グロッソラリー ―ない ので ある―(20)

 「1月1日:『大学受験の時、俺なんかスッテンテンの浪人生だったにもかかわらず、あちこち遊び回ってたのに、三郎のやつときたら高校2年生になってすぐに入試問題集や参考書を山積みにして、さっそく受験勉強を始めてた。勉強が好きだったんだろうし、そもそも勉強に向いていたんだろうな、ああいう生真面目一本の人間は』」。

勉強中...〆(・ω・o)ヵリヵリ

 「健全な肉体に健全な精神が宿る」という名文句、三島由紀夫によれば、トルコ人の詩を日本人が誤訳したものらしい。正しくは「宿れかし」という願望を示したものだそうだ。悪名高き心身二元論。命題に振り回されて数百年、哲学の成果は様々あれども、虚学ここに極まれりとする開き直りに近い態度は、どんな哲学に基づいているのか。

( ゚ ◇ ゚ ; ) ナルホド

 この文はドイツ語(A・フィッシャー)から仏語(B・ミシェル)へ、仏語から英語(C・レイノルズ)へ、英語からポルトガル語(D・アレクサンドロ)へ、ポルトガル語からイタリア語(E・アンドレア)へ、イタリア語からスペイン語(F・ガルシア)へ、スペイン語から米語(G・ジョージ)へ、米語から日本語(不詳)へ訳された。

( ・∀・)=b グッジョブ

 生老病死。ブッダがライフのフォーのアゴニーとしてチョイスしたものじゃ。四苦、四天使とも呼ぶ。ライフのエッジからエッジまでのエレメンツと言ってもいいわなこれじゃ。アニマルもヒューマンも同じ。ホースに乗ったシープが走るように、究極のテクニックってのはスーパーカリフラジリスティックエクスピリアリドーシャス×7じゃ。

ヘ ( ゚ д ゚ )ノ ナニコレ?

 ダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダ

( _ _ , ) /~~ まいった

 竜二は驚嘆のあまり足を止めざるを得なかった。眼前に立っているのは竜二とそっくりな人間――髪の毛の色、手入れをした眉毛、切れ長の目、筋の通った鼻、薄い唇、そしてそれらの周辺を覆う皮膚の緊張、どれも竜二のものと一致している男性だった。瓜二つとはこのことだ。顔を撫で回していた竜二は思わず呟いた。「これが......鏡か......」。

ヽ(。_゜)ノ へっ?

 う〜ん、あ〜ん、せんしゃるぅ〜......まずい、見ておったか。今のはなしじゃ。今の話じゃ。またやらなきゃならん。循環論法に媚態を示して懐柔すれば、あったこともなかったことになる権謀術数にたけるのか。やや、猛る怪獣じゃ今度は。手っとり早くなんとかマンに変身して戦わにゃならん。サラリーマン。いかん、リーマン予想とはな、

(〃 ^ ∇ ^ )oお疲れさま〜

 人間的成長とは何だろうか。現在実感していることや感じていることを、10代後半の自分と共有している。10代で知っていたとも言える。良くも悪くも思い通りの歴程。点検と注釈のその後。知識や経験は未来派思考とは限らない。誰にも、啓示をする第六感的な山勘的な峠がある。人生は、それがいつ来るか、いつ気づくかにかかっている。

( ' ェ ' )ぇ

 考え事をしようとすると、反省や後悔のみが思い出てくる。結局何も考えられず、鼻くそを食べる一人の小学生になり下がっておる。オメガは鼻じゃないっての。アルファからオメガまで、ゆりかごから墓場までの包括主義者。つまり全一だ。白馬に乗った王子が、京浜東北線で王子から来て言ったんじゃ。神業、つまりつまり神様業ですねとな。

げっ, (・ . ・; ) メガテン

 私をよく知っている人のほうが、JR池袋駅から真東の方向のサンシャインシティにいる。選挙時にかかる莫大な経費も、延びと潤いで超人気の高濃度アルカリイオンローションも、包括的に解析された。アドバイスをするなら、オフィスで座る習慣をがさつな元気にあふれさせ、中や小は自分のサイズに合わせて中間や先っぽにつければ大変身。

アヒャヒャヒャヒャ ヘ(゚∀゚ヘ)(ノ゚∀゚)ノ ヒャヒャヒャヒャ

 安心と不安。世の大勢はこの二元論の間を往来する。不安や危険を求める心情というものもある。危険で納得いかなければ生理的かつ物理的な払底と換言してもいい。素寒貧で危なっかしい情況は、安堵の源になる。底が知れているという以前に、不安視こそ透徹した光である。そうした条件下を追い求めて眠れぬ深夜を凌いできた気がする。

∈-( ^ ∀ ^ )-∋ ソウナノカ

 四十年間聞けなかったけど......僕はママのどこから生まれてきたの?

∑(゚ Д ゚ ; ) イ、イマサラ...

 どうしようもないわたしが生きている。偉大なる人間様の目の前で、おそれ多い世間様の風の中で、畏怖してやまない自然様の真ん中で。短からぬ年月を、生きている。この奇妙な想念。この生臭さ。この申し訳なさ。いったいどこへ生きようか。何を生きられるのか。わたしは本当に生きているのか。誰も答えてはくれない。答えられない。

ヽ( ◎ ∀ ◎; )ノ シンデナイヨ

 「1月1日:『まあ実際、三郎は勉強がよくできた。全国模試なんかでも名前が載ってたからな。載ってたどころか全国で7番とか、とにかくすごかった。驚いたねえあれには。たぶん死んだじいさんに似たんだろうな。下のほうのじいさんな。やっぱりかなり優秀だったみたいで最後は官僚だかなんだかになったっていう話だよ。たぶんだよ』」。

ジイサン(〒Д〒)デス

 地球は宇宙と協定を結んだ、生物マニアである。いつの時代も何かしら飼っている。飽きると太陽と共謀して氷河期を作り、大声で隕石を注文する。そこそこ続いた人の世である。もし人類に倦んでいたら、地球の算段は興味深い。あるいは宇宙協定を破棄され、世紀末的ならぬ地球末的現象、つまり自爆のタイミングを図っているのだろうか。

(=xェx=) モ、モウダメ?

 人間による地球の礼讃。世界で初めて有人宇宙飛行に成功したユーリイ・ガガーリン。この国だけで有名な言葉「地球は青かった」は、地球の美しさを表現した言葉ではない。恐ろしいほどの漆黒の中にぽつんと青い星がある、という具合に闇を強調した言葉だ。人間は自分に関する事柄は無条件に絶賛する。なんとも屈折した性向の持ち主である。

U\(●~▽~●)Уワーイ!

 「1月1日:『そうそう、じいさん。会ったことあるだろ? え、たったそれだけか。まあいいや。じいさんの名前知ってるよな、四郎っていう。いやいや嘘じゃないって。ほんとだって。ほんとだって言ってるだろ! ああごめんごめん。俺、子供いないだろ。会社でもぺーぺーだから、年下の人間をしかったことがないんだよ。ごめんな』」。

\(_ _。)ハンセイシテマス

 大人への反抗の歌は数えるほどしかないのに、「10代の教祖」と呼ばれた尾崎豊。彼は人生や人間に関して、形而上学的な視点で考えていた。だがそのまま詞にしても、ファンには親切ではない。核心を伝えることを重視していた彼は、文学的な技術を排し、飾り気のないピュアな言葉で表現した。稀に見る誠実過ぎるロックンローラーだった。

イエーィ♪♪(((б(*`・´)∂)))♪♪

 イメージが降ってくるのが恐い。着想するのが不吉である。一旦その場から機械的に離れても、すぐ机に戻って制作の病的な義務に追われるからだ。何もせぬままだと、壁の落書きのように脳髄にそれからそれへと刻まれていく。アイデアは登場場所をわきまえない。レオナルドがペンと紙を常備していたのは、全く同じ事情と感想からだろう。

φ(・ ω ・。* ) カキカキ

 八百長ってのはやだね。次郎長みたいな面構えしやがって、やってることは月とスッポンポン。八幡の藪知らずの親戚だわな。どういうことかっていうとだな[...]というわけなんじゃ。べつに共存するために愛し合えって言ってんじゃない。わしが何を感じているかを知ってる人がいたら、わしはその人を憎むだけ。アダジョソステヌートでな。

( '-' ;A エーット,,アノォ..ソノォ...

 自然災害への防災で賑わっている昨今じゃが、企業をいっぺんガラガラポンしなきゃ駄目じゃ。とりわけ歴史ある企業はガサ入れすれば、まずいものがわんさか出てくる。わんさか出たところで、色んな癒着があるので改めてガラガラポン。丁ならシロ、半ならクロ。シロの連中はクロになるまでガラガラポン。これは人間の原罪に由来する行事。

(・へ・;;)うーむ・・・・