人生のあらすじ

 生まれたとき、彼はごく普通だった。父と母は恋愛結婚でちゃんと結婚をしてから彼をもうけた。
 学校に上がる前は意外に賢いと近所で評判になった。評判になるきっかけは、本屋の店先で大人向けの週刊雑誌の見出しをつまることなく読み上げたりしたからだ。なかには少し見聞をはばかられるような見出しもあり、人によってはこの子を野放しにしておくと危ないという声もあったと聞く。
 両親は私立の学校に行かせるのは経済的に無理だと判断したのだが、いややっぱり行かせた方がいいという人がいて資金的な援助までしてくれて、無事に私立の小学校へ通うことになった。
 その時に援助してくれたのがサカモトさんという父の親友で、サカモトさんの援助は父や母に見えないところでも実あったのだということは随分と後になってから知らされることになったのだが、サカモトさんと母には男女の関係があったからだという人もいるが、真意は定かではない。また、彼の顔はサカモトさんではなく見事に父親に似ていた。
 小学校では算数が得意で、中学、高校の数学の問題でも、遊びながら解いてしまうことがあり、担任が興奮のあまり、たまたま居酒屋で知り合ったNHKの教育番組の担当ディレクターにそのことを伝えてしまった。そのディレクターは面白がってローカルニュースのほんの三十秒ほどの枠で取り上げると、番組を見ていた有名私立中学や高校から連絡があり、入学金授業料免除できてくれと伝えてきた。
 そのなかでも一番理数系の教育に実績のあった学校に進学した。入学して最初の数学の時間に、担当の教師はフェルマーの大定理について話した。数学への興味を持たせるための話題であり、特にフェルマーの大定理についての説明があるわけではなかった。いかに人は何かを仮定し、仮定されたものを証明しようとするのか、ということを教師は面白おかしく話した。
 大半の同級生たちは笑いながら聞いていたのだが、彼は教師が板書したフェルマーの大定理についての走り書きをじっと眺めていた。眺めながら、それを解き明かすことの愚かさ、という言葉を思い浮かべた。思い浮かべた瞬間に、数式は霧散して笑っている教師と級友たちを愛おしく思う気持ちに満たされてしまったのだった。
 その日から、彼は数学の勉強を一切しなくなり、文学にのめり込んだ。
 もちろん、数学的な理路整然とした思考回路は生きていたのだが、できる限りそれを封印して、文学的な曖昧さを大切にしようと決めてしまったようだった。おかげで、明確に答えがわかっている場合でも、答えを書かないという選択をするようになってしまい、成績のほうは曖昧さの欠片もなくあっという間に最下位にまで落ちてしまった。
 しかし、理数系に長けた同級生たちの間での評判は依然として高いままで、彼の曖昧な受け答えは人としての深みとしてとらえられ、中高一貫教育が終わる頃には、マスターの称号で呼ばれるようになった。
 成績が最下位のマスターは、彼をマスターと呼ぶ同級生たちの代返やテスト用紙入れ替えなどの不正を支えに学校を卒業した。卒業式の日には彼の使っていた木製の机に『知のマスター、ここで学ぶ』と彫刻刀で彫った者がいて、後日、後輩たちの生徒会で、学校備品への落書きいたずらは禁止、という言わずもがなの校則が加えられた。しかし、『知のマスター、ここで学ぶ』と刻まれた文字は校則が出来る前のものだということで、そのまま残された。
 大学に行かず、市ヶ谷駅近くの釣り堀に就職した後、彼は画期的な釣り堀の水の濾過装置を考案した。これまで濾過装置よりも材料費などが半分以下で、しかも効果が目に見えて素晴らしかったので釣り堀になくてはならない存在となった。
 働き始めた翌年には、釣り人にすれて釣れなくなってしまったフナを再び釣りやすくするシステムを考案した。それは、環境が変わるとフナは初心に戻るという習性を利用したものだった。釣り堀のフナにタグ付けをして、升目に分かれた釣り堀のフナを徹底的に調査した。その結果、同じフナ同士を一カ月以上同じ升目に入れておくと、互いに協力しあって、釣り人の仕掛けを教えあっているのではないかという仮説が浮かび上がってきた。そこで、タグ付けされたフナ同士が必ず一カ月未満で別の升目に引き離されるようにしてみたのだった。
 あの釣り堀のフナは釣れる、と評判になるまで時間はかからなかった。日がな一日、ぼんやりと釣り糸を垂れているだけで満足していたかのように見えていた釣り人たちが、釣れるとわかると前のめりに釣りを楽しみだした。都心に釣り堀がないこともあり、かろうじて経営できていた釣り堀は近隣からの客で満員になり、なかには本格的な海釣りを楽しんでいた釣り人まで集まりだした。
 半年で、釣り堀の経営は大幅な黒字を記録して、その利益を巡ってオーナーをだまそうとした実の息子との裁判沙汰が起きた。裁判自体は不起訴となったのだが、嫌気のさしたオーナーは彼に釣り堀を譲りたいと言い出した。釣り堀に集まる釣り人を眺めているのが好きだったので、彼は引き受けることにした。オーナーの息子は、彼を非難したり誹謗中傷のビラをまいたりもしたが、毎日釣り堀を穏やかな顔で眺める若者がそんなに悪い奴であるはずがない、という周囲の支えが息子の悪意を押し返した。
 三十歳を目前に釣り堀のオーナーとなった彼は、釣り堀に人が集まりすぎていることを懸念して、人が集まらない工夫をした。あえて、フナ同士を一カ月以上同じ升目の中にいれるようにして、釣り人たちをがっかりさせるようにしたのだった。
 しかし、いったん人が集まりだした釣り堀は釣り人同士が仲良くなり、釣果に関係なく釣り堀に集まるという習慣ができあがってしまっていた。釣れても釣れなくても釣り人が集まるという状況に、曖昧さを喜びとする彼は素直に嬉しかった。そして、もうこれからは釣り堀になんの工夫もしないことを決めたのだった。
 あっという間に五十年が過ぎた。その間、彼は釣り堀を見守っていただけで、心に決めた通り、なんの工夫もしなかった。西暦は二〇一五年になり、その年も終わろうとしていた。彼は釣り堀のオーナーとしてもうすぐ八十歳になる。今日も釣り堀の隅っこに作られた電話ボックスのような監視小屋で釣り堀を眺めている。そして、いままでそんなことは考えたこともないのに、ふいに人生を振り返ってしまったのだった。
 たくさんのフナを生かしたり、釣らせたりしてきた人生だったなあ。彼は楽しそうに声に出すと、立ち上がり、監視小屋を出て、まだ釣り人が誰もいない釣り堀に飛び込んだ。(了)