そつぎょうしき(翠の虱29)

藤井貞和

n 似たもの ふたり  e いつも 仲良し
e いつでも 一緒  t とうとう わかれ

b ぼくの これから  o おそれ と 不安
k 期待 と 希望  u うそでは ないさ

k きみは 進学  i いなく なっても
m みんな まちから  i いなく なっても
w わかれ と 出会い  a あるべき ことさ

s 詩人たち ミュージシャン 予言者はみな
h 非行少年 少女だったし
i 偉大な 宗教者たちにしても
n なんたって たいてい
g 元祖 ニートの
a アーチストたちだったんだ
k 繰り返しているうちに ニートから
u 生まれるってことをね 

(長嶋ばなしに「テヘ」というのがあります。卒業試験(口頭試問)に、「では、この英文を読んでみなさい。」というのがあって、長嶋さんが、「テヘ」と読み始めると、はいよろしい、卒業です。〈答えは、「The」〉)

特別な一日

小島希里

きゅっとこうやって。そう言いながら、Tさんが自分の左腕の袖口を右手で引っ張った。部屋のなかにいた十人ほどの視線が、Tさんの袖に集まった。きゅっとこうやってって、なんのこと?そう思いながら、みんな、自分の袖を引っ張っている。「看護士の金山さんはこうやって、引っ張る、きゅっと」Tさんは、もういちど袖を引っ張り、「内科検診」と付け加えた。いきなり衣服を引っ張られた不愉快が、広い部屋に立ちこめた。
さっきまで、Tさんは山田さんのことを話していた。山田さんは、いつもどなる、大声でどなる。休憩時間、だれも話してくれない。山田さんはこわい。
その前は、ホワイトーボードにいっぱい書いていた。几帳面な小さな文字が、作業所には利用者、支援スタッフ、所長、事務がいて、Tさんたち「利用者」は1グループから9グループに分けられていて、Tさんはその9グループに属していて、山田さんは「利用者さん」の手伝いをする職員「支援スタッフさん」の一人なのだ、とわたしたちに伝えた。そして、同じ作業所に通う人が、そのわきに「やまださんにながされた」と書いた。泣かされた、のだ。
監督官とか指導員とかではなく、支援スタッフと名乗る人が、どうしてそんなに威張っているんだろう?

そうそう、わたしたちは、歌を歌おうと、畳の上にいびつな円を描いて座っていたのだった。
モジャというあだ名の学生が、ギターを叩きならし、歌いだす。「山田さんがどなる、どうして、どなるんだー」Tさんがすっと立ちあがり、瞬時にギターのリズムをとらえる。しばらくの間、片手を太ももの前で軽く振ってからだを上下に弾ませてから、Tさんが歌いだす。「山田さん、山田さん」「山田さん、山田さん」またしばらくからだを弾ませ、歌をさがす。そして自分のことばにたどり着く。「やめろ、やめろ」「やめろ、やめろ」
次は、内科検診でいきなり袖をひっぱった看護士の金山さんについての歌。「引っ張るな、引っ張るな」みんなもいっしょに歌う。「引っ張るな」

しばらくして、港大尋さんがやってきた。できたての「がやがやの歌」をきかせてくれた。

   もしも誰かが困っていたら
   ちょっと遊びにくればいい
   がやがや がやがや
   誰もかれもが トゥトゥトゥ

なんども、なんどもみんなで歌った。

夕方5時。予定していた終了の時間だ。ところがともだちが帰っていってもTさんは帰ろうとしない。残っているスタッフを相手に、Tさんが、がやがやに参加している人たちのグループ分けを始めた。作業所の九つあるグループに、わたしたちを配属しようというのだ。いっしょにプロテスト・ソングをつくったモジャは、利用者でも支援スタッフでもなく、別格の「事務の人」になった。わたしはTさんといっしょの9グループに配属された。山田さんの横暴に抵抗することができるだろうか。いや、これはもうふだんの作業所ではなく、がやがや作業所で、もう山田さんはいないのかもしれない。夢ののっとり計画だ。

こんな風に、終了時間をすぎてからも夢中になって話をつづけるTさんを見るのは、初めてだった。誰かがふざけて人を呼び捨てにしても、だめだめ、と制し、床に広げた模造紙を踏んでも、だめだめ、とたしなめるTさん。遅刻なんかぜったいにしないし、うんち、と歌のなかに出てきても、だめだめ、と嫌がる「正しい人」のTさんが、予定の帰宅時間がすぎても、夢中で新しい作業所の人事案について話していた。

かたくり

大野晋

台所に「片栗粉」という名前でおいてある澱粉は現在は片栗から作られたものではなく、おそらくは芋からできている。しかし、日本では片栗粉という名前が残るほど、葛と同じように昔から澱粉をとるために使われてきた。現在は人里では滅多にお目にかかれないが、以前はポピュラーな植物だったのだろう。

ユリ科の植物で、春先、地表に広がった2枚の紫の真ん中からすっと花茎を伸ばし、その先端にひとつの下向きの花をつけるのが印象的だ。大きな群落で、カタクリが花をつけている姿は、紫のチョウが春先の明るい森の中を飛んでいるようで実に華やかである。

カタクリの中を見ていると、ときどき、雪解けの地表からにょきにょきとショウジョウバカマが咲いているのを見つけることもある。同じ時期に咲いているくせに、こいつはあまり美しいという印象はない。まあ、数株のショウジョウバカマが集まっていれば、多いかな? と思うくらいで、もし、カタクリと同じような群落を作るのであれば、ちょっと気持ち悪いだろうと思う。

同じく、近くの臨床では、ニリンソウやエンレイソウが咲き始めるし、スミレやザゼンソウなどが咲き始めるのもカタクリの咲き始める頃だ。おそらく、カタクリの花にわくわくと心躍るのは、そういった多くの花が咲き始める春を告げる花だからなのかもしれない。

そろそろ、春だ。花の咲き誇る春だ。
こころのボタンをひとつだけ外してもいい時期だ。

アコーディオン・ワークス2007はお休み

御喜美江

2007年が始まって早2ヶ月が経ちました。遅ればせながら、この新しい年が皆様にとって健康と平和に満ちた1年となりますよう、心からお祈り申し上げます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

毎年この時期になりますと、御喜美江アコーディオン・ワークスの準備も最終段階に入り、「今回のテーマと共演者のお名前」を、チラシとともに皆様にお知らせできるのですが、今年2007年はアコーディオン・ワークスをお休みさせていただくことになりました。長い間このシリーズをあたたかく見守り、いつのときも多大なご援助をしてくださった皆様に、私は言葉では言い尽くせない感謝と敬愛の念を感じております。ですから、今回の「お休み」について、是非ともご報告したいと思いました。

故・萩元晴彦氏の御推薦により1988年3月10日カザルス・ホールからスタートしたこのシリーズは、2006年に18回目をむかえました。スタート時点での目標は、
1)クラシック・アコーディオンを世間に紹介すること
2)クラシックの分野では最も若いこの楽器のために、オリジナルの作品を増やすこと
でした。おかげさまで、新作の世界初演21曲、日本初演21曲と、これまでに多くの作品が誕生しました。

アコーディオン・ワークス以前は、『御喜美江アコーディオン・リサイタル』のタイトルのもとに、東京文化会館(小)で7回コンサートを行ないましたので、この2つのシリーズをトータルすると、全部で25回のリサイタルをしてきたことになります。

このような内容のコンサートを毎年行なえたのは、ひとえに皆々様のあたたかいご支援とご期待の賜物であり、両親と夫の理解のお陰と思うのです。本当に幸せな年月を持つことが出来ました。有難うございました。そして「このシリーズを私のライフ・ワークにしよう!」とあるとき心に決めました。ライフ・ワークとは、”アコーディオンを弾けるときまで続ける”ということで、それは素晴らしい目標であると同時に、体力との勝負でもあります。初演を含む2時間近いプログラムを、いつまで舞台で演奏できるのかは分かりませんが、体力とは不思議なもので、ある程度の年令になって初めて有効に使える、そんな気もいたします。先月はスウェーデンで3日間グリークの叙情小曲集をCD録音しましたが、3日目に入っても体力だけは全く衰えず、本プログラムの録音が全て終了したあと、プロデューサーの希望でアンコール・ピースをさらに7曲も録音しました。これは以前では想像できなかったことで、「自分の持っている体力を無駄なく使いこなせるようになった証拠かな。」と、たいへん嬉しく思いました。

前置きがすっかり長くなってしまいましたが、では何故今年はお休みするのか? という本題に入ります。 

今年2007年は主催:朝日新聞社、会場:浜離宮朝日ホールという大きな名誉をいただきました。しかし私の中では「だからこそ今までとは異なった新しい内容のものを・・」という声が生まれ、それは時間が経てば経つほど強い声になっていきました。そのためには、もう一度ゆっくりじっくり勉強したい、いろいろな人のいろいろな演奏を頻繁に聴きたい、音楽を越えてもっともっといろいろ知りたいと思うのです。さらに、この25年間は春のシリーズを一年の目標に夢中で走り続けてきましたが、これからさらに走り続けるためには、ここでちょっと一息つきたい、というのも正直な気持ちです。というわけで『御喜美江アコーディオン・ワークス』は、2008年に再びスタートいたします。

  御喜美江アコーディオン・ワークス2008の日程
  2008年9月28日(日)14時開演 浜離宮朝日ホール

尚、今年も3月と9月、10月は帰国し、通常のレパートリーでの演奏会を行ないます。
先月録音しましたCDは、2007年がグリーク・イヤー(没100年)ですので、5月にキング・インターナショナルからリリースされる予定です。そのときはまた御連絡いたします。

長くなりましたが、以上のようなことを理由に「アコーディオン・ワークス2007年お休み」のご報告とお詫びまで、とさせていただきます。

(2007年2月22日デュッセルドルフにて)

おせっかいな編集部より3月の御喜美江コンサート情報
●「アコーディオン公開講座」3月10日(土)13:00-14:30 朝日カルチャーセンター(新宿住友ビル7階) 2940円(会員)3460円(一般)(入会不要)(問合)03-3344-1998●「オウルンサロ音楽祭in兵庫」3月15日(木)13:00-21:00 兵庫県立芸術文化センター・小ホール(問合)0798-68-0255(チケットオフィス)090-3974-6807(小笠原)akkooga5@ybb.ne.jp●「名古屋スタジオ・ルンデ」3月17日(土)(問合)js@runde.jp(鈴木)●「松明堂音楽ホール」所沢3月24日(土)15:00開演 全席自由4000円(問合)04-2992-7667 http://www.shomeido.jp/●「あなたが選ぶNECガラ・コンサート」3月29日(木)19:00開演 紀尾井ホール全席自由3000円

プンドポという空間

冨岡三智

先月号で書いたように、2月にインドネシアで能を紹介する事業をした。その中で空間の使い方についてあらためて考えるところがあったので、それについて書いてみる。

今回の企画のメイン会場はインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(ISI Surakarta)だった。ジャワの王宮や庁舎などと同様に、この大学にも立派なプンドポというホールがあって、各種式典や公演に使われている。プンドポとは壁がなくて床(たいていは白い大理石)と屋根と柱から成るオープンな空間で、いわば表の間、晴れの間である。プンドポは必ず奥の間(ダレム)を備えており、芸大の場合はここに着替えをする支度部屋がある。プンドポでは中央の4本の柱(これをソコ・グルという)で囲まれたところが一番重要な空間で、儀礼や舞踊は必ずここで執り行われる。

今回、芸大では、公演だけでなくワークショップもレクチャーもすべてこのプンドポで行った。芸大のプンドポは間口が約35.8mもあり、その中央に約15.6m四方の舞台があって、周囲より約40cm高く作られている。ソコ・グルは舞台の縁から約3.4m入ったところにあり、その内のりは約8.8m四方である。能舞台の大きさが三間(約5.4m)四方だから、かなり大きな空間だ。

 ●観客席
レクチャーとワークショップの時は、舞台上のソコ・グルの外側三方(ダレム側を除く)にじゅうたんを敷いて参加者に座ってもらい、ソコ・グルの中で実演・体験を行うことにした。参加はしないけれど見たいという人は、舞台下に置かれたパイプ椅子(そのために20脚ばかり用意してある)に座っている。そして公演の時はソコ・グルの中が舞台スペースで、観客は舞台下、三方に敷いたじゅうたんに座ってもらうことにした。しかし、私の意向は少し捻じ曲げられて、舞台正面席は椅子席に変えられていた。この点ついては次の項でもう一度述べる。

三方に観客席というのは私の意図したことだったのだが、初日の講演のとき、能楽師さんたちは二方向、つまり舞台正面と舞台に向かって左手側にじゅうたんを敷こうと考えていたようである。そう、能舞台はこういう配置になっていて、能楽堂なんかでは舞台に向かって右側はすぐに壁になっている。

しかしジャワで二方向に席を作る場合は、普通、舞台正面と舞台に向かって右側に作り、左側にはガムラン楽器を置く。スラカルタ宮廷でもマンクヌガラン宮廷でもそういう配置になっている。

その一方で芸大の場合は、舞台奥にガムラン楽器が設置されている。(ダレムからの通路が正面奥にあるから、その通路の左右に分割して置いてある。)実はこれは異例のことだ。結論を先に言うと、正面に楽器を置くというのは、音楽こそが重要だという主張であり、また芸術上の舞台効果を考えた配置である。ジャワではダレムを背に王が座り、その目前で儀礼が展開される。舞台正面の席に座った列席者は、儀式の内容と王だけが目に入ることになる。いわばBGMを流す音楽家は影の存在なのだ。しかし、芸大では当然音楽(家)の地位は高いし、さらに儀式と切り離して舞踊だけを鑑賞させるということになると、舞踊の背後に演奏も見える方が舞台効果がある。そういうこともあって、私の知る限り、日本のガムラン・グループの、あるいは来日するガムラン舞踊の公演では、いずれの場合でも舞台奥に楽器を置き、その手前で舞踊が上演されている。だが、これは現実のジャワ宮廷のプンドポではあり得ない配置なのだ。

そういう目で見ると、能の場合は音楽家(囃子方)もコーラス(地謡)も舞台の正面奥に位置しているということがユニークだ。この人たちは舞い手と同格に観客に対峙している。講演の時、増田先生は「能には伴奏という概念はなく、演奏家も舞い手と同格だ」ということをおっしゃったけれど、それはこの舞台での位置にも現れている。

話は元に戻る。二方向の取り方が違っていると、重要な観客席の位置も変わってくる。能の場合だと、舞台に向かって左手前の柱は一番邪魔な存在なのだが、実はこの柱のまん前がいい鑑賞ポイントなのだ。シテはこの柱を頼りに己の舞台上での位置を確かめる、ということで、この柱は目付け柱と呼ばれている。逆に言うと、この柱の前の席に座っていると、シテがよく自分の方を向いてくれるのだ。しかし、芸大での公演では、案の定、目付け柱の外側にじゅうたんはなく、ぽっかりと空いていた。これはもったいないと、急きょ余っていたじゅうたんをここに持ち込んだのだが、詳しく説明をする暇もなかったので、芸大の劇場関係者にはその理由が分からなかっただろう。そんなことをする必要はないと始めは抵抗された。

 ●椅子席
公演の時に、舞台正面の席は椅子席に変えられていた。これは能楽師さんたちの反応はともかく(まだ反聞いていない)、私には大いに不満だ。しかし時間的な制限もあって、椅子席を取り払えとは言えなかった。実は11月にジャワ舞踊公演を芸術高校のプンドポでしたときも、私は観客席に椅子は不要と主張してジャワの人たちから反論を食らっていた。彼らは、VIP席として舞台ま正面の椅子席は必要だと強固に主張する。

私は、ご老人やVIP用に観客席後方に椅子を並べるのは差し支えないが、前の方は三方ともじゅうたん敷きにして、観客には床に座って見てもらいたいと主張した。芸大のプンドポはそれほど床面が高くないから、椅子を前から並べたのでは観客の視線が高くなり過ぎてしまう。しかし後方遠くから舞台を見るのならば、相対的に視線は下がるから椅子席でも良い。それにこうすれば多くの観客に舞台を良い状態で見てもらえる。能やジャワ舞踊の公演では、観客が憧れの気持ちを持って舞い手を仰ぎ見るような舞台にしたい、と私は思う。それに椅子を並べるだけだと、2、3列目くらいから後ろの人には舞い手の足元がほとんど見えない。舞踊の公演で足の表現が見えないのでは、半分以上魅力が薄れてしまう。舞台はテレビではないのだ。

舞台に浮かぶような舞い手を低い位置から見てほしいという要求は、観客に対する高飛車な要求なのだろうか。エライサンに対してそういう見方を要求するのは不遜なのだろうか。私は、そういうジャワの人たちのVIPにおもねる姿勢が好きではない。芸大での公演に来るVIPというのは学長をはじめとする大学側のエライサンが多いだろう。彼らも元・芸術家なのだから、その芸術表現が生かされる空間、観客席のあり方に理解があってもよさそうなものだ。

実は芸大でも、学長以下全員がじゅうたん席に座ったことはある。私がまだ留学していた時で、アミン・ライス(政治家)が芸大で講演したのだ。このときは舞台真ん中に演壇が設けられ、アミンライスがそこで講演し、VIPたちはプンドポ正面に、それ以外の学生たちはプンドポの左右に座った。芸大のエライサンだけでなく大物ダラン(影絵操者)だとか王子だとかいろんな人が来ていたけれど、椅子席はなかった。このときは舞台空間だけでなく、プンドポの空間全体が広々と見通せた。こんな風に観客に座ってもらえたら、舞踊空間がもっと生きてくるだろうにと思う。このときはアミン・ライスが話者だったからエライサンたちも床に直接座ったのだろうか?

 ●空間のダブル・スタンダード
エライサンと舞踊空間ということでもう1つ衝突があった。公演が始まる前に芸大学長の挨拶があったのだが、準備の時にマイク・スタンドが舞台中央に置かれていたのだ。これには能楽師さんたちがぎょっとして、もし学長が靴を脱いで舞台に上がってくれるならマイクはそのままでも良いが、そうでなければマイクを下げてほしいとお願いした。ところが芸大の劇場担当者は「「学長に靴を脱げと言うことはできない」と言う。結局ソコ・グルの外側にマイクを置いて、学長はそこに靴を履いて登って挨拶をし、ソコ・グルの中には立ち入らないということで落ち着いた。

足袋が汚れるという表面的な理由ではなくて、能楽師さんたちにとって舞台という空間は何よりも神聖な空間なのだ。それは多少鈍感であっても、日本人ならば理解できる感覚だ。第一、日本では家に上がる時には履物を脱ぐ。これは身分の上下を問わない。身分が低ければ履物を脱がねばならないが、身分が高ければ土足のまま座敷に上がることができる、ということは日本ではあり得ない。

だが、ジャワの伝統空間は日本ほど一元論的ではない。たとえばジャワの宮廷に入るときは、伝統衣装で正装して宮廷に入る場合でも、また伝統衣装を着ていなくても、必ず履物を脱がないといけない。観光客として入る場合も同様だ。これはジャワの社会が宮廷を頂点とした階層社会になっているからである。しかし、実は履物を履いたまま宮廷に入ることができる場合がある。それは靴を履き洋装の正装をして入る場合である。

なぜ靴ならば良いのか。これはおそらく、オランダ殖民政府の存在を宮廷支配の体系に位置づける上での妥協の産物だと私は思っている。ジャワ宮廷はオランダ殖民政府の威光をバックにして王権を維持してきた。つまりオランダはジャワ社会の外の存在で、ジャワの階層の中に組み込まれてはいない。だから植民政府のオランダ人高官は、当然のことながら靴を脱いでジャワの王に敬意を表明する必要などないのである。オランダ人=西洋人の正装では靴は踵を覆うデザインだが、それに対してジャワの伝統衣装を着る時は、スリッパ、サンダルのように踵の開いたデザインの履物を履く。だから靴を履いているということは、すなわちジャワの伝統秩序を超越した存在だということなのだ。

さらにジャワでは、一般の家でも靴を脱いであがるかどうかは、その客人のステータスや衣装にかかっている。靴を履いた客人が土足で他人の家に上がるのを躊躇せず(ジャワの家屋の床は土間かタイル張りである)、またホスト側もそれを容認するというのは一般に良く見られる光景である。

だからこそ、エライサンに靴を脱いでくれとお願いするのは、ジャワの伝統社会では間違ってもできないことなのだろう。靴を履いたエライサンが土足で舞台に上がった直後に同じ場で舞踊が上演されるということについては、能楽師さんたちに指摘されるまでもなく、私自身だっていまだに違和感を感じていることなのだ。

ジャワでは、床に座る、履物を脱いで家に上がるという伝統的な秩序体系に、椅子や靴という治外法権的な秩序があって、ダブル・スタンダードを構成している。だから、神聖な舞踊空間という概念は、ジャワではオランダ殖民政府の存在を敢えて失念したところに成立する、理想的な王宮社会の中でのみ保ち得るもののように思う。そういうことを、まだジャワ人自身があまり意識していないような気がする。

しもた屋之噺(63)

杉山洋一

学校の授業なども忙しく、何をしていたわけでもないのに瞬く間に一ヶ月が終わってしまい、来月初めにサンチャゴであるモーツァルトの大ミサ曲や、フォーレのレクイエムなど、全く満足ゆくほど譜読みができていません。そんな中、チェロを趣味で弾く建築家のサンドロが、音楽と建築というコンフェレンスを開くので、ちょっと相談に乗ってくれと電話をかけてきて、彼の意見を聞いてみると、これがなかなか面白い切り口で、ちょっとここに書いてみたくなりました。

たとえば建築にも協和音、不協和音があるというのです。和音というより、むしろ調和のバランスなのでしょうが、サンドロいわく、和音を形作るのは素材だそうです。ここを見てよ、もと工場を改装して作ったうちの家は、外壁はレンガのままだろう。そうして、そのレンガをくり抜いてガラス窓をつけた。これは建築上で言えば不協和音となるわけさ。ガラスは構造上レンガが支えるべきエネルギーには耐えられない。構造上の不調和さ。こうしたモダンの建築には、そうした構造上の矛盾のあそびを存分に組み入れて、別の次元の調和を形作っている。そう考えれば、ピタゴラスの時代から連綿と続いてきた和音の発展の歴史に似ていると思わないか。

なるほど、レンガの壁が構造を支えたロマネスクの教会から、天に少しでも近づこうと巨大な柱で鋭い構造を支えたゴシック、それを落ち着かせたルネッサンスと、和音の歴史と平行に鑑みて、確かに近しい部分も感じなくはありません。近代に入って、より和音の調和が飽和されてゆき、全く別のファクターが構造を支えるようになってきたあたりも似ています。イタリアで言えば、ムッソリーニが台頭した戦時中、古典の精神に回帰しつつ、大げさな身振りで飾り立てた数々の建築物は、確かにイタリア人が嫌いなレスピーギの趣味に見事に合致します。

それに調和というものは、建築家にとってとても大切なもので、たとえばここに二つ椅子が並んでいて、少しずれているだろう。これが生理的に我慢できないんだ。別に家が片付いていないと気持ちが悪いとかではなくて、据わりが悪いというのか、空間の密度の調和が乱されているのが耐えられないわけさ。あの引き出しのあたりは書類が散乱して見られたものではないが、生理的には別に特に厭なわけではない。ところが、こうして、椅子がちょっとずれているだけでも、却ってひどく気にさわったりするものなんだ。

それとは別に、サンドロが思うところの音楽のダイナミクスは、建築においては影にあたると言います。ちょっと意外な視点で、建築よりむしろ絵画的な発想かとも思いましたが、彼曰くさまざまな角度がかもし出す影こそが、建築にボリュームを与えるのだそうで、鋭角の陰、鈍角の陰、長方形に跳ねる陰、長く尾を引く陰など、それぞれの影を頭のなかで投影させながら、建築物のボリュームをイメージしてゆく、はるか昔からこうした建築家のスタンスはほとんど変わっていないのだそうです。イタリアでは特に前衛的な建築家として名を馳せるサンドロがそういうと、素人が聞いても妙に納得させられます。

建築と音楽について意見を求められたので、こちらも思ったことをつらつら並べてみました。言うまでもなく、古代ギリシャから今まで、西洋音楽と建築、数学とはとても密接な関係をもって発展してきましたし、今でもそうです。それを踏まえて敢えて言えば、建築は音楽でいえば作曲により近しい作業で、構築するもの。絵画や彫刻などは音楽のなかで表現する、演奏行為に近しい作業かと思うのです。

建築も最初に霊感ありきに違いないでしょうが、構造計算ができて、文字通り構築させる別の能力が必要とされて、その上構築させる別の人々の手によって最終的に実現させられるべきものです。作曲もいくら霊感があっても、構築し他人にゆだねられる状態にできる技術がなければ、作曲の行為として成立しないところが似ています。

演奏だって同じだろう、技術がなければ演奏できないのだから、と反駁できますが、表現するための技術と作曲の技術はちょっと違う気がするのです。作曲の技術は、つまるところ論理的に噛み砕けるものであって、表現するための技術とはどこか一線を画しています。その意味で、絵画などの表現の技術、他者を介さず自ら完結させる表現の技術と演奏は近しい気がします。

ちょうどモーツァルトの大ミサを譜読みしているので、余計そう思うのかも知れませんが、この楽譜など、モーツァルトが自身の感情をなぐり書いた、そんな直裁な次元でとらえることは出来ないとおもいます。天につきだす、純白の石をつみあげて造った巨大な教会のファサドを見上げているような、畏怖に近い感情のおののきが、楽譜を開くたびにこみ上げてきます。古い教会に入ると、床にはめこまれた大理石のタイル一つ一つが、磨耗して凸凹になっていますが、同様にフーガの音符一つ一つが、まるでてらてら光る、石の床のように見えることすらあります。

高校のころ祖父が亡くなり、納骨を済ませた翌朝学校にもどり、一人図書館の視聴室で何気なくフォーレのレクイエムを聴いたとき、それまで全く涙もでなかったのが、冒頭のニ音のユニゾンが鳴った瞬間、とめどもなく涙が噴き出てきたのを思い出します。突如目の前に巨大な壁が出現したかのごとく、文字通りの断絶感、絶望感を味わい、どこかに潜んでいた悲しみが一気にこみ上げてきたのでしょう。思えばあれが、音楽が建築物だと実感した最初の体験だったのかも知れません。

もうすぐ東京から遠くはなれた地でこの曲を演奏するとき、きっとあのよく晴れた朝の空を思い出すに違いありませんが、そうして終曲In Paradisumまで辿りついて、一体目の前にどんな色の風景がひろがるかと思うと、なんとも胸がしめつけられるような気もするのです。

(2月24日ミラノにて)

製本、かい摘まみましては(26)

四釜裕子

「NUNO WORKS」の生地を使った手製本ワークショップの案内をいただいた。教えてくれるのは手工製本家の山崎曜さんで、ハンドステッチで製本、文庫本を製本、封筒を製本の3種類が用意されている。いずれも、3時間程度で完成とのこと。「ハンドステッチで製本」ってどんなんだろうと、案内をもらった夜にすぐ申込んだがすでに満席。でもまもなく追加開催の案内をいただいて、でかける。

会場となった「NUNO WORKS」の店は、骨董通りから六本木通り方面にちょっとはいったところにある。このあたりを初めてうろうろしたのは、雑貨屋「ディーズ」を探したときだった。と、このあたりをうろうろするたびに、いつも思う。雑貨に古着に骨董に古本。東京って楽しいと、はじめて自分で思えたころだ。きっとだから特別な場所のひとつなのだろう。

店内の壁面には明るくおおらかな柄の生地が並んでいて、手前には山崎さんの作品、まんなかのテーブルにはワークショップの材料が揃っている。あらかじめ必要な寸法に切ってアイロンで裏打ちを貼った布がたくさんあって、各自まず2種類の布を選ぶ。素材は綿麻、化繊といろいろあるが、予想しうるこれからの作業を思って、化繊を避ける。それに合わせて、ステッチ用の糸や留め具、革を選ぶ。

道具も様々用意されていて、山崎さんが腰にぶらさげた愛用品を含めて、それにまつわる逸話も楽しい。たとえば目打ち。いく種類かあったけれど、てのひらにおさまるものがとても使いやすくて、これは墨壷についているカルコというものだという。また竹製のへらは、子どもたちが工作で使うものらしいが、山崎さんがいい具合に削ってくれているので、味があって好ましい。圧巻は、割ピン。ごく普通のものだがやけに色がきれいだ、と思ったら、なんと山崎さんが、染めて用意してくれていたのだ。

作業は、イラスト付きの説明書もあるのでわかりやすい。A6サイズの既製の中綴じノートに、事前に選んだ布地で作った表紙を三つ目綴じで付けて手帳を作る。二枚の布で芯となる地券紙をはさみ、その周囲をステッチしてかがるのがポイントで、昔なつかしのフェルト手芸のような手順でさくさく。てこずったのは綴じ穴にさしたハトメをカナヅチで打って菊状に開くこと。苦手なんだなあと思っていたら3つのうち2つを失敗。あらあらと、山崎さんに直していただく。

白地に丸柄が浮かぶ表紙に濃い緑のステッチがアクセントになり、さらに内側の黄色い布がちらりとのぞいて映え、なかなかきれいに仕上がった。綴じひもごと中身を変えれば、ずっと使える。スクリューポンチで開けた穴にハトメを打ってあるので、糸を通すのも簡単だ。表紙が柔らかいから、間にペンをはさんでもなりゆきでなじむ。全体をくるりと紐で巻いて留めることもできるので、切り抜きやハガキをはさんでもいい。日常使いに便利だ。

と、手帳の柄を記しながら、ある人を思い出した。子どもの頃の話を、聞いていたときだ。引き揚げのときに選んだ荷物は歳の離れた生まれたばかりの妹さんのためのおしめ用の布で、青い小さな花が描かれたそれはそれは鮮やかに白い綿だったとか、父親の背広を仕立て直した制服は濃紺でぱりっとしていたとか、随所に、布の素材や色柄の描写が出てくるのだ。いつも布といっしょだったのですね、と言うと、あら、そう?と、怪訝そうだった。なにしろその日も、その人の周りは布や毛糸であふれていた。

炎(3)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

彼女は再び声をあげた。こんどは囁くように。
「わたしのこと覚えてないの? ほら、ピンパーよ」
ピンパー。。。こころのなかで何度かくりかえしているうちに記憶が蘇ってきた。ピンパーといえば中学時代の級友ではないか! そこでわたしは声をかけた。
「なんでまたこんなところにいるのさっ」
わたしたちは握り合った手を揺すって大喜びした。彼女は男たちのほうに向けて何か言いたそうに唇を動かしてから「ここから離れるのが先よ」と囁く。

この出会いが何なのかわけがわからないままにわたしは彼女についていくことになる。すぐ先のバス停に向かっていた。
「なんでまたこんなところにいるのさ、君」とまた最前のセリフを言う。
「ん〜、あとではなすわ、今はあいつらから眼がはなせない。ひそひそやってるじゃない」
わたしは横目で連中をみやった。
「あ〜、歩いてくるわ。。。」とピンパー。

3人はゆっくりとこちらへ向かってくる。ひとりはタバコをくわえて煙をあたりにただよわせているが、誰もが手をポケットに忍ばせている。わたしはどうしていいのか分からなかった。ピンパーは身を寄せてきた。自分の心臓の鼓動が激しく打つのが聞こえる。彼女の心臓の鼓動もあわさって聞こえているのかさえ定かでなかった。彼女も恐怖しているに違いない。

近づいてくる連中のひとりが軽く咳払いをするのが聞こえる。この連中といよいよ向き合わねばならないのかという意識がよぎる。煮えたぎった血が収まらない連中、しかも彼ら3人だけではなく暗がりにひそんでいた連中も姿を現していた。。。ピンパーのために何か行動しなければならないのか。

というそのとき、神の助けか! わたしが3人に向かって何か言う間もなく折りよくバスが走ってきたのだ。ピンパーが手を上げてバスが停まるやわたしたちはただちに乗り込んだ。バスが走り出したとき振り返ると、ひとりが何かを路面に激しく投げつけながらありったけの声でののしっているのが聞こえた。

ピンパーはわたしにぴったり身体を寄せて座っている。そして黙したまま見るともなく窓の外へ眼を向けている。わたしはかつて共に学んだころの彼女のすがたを思い浮かべていた。

わたしたちは中学1年から6年までいっしょだった。彼女の父は同じ郡内にある別の村の学校の教師だった。成績はわたしより上で、スポーツも選手、学校祭では演劇にもよく出ていた。それくらいの年頃の少年少女はえてしてぶつかりあうばかりで仲良くできないものだから、わたしたちもほとんど口をきくこともなかった。通常わたしは女生徒とははなしもしたことがなかったので、ピンパーについても関心をもったことはない。

中学6年で卒業するとみなそれぞれ別々の学校へ散っていった。わたしは他の何人かもそうしたように、バンコクへ上京したが授業に失望して内向的になっていた。そんなときだった、わたしは人が何故さまざまなものを欲するのか、何故いい仕事、いい学校、きれいな女性、家族を欲しがるのか、と考えるようになった。このようなものが唯物的に求められ人生の規範にもなっているとは。死にいたるまで日々食べていくことの闘いにすぎないのだ、とはどうして思わないのか。

(続く)

イラク人という存在

さとうまき

少し古い話になるが、今年の新年のカウントダウンは、ヨルダンの首都、アンマンで迎えることになった。アンマンに着いたのは1月31日の夜。

いつもイラクへ送る薬を調達する薬局のおやじのところで、時間をつぶす。小さな薬局は、だらしなく薬が散らかっている。分かれた妻に育児は任せられないと男の子2人を引き取って育てている。薬局の2階の事務所では、子どもたちが家庭教師をつけて勉強していることが多い。彼はパレスチナ人だからなおさら子どもの教育は重視している。湾岸戦争でクウェートを追い出され、ヨルダンにたどり着いて何とかやってこれたのも、教育のおかげだと信じて疑わない。

「なにか、アンマンらしい、正月の迎え方ってないのかな」
私は、つまりは、写真をとって日本に報告するようなネタを探していたのだ。
「お望みならば、新年のパーティにお連れしましょう」
と言うわけで、早速、連れて行ってもらうことになったのだ。丘の上のホテルのバーでちょっとした乱痴気騒ぎをやっている。

かなり太目の肌をあらわにしたおねぇさんがお酌をしてくれる。薬屋のおやじは、イスラム教徒だったので私も遠慮して、酒は飲まずコーラを飲んだ。

アラブ人の男性は、太めの女性が好みだそうで、薬屋のおやじは、すっかり鼻の下を伸ばして喜んでいる。私はというとこの下品な空間にどうもなじめず、早く帰りたいなあとむずむずしていたのだ。私たちのテーブルでお酌をしてくれたのはイラク人の女性。最近は、宗派対立のあおりを受けて、逃げてくるイラク人は、ヨルダンには100万人近くになったそうだ。もうこれ以上は入ってこられたら困ると言うので、入国拒否されるよるイラク人も増えている。

「相席をおねがいしてもいいかしら」
イラクの女性が連れてきたのは、実のお姉さんとカップルである。ちょっと金持ちそうでこぎれいな格好をしているジェントルマンは、ジョセフといってキリスト教徒だった。
「キリスト教徒がイラクにいたんではいつ殺されてもおかしくないんだ」
そういって先週ヨルダンにやってきたという。
姉は、ずいぶんと前からヨルダンに住んでいて、縫製工場を任されているそうだ。私はてっきり、この二人はカップルかと思ったが、ジョゼフが、席をはずしたとたんに、薬局のおやじは、電話番号を交換して、うれしそうだった。

それから、数日して、「あれから、電話があったよ」とはしゃいでいた。そして、つい最近、薬屋にいくと、おやじがニヤニヤしている。
「実は、彼女の家に行ってきたんだ。いきなり、俺のことを愛している、というんだよ。考えても見てくれ、まだ、2回しかあっていないんだ。どうやってそんなことを信じられるかい? と問いただしたんだ。そしたらなんといったと思う?」
「へぇ?」
「あなたと結婚してもいいわよ、というのさ」

彼がいうには、イラクの女性は、男性につくすそうだ。彼は、ヨルダン人と結婚していたが、結局、コントロールできなくて、離婚していた。
「それで、その女性は、どんなところに住んでいるの」
「それが、とても狭くて汚いところだ」
「確か、縫製工場のマネージャーじゃなかったっけ」
「それが、工場はつぶれてしまって。妹も、昼間見ると、化粧もいまいちだし、洋服もみすぼらしかった。昔のヨルダンは、そんな仕打ちをイラク人にしたりはしなかったさ。困っている人がいれば助けるのがアラブ人なんだ」
「それで、じゃあ結婚するのか?」
「なんだって? 結婚だって? 確かにイラクの女性とは結婚したいよ。でも彼女には5歳の息子がいるのさ。俺には2人の息子がいるのに、いきなり3人目ができてしまうのはもううんざりだよ」
そういいながらも、薬屋のおやじはニヤニヤうれしそうである。

私はというと、結局新年の挨拶を写真つきで日本に報告するはずだったのに、あまりにも下品な写真しかなく、新年の挨拶ができなかった悔しさを思い出した。おやじが、またその下品な写真を見せてくれる。私は、イラク人女性と一緒に写りながらも、なんとも居心地の悪さに苦笑いしているのだが、写真ではニヤニヤとうれしそうに写っているのがこれまた悔しいのである。

EB――思い出のかけら

高橋悠治

アール・ブラウンを思い出す?
あの長い腕が曲線のかたちをえがき 空中に消える
モービル
目に見えるような音楽 でもたちまち
指がさししめす
ほかのかたちと組み合わされ 変化する
ページごとに5組の断片は
演じるため
そこが同時代のヨーロッパ人の理論好みとちがう

はじめて会ったのはクセナキスのパリのアパート
二人がフランス語と英語のpassionということばの
ちがいを論じていたのをきいた

アテネで自作を指揮するのを見たのは
クーデターの2週間前
夜の空気はもう過敏になっていた
時にふさわしい組み合わせを指さすと
すぐにめずらしい響きの破片が
大きな身振りで混ぜ合わされ 点滅する

暗いバーで若い作曲家たちに質問していた
ベルリンの動物園駅に近く
あれは1970年だったか?
ロンドンのスタジオでは
タイムレコードのために録音し写真も撮った

最後に会ったのはブルックリンで
マース・カニンガムの公演に入場する列のなか
スーザン・ソンタグもいて
突然現れ二言三言 また群衆のなかに消えた
うつろう記憶
都市から都市へ
うごくこともまたアート