製本かい摘みましては(119)

インドのBOROSIL社が30年以上製造販売している耐熱グラスは、現地でありふれたものとしてカフェでも使われているそうだ。2011年に旅先であったこのグラスの美しさにひかれたお二人が、2年後、日本で VISION GLASS JP を立ち上げた。販売するのに検品を繰り返してメーカーに伝えるなかで、返ってきた " NO PROBLEM "  に戸惑ったそうである。これまで日本の「市場」に出せなかったグラスはおよそ5000個。戸惑いを戸惑いのまま受け止めて、これらを不良品や規格外品としてではなく〈インドと日本の価値観の違いによるはざまで行き場を失ったもの〉として、さまざまな機会を設けて見せている。希望者には同じ値段で販売もする。VISION GLASS  NO PROBLEM プロジェクトという。

そのひとつとして、検品で見つけたあまたある傷や汚れをいくつか分類し、原因を製造工程まで追いつつ、「じゃりじゃり」「エアライン」「流れ星」「水滴」など特徴をあらわす名前をつけて展示している。こうした工程におけるこんな不具合でこの柄が生じてしまう、というパネルに(なあるほど)とうなずきながら、分類されていない「誰か」を探して名前をつけたくなる。こういうことを、商品を売る側、ブランディングする側のひとがやっているのがおもしろい。こちらに語りかけているけれど、なにより自分たちがこの体験をもって〈物の価値に対する自分自身のものさしについて考え〉たいようすが強く感じられる。 

雑誌の不良品についてはどうだろう。実は先週届いた『東京かわら版』6月号に印刷会社の名前でページ半分大の「お詫び」が出ていた。前号に〈製本不良本が発生〉したという。〈外側の欄外情報の文字が欠けている乱丁本が出現しております〉。手元の5月号をめくってみるがこれは大丈夫。たとえちょっと欠けていたって読めればノー・プロブレムなのだ。厳密奇抜をきどるデザインを買うものではないし、むしろ版面ぎりぎりまで一文字でも多く読みたい。もちろんこれは読み手としての感想で、作り手側にいたら決して言えない。いや、ありました、白紙を詫びる編集部が。『面白半分』、筒井康隆さん編集の昭和52年9月号。〈タモリ氏の『ハナモゲラ語の思想』の原稿は、まだ印刷所に到着いたしません。白紙のままでお届けすることを深くお詫び申し上げます。 編集部〉

『東京かわら版』のお詫びの場合、おかげで5月号を改めて読むことができて、鈴本演芸場上席夜の最終出演日が最後の高座となった喜多八師匠の「10・12・14・16・21・鈴上・池中」という予定を見直すことができた。師匠はその日「ぞめき」をかけたと聞いている。吉原で、遊ぶよりもひやかす(ぞめき)のが好きな若旦那が吉原さながらに改築した自宅の2階で一人熱演を繰り広げる噺だ。喜多八師匠の「ぞめき」は一度しか聞いたことがないし実はよく覚えていない。志ん生師匠の音源で聞くと「ひやかす」の語源を話していて、落とし紙として使われたいわゆる浅草紙を作るのに原料の屑紙を水に浸すのを「ひやかす」といい、十分にふやけるまでの間、職人たちが近くの吉原に出かけてはその様子をただ楽しんでいたそうなのだ。ほんとかな。辞書にもあった。東浅草1丁目の交差点に紙洗橋の名があり、その近くの通りに昭和4年に架けられた紙洗橋の橋柱だけが残っている。王子の音無川から隅田川に注いでいた山谷堀が埋め立てられたのは昭和50年頃からだったそうだ。

大正10年、寺田寅彦は新聞に「浅草紙」について書いている。病床から這い出て無我無心にぼんやり日向ぼっこをしながら、縁側に落ちていた浅草紙に混じり入る斑点や繊維や文字や雲母を見つけてひとりごちる。〈「蛉かな」という新聞の俳句欄の一片らしいのが見付かった時は少しおかしくなって来てつい独りで笑った〉〈何の関係もない色々の工場で製造された種々の物品がさまざまの道を通ってある家の紙屑籠で一度集合した後に、また他の家から来た屑と混合して製紙場の槽から流れ出すまでの径路に、どれほどの複雑な世相が纏綿していたか、こう一枚の浅草紙になってしまった今では再びそれをたどって見るようはなかった。私はただ漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雑さを思い浮べるに過ぎなかった〉。寅彦もやっていたのだ。浅草紙・ノー・プロブレム・プロジェクト。