2015年2月号 目次
青空の大人たち(7)
「まだ子どもやからね、わからへんやろ」とおだやかに言われてもたいていのことは子どもにもわかるものであってむしろそういったことの方が大きな痕跡を残すものでもある。
先の言葉は本家の曾祖母が亡くなったあと、葬儀の際、棺のまわりをちょこまかと歩いていた自分に向けられたものなのだが、当地ではさる無形文化財の夫人として知られた人であれ、子どもにとってはただ自分を溺愛してくれた数少ない大人であり、その人物が動かないことは幼児自身を当惑させるにはじゅうぶんだった。
車に乗せられ山を越え、そしてさらに進んで丘の上にその居宅があり、曾孫であった自分は、亡き配偶者お気に入りの義理の息子の孫ということもあってか、何かと目を掛けられ、そのかわいがられ方から曾祖母が守護霊として憑くとしたらこの子だろうと親戚一同に言わしめたほどであった。
そうした愛護者をなくすということは子どもの生活にとってはまさしく大変化であって何も感じないわけがあるまいし、自分に注がれる愛情の総量が減るということによる心境の変化もやはりまたあるものだ。たとえ概念が分からなくとも状況というものには敏感であるし、定義が理解できなくとも感じることはできる。
一九九五年一月十七日にしてもそうだ。朝早く、おそらくP波のために目を覚ましたところへ、さらに下から突き上げるような振動。ベッドのなかで布団にくるまりながらじっとこらえるが、しばらくおさまる気配はない。家の壁にひびが入るがやがて落ち着き、TVで地震速報を見ながらも家族はひとまず身支度を始めるが、自分と言えばどうにも気分がすぐれず、体温計には三八度の数字。
その日は小学校を休むことにして、ひとり自分は居間に座り毛布を身体に巻き付けてブラウン管と向き合っていたのだが、目の前に映るのは一面の焔だ。一日じゅう、延々と火を見つめていただろう。自分の住んでいたところはまだ震度五の強震で幸いにも周囲に甚大な被害はなかったものの、それでも風邪を引いてしまっていたことで、運悪くも赤という色をじっと見ることになってしまったのである。燃え始めから徐々に広がっていき、延焼していくそのさまの空撮を、とりあえず家人のでかけてしまった家のなかで心細くも見つめていた。
とはいえ炎の赤をどこまで認識できていたかというと高熱の頭では相当にあやしく、それによって多大な人命が失われた事実をどれほど理解できたかは心許ない。しかし少なくとも小学六年の少年にとって実感として訪れた恐怖として揺れのほかに強烈だったのは、〈路線図の空白〉である。多くの子どもの例にももれず少年はそれなりに鉄道も好んでいたわけであるが、そのぶんかえって自分のよく知る路線図において突如として現れた空虚は果てしない恐れをもって受け止められた。地元の駅から目をずらして路線をたどっていくと、そこから一続きになっているところが、あるところから赤く塗りつぶされ消されていく。
JRでは芦屋から向こう、阪急では西宮北口から先は不通であり、少年にはそこからがまるで異界になってしまったようなイメージすら抱かれた。経験のない子どもにとっては、鉄道で行けるところが世界のすべてであり、それまで行けたはずの世界に入れなくなってしまったことが、言いようのない衝撃として心を襲ったのである。それは今の自分にも、〈電車〉という言葉を極端に避けてしまうところに名残としてある。そのときまでは頻繁に口にしていたはずのものが、どうしても使用に抵抗を感じるようになってしまい、現在ではできる限り〈列車〉や〈鉄道〉という用語へと換えている。
全国へ張り巡らされた鉄道の万能感は、少年には将来の希望然としたものでもあった。ゆえに世界の喪失により、同時に未来の可能性までもが失われたようにも思われた。線路のつながったところには――つまり自分のゆける場所には――自分がこれから先に、もしかしたら友だちになる人が住んでいるのかもしれないし、近い遠い未来に何かを教えてくれたりする大人がいることもあれば、たとえばそのあたりにおのれの将来の恋人や伴侶がいた確率もゼロではなかったはずだ。
その場所が真っ赤に染められ、そのあと黒く塗りつぶされる。何の前触れもなく、昨日と今日と明日のあいだで、世界はいきなり変わってしまう。盤石に思っていた生活空間は、自分の日頃の行いとは無関係に崩壊しうる。輝かしいと信じているはずの未来も消えてなくなる。自分にとってそうした実感を象徴するものが〈路線図〉だったわけだ。当時の本人とってはまだ言いしれぬその感覚は、かなり後を引いた。高校生の時分にもやはり心の奥底にあっただろうし、大学生に入っても脱け出せたかどうかあやしいものだ。
人は生まれてから、どこかで一度は大規模災害や戦争、大事件に出会う。歴史を学べば学ぶほど、生涯の平和というものは希少であることを知り、初めての遭遇が実感を生み、そしてまたいつか再び訪われることも心のどこかで自覚せざるを得なくなる。
そうした不安から、少年はどういうふうに日々の生活を過ごすようになったかというと、非常に素朴な回答である――「楽しい方がいいな」。つまり毎日が明日にも崩れうる脆いものであれば、今日一日はつらいよりも楽しめるものであった方がいい、ということだ。そもそも体調からして芳しくないのが少年の常であったから、何もしなければ日常は不快しか待っておらず、してみれば〈楽しい〉とはむろん〈努力〉が求められることになる。
できるだけ笑おう。うきうきするようなことをしよう。読んで面白い物語のように、そして自分がその主人公となれるように。お手本は、マンガやアニメのなかの学園生活である。変人たちと付き合おう。突拍子のないこともやってみよう。大人らしくない大人について行こう。いやな自分から、少しでも好きな自分になれるよう改造していこう。ひとつずつ、ひとつずつ。
これはもちろん、同時に〈(必要最低限以外は)いやなことは絶対にしない〉という拒絶もその裏にあるものだから、大人にとっては厄介この上なかったに違いないが、こちらは自分の世界が懸かっているから抵抗も真剣である。〈面白くなる対案が出せなければ〉そちらの要求など絶対に飲むものかというわけだが、ただ強情であっただけはけしてでなく、〈目の前のできごとを面白く思えるようにしよう(あるいは力づくで面白くねじ曲げていこう)〉というように、物の見方・やり方を工夫していくことだって少年はしていたのであって、それでもにっちもさっちも行かないときは、突っぱねることで周囲から解決策を出してくれるよう助けを求めていたふしもある。
それにしても、楽しそうなこと、面白そうなことに対して躊躇しない、と意識的に動いていけるようになったことは、また別の変化へとつながっていくことになる。そして舞台は、部屋のなかから青空へと転ずる。
夜のバスに乗る。(4)朝までに小湊さんがしたかったこと。
長い信号待ち。
小湊さんは立ち上がって、運転席に向かった。そして、二言三言、運転手と話すと戻ってきた。
「犬井さんっていうんだって」
「いぬいさん?」
「運転手さんの名前。乾くって言う字じゃなくて、犬に井戸の井って書くんだって」
「犬井さんか」
「可愛いよね」
「まあ、そうだね」
小湊さんは笑ってまた僕の隣に座った。そして、犬井さんから貸してもらったらしいボールペンをカチカチと鳴らした。
「メモ用紙とかノートとかある? なんでもいいんだけど、書けるもの」
僕はバッグからルーズリーフを取り出して小湊さんに渡した。小湊さんはその紙を裏返して、それから元に戻し、『バスジャック』と書いた。僕はしばらく、『バスジャック』という文字をぼんやりと眺めていた。『バスジャック』というのは、バスをジャックするという意味だ。そう思いながら、バスをジャックスということがよくわからなかった。バスを奪い取ってしまうバスジャックという言葉をなぜ小湊さんが書きつけたのか、その真意がわからない。小湊さんと、僕とがいるこのバスの中という空間と、バスジャックという言葉との間には、ただ、『バス』という連想ゲームのヒントのような言葉があるだけだった。
「やるのよ」
小湊さんが言ったときに、なぜだか僕は運転手の犬井さんの後ろ姿に目をやった。
「このバスをバスジャックするの」
「なんで?」
「行きたいところがあるのよ」
小湊さんはまるで、今日の昼ご飯はあのお店に行きたいの、というOLのように楽しそうに言った。僕がまったく飲み込めずにいると、小湊さんは小さくため息をついた。
「手短に説明します」
「よろしくお願いします」
「いまからバスジャックして、海に行きます」
「えっと、どこの海へ」
「説明の最中だから、少しだけ黙っててもらっていいかな。質問は後で受け付けるから」
小湊さんは僕が以前通っていた学習塾チェーンの受付のお姉さんが入塾手続きについて説明しているような口調でそういった。
「いまからバスジャックして、海に行きます。どこの海でもいいんだけど、朝までに帰ってこなきゃいけないから......。そうね、湘南とか、あのあたりかな」
僕は聞きたいことが次から次へと浮かんできていたのだけれど、言われた通り黙って聞いていた。
「まず、犬井さんに話をして承諾をもらう。そして、そのままバスで渡辺先生を誘拐する。もちろん、誘拐と言っても渡辺先生にはちゃんと話をして承諾をもらって、誘拐させてもらう」
「誘拐させてもらう......」
思わず僕が声を出すと、小湊さんは僕を軽くにらんだ。
「そして、私たちは渡辺先生と一緒に湘南に行って海を見て、朝までに帰ってくる。それだけの計画です」
しばらく僕は小湊さんが話した内容を反芻していた。
「質問してもいいかな」
「どうぞ、斉藤くん」
「このバスをバスジャックして、渡辺先生を誘拐して、みんなで一緒に海を見に行って帰ってくる、朝までに。ということでいい?」
「うん。その通り。朝までにね」
「うん。朝までに。その、朝までに、というのが大切なんだね」
「そう。大切なの」
「朝までに戻らないと......」
「朝までに戻らないと、バスジャックされたということをバス会社の人が知ってしまうし、渡辺先生のご家族が騒いでしまうかもしれないし、つまり、これが事件になってしまう」
「ということは、事件にしないように、バスジャックをして、先生を誘拐して、朝までに帰ってきて、ことを穏便に済ませる、ということだね」
「そう。さすが、斉藤くん。飲み込みが早いわね」
「ありがとう。でも、そんなことできるのかな。それからもう一つ質問があるんだけど」
「なに?」
「どうして、渡辺先生を誘拐するの?」
僕が質問すると、小湊さんはしばらく
どう説明すればいいのか迷っているような表情を見せてから、話出した。
「こないだの春。ほら、三年生になったばかりのころ、修学旅行があったでしょ。あれに、私が行かなかったの、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ。休んだの、小湊さんだけだったから」
「その理由は知ってる?」
「親族の方に不幸があったから、と聞いたと思うんだけど」
「実は渡辺先生を好きになっちゃって、好きすぎて休んだの。もうちょっと詳しく説明するね。
私ってけっこうもてるんだ。教室の後ろからみんなをじっと眺めているような女の子って、先生が目を付けるのよ。なんとなく、他のとは一線を画していて、大人びて見えるのかもしれない。ホントはそんなことないんだけど。だから、けっこう中学の高学年くらいから先生に声をかけられたりしたのよ。高校になってからは、特にひどかったわね。いまの高校の先生って、バカだから後先考えずに女子生徒に手を出そうとするの。なんとなく嘘っぽいでしょ。でもね、本当なの。口が硬そうな女子に声をかけてきて、『僕の奥さんの若い頃に似てるなあ』なんて言いながら近づいてくるのよ。すぐにどうこうするわけじゃないけど、隙あらばってことがわかるのよね。だけど、私は見ての通り実は子どもだし、真面目だから、そういうのに弱いの。なんか、そんな素振りを見せられただけで、軽蔑しちゃうの。そこまで極端にならなくてもいいくらいに、そんな先生のことを避けちゃうのよ。
だけど、渡辺先生は違ってたの。あ、私と渡辺先生はなんでもないよ。付き合ったこともないし、手を握ったこともない。だけど、あ、渡辺先生は私のこと、嫌いじゃないんだなあってことはわかったの。うぬぼれとかじゃなく、女の子って、そういうの感じるものなのよ。だからって、付き合うとかそういうんじゃないの。先生として『真面目でいい子だな』って思っているのがわかる。そして、時々、十代の女の子のきらめくような若さに、クラッときているんだけど、それをおくびにも出さない。そんなふうに思われて、嫌な気持ちになる女の子はいないでしょ?」
「うん。たぶん」
「つまり、説明は長くなったけど、私は先生として渡辺先生が好きだったの。だけどね、修学旅行の一週間ほど前。授業中にみんなが問題を解いていて、先生が教室の中を見て回っていたのよ。その時、私が質問をしたの。数式を指さしながら質問していたら、先生がなんの加減か、私の指先に注目しちゃって、『小湊って指がきれいだなあ』って言ったの。言ってしまってから先生も驚いた顔して、一瞬黙ったあと、問題の解き方を教えてくれたんだけど、先生がうっかり本当に思っていることを言っちゃったんだ、ということがものすごくはっきりとわかったのよ」
そう言って、小湊さんは右手の指を左手で覆って隠した。でも、その左手の指も充分にきれいだった。
「その瞬間に、わたしはもうダメだった。先生に恋をした、ということじゃなくて、私本当に子どもだから、なんかどぎまぎしちゃって、先生の顔をまともに見れなくなっちゃったのよ。で、いつも教室の後ろから、みんなを訳知り顔でみていたような子だから、先生の顔を見れない、なんてことを他の子に知られたらもう生きていけないって、そんなふうに思っちゃって。結局、一週間後の修学旅行も行けなかったの」
「それで、修学旅行の代わりに、バスで先生と一緒に海を見に行くの?」
「そう。修学旅行で瀬戸内海を見たんでしょ」
「うん。きれいで穏やかな海だったよ。だったら、瀬戸内海まで行かなくていいよ」
「そこまではしなくていい。ちかばでいい。でも、卒業までに海だけは見ておきたい」
僕は小湊さんが朝までにしたいことは理解した。理解はしたけれど、なぜ、そうしたいのかは充分にわかっていなかったような気がする。ただ、小湊さんが朝までにしたいことを、事件にならないように穏便に決行することはできるような気がしていた。なんの根拠もないくせに。(つづく)
123アカバナー(8)ガガガガ
以前にみた漫画で、子どもに「おじいちゃん、どんな女優さんが好き?」と聞かれて、
(介護の関係で、どんな話題でもよいから、子どもは話しかけていたようです。)
ご老人が「うん、レイディー・ガガ」と答えたもんで、周囲が心配する、というのが
ありました。 (あっ、黒田喜夫没後30周年特集『gaga』をありがとうございます。)
ずっと以前に、高校生が、「我」という字を調べて、「刃がぎざぎざになった戈(ほこ)を
描いた象形文字だ」(新字源)と教えてくれました。 おどろいて、私は、我(われ、
わたし)が、どうして刃のぎざぎざの戈なのか、と心配になりました。 ははは。
別の辞書には、「のこぎりのかたちを描いている」ともあって、もっとびっくりしました。
ホームセンターの製材屋さんに、そんなのがありますよね。 (で、ここに、
→
廻転のこぎりの絵を描いてください。)
私は電動廻転のこぎりです。 我我我我(がががが)、と廻転して切ります。 一日中、
廻転しながら、都内を切りきざみまして、お疲れです。 我執(がしゅう)ですね。
(峨峨とつづく山の稜線はぎざぎざです。我(ぎ)我(ざ)我(ぎ)我(ざ)でしょうか。象形でなく、ガという音(おん)を借りて「われ」〈=ガ〉をあらわした、仮借(かしゃ)文字だ、というのがまた別の辞書の説明です。カシャカシャ。わが廻転のこぎりはようやく帰宅できまして、今夜はどんな悪夢を見るか、また心配ですね。)
風が吹く理由(10)インタールード
一月に入ってからずっと悪い夢でも見ているような気分が続いて、私はあっさり萎れてしまった。でも、心のどこかで、萎れるのも人間にはよくあること、自然なことで、だから萎れていいとも思っている。
世の中には、風が吹いていると、反射的にその風に向かっていこうとするひとがいる。吹き飛ばされないように身をかたくするひともいる。
だけど、私は、風が吹く日は、草みたいに震えていたい。枝から離れ、空に舞う葉っぱのように、身を委ね、風に飛ばされることをあえて望む。
早く寝て、たくさん寝て、ぐうぐう眠っている間に時間は流れ、嫌なことも悪いこともみんなみんな片付いて、目覚めた時には春が来ていたらいいのに。
眠る前に飲む粉薬はわずかに苦く、子供の頃に飲んだピンク色の甘いシロップを、私いま懐かしく思う。"甘くないものを飲む"という行為が、大人であることの証なのかしら―。そんなことを考えながら、テーブルの上に置いたコップの水を眺める。
しもた屋之噺(157)
日本へもどる機中です。2日ほど東京に滞在し、そのままニューヨークを訪ねる予定です。暖冬にしては珍しく昨夜雪の降ったミラノを後にして、南アルプス辺りまでは地上もよく見えていましたが、スイスの湖沼地域にかかったあたりからぐっと高度を上げ、雲の中に飛び込んでゆきました。
元旦夜明け前、熱川から前回の原稿を送って今までわずか一月の間に、フランスのテロがあり、回教徒の怒りが世界中に伝播し、その直後日本の首相歴訪中のタイミングで、我々もすっかりテロに巻き込まれ、今は囚われの人々が解放されるようにただ祈りながら、これを書いています。
自分は何のために生きていて、何のために音楽をしていて、何のために作曲をし、何のために演奏をするのか。一日毎にますます殺伐とする世相に震えながら、書き留めておかなければ、伝えておかなければと思うことばかりが募ります。自分に残された時間にどれだけ出来るのか、焦燥感にかられているのに気がつきます。
今は各々が自分の人生を、改めて見直すべきときに差し掛かったのかも知れません。本来それぞれの人生に同じ価値があり、喜びがあり、悲しみがあり、意味を持っているに違いありません。それらが平等に与えられているかは分からないのですけれども。
時間は思いの外早く過ぎ、人の生命の駆け抜ける速度も、この歳になって漸くどれだけ早いものか思い知りました。今の自分にとって音楽とは、自分や他人が何かを思い、感じ、伝えようとする切欠に過ぎず、それ自身には何の価値もないけれど、演奏者がそれに命をあたえ、聴くものがそこにまた何かを見出す化学反応を、未だに信じているのかもしれません。随分楽観的だと呆れもするけれど、それすらなくなってしまったら、自分の息子の世代に何を伝えればよいのかわからない気もするのです。
...
1月某日
熱川で夜半家族が寝てから水牛を書き、夜明けに書き終え朝に温泉に入って寝る。東京にもどる車中で杜甫の浄書。12月末までに終えるつもりでいてこぼれた。SNSをしていないと、イヴェントに際してメッセージは必要以上に届かない。波多野さんに杜甫のパート譜を送る。「李白の大らかさも好きでしたが、杜甫の湿り気が慕わしかったのを思い出します」。
1月某日
毎日練習に間に合うかと祈る思いで三善作品の譜読み。新聞に沢井さんとご一緒の写真が載り、休憩中、学生が届けてくれる。響紋の鈴の音、ピアノ協奏曲の緩徐楽章のグロッケン、ヴァイオリン協奏曲のティンパニ、波摘みのチューブラーベル。三善作品の打楽器は、通常オーケストラに要求される演奏法とは全く違うもの。打楽器だけでなく、弦楽器の鬩ぎ合う音すら、恐らく現在の大学生の日常には存在しないようだ。彼らのその音から乖離しているのは、日本が平和で豊かな証拠であって嘆かわしいとは思わない。ただ、それを一つ一つ説明することが、我々の世代の役割であるはずだが、時間が足りないのが口惜しい。自分が大学生の頃は、特に意識しなくとも、現代音楽を弾く時の音には独特の興奮と凄みがあって、どちらかといえば、自分はそこから逃げだしたいと思っていた。品川駅の喫茶店で吉原すみれさんと会ったとき、楽譜に書きつくされていないものを、我々は伝えていかなければならないと話した。我々は一番微妙なハイブリッド世代だとおもう。
1月某日
沢井さんの演奏会に出向く。沢井さんのための十七絃の作品では、羽ばたく大きな鵠を一羽、手本をなぞりながら自動書記的に何も考えずに描いた。否、鵠を描いたのは、沢井さんなのではないか。音譜は彼女に白鳥を描かせるための仕掛けにすぎない。
言葉とて文字の中は実は伽藍堂なのと一緒で、音楽は自分の中には何もない。
沢井さんは、時に音の中に佇むようにも見えるし、音という予定調和の空間に、鋭利に切り拓いてみせるときもある。かと思えば、彼女の身の廻りは真空のように張りつめ、彼女の身体のなかに音が息づいているように感じることもある。
由紀子さんに「あんなに大きな白鳥を書いて頂いて、彼方できっと喜んでいますよ」と声をかけられ、少しだけ救われた気がする。「でも飛んで行ってしまったわね」と少し寂しそうにおっしゃられた。30年ぶりに大原れいこさんにお会いする。30年前、丁度今の息子の年頃にお世話になったので、傍らの息子をみて大原さんは大喜びしていらした。性格はだいぶ違うが、確かに顔は当時の自分に瓜二つ。
ユージさんの百鬼夜行を本番を含めて3回も見られたのは本当に幸運。見ればみるほど面白いが、今度は音と朗読だけで聴きたい。3回も見れば各々の妖怪も頭に浮かぶに違いない。聴きながら、ユージさんがカンフーを習っていたことを思い出したのは何故だろう。芯に強さと風のようなものを感じたからかもしれない。
1月某日
世田谷警察にあてた不審メールをうけて、息子の小学校は集団下校。今日の14時、世田谷区のこどもを殺すという。
洗足で大石さんの現代音楽ゼミの演奏を聴き、感銘を受ける。若い演奏家に対して、本当に自然で、そして豊かな音楽に触れる素晴らしい機会を与えていると思う。家人は、彼らと一緒にプラティヤハラ・イヴェントをやり、イヴェントのところでサンドウィッチを作って食べた。大学生は体操をしたり、風船で人形を作ったり。各々の日常はこんな形で反映されるのを一柳さんは当時から見透かしていらしたのかと感嘆。
帰り途、大石くんとシャルリーについて少し話す。イタリアに住んでいるものから見ると「わたしはシャルリー」は、少しだけフランス人のスノッブな部分を見る気がする、と正直に話した。フランス革命によって生まれたかの国において、法の前では誰もが平等であり、自由が保証されていることが誇りなのはよく分かる。でもイタリア人の手に掛かると、それはあくまでも理想論であって、平等だなどとは誰も言わない。イタリアはやはりマキャベリズムの生まれた国であって、理想を謳うより、現実の自らを蔑めて笑い転げるところがある。風刺の視点が少しだけ違う。
1月某日
昨日は波多野さんと三軒茶屋でお会いして、そのまま味とめでユージさん夫妻と福島君と落ちあう。黒糖を嘗めつつキリタンポ鍋をつつき、サザエの刺身を喰らう仕合わせ。黒糖頂戴と騒いでいたら、わざわざ購いに走って下さった。
朝は自転車で幡ヶ谷に駆けつけ、大井くんのウェーベルンのパッサカリア編曲を聴く。オーケストラで聴くのと違って、ピアノではどうしても増三和音が明快に浮き上がるので、勢いベルクのピアノソナタのように響く。尤も、ベルクのソナタはシェーンベルグの室内交響曲のように聴かれるべきなのだろうし、室内交響曲やこのパッサカリアはベルクのソナタのように奏されるべきではないか、などとつらつら思いながら家に戻り、午後は学校でヴァイオリン協奏曲の変拍子を固め、響紋を少しさらう。
あれ程面倒な変拍子なのに、学生たちの身体に一度入ると、それは活き活きとした律動感に支配され「水を得た魚」という言葉が頭を過るほど。同時に響紋がこれほど論理的に構築されているとは楽譜を改めて勉強するまで知らなかったと内心頭を掻く。
風邪気味なのが気にかかり、帰り途、件の上海料理屋で熱い紹興酒を呷りながら中華そば。
1月某日
東京からミラノに戻った翌日、早朝の特急でローマに出かけ、初めてMatteo D'amicoに会う。車中、旧い黒人霊歌をあれこれ調べ、O君のための作品の素材を集める。黒人霊歌と米国国歌を絡ませたいのは、先日警官とやりあって死んだエリック・ガーナーが作曲の切っ掛けになっているからで、来月ニューヨークでそんな話をする積りは毛頭ないが、とにかくニューヨークへ行って感じたままを書きたいと思う。白人による人種差別なのか白人の恐怖心の裏返しなのか、数日滞在したとて何が分かるわけではないが、ずっと耳の奥でリフレインしているものを取り除きたい。形のないものが少しずつ姿を顕す。それは人そのものの姿かも知れないし、尊厳であるかも知れない。恐怖であるかも知れないし、現実に目を背け光り輝く天国を謳う霊歌かもしれない。
昨日の学生のオーケストラのドレスリハーサルの最中、エキストラで呼ばれてきているプロの演奏家の私語が酷く、しまいに休符を数え間違えて落ちるに至って堪忍袋の尾が切れる。貴方方は自らの生徒にオーケストラでそのように仕事をするよう教えるのかと問うと、黙って下を向いた。今日はロンバルディア州庁舎で記念演奏会。警備が物々しいのはテロ対策だと言う。近年、日本では自己責任という言葉をよく聞くようになった。個人主義が徹底しているイタリアでは、全てが自己責任であるわけだが、同時に個人の主義主張行動に対して、喩えそれがどのようなものであれ一定の理解を示そうとするところが違う。
1月某日
学校から家に戻ると、シモーナとステファノがうちに預けていたグリエルモを迎えに来ていた。聞けば、11月に産後一週間で脳出血で亡くなったダニエラは、とても敬虔なカソリックで、毎日教会で祈りを捧げていたという。2年前のある日、息子のダニエレの夢に預言者があらわれ、11月24日に不幸が訪れると告げ、朝起きて泣きながら母親にそれを伝えた。2年経って自身の出産が11月と分かったとき、帝王切開の日程をとにかく24日から外すようダニエラが医師に懇願したのは、生まれてくる息子に不幸が訪れると信じて疑わなかったから。そうして26日が予定日となったものの、直前になって医師の都合で24日に急遽変更されてしまった。ダニエラはとても怯えていたけれど、周りの誰も預言者の夢など気にも留めなかった。無事にガブリエレが生まれて一週間後、彼女は突然頭痛に襲われ還らぬ人となった。
ダニエラの話を聞いたばかりで、今度は親しい作曲のI君が脳出血で入院との便りを受取り言葉を喪う。慌てて今週末、東京に寄る折に見舞うべく弟さんに容体をたずねると、幸い症状は酷くないようで、溜飲を下げた。しかし年末に彼に会ったばかりで俄かには信じられない。次は愈々自分の番かと思ってしまう。
1月某日
先に演奏会を聴きに行って感銘を受けた洗足の大石くんのゼミの学生さんたちが、「悲しみにくれる女のように」を素材にした拙作を演奏して下さることになり、本当に嬉しい。11月に村田厚生さんと菊池かなえさんによる古典楽器二重奏のために書いたこの曲は、バンショワの原曲と、パレスチナとイスラエルの国歌のみによって作られていて、ガザ地区で死んだ母親の胎内から取り出されたシマーという女の赤ん坊の名前が耳なし芳一のように刻み込まれている。大石くん曰く、学生の多くはまだ選挙にすら行ったことがないかもしれない、でも彼らに何かを考えてもらう切っ掛けにはなるかもしれない。自分の音楽は無価値かもしれないが、せめて何かの役に立って欲しいと願っているから、彼の言葉に心が躍った。パレスチナとイスラエルとどちらが正しいという問題ではなく、ただそこに目を留め、互いの音に耳をそばだて何かを感じて欲しい。5日間しか生きられなかった赤ん坊の名前は、たぶん彼らの裡のほんの片隅にでも残るかも知れないし、残らないかもしれないが、たぶん彼らが演奏するとき、そこに何かが生まれるはずだと信じている。
製本かい摘みましては(106)
銀座線の上野から浅草まで乗って5分の距離に、上野、稲荷町、田原町、浅草の駅がある。銀座線で一番乗降客が少ない稲荷町駅の出入り口は、日本で初めてこの区間に地下鉄が開通した昭和2(1927)年当時のままだそうである。地上の浅草通りから狭い階段をトントン降りるとすぐ改札、出たらそのままホームで、初めてだと拍子抜けする。さすが一番最初にできた地下鉄だ。「○○駅下車徒歩○分」という表示にうそが入り込む隙がない。ただし、相対式のホームで駅構内で行き来することができない。トイレは渋谷方面に行く1番線側のみ。今もってエスカレーターもエレベーターもない。これはかなり珍しいだろう。どんな事情があるのだろうか。銀座線は再来年までに浅草〜京橋間、東京オリンピック・パラリンピックまでに残り全駅をリニューアルするそうだ。稲荷町の出入り口や構内のリベット柱はそのまま残すと聞いた。
版画家・藤牧義夫の作品に、《地下鉄稲荷町駅出入口から見上げた空》がある。タイトルを読まなければそうだとわからないくらい、白と黒のはっきりした構成は単純だ。そうだと知って改めて同じ場所から眺めると、まるで同じではないけれども似たように単純な構図があらわれるのがちょっと可笑しくてうれしい。藤牧義夫は、1911年に群馬県の館林に生まれて27年に上京、稲荷町駅から歩いて数分の浅草神吉町に下宿。新版画集団に参加して旺盛に活動していたが、35年、24歳で突然失踪してしまう。稲荷町駅の作品は、冊子「新版画」の藤牧義夫特集号、第17号の表紙を飾っており、タイトルやNO.17の文字とのかかわりもいい。『生誕100年 藤牧義夫展 モダン都市の光と影』(2012年 神奈川県立近代美術館)の図録に〈1935年7月以前に制作〉とあいまいに記されているのは、のちに発覚した贋作問題とともに今もって失踪のいきさつが謎に包まれているからだ。
この義夫氏、四男七女の末っ子で、書画に親しみ城下町で風流に暮らしていた父・巳之七(1857〜1924)が教員を退いてから生まれている。ひじょうにかわいがられたようだが、13歳で67歳の父を亡くしてしまう。翌年高等科を卒業して、父を追悼する本の制作を思い立つ。家族などに資料収集の協力を要請し、家系図やその歴史を丹念に調べ、愛用品の模写や肖像、ゆかりの地を訪ねたスケッチのほか、父にまつわることがらをことごとく集めて父の雅号を冠した『三岳全集』『三岳画集』を完成させる。前述の図録によると、『三岳全集』は、1926(大正15)年6月完成/墨、貼込、他/私家本(洋装本仕立て)/21.8×15.3×5.5cm、『三岳画集』は、1927(昭和2)年1月1日完成/水彩、墨、貼込、他/私家本(洋装本仕立て、174図)/20.2×15.3cm、となる。展覧会では、どちらも既成の無地のノートに手描きして表紙に絵を描いたり布を貼ったものと見えた。
駒村吉重さんの『君は隅田川に消えたのか』に、この2冊についても記述がある。最後にこう書いてあったそうである。
昭和二年一月一日装訂成る。
群馬県館林町裏宿六八四番地 藤牧義夫著之。
大正十五年秋ヨ里稿を起し 昭和一年より二年に致り之著完成す。
せい姉に表紙布を戴き 画紙の大半を藤牧分福堂にて購入す
巳之七の関著は今日之を以て絶す。...著者識...
家長亡きあと藤牧家は日用雑貨品を扱う「藤牧分福堂」を営み、義夫もしばらく手伝ったようだ。『三岳画集』には父に続く家族の記録として店のことも詳しく記してあり、材料を律儀に〈購入〉したことを律儀に記すのはごくあたりまえのことだったのだろうと思える。〈画紙〉とあるから、本体は既成のノートではなくて画用紙を折って束ねてなんらかの方法で綴じたのかもしれない。〈せい姉〉がくれた〈表紙布〉というのは、スズラン柄の〈せい姉〉の着物の端切れだったかもしれない。『三岳画集』の表紙は上部を父の着物の端切れと思われる布でくるんであり、別の布から切り取ったと思われるスズランの柄をトリミングを変えて複数コラージュしてあった。2冊ともひとの指になじんでいた。こういうのをボロボロというのだろう。長く遺族の手元にあったそうである。
グロッソラリー ―ない ので ある―(5)
1月1日:「三郎おじさんはな、ああ見えて酒がほとんど飲めないんだよ。知らなかったろ? 酒
好きみたいな顔して、ビール一杯でぐったり。そのくせ『俺と飲んだら大変なことになるぜ』なんて言いやがる。大変なことになるのは、自分自身なのにな。は
はは。二三年前の正月なんて大変だったんだよ。今でも語り草。見てないか?――」。
チサネッリのヨーロッパ中世二階建て風。グッサーネとネッサーグのコンペラチャンテあえ。トケチのアンデパンダン蒸し。肉。三十五歳独身プログラマーの
築10年アパートの内見後。甲州街道に差し掛かった辺りで右折と左折を間違えてしまったあとの気まずい車内の空気をまぎらわす一方通行逃れ。わしのお手製
の晩飯のほんの一部じゃ。
文句ばかり言う人は、楽な人生を送ってきたのだろう。自力では何一つやろうとせず、やる能力もなく、コネとカネにものをいわせる。幼い頃から判断基準や
価値基準の真ん中にいて、大人へのとばくちの門を跨いで渡る。孤独な熟慮を知らず、アホーダンスに気軽に従う。時には軌道修正という名の抗議をし、「有意
義」な一生を送る人間。
シーシュポスの神話の石をレバレッジでVトップからネックラインへ転げ落とさせたのはわしだけじゃろ。しかもダブルトップときた。次は三尊天井じゃな。
ぎくしゃく登るから単純移動平行線ではない。じゃが登り一辺倒じゃからトレンドは読みやすい。力はフィボナッチ数列的に増加する。腰にゃボリンジャーバン
ドを巻いてるっての。
1月1日:「まだその時は三郎が下戸だなんて誰も知らなかったもんだから、ビールやら日本酒やら焼酎やら、どんどん飲ませた。そしたらどんどん顔が青く
なっていった。飲ませた側も異変にばたばたしだして、やれ吐かせろだのやれ救急車だの、そりゃあもう大騒ぎだ。肝心の三郎はといえば、しばらくは壁にもた
れてじっと座ってた――」。
プロザック、パキシル、ジェイゾロフト、デプロメール、アビリット、トレドミン、トフラニール、トリプタノール、ルジオミール、セルシン、デパス、メイ
ラックス、ソラナックス、レキソタン、アモキサン、タンドステロン、ジプレキサ、コントミン、リスパダール、エピリファイ、リボトリール、シアナマイド、
マイスリー、アモバンテス。――僕らはみんな生きている。
しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人......。
異性に恋心や愛情を抱くというが、いったいどういうことなのか。人間は細胞が集まってできている。心と呼ばれる脳も、異性を魅了する容姿も、ちっぽけなも
のの集合体でしかない。しかも新陳代謝を繰り返す集合体。有機的な機械に思いを寄せるとは摩訶不思議な話である。同時にこれは失恋の理屈っぽくて安っぽい
言い訳にもなる。
ピグマリオン対ガングリオン。見えないミツバチが頭の周りをぐるぐるするから、条件反射的によけるはめになる。あぐらをかいたまんまラジコンで浮遊でき
る日はいつになるのだろう。灰汁を取ってないナスとホウレンソウを食べるとせきが出る。でもオリオン座だけは脅迫的に毎日確認している。わしはいったい何
と戦っているのじゃろうか。
失業して、何もせず、のんびり暮らし、疲れて、自殺する。
1月1日:「そのままでいるのかと思ったら、急に『オロロロロロロロ』と滝のように吐きだした。そこら中は大変なことになってたけど、全部戻してリセッ
トすれば、またしらふになると楽観視してたから、吐くに任せてた節はある。まあ戻している最中に止めることなんかできやしないけどな。で、三郎のやつ、急
に吐くのをやめた――」。
だったら素っ裸のまたぐらに華やか過ぎるフルーツポンチを置いて、ちょいとメルヘンを気取った蛇行運転をしたり、まあるいけどぐにゃぐにゃだったりと
か。直立不動で最後っ屁ってのもあるぞ。だから他人の作ったおにぎりは食べられない。怒るんじゃないない! なんたって原宿だよ確かこっちゃあ。正座して
丁寧に畳んだ清潔な下心。
地球環境を破壊し、生態系を脅かすだけでは満足できないらしい。好奇心や科学の成果という名のもとに、必ず役に立つと言い切れるかどうか不明な一物を宇
宙に向けて放り投げている。今では宇宙空間はスペース・デブリが蔓延しているという。六畳間に掃除機をかけぞうきんで畳を拭く。わしはそういう性質を持つ
国から来た。
1月1日:「そこからの三郎はすごかった。戻すのをぴたっとやめて、急に真顔になって垂直にぴーんと立ち上がったかと思いきや、あ、その前に、三郎おじ
さんは親戚の間じゃあ生真面目一辺倒で知られてたんだ。俺の弟とは思えないくらいにな。言葉づかいや態度もきっちりしていて、まあいわゆる堅物に近いとこ
ろがあったなあ――」。
まあなんというか、犯罪をおかしたあとは善行のあとに似てるな。誰でもない人よ、一つ覚えておくがいい。猫は必ずしもニャーとは鳴かないということを。
事実は生もの。時間は腐敗促進剤じゃな。マタドールがひらりとやれば、そこには何もない。沈み彫りがやがて平文になって、最後はつるつるになるだけ。あ
あ、ご都合主義の現実様よ。
人はすれ違う時、相手の顔を見る。どういう魂胆からなのか見当がつかない。何かを確かめたいのか、単なる興味本位からなのか。アリはすれ違う際に頭同士
をコツンとやる。それに似たようなものだとしても、アリに聞いてみなければわからない。共依存関係にあるとはいえ、あの目つきは敵や異分子を探していると
しか思えない。
長年この世に存在してきたわしじゃが、思い出すことは、全てを仕損じたこと、女性が女性でなくなったこと、この世にいるという以外に人間と共通項がなく
なったこと、人生の入口からして暗澹としていたことじゃ。お花畑なぞ想像だにできない。たとえ脳のレベルにおいても。前世での後悔が遅まきにやってきたと
いうことか。
どうでもいいことにも一理ある。そうしたくだらぬ局面に立たされ、打開するに値する程度の生活しか送っていないということを意味する。視覚の情報はコン
テクストに乏しい。満場一致のエートスは、たとえそれがエートスだとしても民主主義では説明がつかない。多数決原理のお偉いさんも、公衆の面前でのおもら
しくらいは体験しなければ。
くすむ霧と
カラスが夜を吐き出した日
くすんだ霧を頭の中に閉じ込めただろう
手や脳天から漂う空気はその所為だ
思考は悲しい方角へ向きたがる
朝は明るい
明るい光に木々が集まっている
サアサアと葉を鳴らしている時
君の中の恐れは淡い靄になっている
次の夜が根から伸びてきた時
孤独の喜びと一緒に君は歩き回る
そうしてふたたび流れてくる霧に
君は手をかざすのだ
島便り(10)
小豆島移住からほぼ1年が経ちました。あれこれ見聞きしたことをとりとめなく掲載させていただいています。コレいったい読んでくださる人がいるのでしょうか? 読み返してみますと、自覚していたとはいえあまりにも散漫です。あいすみません。
一年かけて島で私がやりたい、やれそう、やらねばの意地で、ほぼふたつの方向に活動を集約してきましたので、
今後はそのうちのひとつ「小豆島ミュージアムを作ろう!」を水牛に報告していきます。
ちなみにもうひとつは「小豆島に馬の牧場を作ろう!」です。こちらはまだまだ霞のなかですが数人で勉強会からスタートしました。こちらの記録は「屋上」ウエブマガジンでそのうち連載はじめます。
☆
12月の水牛「島便り8」に記した、島に残された絵をめぐって、ダンボールの中にあったもの全て広げて見せていただいた。その日から、あのまましまわれていたら気の毒な絵をどうしたらいい形で常設できるかを考え出してしまった。
絵は昭和の始め頃から1970年代までの90点ほど。色紙や画帳もあるし額装入りもある。いわゆる美術館にかかっているような大掛かりな絵はひとつもな
い。だが、なんだか惹かれるタッチの絵なのだ。風景画(当時はめずらしかったであろうオリーブの絵が多い)、人物画(定宿のおかみさんやおやじさん、それ
に同宿の絵仲間たち)。とくに人物画は生き生きとした巧さに唸った(調べてわかったが、宮本三郎の絵であった)。
島にはギャラリーは2、3あるが、美術館はない。絵を見てから3日後に、いつも私の動きをフォローしていただいている町役場の方にメールを出した。必ず町長にも、担当部所にも伝わることになっているらしい。
「陽光に惹かれて小豆島を描いた画家たち」展示の提案
町の財産である画家たちが残した絵を常設できる場をつくれないか考えています。
1930年代から香川出身の猪熊弦一郎(1902―93)が始まりの気がするが、おおくの画家、画学生が小豆島に滞在、海岸やオリーブの樹や海と朝日夕日
を描いている。猪熊弦一郎と友人であった小磯良平もそのひとりであった。糸口の資料によるとその数40数名。主に東京美術学校(現東京芸術大学)の出身画
家、学生のほかにも香川や関西の画家たちの名が見える。画家のなかには小磯良平、古谷新をはじめ島にアトリエを建てた人まで数人いる。また、彼らの絵には
島の陽光に惹かれている様子、当時はめずらしいオリーブの樹、あきらかにヨーロッパへの憧れがにじみ出ている。たしかにこのあと画家たちが必ずヨーロッパ
へ留学していることからもそれがわかる。
著名な画家たちの若き時代の絵はそれぞれ貴重なもので、1枚ずつ調査あとづけをして、ストーリーをつくり、額装を直し、ないものは新しく作り、人の目に触れられるように仕立てる。小冊子も作れそう。
また同時代に湾を挟んだ坂手地区に文学者黒島伝治、壷井栄がいたことは重要なことで、俯瞰で島をとらえる必要性がありそうです。いま、黒島伝治の朗読会を
小規模で始めていますが、これもいずれ集約していくつもりです。また、島には貴重な古文書や民具ものこされていると聞いています。これらを同時にみること
ができるスペースがあったらいいと想像すると島の真ん中の海辺にできたら素晴らしいのではないでしょうか。島民にも島外のひとたちにもゆっくり過ごせるス
ペース、どこかに新しくハコをつくるのではなく、空き物件の再利用で小さなミュージアムを計画していきたいと、提案させていただきます。
10日後にさっそく関係者のミーテイングが開かれた。
怠惰な一月
お正月の寒波は沖縄にも襲ってきた。う〜、さむい。年末に頭を丸めたのでなおさむい。
かき氷を食べたときのツーンとする痛さをともなう。しかし一月半ば過ぎに大阪へ行った奥さんは、「沖縄の寒さはゆるいよね。」と言っていた。大阪では夜には外出できないくらい寒かったらしい。
一月は極力何もしなようにしている。去年のクリスマス後の風邪が約一ヶ月。加齢だろうか。からだが動かない。仕事以外はほとんど寝ている怠惰な生活。
沖縄のお正月の模様も変わったか。御節料理が多くなった。昔ながらの重箱料理がだんだん減ってきているようだ。今年のお正月の料理を見て母親が言った言葉を日本語にすると「豚をしめなかったか?」と。元旦に豚の三枚肉や赤味肉がなかった。
地元新聞と全国新聞の記事。全然見出しや取り上げることが違う。「辺野古」という地名はある程度は知らているだろうが、「高江ヘリパッド」に関して内地のメディアは言及ししているだろうか。
沖縄の東側と西側の違い。西側は観光開発。東側に基地。原子力潜水艦が寄港するホワイト・ビーチ、辺野古、その昔は天願からのパイプライン。辺野古移転とともにヘリパッドも南下する。
テレビで伊能忠敬の地図より早く作成された沖縄本島の精密な地図が作成された番組を見る。フランスの三点測量が清へ、それが琉球へ伝わった歴史。この事で琉球が大和より優位であった、という感じで語るひともいる。平らにすればさはど時間軸では差はないのではと思う。時間の差より、技術をどのように使うか、継承する術の差だろか。
来し方テロ事件~インドネシア
「イスラム国」の動向がとても気になっている。インドネシアでバリ島の爆弾テロ事件などを起こしてきたイスラム過激派団体:ジェマ・イスラミア(JI)の精神的指導者とされるアブ・バカル・バシル受刑者も、「イスラム国」支持を呼びかけている。インドネシアにもこれからいろいろと影響が及ぶかもしれない。テロが活発だった2000年代始め、私はインドネシアのソロに滞在していた。自分の経験から少し思い出してみる。
2000年のクリスマス・イブに、JIのメンバーによりインドネシア各地のキリスト教会で同時爆破テロ事件が起こる。この日、私は外国人留学生(欧米出身)の友達と10人くらいで夕食に出かけたのだが、その後、日本人以外はみな教会のミサに行ってしまった。2000年代に入ってから全国で教会爆破事件は頻発し、ソロでも起こったことがあるから私たちは止めたのだが、「教会で死ねたら本望だ」と彼らに返されてしまった。テロも怖いが、本望と断言できる欧米人の宗教心も畏敬すべきものだった。彼らの行き先は無事だったけれど、テロが起こるたびに真っ先にこのことを思い出す。
2001年、9.11事件が起こる。これはJIとは関係がないが、ソロでもデモが頻発した。メインストリートのS.リヤディ通り沿いをパサール・ポンの辺りから郵便局まで、ウサーマ・ビンラーディンの写真を掲げた人で埋まったこともある。郵便局前のロータリーでは、ちょうど車の流れが滞る所なので、デモがよく行われていた。私はこの近くに住んでいたので、デモがあると音で分かるのだった。9.11の1か月後、インドネシア人舞踊家(男性)を連れて日本に行く。滞在中に警察から職務質問され、舞踊家の写真入りの公演ちらしを見せて納得してもらえたことがある。顔写真入りチラシはこういう時に役立つものだと悟った。関空で出国手続きをする時には、インドネシア人だけ別の列に並ばされた。9.11関連なのか、明らかにインドネシア人をマークしている。前述の警察官にもインドネシア人との関係をしつこく聞かれた。もしかしたら、私もテロリストの手引きだと思われたのかも知れない。
2002年10月、JIのメンバーによりバリ島爆弾テロ事件が起き、緊急日本人会が開かれる。インドネシア人も外国人もバリなら安心だと思っていただけに、かなりショックな出来事だった。1998年の暴動の時のように混乱するかもしれないから、各自逃げられるよう心構えをせよと訓示がある。私はその会合に自転車で出かけていたのだが、帰りにパンクしてしまい、仕方なく自転車を押して歩く。PKU病院の前までさしかかると、何だか雰囲気が異様だ。警察トラック(幌掛けのトラックの荷台に、警官が10人くらい座れるようにベンチがついたもの)が停まっている。道端には警察官がずらっと並び、一斉に私の方を睨む。訳が分からずに下宿に戻り、テロ事件の情報をネットで探していたら、JIのバシルが、その晩にソロのPKU病院に入院したと分かる。どうやら私は、バシル入院直後のピリピリした雰囲気の中に、自転車を押してのこのこ現れたようだ。しかも夜の9時か10時過ぎ、普通のインドネシア人女性は1人で出歩かない時間帯に。あまりにも間抜けなタイミングだ。翌朝、大学に行く前にPKU病院の様子を見に行ってみると、果たして、バシル入院を知った人たちが病院の前の道に押しかけ、1ブロックくらい人で埋まっていた。
その後、インドネシア国内の芸術イベントに招聘された海外団体の渡航自粛が続く。私も、楽しみにしていた海外団体の公演がキャンセルになって、がっかりしたことがある。観光客によるチャーター公演が多かったマンクヌガラン王宮でも、ぱったりとチャーター公演が途絶えてしまった。こういう事態に対して、過剰反応だ!ジャワは危なくない!と怒る芸術関係者も少なくなかったが、1998年の暴動以来、教会爆破事件やらテロやらが続いてきたから、インドネシアに一度も来たことのない外国人が怖がるのも無理はなかったと思う。安全であるというイメージは観光立国にとって何よりも大事なのだ。
2003年8月、JWマリオット・ホテル爆破テロ事件がジャカルタで起こる。この年の2月に私は留学を終えて帰国していたが、7〜8月にまたインドネシアに来ていた。ジャカルタでマリオットの近くの安宿に泊まって、毎日その前をタクシーで通っていた。私がジャカルタからソロに移った翌日、テロ事件が起きた。本当なら、私はその日にジャカルタを発つ予定だったので、知人からの安否確認の電話でテロを知った。間抜けなことに、私は1日間違えてチケットを買っていたため、テロの混乱に巻き込まれずに済んだ。
その後もしばらくJI関係のテロがインドネシアで続いた。普段は気を付けるようにと言われても、気を付けようがないのがテロだ。それでも、いつでも、何か起こり得ると考えて行動するしかないのだと思っている。
飛ぶ矢も停まる
循環する時間には
始まりも終わりもない
循環は往復とはちがう
起源も目標も見えない
もし時間を線と見るなら
どれほど遠くても行先があり
一つの方向があるだろう
思ってもみなかったことが起っても
どこか似たことが どこかに見つかれば
ふりかかる偶然にも理由が見つかった気になる
循環と言っても毎回やりなおしではなく
記憶が残り 積もっていく
その記憶も少しずつ入れ換わっている
何かが変わると時間を意識するが
何かをしているうちは時間は経たない
どれほど長くても一瞬のうち
*
ことばはことばでないものを指し示す。飛ぶ矢より藪を叩く棒にすぎなくても、そこから何か出てくるかもしれない。ことばは発達し分岐しているから、狙ったものに当たらなくても、そのほうがおもしろい場合だってあるだろう。時間はカテゴリーで、線も循環もたとえだが、瞬間はそのどちらでもなく、時間でさえもないのだろう。