳(なづき)の(白さ、 骨通し来たる春、 遅い田植えというか
みとせのあなた、 鼠知らせの(啼き、 聞こえ、 還り来る花火の― 化(まぼろし)
神が来る風葬のあとの― しらじらと洗う(手足に、 まだ呪詛が足りないのか)、 俺
あらしのゆくえ、 いつしか)みとせの(あなたに遠のいて)、 化(まぼろし)が来る
嘆きの水よ)、 くれないの死者に)寄り添う(小動物を追う)、 あぶくま― 遙か
吹き落ちて)、 心火のあまい)乳汁を、 あかごなす、 魂か― 泣きつつ渡る)
つぶたつ) 粟のそじしに、 惨として別れた)。 そじしが)切り立っていた)

(韻律をなさず。((((波紋(光)波紋(音)波紋(光)波紋(踏む。)波紋(光)波)紋(光)波)紋)。)


台風と台風のあいだ

この前の続き、缶詰の「すとぅー」には島豆腐となーべーらー(へちま)をいれて鍋で暖められ立派な沖縄の家庭料理になった。ちゃんぷるーにスパムなどのポークランチョンミートを入れたりとアメリカの缶詰が沖縄の料理に入って来た。ツナ缶の「とぅうなー」は沖縄から熊本へ引越したときに同じ製品でも「とぅうなー」では通じなかった。復帰前と復帰後の日本のチョコレート、マヨネーズの味の違いに子供ながら愕然とし、慣れるまでに少しの時間が必要だった。その頃は英語という認識がないまま使っていた言葉がある。米兵相手に雑貨やチャイナ風の色っぽい衣類を売っていた店を「しゅうべに屋ぁ」と呼んでいた。近所に何軒もあった。これが英語の「souvenir」を元にしているのを知ったのは中学生くらいだったか。そういうお店に入る米兵は「はろー」、挨拶でハローを連発するから。二週間ごとに忙しくなるときは「今日はぺいでい(給料日)だから。」と大人は話していた。

大きな台風と警戒を促された台風は進路予測がいつの間にやら変わっていた。危ない西海岸コースを通る。もう少し本島よりだったらうちのアパートの一階店舗のシャッター二枚めくれ上がっただけではすまなかっただろうし停電は必至。小学校は台風が過ぎた翌日の豪雨でまた休校となり子供は二連休。月末は雨台風で職場を一人で雨対策のため養生したあと、「レッド・ツェッペリン、リマスター・プロジェクトの第二弾発表!」のお知らせメールが届く。六月に届いた第一弾の三枚の音圧、車の中で通常聴いているヴォルームだといきなりスピーカーの音が割れた、とアナログ感満載な音の仕上がりのためすぐ予約。数ヶ月前にちゃんとしたオーディオセットがあるところでツェッペリンのアナログ盤を聴いたときにかなりの音の良さを再認識。さすがに各面後半になると音がしょぼくなるのはしょうがないとしても両面一曲目の出だしのロックな音は最新リマスターにも負けない。音楽のメディアとしてのCDもいつまで続くのか、もうそろそろ終わるのか。


棺桶の入る家

何か月も続いていた自宅の改装がやっと終わる。家の改装を嫌がっていた父が亡くなったので、母は心おきなく踏み切ることができた。いままで店舗にしていた所も部屋に改装し(もう廃業しているので)、玄関も普通の家のようにする。玄関を開けるとすぐ正面に上がり框と引戸があって、まっすぐに部屋に入るという、いかにも昭和の住宅という感じのデザインになった。うちは終戦直後に建てたようなボロ住宅なので、構造上デザインも限られるとはいえ、もうちょっとお洒落な改装もできたかもしれない。けれど、私としてもこの昭和風にしたいという希望があった。(決定したのは母だけど)。つまり、棺桶を部屋から運び出せることのできるデザインにしたかったのだ。

店舗だったときは、店の扉こそ大きかったけれど、棚をたくさん据え付けたために裏の住居部分に続くドア周辺が狭くなってしまって、棺桶が通らなかった。だから納棺は座敷ではなくて、店のちょっと広くなった所でやるしかなくて、人に父を抱えてもらって店まで運んだ。せめて母が亡くなったときには、ちゃんと座敷で納棺して、そのまま玄関から担いで運び出してあげたい。

こんなことを考えるようになったのは、以前に読んだ養老孟司の『死の壁』の影響が大である。解剖医の氏がある遺体の棺桶を高層団地に運ぶときに、団地は人が死ぬことを想定して建てていないことに気づいたということが書かれていた。最近では団地だけでなく一戸建てでも、表から玄関の中が見えにくいように、あるいは奥行を出したり高級感を持たせたりするために、玄関へのアプローチから中の廊下に至るまで、曲がっていることも少なくない。こぢんまりした家やマンションなら苦労するだろう。養老氏の本を読んで以来、そういう造作の家を見ると、棺桶をどうやって入れたらいいのか、やたら気になるようになってしまった。


風が吹く理由(4)獅子座

7月が終わりに近づくと、毎年思い出すことがある。父の誕生日のことだ。

両親は私が14歳の時に離婚した。そのことについてネガティヴな感情の記憶はない。寂しくも悲しくもなかった。
父はどうやら子どもという生き物が好きではないようだ―そう幼い頃から感じ取っていたので、父が出ていくのは、家族の誰にとっても正解だと思った。むしろ、これから自分の身に起こる諸問題、進学や結婚について、父がいないほうが選択の幅が広がるような気がした。当時は、娘は自宅から通える大学に進学させたいと考える親も少なくなかった。

それでも、20代半ばまでは、時々父と会ってもいたし、連絡をとりあってもいた。語学留学していたパリのアパルトマンで手紙を受け取ったことを覚えている。しかし、その後は、私も働き始めて忙しくなり、すっかり疎遠になった。もう20年近く音信不通だ。もともとお互いの生活に特に興味もなかったし―父が書いた文章が何かに掲載されたといって冊子が送られてきたことがあるが、元気だということはわかったので、一読して捨てた―、振り返ってみれば、面会も、父と娘の責任を果たすためだけに会っていたという気がする。母が気を使ってその段取りを組んでいたのだと思うけれど、学生時代の私には、正直なところ、喫茶店で父と会う一時間がもったいなかった。父も早く帰りたそうだったし、私も友達を別な喫茶店に待たせていた。
そういう意味では似た者同士の平和な関係だ。

父は七月生まれの獅子座、私が九月生まれの乙女座、母と弟、妹は六月生まれの双子座だった。星占いを信じているわけではないけれど、実際、双子座の三人は感覚的に似ているところがあって仲が良く、父と私はそれぞれ単独行動をとるタイプだった。だから、父に対して何を感じることもないが、自分の中に父に似たところがあるとは思っている。私がひとりでいるのを好むのは、きっと父から受け継いだ性分だろう。

数年前、ふと思い立ち、妹に「パパと連絡とってる?」と尋ねたことがある。妹は、当然といわんばかりの表情で「とっていないよ」と答えた。そこで、今度は母に、「パパって生きてるのかな?」と訊いてみた。母は突然の問いに、きょとんとした顔で、「生きてるんじゃないの?」と言う。「パパが死んだら、誰かうちに連絡してくれる人っているの?」と、私がさらに尋ねると、「いないけど」と拍子抜けするような返事。逆に「えっ、あなたパパに会いたいの!?」と驚かれてしまった。私は、慌てて、「全然、そんなこと思っていないけど」と否定した。
「いや、年も年だし、死んでいてもおかしくないかなと思って」と、質問の真意を説明したけれど、母は私がセンチメンタルな気分にでも浸っていると誤解したかもしれない。

結局、私が知ることができたのは、父が生きているか死んでいるかわからないということ、それから、たぶん私たち家族の中で、父は永遠に生きていることにされるだろうということだ。打ち上げられた衛星が地球の周りをぐるぐる回っているみたいで面白いなあと思った。しかし、きっと父も―生きているならば―、打ち上げられた衛星が地球の周りをぐるぐる回っているみたいに、子どもたちは元気に暮らしていると、勝手に思っているだろう。私たちは父を安心して忘れている。父も私たちのことを安心して忘れている。

7月が終わりに近づくと、毎年考えることがある。人は疎遠になった者のことを、生きていることにも死んでいることにもできる。動かしがたい生は、いま目の前にいる人のものでしかない。


製本かい摘みましては(101)

月の始めにカレンダーをめくる。旭川のアドヴァンス社の大きなものと、栄光舎の3カ月一覧型の2つ。部屋掛けはこれっきり。実家には各部屋にカレンダーがあった。トイレや廊下、洗面所にも。茶の間にいたってはたいてい2つ。小さいころは柱に日めくりカレンダーもあり、おはようを言うころには毎朝祖父が「今日」にしていた。柱時計のねじを巻くのもジュウシマツに餌をやるのも祖父。どれも子どもには興味のあることで、ねだるうちにカレンダー以外は姉とわたしのしごとになった。『時をかける少女』で日めくりカレンダーをめくるのは原田知世の妹。祖父はなぜ孫にそれを譲らなかったのだろう。ただいちばん早起きだったからとは思うけど。

アドヴァンス社のカレンダーにはきまぐれに予定が書き込んである。電話をしながら、話しをしながらのなぐり書き。二重三重丸に矢印など。改めて見ると、予定が変更になったときに書き込んでいる場合が多い。けっこう可笑しい。あるとき思った。細かく記録するたちでもないくせに日記や手帳はいつまでもとっておく一方で、めくったカレンダーはなぜこうも当たり前のように捨てるのだろう。破るからか。そのことで「カレンダー」としてのかたちは瞬時に無くなり、いらぬものになってしまう。切った野菜が排水溝に落ちた瞬間に生ごみになるのに似ている。終わったぞ、めくるぞ、破るぞ、捨ててやる。とりかえしがつかない、というエクスタシーを与えるアクションだ。このアクション連鎖を断ってみたい。破った1枚を捨てたくないかたちに変化させたらどうだろうと考えた。

カレンダーの一日分の大きさが等しいことは、「本」のかたちに限りない親和性を感じさせてくれる。周囲の余分を切り、左から右から交互に切れ込みを入れて蛇腹に折って、一日分を一ページとした本のかたちにする。これをよくプレスしているあいだに、カレンダーに大きく描かれた「月」をあらわす数字の部分を切る。数字が表1にくるように案配して折り、表紙カバーとして中身にかぶせる。何冊も作るうちに蛇腹折りのずれは減り、束も、チリのとりかたも安定してきて、左右520ミリ、天地750ミリのひと月分のカレンダーが、左右75ミリ、天地100ミリ、背幅5ミリ、文庫本のおよそ半分の大きさの「カレンダー本」になった。限定一部の月刊誌の発行が今も続いている。


「ライカの帰還」騒動記(その10)

新潮社への入稿に、あらかたメドがついたころ、マガジン社の近ごろの動向が耳に入り始めた。正直、社内のドタバタなどに興味はなかったのだが、自分の部署やスタッフにも影響しかねないとなると、あまり能天気でいるのも何だな、と思う。社内で飛び交うウワサ話の中に「船山はハシゴを外された」というのも聞こえて来たから、ほー、そうなのか、うんうんと、ひとりで頷いていたのである。

私が作家さんとの打ち合わせで社外を飛び回っていたせいで、社内事情にすっかり疎くなっていたこともあるのだけれど、いくつかのウワサ話を組み立てると、何となくその全貌が見えてくる。まず、経理部の女性の寿退社があった。これは式にも呼ばれたし、ビデオ撮影も依頼されたからよく覚えている。問題はその後任人事で、会社はこれを契約社員にすると組合に通達した。今どきなら、何てことない話だと言っていい。

ところが、それまで会社との間でこれといった争点のなかった組合にとって、このことは格好の攻撃材料になった。いわく、これまでマガジン社の業績を支えてきたのは、社員の頑張りに他ならない。なぜ正社員として迎えないのか。契約などという不安定な雇用は許さない、と噛みついたのである。これに対して、会社側は「社員採用の条件を含む、すべての人事に関する裁量は会社に帰属する」と一蹴した。

そして組合は、この回答に「残業拒否」で対抗する。確かに雑誌は編集スタッフの頑張りで支えられている部分が少なくない。誰も好き好んで残業を繰り返すわけではなく、担当ページのクオリティをキープするには、自分の身を削る以外に手段は見当たらないし、編集現場は半ば、これを当然のこととして受け止めていた。そこに19時以降の残業を拒否するとなると、雑誌の「勢い」は見事に止まってしまう。

この事態を会社も組合も甘く見すぎていた。会社側にしてみれば、多忙な部署では通常の勤務時間の倍近くにもなる膨大な残業代を払わずにすむのだから、結果的に大幅な人件費の削減になる。組合側にすれば、残業がなくなれば、もっとゆとりのある生活が楽しめるので、何の不都合があろうか、というわけだ。どちらもこの会社を支える原資が、どうやってつくられているのかを見失っていたのである。

私に言わせれば、これは双方の「平和ボケ」以外の何ものでもない。これまで順風満帆で来ていたこの会社は、潤沢な内部留保金とその運用益で経営的には何の問題もない、と判断していた節がある。ところが組合の残業拒否は、あるまいことか1年半も継続した。これは雑誌社の寿命を縮めるには、充分すぎるほどの時間だった。雑誌の実売り部数は軒並み大幅ダウンし、編集長たちは蒼白になった。

意地になって一歩も引かない構えを続けていた社長の林さんに、会社のオーナーが助け船を出した。これが常務の大園さんである。しかし、この人には野心があった。ウワサ話の中には、彼が「マガジン社の次期社長はオレだ」と、あちこちで吹聴しているというのもあった。そして編集担当取締役だった見山さんを更迭し、編集と営業の役員に自ら抜擢した若いスタッフを配置して、林さんへの包囲網を築いたのである。

次に彼が手がけたのは、林さんの提唱した「余計なこと」の芽を摘むことだ。コミックの事業展開は、まさにその筆頭だった。とんびの眼鏡・総集編の販売価格が、当初の予定から大幅に引き上げられたこと、販売部長と新しい編集担当取締役を伴ってのコミックコード取得で、あまりにも唐突な引き下がり方をしたこと。なるほど、すべてに辻褄が合ってしまう。ハシゴを外された、というのは、こういうことか。

つまり、あの取次でのコミックコード取得交渉は、茶番劇であったということだ。知らなかったのは私ひとりで、取次の担当者はウチの販売部長と口裏を合わせ、調べればすぐわかるようなウソまでついて、私にコード取得をあきらめることを強いた。ははぁ〜ん、である。新編集担当取締役の田中さんが「ウチでコミックをやるのは最初から無理だったんだ」と言った言葉も、これで納得がいく。

要するに「とんびの眼鏡」は、ウチの会社では成功してはならないものとして、決定づけられていたことになる。私はこのことを確信したとき、大いに落胆したかと言うと、それは微塵もなかった。大手出版社である新潮社が注目してくれたことに、誇らしい気持ちでいっぱいだったからだ。もっともこの単行本の話がなければ、私の気持ちはズタズタだったに違いないのだが。

ややあって、とんびの眼鏡・総集編の販売実績が出たというので、私は役員室に呼び出された。そこには林社長の姿はなく、大園さんの左右に編集担当取締役の田中さん、営業担当取締役の梶田さんが陣取る。大園さんは販売部から提出された書類を前に「7万部を刷った総集編の実売り部数は、わずか1万部にも届かなかった。この責任をどう取るつもりだ!」と私を一喝する。私は茶番劇に付き合うつもりはなかった。

とんびの眼鏡・総集編は、月刊カメラマン別冊というカタチで販売されました。これは後に取次からコミックコードを取得し、単行本として展開するための布石だったはずです。書店の店頭に2週間という、ごく短期間の販売にも係わらず、しかも廉価版でありながら法外な価格を付されて販売されたこの総集編は、1万部と言えども大いに健闘したと思っています。私は彼らの前で胸を張って答えてみせた。

大園さんは苦虫を噛み潰したような形相になり、やがてあさっての方角を向いて「これでコミック編集部は解散だな」と言う。私にはこれも織り込み済みだった。会社に望まれない、足もとのしっかりしない部署で、大事な作家さんたちとお付き合いさせてもらうわけには行かないからだ。私はニッコリ笑って、たいへん残念です。それでは後処理に回らせていただきますので、これで失礼しますと席を立った。

やがて、コミック編集部は翌年3月末をもって解散する旨、通達が出た。さすがに素早い対応だ。と感心する。3月末と言えばまだ半年はある。この時間を有効に使って、吉原さんを始め、係わらせていただいた作家さんたちへの連絡や、突然に連載が終わったという印象を持たせないよう、各編集部の編集長たちと綿密な打ち合わせを行なう。編集長たちは、一様に私に気の毒そうな目を向けてくれた。

私にしてみれば、とんびの眼鏡が「ライカの帰還」と名を変えて、新潮社から単行本出版されるんだよ! と彼らに伝えたかったのだけれど、これはもう少し内緒にしておこうと思った。私がその制作に係わったということが知れると、余計なトラブルを招きかねないし、ヘンな横槍を入れられるのもマッピラだったからだ。もっとも心配だったのは、マガジン社が何らかの妨害工作をすることだった。

しかし、これは杞憂に終わる。例の友人からの受け売りだが、たとえ企画そのものが、その出版社のものであり、連載中の原稿料を支払ったからといって、出版社には何の権利も生じない。作品の著作権はすべて作家に帰属し、作品をどこで出版するかを含めて、作家さんにすべての権利が生じるということだ。判型に関しても、総集編のB5サイズに対して新潮社の単行本はA5サイズであり、これもクリアしてしまう。

いくら出版社が、これはウチが携わった作品だと言っても、作品はあくまで作家さんのものなのだ。掲載権という言葉があるとしても、出版社はその第一次掲載権を作家さんから「借りている」に過ぎない。だから、どちらかの都合で他の出版社から単行本が出ることになっても、誰も文句は言えないのである。さすがに同じ判型で出すことはご法度だが、サイズが違えばOKというわけだ。

念のため、私は「ライカの帰還」のあとがき(解説)を執筆した際に、末尾のクレジットを「編集部」としている。これは新潮社の編集部によって書かれたものですよ、という意味合いで、私の影は見えないようにしたつもりだ。だから文中に、このストーリーは実話をベースとしていて、そのモデルは、もと朝日新聞社、出版写真部部長の船山「さん」である、と親父を紹介している。

後日談になるが、新潮社版「ライカの帰還」にカットされた3話を加え、B6版で幻冬舎から刊行された「ライカの帰還・完全版」では、初めて原作は私の手によるものと、吉原さん自身が明かしてくれている。ところが解説部分をトレースするにあたって、幻冬舎はこのクレジットに私の名前を入れてしまった。息子が親父を紹介するのに船山「さん」はないだろう。言ってくれれば「父」と書き直したのに。

やがて新潮社から「ライカの帰還」が刊行された。表紙には親父から借り出したライカDⅢaが、大戦中に発行された新聞をコピーした紙に包まれた状態の写真が使われている。これは最終話でライカが主人公の手に渡るシーンを再現したもので、アイディアは例の友人であり、撮影は田中長徳さんだ。親父はこの本を手にしたとき、これまで私に一度も言ったことのない「おめでとう」という言葉をくれた。

私には、もうひとり、この本をいち早く届けたい人物がいた。大園さんによって関連会社に異動させられた、もと編集担当取締役の見山さんだ。彼の職場に赴き、これがボクの出したかった「カタチ」ですと手渡すと、しばしの間、本を見つめて「とんびの眼鏡のタイトルで、ウチから出したかったな」と呟き、私に握手を求めた。私は不覚にも大粒の涙を堪えきれなかった。


対立は対立しか生まない

このところ、対立に伴う争いのニュースが絶えない。人類は対立するしか能のない生き物なのかと悲しくなることもしばしばである。しかし、ちょっと待てよ、と考えてみた。

一般的に対立の先に行きつく所は決まっている。
(1)言い争いになる
(2)手が出る
(3)にらみ合いになる(冷戦)
しかし、対立の先に行きついたとして、問題が解決したと聞くことはない。

洋の東西、兄弟喧嘩から夫婦喧嘩まで、対立を生む原因は「主張の食い違い」である。普通の場合には、話せばわかることが多い。それは、相手の立場の理解不足が対立の構図を生んでいることが多いからだ。対立は、相手のことを知ることで解消することが多い。
ところが、「譲れないこと」が原因になると、お互いの主張が並行線となり、対立が争いにエスカレートする。夫婦であれば、離婚の危機ということだが、国家間になると最悪の場合、戦争が巻き起こる。その原因には「棚には上げることのできない」なにかが存在する。

多くの譲れないこととは。
(1)信じていること:信仰の理由、主義の理由
(2)自分を曲げたくないという気持ち:わがままや多数派の力学
(3)なんとなく???

ここで気づいて欲しいのは、そういう場合、対立が続くということは相手も譲りたくないと思っているということだ。全くもって、人間というものは困った存在なのだが、少し気持ちを切り替えることで打開策が見えたりしないものだろうか?

例えば
(1)双方が  :片方だけではみんながハッピーにはなれない
(2)相手のことを考えて  :自分の主張だけをするのではなく
(3)良い落としどころを探ること :世の中を探せば、結構、いい落としどころは見つかるものさ。

こんなふうに考え方を変えると、対立が少しでも実りの多い議論に変わるのではないか?と考えている。ときに、対立しているという状況になっているとき、どこかにその対立を望む勢力がいるのではないかと疑ってかかることが大切だ。世界で起きている対立の構図を見ながら、そして10年近く前のマクロスFというアニメーションを見ながら、そんなことを考えた。

青空文庫も、少し、延長反対!だけではなく、落としどころも考えてみたらいいんじゃないのかな?


祈祷、連なり

目の前の紙を見つめる
指の腹で感触をたしかめると、ざらざらと音がした
三角、四角、ダイヤ型、石の中の影の形を思い出し、連なりを描き出してみる
先を考えずに、赴くままに

太陽が雲に隠れると、部屋は一瞬にして蒼くなり、
涼しい風が窓から玄関へ通り抜ける
そのうちまた陽が照って、明るくなり、の繰り返し
こちらも幾何学模様を繰り返し、時間も円を繰り返す

ふと頭のなかに、あの地の祈祷旗が浮かぶ
真っ青な空の下、流れるタルチョー
風によって繰り返し読まれる経文
絵を描くこともなにかを唱えているようだ
思考はどこまでも旅をして、明るい場所を探し求める

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しもた屋之噺(151)

一年で一番ミラノが落ち着いた季節を過ごしていますが、時間はとても慌しく、まるで整理もつかないまま過ぎてゆきます。天候は本当に不安定で、土砂降りの空の奥に青空が顔をのぞかせています。

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 7月某日 日本に向かう機中にて
以前の日記帳を使い切ったので、ドゥオーモ裏のペッティナローリで手漉きのハードカヴァーの日記帳を購うが、勿体なくてなかなか使えない。

集団的自衛権について、それぞれ思う処があるのはわかるが、与党がどうとか首相がどうという以前に、この投票率の低さはどうにもならないのか。多数決で決められた内容に従うことに異存はないが、これだけ大多数の国民が選挙に興味を持たないのは、現在までの我々自身の責任に他ならない。何かが根本的に欠けていたのではないか。

機中、昨日出版社から受け取ったばかりのぺトラッシの「パッサカリア」を読み始めている。2管編成にサックスとトロンボーンが一本ずつ、それにピアノが入る。
1931年のオーケストラの音がする。ドナトーニが最初に影響を受けた作家でもあるので、ぺトラッシには興味を魅かれていたが、実際に楽譜を勉強するのは初めてで、面白くて仕方がない。どことなく全てがリベットやボルトで組立てられたように角ばり、色味は極力抑えられている。ダルラピッコラに通じる渋く深い響きがイタリアらしい。

 7月某日 三軒茶屋自宅
中目黒の沢井さんのお宅まで、三軒茶屋から自転車を走らせば10分ほどで着いた。つい先日、沢井さんに中国の古代琴、五絃琴のために「手弱女」という小品を贈ったばかりだったが、沢井さんが既に糸譜に直してあるのに驚く。
紀元前433年頃に葬られたと思しき、湖北省の曾候乙の墓から見つかった五絃琴は、ほろろんと幽けく、染み入るような五つの音をたてる。当時どれだけ静寂の純度が高かったか知れないが、我々よりずっと聴力も高かったろう。空気を伝う振動を、彼らはどんな豊かに知覚していたのか。沢井さんは、この楽器を爪弾けば心が澄んでくるという。

「畝傍山」で悠治さんが高田さんを念頭に書かれた五絃琴だが、自分としては沢井さんが琴として爪弾く姿しか知らないので、撥で弾く抱えられる楽器ではなく、爪で弾かれるものと思えば、生まれる音も自ずから変化する。

夜、鼓童の辻さん夫妻と表参道でお会いする。沢井さん、すみれさん、辻さんとお会いしていて、否が応にも眞木さんの面影を思い出さないわけにいかない。寧ろ、どうも眞木さんに一部始終を見られているようで、正直きまりがわるい。子供の時分、言われるままに通った演奏会や、理解せぬまま培った時間が、40代も半ばにさしかかり、漸くシナプスが手を繋ぐようになったのかも知れない。

 7月某日 三軒茶屋自宅
日記を書いていると、傍らで息子が書き終わったらこの日記帳を頂戴ねという。大人になったら読みたいのだそうだ。日記というより備忘録だが。甚だ申し訳ないと思いつつ、息子の小学校の夏祭りアイスキャンデー売りを義母にお願いし、「夢のたたかい」を聴きにゆく。モンポウは殆ど知らないので、何を聴いても新鮮にひびく。悠治さんが奏すると、楽器がよく鳴る。そして、時にとてもするどく、早い速度で音が空間を走り抜けたりする。また、和音などが思いもかけぬ温かい手触りで浮上る。

 7月某日 東横線車中にて
一ヶ月以上も前からの約束で、息子と三浦半島大津に釣りに出掛ける。横浜で父親とも合流。釣りは父に任せて仕事の譜読みをする心積りでいると、よく釣れるものだから息子の仕掛けから魚を外すので精一杯になる。結局、生臭い手で楽譜を読むのも厭になり、一緒に釣り糸を垂れた。嗚呼。海タナゴ9尾、鯖13尾、鯵3尾、鰯58尾、カサゴ1尾。9歳の息子からすれば大漁。

 7月某日 三軒茶屋自宅
「現代の音楽」収録。話しは特に苦手なので内心困りながら出掛けたが、猿谷さんに助けて頂いた。番組のプログラムを考えるだけでもどれだけの作品を聴かなければならないのだろうと、頭が下がる思い。日本で最も多くの現代作品を聴いておられるはずの作曲家、猿谷さんと垣ケ原さんとで、西口玄関一本先の辻の魚屋兼定食屋で、刺身定食をたべながら実体のない音楽をつづけている、我々の現実について話す。無駄が一切なく、本当に美味。三軒茶屋の茶沢通りには、秀逸な肉屋兼とんかつ屋がある。

代々木八幡で内倉さんとお会いし、暫し話し込む。我が国の子供の高い貧困率と、音楽で可能な社会貢献、地域貢献について。演奏会でお金を集めて子供たちに届けるのか、子供たちに音楽を実践してもらい将来に繋げたいのか、資金がなければ音楽が学べない日本の状況に風穴を空けたいのか。来週に迫ったイタリア国営放送響収録の譜読みは、全く滞ったままだが、さてどうするのか。

 7月某日 ミラノ自宅
日本から戻り数日経つが、寝ているのか起きているのか自分でもよく分らない状態のまま、ひたすら楽譜に向かう。急がば回れと自らを諌めつつ、どう振りたいかという先入観を極力排除する努力と勇気を信じたい。そして音が見えてくるのを黙って待つ。

 7月某日 トリノ ポー川通りの喫茶店にて(ミントのシロップを甞めつつ)
今朝からイタリア国営放送放送響と、近現代曲3曲の録音を始める。ホテルを出る前に楽譜を読み返していて、散々直したはずのペトラッシの譜面に未だ誤りを見つけた。最後まで諦めないで楽譜を読む意味は確かにあって、欠損したパズルが浮上って見えてきたりする。曲が理解できない焦りを堪えて、必ずや答えが見つかると信じる必要もあるだろう。ペトラッシの「パッサカリア」は、参考にできる資料は皆無だったとディレクターのファブリツィアもぼやいていた。
スコアには無数の誤植があり、パート譜も直されていないので、昼休みは近所からサンドウィッチを二個買ってきてもらい、ずっとペトラッシのパート譜を直す。ライブラリアンに任せるにしても、時間が足りない。
この50ページ程の楽譜で最後まで苦労したのは、テンポ設定だった。メトロノーム記号は一切書かれておらず目安がつかない。唯一参考にできる資料は演奏時間8分という、当てに出来るかどうかも怪しい記述のみ。
これを8分で弾ききるには、かなり早く演奏しなければならず、まず荘重なパッサカリアの先入観は捨てることにし、Sostenutoと書かれた部分は、単に基本拍を倍に取る意味と理解することに決めた。それならば、より遅く感じられなくとも、指示に矛盾は来たさないはずだと、ホテルを出て雨に降られてRAIのホールまで歩く道すがら、漸く気持ちの整理がついた。ウェーベルンの「パッサカリア」のように主題は二拍子で、調性が何となくホ短調で書かれているのは、調号からもわかる。

国営放送響ホール裏側はとても入組んでいて、控室へ戻るのに3度も路頭に迷い、自分の方向感覚の素晴らしさに呆れる。時間と歴史を感じさせるすばらしい空間。響きすぎない音響。使い古された控室の安楽椅子は半ば底が抜けたようになっていて、年季の入った木製の書斎机には、慎ましく五線紙が畳んでおいてある。

 7月某日 トリノホテルにて
今日はオーボエのカルロの誕生日なので、今朝はまず盛大なお祝い演奏から始まった。5分ほどハッピーバースデーによるジャムセッションが続き、2クールほど転調したから最初の調に戻れなくなって、周りから散々茶々を入れられ完結した。

イタリア国営放送響は94年にナポリ、ローマ、ミラノ、トリノの国営放送響が一つに纏められて出来たことは知っていたが、各人が現在でもこれだけ地方色が豊かなことに驚かされた。「混成」なんて言葉が頭をもたげるけれど、生まれる音は見事に紡がれブレンドされていて、イタリア文化の面白さを思う。休憩中自動販売機の前で立ち話をしていると、このペトラッシは良いねと皆が口々に言う。一番編成も小さくて単純に見えるが、一番むつかしい。モーツァルトみたいだ、とファゴットのアンドレアが笑った。

 7月某日 ミラノ自宅
トリノから帰るやいなや、ローマで司会をしているオレステから連絡があり、今晩RAI3のラジオでインタヴューしたいという。伸びきっていた庭の芝生を刈り、「天の火」を日本キューバ国交樹立400年記念演奏会で演奏すべく、ギターと和太鼓のパートを書き足したものをつくる。

 7月某日 ミラノ自宅
沢井さんより短いメッセージ。「ソウルに行ってきました。ヘグムの名人とカヤグム名人と超超はっし!」。こう書くと凄みがあるなと感心しているところへ、「カシオペア」の楽譜が到着。そのまま行き付けの印刷屋に走り、両面印刷をお願いする。彼らも明後日から夏季休暇なので間一髪。

旅客機が撃墜され、平穏な住宅地では血で血を洗う戦闘が続き、平和なはずの日本ですら衝撃的な事件は止むことをしらない。
そもそも「正しい」事象など存在するのか。各人が「正しい」と信じて行動しているとして、「正しさ」にそれほど様々なスタンダードが存在してよいものなのか。矛盾ではないのか。分り合うためには何が必要と言っても、「分り合う」とは何を意味するのか。
一線を越え、特定の状況下に於いて、精神状態や冷静な判断を保てなくなったとき、何をもって「正しい」と呼べるのか。

この齢になっても、8月6日9日に原爆を落とした判断は「正しい」とは思えないが、それに応えるべく若い命を無駄にするのが「正しい」とも思えない。とは言え、彼らの死を間違いといい捨てることも出来ない。彼ら一人ひとりが信じたことについて、自分が否定する権利などどこにもない。

敵味方とか右派左派という古い範疇から抜けて、各々が自らの頭で、それぞれの事象に対して判断が必要とされるのではないか。情報の発信で満足し、共有に甘んじるのではなく、その先に自分が何を思うか、一人ひとり顧みなければ、我々は気がつけばただ与えられる情報を吸い込むだけの海綿体のような存在になってしまいそうで怖い。

世界中どこでも、規格にはまるもののみに便宜が図られるようになり、緩い集合体で皆同じ規格を目指す。相互理解の発展に努め、万国共通の規格枠から外れれば、不可視の空間に捨て置かれたまま存在すら気がついてもらえない。可視化された分り易い規格品のみ、分り易い規格にあう情報のみが選ばれて我々にもとに届く分り易い仕組み。
全てを知ればよいとは言わない。フィルターをかけていたとしても、それは或いは善意であるかも知れない。ただ、自分がしっかりと生きている事実を見据える必要に、今まで以上に駆られる。自分がそれでも音楽を必要とするのなら、そこに何かを見出す鍵があるのかもしれない。

(7月29日 ミラノにて)


新・相馬盆唄

「MY LIFE IS MY MESSAGE」と名付けられたライブツアーを追いかけて、福島県相馬市まで旅をした。

ヒートウエーブの山口洋が、2011年から福島県相馬市にピンポイントで行っている復興支援が「MY LIFE IS MY MESSAGEプロジェクト」だ。ホームページには、「何よりも命を大切に考え、自らが汗をかく有志が集まり、被災した福島県相馬市の人々とともに、復興に取り組むプロジェクトです」とある。ガンジーの言葉からこのプロジェクト名をつけたという。相馬駅前で「モリタミュージック」というレコード屋をやっている友人のところに、震災直後に駆けつけて、それからずっと山口洋が取り組んでいる支援活動だ。

ミュージシャンである彼の復興支援は、やはり「音楽で人々を元気にする」というものだ。活動記録を見ると、震災の年の6月には、「美空ひばりフイルムコンサート」を相馬で開いたりしている。寄付やライブの収益を、相馬の人たちを元気にするために使っている。もちろんプロジェクトには相馬の人たちも参加している。

仲井戸麗市も昨年から参加していて、山口洋といっしょの「MY LIFE IS MY MESSAGE」と名付けたツアーが6月9日から7月6日まで、全国12か所で行われた。熊本から始まったツアーは大分、高知、岡山、名古屋、大阪、浜松、東京、札幌、函館、弘前とまわって、最後に相馬に到着する。それぞれの地に、このプロジェクトの思いを分け合う人々が居て、決して大きなホールではないけれど、熱い想いのライブがひとつひとつ重ねられて、最終日の相馬をむかえた。開演前に、入口に立っているスタッフたちの、晴れやかな顔がとても印象的だった。

私は、何より2人の真剣勝負の音楽を聴くために行ったのだけれど。支援などというには、あまりに個人的なささやかなことだけれど、相馬に思いをはせるきっかけになった。ライブは、山口洋、仲井戸麗市それぞれのソロのパートと、最後にいっしょに演奏するパートの3部構成。ハイライトは、ギタリスト2人の競演となる「新・相馬盆唄」だ。福島出身のパンクロッカー、遠藤ミチロウが新しい歌詞をつけて、山口洋といっしょに相馬市松川浦で唄っている映像がYou-Tubeにあがっている。現代の盆唄でとてもいいので、聞きとった歌詞を紹介したいと思う。

ハアアーアイョー 今年ゃ最悪だよ

穂に放射能が付いてヨー


アー 道の小草にも


エイサヨー さわれないヨー

ハアアーアイョー 帰れなくても


帰ってこーい 相馬の盆

ハアアー 君のことを今も

ヤレサヨ 想い出すヨ
ハアアーアイョー 風が吹くたび

海鳴りが聞こえるヨー

ハアアー みんなの元気な
ハレサョー 顔が見たいよ

(遠藤ミチロウ&山口洋 「新・相馬盆唄」)

夕暮れの川べりで山口洋の弾くブズーキに合わせて、福島県の名産の桃を手に遠藤ミチロウが唄っている。盆唄は、死者にも生者にも向けて唄われている。もうすぐ日が暮れる夏の川辺に風が吹いている。ミチロウは、今回のライブに飛び入りできなかったが、仲井戸麗市、山口洋のギターには彼のシールが貼られていた。ボーカリストの居ない盆唄は、ギターが唄うバージョンになる。2人のギターの掛け合いは、魂の競り合いのようだった。

相馬からの帰りを待っていてくれたように、帰宅の翌日に入院中の父が亡くなった。あと1時間で斎場に送り出すという時間、姉が、思い出したように、父にYou-Tubeで「高原列車」を聴かせたいと言う。スマートフォンから、「高原列車」が流れる。デイサービスで、この懐メロに合わせて体操をしていたのだという。それならば父が好きだった曲をと、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」を探して、流れ出してきた音楽を父の方に向ける。幼い頃、畳に寝転がって、父がステレオで掛ける岡晴夫メロディーを何曲も聴いた。岡晴夫にどことなく似ていた父。父のアイドルだったんだね。きっと。スマートフォンが役に立つと、心から思った初めてのできごとだった。


ポンプと地下水

 ポンプは幼い子どもにとって「飲み水」を意味した。台所で地下水を汲み上げる道具だったからだ。オランダ語の「ポンプ=pomp」が日本語に入ってきたのはいつだったのか。水を汲み上げる器械、からくり。江戸期あたりだろうか。 
 緑の屋根の小さな家には、3畳ほどの台所に木製の流しがあった。システムキッチンの「シンク」ではなく、木枠で手づくりされた台所用の流し台だ。ちょうど胸の高さだった。踏み台に乗って見下ろすと、深さが10センチほど、内側はブリキで被われ四隅がハンダ付けされて、底面は手前からゆるやかに傾斜し、左隅に水が流れ落ちる穴があった。
 胸の高さの流し台が腰の高さになるころ、その子はポンプで水が汲めるようになった。さあ、自力で冷たい水が飲める。

 緑色の鋳物でできた円筒形の胴体内部を上からのぞくと、ゴム製の分厚い弁が見える。そこから金属の棒が垂直に上昇して、ポンプの最高部で柄に繋がっていた。柄の部分を人が押し下げ、押し上げ、地下水を汲み上げるのだ。
 その子の家では、柄の部分に長めの木の幹が接続されていた。そのほうが冬場、握ったときの冷たさが少ない。ところどころ節くれの名残りがあって、握りがつるつる。水はブリキの筒を通り、先端にくくりつけられた、金気や不純物を濾し取る白い布袋から、太い水流となって流れ落ちた。
 流しの下はいつもなんとなく湿っていた。流しの穴から伸びた排水管がまっすぐ床板を突き抜け、地面に達して、山羊小屋の隣に掘られた小さな溜り場へつづく。流れ落ちた水は、地面に半分埋め込まれた木製の樋を走った。その樋にこれまた木製の被いをつけたのはおそらく父だ。

 農家の三男坊として生まれた父は、思いつくことをなんでも自力でやる人だった。さしずめ「DIYの精神」と呼びたいところだが、そもそも旧植民地ではこの精神がなければ生きてゆけない。開拓農村から徴兵されて満州、南洋諸島と、あの戦争を生き延びて、戦後まもなく、まだキリスト教の布教が盛んだったころ、隣町の教会で見初めた女性と結婚した。子供もひとり生まれた。そこで実家の田んぼのまんなかに、緑の屋根の小さな家を建てた。その家には仏壇も神棚もなかった。いまにして思えば底の浅い理想主義を不器用にかかげて、二人目に生まれた女の子に、結婚前から温めていた名前をつけた。

 その子にとって戦争の記憶は、父の物語る南洋の船の話と結びつく。満州で鉄砲を構えながら空に撃ったという逸話も思い出される。昼間は田んぼに出ている伯父たちが、本家に集まり、元復員兵の弟たちを囲む酒席の場で、不気味な卑猥話の混じる記憶の薄暗がりにも結びつく。ふと浮かんでくるいくつかの場面──酒が入って赤らんだ顔、顔、顔、美しい尺八の音色に江差追分のこぶし、ときおり声が低くなり、やおら、どっと湧く哄笑。抑圧された感情が、ぎらりと障子の向こうで暴発する。子どもの目に、それは得体の知れぬ黒々しいものと映った。戦場の暴力をめぐる自省のかけらもない語り、と名づけられるようになったのは、ずいぶん時間がたってからだ。
 北海道という土地が戦場となることはなかった。割烹着を着た女たちは、土間につづく台所で酒の肴を用意し、鉄瓶で銚子を温めながら、戦争にとられて帰ってこなかった夫の、息子の、弟の「不在」を仏前で嘆き、溜め込んだ感情を台所の日常のなかに紛れ込ませて、埋めた。

 その子は踏み台に乗って流しを見下ろしながら歯を磨く。上を向くと、正面に明かり取りの窓があり、そこから白樺の大きな枝が見えた。取っ手のついたホーローのコップで口をゆすぐ。計量カップのような形をしたそのコップは、外側が赤く、内側が白い。母が北大の看護学校時代からもっていたものだ、と何度もくりかえし聞かされた。母の自由だった時間と分ちがたく結びついていたのだろう。コップはその後も母の異動とともに、北海道から九州、大阪、東京、ふたたび札幌へと旅をつづけた。母の最期に付き添ったのは子供たちではなく、おそらくそのコップだった。


島便り(4)

築百年の古民家暮らしとはいえ、一歩家に入れば東京で住んでいた時のまんまです。骨董家具や食器に取り囲まれたステキな暮らしをしているわけではありません。もともと無趣味です。もし私に好み、あるいはクセがあるとすれば、人集めちゃう、イヤ人が集まって来ちゃうことぐらいです。

島の運送屋の会長Y氏が突然訪ねてきたのは3ヶ月前、それから頻繁に車で島の名所、秘境、畑、海など案内いただいた。島の企業の会長たちや町長にひきあわせていただいたのもY氏だ。Y氏は仕事中は薄グレーのつなぎ服らしく、どこへいくのもつなぎのままだ。会社業務の空き時間を使ってつかの間のデートである。お昼いただきながらお茶飲みながらY氏の島の話に耳傾けているうちに、小豆島の産業基幹は食品加工とその販売で持っているのだ、と解ってきた。醤油、佃煮、オリーブ、素麺はもちろん細かくいくとその数多種多様な食品にわたり、その販売先の主は関西近畿方面だろうか。農業、漁業盛んな島であると情報だけで勝手読みしていたのは私の初歩的マチガイであった。

Y氏は私より2歳ほど下で、神戸からJターンしてきたのが9年前、残りの人生は全て故郷の小豆島の未来に使いたいという人物だ。話は壮大かつ具体に満ちている。島にこれからスローフード(懐かしいひびき)を根づかせたい、まだまだ手づかずの自然や農産物が幸い残っている、開発でなく有機的な生産物の生産法や加工法、販売法をつくっていきたい、産学行政共同で、大まかにくくるとこういうことだった。で、島の企業人たちと勉強会も毎月開催されている、その事務局長なのだった。

私はその会合にも一度出席させていただき、今取り組んでおられる植物のサンプルまでただいた。だがなぁ、正直言ってひとつをのぞき魅力もてなかったのだ。もしわたしが島の食物を島外の消費者に食べてもらうことを考えるなら、まず地元産でまだまだもったいない作物がいっぱいあるのではないか、やり方次第で掘り起こせる食材は眠っているのではないか、と思えたのだった。

売られた喧嘩はなにをおいても買わねばならない。聞かれてもいないのに、ああだ、こうだと意見を言ってしまう、たのまれてもいないのに試作品まで作った、たのまれてもいないのに東京から似たような食材まで集めてきた。

途中でひとりごちた。あぁ、またわたしやっちゃってるわ、コレ余計なお世話ってやつかも。多分、Y氏は私の意見や提言を参考くらいにはしたかもしれないが、商売にはむすびつけてはいないでしょう。あとで知ったのでしたが島の食品会社はそれなりに大がかりで、設備も販売網も盤石です。採算をふまえてじっくりとりかかるのだと思う。

でもY氏のおかげで私の中で何かのスイッチがカチンと入った。やっぱり少量でいいから地場産の作物そのものと季節の加工品を作り、島でも個人でやってる商店の食物とをこれまた小さな販売ネットワークでやれるのではないか、イヤやってみようというスイッチです。ひと月くらい前に点火したので、まだチョロ火です。

もうちょっと言わせていただければ、第一次産業をもう一度やりなおさないとダメじゃん、ということなんです。農業、漁業、林業、牧畜、元にもどすんじゃなくてこれからのやりかたがあるんじゃないか、ということなんです。島だけでなく日本のどこの地方にもそう言えるのか?


本を読む子

 ねえ、本はどこにあるの、と女の子が聞く。図書館だから、いくらでもあるよ、と私は答える。本が好きなの?と私が聞くと、女の子は、うん、好き、と答える。
 女の子は小学校に入ったばかりくらいに見えた。薄いブルーのワンピースを着ていて、くりくりとした目でまっすぐに私を見た。利発で可愛い女の子だと思った。夏休みらしく日焼けをしていて、きっと駆けっこも早いんだろうなあと私は思った。
 ねえ、おじさんも本が好きなの、と女の子は私に聞く。好きだよ、と私は答える。どんな本が好き、と女の子が聞き、どんな本でも読むよ、と私が答えると、女の子は怪訝な顔をして、どんな本を読むのって聞いてないよ、どんな本が好きなのって聞いたんだよ、と言う。私はしばらく考えてから、そうだなあ、と声に出す。
「そうだなあ、好きな本ってどんな本だろう」
「自分で好きな本もわからないの」
 私はだんだんと、女の子との会話が楽しくなってくる。
「あのね、大人になるまで、たくさんの本を読むんだよ。そうすると、たくさんの好きな本が出てきて、急にどんな本が好きなのかと聞かれても困っちゃうんだよ」
 私がそう言うと、女の子はとても楽しそうに笑う。
「大人って面白いね」
「そうだね、面白いね。君はどんな本が好きなの?」
 私が聞くと、女の子は満面の笑みを浮かべながら私にぐいっと顔を近づける。私はね、楽しくなる本が好きなの、楽しくてね、ドキドキするような本が好き。
「楽しくてドキドキするのか。それはきっといい本だね」
 私がそう言うと、女の子は、いい本ってどんな本なの、と聞く。
「だからさ、楽しくてドキドキするのは、いい本だと思うよ」
「じゃ、悪い本ってあると思う?」
「どうだろう、あるかもしれない」
「悪い本ってどんな本なのかなあ」
 私は考え込む。悪行が書いてある本はあるだろうし、気持ちが萎えてしまうような本はあるだろう。だからって、それが悪い本とは言えない。もしかしたら、死ぬほどつまらない本だってあるかもしれない。でも、それだって、読む人によっては面白い、いい本かもしれない。そう考えると、あるかもしれないと答えた悪い本なんて、世の中にはないのかもしれない、という気もしてくる。
「私はまだ読んだことがないんだけど」
 女の子は話し始める。
「前にね、お母さんに聞いたことがあるの。悪い本てあるの?って」
「お母さんはなんて答えたのかなあ」
 私が聞くと、女の子はとても嬉しそうな顔をして、私の顔をのぞき込む。
「ユキグニだって」
 私は驚いて、えっ、と小さい声をあげる。私の声に驚いて、女の子が目を丸くする。
「どうしたの」
 と女の子は聞く。女の子に、雪国と言われて、素直に驚いてしまう。
「ユキグニって、カワバタヤスナリの?」
「わかんないけど、ユキグニ」
「その本をまだ君は読んだことがないんだね」
「うん。まだ読んでない」
「君のお母さんは、ユキグニを悪い本だと言ったんだね」
「うん」
「お母さんはどうしてそう言ったんだろう」
「それはわからない」
「わからないの?」
「うん。わからない」
 私はしばらく考え込む。女の子の母親が言っているのは、おそらく川端康成の雪国だろう。しかし、なぜ、母親は雪国を悪い本だと言うのだろう。胸に秘めるのではなく、まだ小学校に上がったばかりの自分の娘に、はっきりと「悪い本だ」と言葉にしてしまった理由はどこにあるのだろう。
 もちろん、いつの日か、雪国は悪い本だというのは母の思い込みではないのか、と思い直して彼女が雪国の表紙を開けるときが来るのかもしれない。しかし、それまでの間、母親が発した「雪国は悪い本だ」という言葉は、女の子の心にくさびのように刺さったままになるはずだ。そして、それは私が思っているよりも、女の子にとって大きな意味を持つことなのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、女の子は私の目の前から消えている。私は立ち上がり、ゆっくりと図書館の中を歩きながら、女の子を探す。外国文学の棚の前を通り、日本文学の棚の前を通り過ぎようとしたときに、ふと、さっきの女の子らしき声が聞こえる。私は書棚の向こう側を見る。
 さっきの女の子の姿がそこにあった。児童文学を集めたコーナーの片隅。子ども向けの読書机の上に、可愛いクマの挿絵が描いてある本を広げて、彼女は笑っている。となりにはベリーショートのさっぱりとした髪型の女がいて、女の子の耳元で小さな声でクマの挿絵の本を読み聞かせてやっている。
 きっと母親なのだろう。女の子は、耳元で何かを言われる度に、心の底からまっすぐに沸き上がるような声で笑う。その笑いにつられて、となりの母親も笑う。
 私の目の前の書棚には川端康成の雪国がちゃんと置いてある。(了)


一筆書きと 連句

作曲しながら、現れてきた音が自然に流れるにまかせると、流れは直線ではなく、いくつかの方向に分かれていくことがある。なめらかに見えるうごきも、ためらったり、やりなおしたり、曲がっていく。そこにできる襞を広げてみると、隠れた模様が現れるかもしれない。その奥にはまたちがう空間が見えるだろう。

小さな建物のなかに大きさや形のちがう部屋がいくつも折り重なって、それらを次々に通り抜けるうちに方向感が失われて、外から見た全体の何倍にもひろがった内部空間を感じる。一つの部屋にも複数の出入口があって、同じ部屋にもう一度別な入口から入ることもあるかもしれないが、角度が変わるとちがう眺めになり、以前とはちがう出口が見える。どこまで行っても、ここまでという奥がなく、歩いた跡を辿って外側から見れば、たくさんの結び目のある一本の紐のような地図ができているかもしれない。

一筆書きは、入り組んだ曲線がおなじ点を通っても、同じ線をなぞらないような図形で、書き上げてみると顔だったりするが、書いているあいだには何だかわからないほうが、見ているほうにはおもしろい。数学では「ケーニヒスベルクの7つの橋」をすべて一度だけ渡ることができるか、という問題に「できない」と答えたオイラーにはじまるグラフ理論や、大きく見ても細かく見ても複雑なリアス式海岸を、全体と部分が似た形をしていると見るフラクタル理論のように、抽象化して原理を求める傾向がある。音楽では、顔のような具体的な対象が見えないし、聞きながら感じることは、海岸線を曲線として見るよりは、歩きながら見える風景の変化を味わうほうに近いだろう。

18世紀末からの近代音楽は、表面の変化にひそむ同一性をだいじにしてきた。一つのフレーズ、一つの和音は、発展し、変化しても、最後にはそれらの仮面を脱ぎ、同じ形が再現することで、安定した全体が保証される。20世紀になり、音楽が複雑になると、構成は抽象化して、一つの音列にすべてが還元されるような技術が洗練されてくる。その複雑さが限界に達した後、1970年代からのミニマリズムも、自己同一性そのものを引き伸ばしたような音楽だった。反復のなかですこしずつ変化する響きの長さは、変化のプロセスのなかでも自己中心的なスタイルへのこだわりを捨てきれないようにも見えるし、長い時間をかけて希薄なひろがりが覆いかぶさってくる息苦しさを感じることもあった。

2011年に書いたピアノ曲「家具連句」の家具は、持ち運べないピアノという楽器のことだが、連句はここでは既成の連句の音による描写ではなく、歌仙形式の36句が前の句に付けながら転じるというやりかた、前のフレーズを別な文脈にひらく連鎖と転換だけを使っている。

2014年の無伴奏ヴァイオリンの「狂句逆転」は、柴田南雄が芭蕉が名古屋で巻いた連句「冬の日」にもとづいたヴァイオリンとピアノのための歌仙一巻「狂句こがらしの」(1979)を参照しながら、連句の挙句から発句へ逆行し、前書で終わるかたちをとっている。「付けと転じ」は、連句をさかのぼって読んでもやはり「付けと転じ」になり、ちがいを強いて言えば、ひらいていくかわりに内側へ畳み込むプロセスと言えるだろうか。

連句の式目は、発句、脇の句から挙句にいたるまで、前句とだけかかわり、二句前にもどることは「輪廻」または「観音開き」と言ってきらわれる。「歌仙は三十六歩。一歩もあとに帰る心なし、行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり」(三冊子)という芭蕉のことばが伝えられている。「観音開き」の禁止は、「根を切る」とも言ったようだ。旅の人の発想だろうか。

ここで思い出すのは、ヴェーベルンの後期、結晶体のようなフレーズが「観音開き」で閉じたまとまりを作りながら先へすすむ傾向や、ドビュッシーの1小節ごとに繰り返しをはさんですすむやりかた。伝統から離れていく音楽には、一歩ごとに足元を確認しないではいられないような、不安定な感触があったのだろうか。

だが連句は、全体として四季の循環する時間のなかにある。去った季節はやがて帰って来るが、おなじ付けかたは「遠(とお)輪廻」と言ってきらわれる。おなじ季節がめぐってくると言っても、ちがう入口と出口を通って、「ただ先へ行く」のだろう。
ただ先へ行っても、循環する季節のなかで、歌仙という閉じた空間がある。それは、式目のような経験則が定着する論理を辿らなくても、紙を折って表裏に書きつけるという習慣そのものに、折りたたまれ、表が裏になり、また表になって続く、連句のメビウス的空間が目に見える。