イラクの貧困

さとうまき

クリスマスイブに日本をたつことになった。悲しいことに日本人が年末年始で休んでいる時くらいでないとなかなか現場にいけないのだ。深夜便でパリに向かう。飛んでいる間にクリスマスがやってくるわけだから、飛行機の座席に靴下でもぶら下げておくと何かいいことがあるかもしれない。こんな日に飛行機に乗る親子は、子どもにどのようにサンタクロースを説明しているのだろうか? 第一飛行機には煙突なんてないわけだし。窓の外にはトナカイに乗ったサンタクロースが大忙しで働いている。

実は前の日に財布を落としてしまった。散々なクリスマスになってしまったのだ。そうなると前向きに考えるしかない。財布を拾った人はとても貧しくて、借金取りに追われて、一家心中しようとしていたのだとすれば、私は彼らの命を救ったのである。もっとも、それほどお金が入っていたわけではないのだが。しかも、海外で連絡が取れるようにと携帯を新しく買い換えなくてはならない。年末に痛い出費が重なった。

パリに早朝に到着。携帯のスイッチを入れると着信記録が残っている。かけなおすと、世田谷警察だった。財布が出てきたのである。サンタクロースのプレゼントに違いない。

クリスマスイブには、靴下に携帯電話を入れておくのがいい。素敵なメッセージがあなたに届きます。セキュリティを考えたら、夜な夜な人の家に忍び込むのを生業とするサンタクロースは、テロリストと間違えられないとも限らないのである。故にサンタクロースは大忙しで、パソコンからメッセージと暗証番号を配信。携帯電話で暗証番号を受け取った子どもたちはデパートで、商品に交換? うーん、やっぱりこれではあまりにも夢がないなあ。

それはともかく、この財布、実は買ってからなくすのは今回で3回目。そのたびに出てきた。今回出てこなかったら、厄介な財布になっていたが、出てきたということは、開運の財布に違いない。戻ってきたお金は、UNICEFにでも寄付するか? 待てよ、UNICEFに寄付したところであんまりありがたがられないだろうし、むしろUNHCRとの付き合いもあるしなあ、募金じゃつまらないから、やっぱりチャリティコンサート? それともJIM-NETのチョコ募金をしないと怒られるかなあ! お金があるということは楽しいことだ。

飛行機を乗り継いでアンマンに到着。イラク難民を早速訪問した。最近では、ヨルダン政府が、イラク人の入国を制限している。金持ちのイラク人はビザが降りるようだが、貧乏なイラク人にはビザがおりなくなった。でも例外は、治療のための滞在である。しかし、治療費を工面するのも大変、物価の高いアンマンでは、生活するにもままならぬ。そこで、JIM-NETが内職を彼らに提供することにした。バレンタインのチョコレートを入れる布袋を彼らに作ってもらい、買い取るというわけだ。2000枚を5家族ぐらいにお願いしている。早速、ちゃんと彼らが働いているか様子を見に行くことにした。間もなくバレンタインデー、納期が迫っている。

アンマンの郊外。アパートの入り口のスペースを部屋にして住んでいる一家。父はいない。55歳の母親と30を過ぎた3姉妹が暮らす。姉妹は、3人とも湾岸戦争後に奇病にかかり、体が麻痺し始めた。歩くことが出来ずに車椅子の生活を送る。狭い部屋に車椅子が3台も置かれているのだ。この娘たちは、お土産としてのビーズ細工や、ハート型の小さなクッションに文字をいれたり、ろうそくを作ったりして生計を営んでいる。以前は母親が、売りに外に出ていたが、娘たちの症状が悪化してゆき、一人で水を飲むことすら出来なくなったので、家でたまにそういった小物を買いに来るビジネスマンを待つのみだ。観光客は、得てして買い叩くから、そういった商品はあまり売れるものでもない。娘たちは、手にも麻痺が始まっているので、針仕事は出来ずに、母さんを手伝っている。この母さんは、裁縫が得意でさくさくとJIM-NETの注文した袋を仕上げていった。

多くのイラク難民たちは、ヨルダン政府が働くことを禁止していることを理由に働きたがらないで、援助ばかりを求めてくる。そして、結構贅沢な生活をしている。しかし、私は、いくつかの、貧しい家族たちが、一生懸命働いて、質素に生きている姿も目の当たりにしてきた。街中で座り込んでタバコ、ライターとか、綿棒を売っているおばさんたち。多くのイラク人は、そういった仕事をバカにするけれど、やっぱり生きていこうとする姿は美しいと思う。

なくした財布に入っていたお金を思い出した。そのお金で、今回は、3姉妹の作ったお土産をたくさん買って帰ろうと思う。

2008年、よい年でありますように。
アンマンより愛を込めて

病人を抱えるイラク難民の家族が内職として作ってくれたかわいい布袋は、こちらをご覧ください。
http://www.jim-net.net/

13のレクイエム ヘレン・モーガン(1)

浜野サトル

  
ミステリ小説の中でミステリに出合うことがある。
といえば当たり前だという声が聞こえてきそうだが、後者の「ミステリ」は小説が追求する「謎」そのものを指すのではない。読者としてよりも訳者としての場合がより印象が強いのだが、小説を構成するもろもろの要素の中に全くの未知のものがあって、それがミステリアスな興趣を呼ぶということである。
ヘレン・モーガンの場合がそうだった。僕がミステリ小説の訳者をつとめていたのは1970年代の終わりから80年代初頭のほんの数年間、作品でいえばわずか4〜5点だからたいしたことはないのだが、その中でつきあたった最大のミステリが、この女性シンガーの存在だった。

ミステリの贈り主は、ローレン・D・エスルマンである。
アメリカ合衆国北部で活動するエスルマンは、刑事事件を専門に手がけるジャーナリストとして生計を立てながら書き出したウェスタン小説で知られるようになり、やがてハードボイルド・ミステリの分野に進出してきた作家。その作風は一言でいえば「B級映画風」の味わいであり、つまりは道具立てや展開の目新しさはなく、どこかで読んだことがあるという感じがつきまとう作品を書く。ヘレン・モーガンが唐突に登場するのもまた、実にB級映画的な場面でのことだった。

 私はキッチンに入って小ぶりのずん胴型のグラス二つに水を流しこみ、ハイラム・ウォーカーズで色をつけた。グラスを手に居間へもどると、カレンは安物のステレオのかたわらに立って、オープン・キャビネットに並べてあるレコードを所在なげにめくっていた。
「一風変わったコレクションね。聞いたことのない歌手が何人かいるわ」
「きみが生まれるころにはもう死んだあとだった歌手もいるよ」
「どれか聴かせてもらえて?」
「好きなのを選ぶといい」
 カレンはまた何枚かめくって一枚ぬき出し、ジャケット写真にしげしげと見入った。「きれいな人ね。なんて繊細な顔立ちかしら。他人のせいでつらい思いをしたことがありそうね」

(『シュガータウン』ハヤカワ・ミステリ、1981年、拙訳)

デトロイトの私立探偵エイモス・ウォーカーが、不意に家を訪ねてきた依頼人の老婦人の介護士カレンとの恋に落ちる、ロマンティックな場面である。そして、小説の叙述は続く。

 ヘレン・モーガンだった。私が訊いた。「つらい思いをしたなんて、どうしてわかるんだい?」
「花びらが踏みにじられた、という顔だもの。少なくともこの写真ではね」彼女が、指先でジャケットをたたく。
「聴いてみるといい。ターンテーブルにのせればすむことだ」
「ありがと」とそっけなく言ってレコード盤をぬきとり、ターンテーブルのスピンドルにはめこむと、彼女は”ON”のスイッチに手をふれた。ヘレン・モーガンが声をふるわした。
「悲しい声だわ」私のさし出したグラスがその手にわたった。
 私はグラスをかかげて、「死せる歌手の歌に」
「歌に」

音楽が日常生活という雑音の中で響くように、小説=ロマンは日常生活の雑事があって成り立つ。そして、この作品の語り手でもある主人公の日常生活を彩る一人の歌い手。しかし、その名は、訳者である僕には初耳だった。
ヘレン・モーガン?
小説で描かれるのは、もちろん絵空事である。しかし、ヘレン・モーガンをめぐるエスルマンの叙述には、この歌い手に対する愛情と哀惜が、うっすらとではあるがにじんでいる。それが架空の人物とはとても思えなかった。
ヘレン・モーガン? 誰なんだ、この歌手は?

  
翻訳者の仕事は、その作品の最良の読者となることである。叙述に関しては細部まで正確に把握し、理解しておかなくてはならない。場面の光景や小道具の一つが作品のキーになることだってある。ましてや意味ありげに引き合いに出された歌手の名だ、どんな人物なのか知る必要があるし、わかったことは何らかの形で読者に提供する義務がある。
しかし、ヘレン・モーガンについては皆目わからなかった。音楽に関係した仕事を長く続けてきたせいで、周りにはうるさ型の聴き手がいくらでもいる。だから、これと思う人物をつかまえては聞いてみた。名前さえ誰も知らなかった。
音楽事典の部類にもあたってみた。ペンギン・ブックスの事典が一番役に立つと聞けば、買ってきて開いたりした。しかし、ここでもすべて空振りだった。こうして、ヘレン・モーガンはまさしくミステリ=謎となった。

その謎がすっと解けたのは、それから15年ほどたってからだった。
道具になったのは、インターネットである。コンピュータ・ネットワーク以前の資料、例えば図書館では、ある程度知りたいことの輪郭がつかめていないと調べようがない。これに対して、ネットではキーワードを1つ放り込めば、関連性のあるページや項目がいくらでも出てくる。
あるとき、試みにHelen Morganと入力して検索をかけると、たくさんの情報が得られた。まずは、”Helen Morgan Story”という何か作品の標題らしき文字列が表示された。ホームページのタイトルでないのは、そのあとに続くAmazon.com…という表示から察知できた。アクセスすると、劇場映画を収録したビデオのタイトルだった。
ほとんどがアメリカのサイトだが、ほかにもヘレン・モーガンに関する短い叙述が多数あった。それらをひろっていくと、彼女がどんな人物なのか、霧が少しずつ晴れるようにして浮かび上がってきた。

――1927年、のちにはブロードウェイでロングランとなるミュージカル『ショー・ボート』に主演。花形スターとなる。

――歌手として多くのレコーディングを残した。「ビル」「ホワイ・ワズ・アイ・ボーン?」などが大ヒットを記録。

――コーラスの一員として出発し、クラブ・シンガーとして成功。『ショー・ボート』『スウィート・アデライン』の主役として脚光を浴びた。

――禁酒法下のアメリカでミュージカルの出演と並行して、自らが経営するクラブで歌い続けるなど、エネルギッシュな活動を続けた。

――1900年、カナダのトロントに生まれた。舞台を去ってから重度のアルコール中毒となり、42年に肝硬変で死去。

これらの断片的な情報は、いってみれば「点」である。人の一生を把握するには、その点と点をつなげて「線」にしなくてはならない。
しかし、ヘレン・モーガンに関して、点を線にすることは難しかった。例えば、人もうらやむまばゆい成功を手にした彼女は、なぜアルコール中毒に深く染まってしまったのか? 人の数倍ものエネルギーを費やして猛烈に働き続けた彼女が欲しがっていたのは、いったい何だったのか?
ヘレン・モーガンはやはり「ミステリ」だった。

(続く)

※参照=CD『More Than You Know/Ruth Etting & Helen Morgan』
    The HELEN MORGAN Page

アンデス音楽から垣間見るペルー、そしてその外

笹久保伸

「ペルー」と聞いて日本人は何をイメージするだろうか。
テレビなどよく取り上げられる「インカ帝国」その首都「クスコ」や「マチュピチュ遺跡」「インカの黄金」宇宙人が描いたなどとも言われた「ナスカの地上絵」、日系人の「フジモリ大統領」、そして音楽であればサイモンとガーファンクルによって有名になった「コンドルは飛んでゆく」大体そのくらいであろうか。

どこの国の音楽にも共通して言える事であろうが、外から他人が見て考えるのと、内の状況はかなり異なる。私は幼少の頃からペルー音楽に関わっていたが、この数年間実際ペルーに住み、音楽調査、研究し、ある線を越えてその人々と付き合い、かなり価値観が変わった。ペルーには、海岸地帯、アンデス地帯、ジャングル地帯があり、それぞれ人種、言語、文化も異なる。もともと1つにまとまるのが難しいであろうこの国は16世紀にはスペインに侵略され、18世紀までの約300年間の植民地時代、その間の土着の文化はほとんど殺さる、という歴史を持っている。独立後150年以上経った現在も国はまとまるどころか、さらにバラバラになっている。そして先住民は貧しく、白人はより利益、権力を持つというシステムも変わってなく、今後もさらに深刻化してゆくことは目に見える。

私が音楽を学んだ「民謡の宝庫」と言われるアヤクーチョ県はペルーの中でも最も貧困な地域の一つといわれる。ワマンガ町には植民地時代に建てられた古い教会が30以上もある事からみて、この小さな町が宗教的にとても重要な土地であったことがわかる。これらのアンデス地方では、スペイン人によって持ち込まれたキリスト教と、もとからあった土着の宗教感が混ざっていて非常に面白い。基本的に子供は生まれたときに教会で洗礼を受けるのだが、葬儀の風習は地域により独自なものがあり、例えば死者を椅子に座らせ、ひもで縛り、数人でその椅子を担ぎ、音楽演奏(もしくは歌)とともに町をねり歩く奇妙な風習もある。

良い音楽家や踊り手になるためにはアンデスの精霊と契約しないといけなくて、契約するために、山にある精霊のいる滝のところへ行って(水は弦、声を調律すると言われるため)祈り、捧げ物をするなど、独自の宇宙感を持っていて、私にとっては魔法の世界のようだった。田舎の老人と話すと「私のおじさんは精霊と話をしている時に、滝に穴があき、その中に入った。家族は心配して探しまわったが結局みつからず、5ヵ月後に突然帰ってきた。話を聞いたら、滝の中で人魚(精霊)が現れ、楽器の演奏を教えてくれたそうだ、信じられないが、本当に楽器が上手くなって帰ってきたのだ」と、こういう話はよく聞く。彼らは純粋にそれを言う。文化の違いとはこういう面にも現れるのだ。

アヤクーチョ県には独自のギター奏法が発達しとても興味深い。ギターをはじめとする弦楽器(バイオリン、ハープ)はもともとスペイン人がキリスト教を普及させるための道具として持ち込んだのだが(古い教会にその当時演奏されたミサ曲などの楽譜も残っている。)、スペインから持ち込まれたそれらの楽器も長い年月のなかで用いられ方は変化し、独特な音楽形式、奏法となって今に残っている。ギターの調弦方法は数十種類あり、町、村により演奏法が異なる(その中にはビウェラもしくはリュートから伝わったであろう調弦(6弦D、3弦F♯)などもある。)

これらのアンデス地方の村々からはとても良い音楽家が出ている。彼らの中には音楽と言う手段を用いてインディヘナの文化の再起を願う人も少なくない。それは俗に言う「インディへニスモ思想」で、国が独立したのにもかかわらず今もなお白人層が国を支配するシステムに反対しており、貧しい人々およびアンデス地域、アマゾン地域のインディヘナの人々には特に多い。そういった思想がある一方向に過激化してゆくと1980年代に起きたテロ問題などに発展してゆく。このテロ問題とアヤクーチョの音楽も密接に関係している。それはこのテロ活動はアヤクーチョを拠点にして始まってからである。「アヤクーチョ」この言語はアンデス地方で使われるケチュア語であるが、訳すると「死者の墓場」で、ここが歴史的に戦いの場所であったことがわかる。80年代に作られた音楽にはプロテスタソング(抵抗の歌)がとても多い。中でも19歳の時に軍に殺害されたエディ・ラゴスの「田園の草」と言う曲は今でも歌われ、その時代の歌として重要である。当時の思想が織り込まれた歌詞

  「純粋な香りを持つ田園の草、一緒に私の道を歩いてほしい・・・
  私が死んだら、私の墓に花が咲くだろう」

それに伝承風のメロディー、リズムで演奏するスタイルはこの頃の民謡に多い。この場合(田園の草=庭園に咲く花ではない)貧しい人々のことを意味し、多くの民衆の心を動かした。

私はアヤクーチョで伝承音楽の採集を行ったり、旅したり、演奏したりしてきたが、ホテルの無い田舎の村へ行ったときは村で知り合った人が食事をさせてくれたり、一緒に演奏したり、話をしたり、まったくの他人である私にとてもよく接してくれた。また、ある村の場合は、「我々の音楽を盗みに来たのだろう」と言われたこともある。こちらとすればそんなつもりはまったくなく、ただ音楽に興味があり研究しているのだが、考えてみれば確かに彼らの言う意見にも一理あり、そう言われてもある意味仕方が無い。彼らにとったら必死である(私も必死だが)。田舎の村などは文化が違うので、我々の常識などはまったく通用しない。泥棒は皆に殴られ殺されることもあるし、写真家などの場合、踏み入れてはいけない所に知らずに入り、大変な事になる場合もある。アンデスの人々は純粋でとてもやさしい一面があるがその一方、まるで石のような魂、彼らだけで分かり合えて、外部を受け入れない固く閉められた石の扉を持っている。

時代が進む中で田舎の村々にもテレビ、インターネットがだいぶ普及しはじめた。田舎に住む若者もアメリカやヨーロッパにあこがれ、ロック、ジャズ、レゲエなどを聴いている。インカ帝国の首都クスコなど今やペルー最大の観光地になり、ディスコの聖地との別名がある。夜町を歩けばヨーロッパやアメリカ、アジアから来る若者がディスコ巡りをしている。時代が進み、物が増え、アンデスの人々の生活が豊かになれば、とは思うが、今の現状を見ると、これは彼らにとって本当に良いのかと疑問でもある。インターネットのある村と、まだインターネットの無い村では大きな違いがあり、どちらが良い状態なのか、決して簡単には言えない。その昔、穀物を脱穀するときに歌われた仕事歌も、いまでは機械が脱穀作業をするのでその歌を歌う必然がなくなった。そうすると、これらの音楽はこの世から消える。長年の伝承も消えるのはあっという間だ。テクノロジーを受け入れなければ時代から取り残され、受け入れれば失うものも多い。

ペルーは色々な意味で大変刺激的である。すこし町を歩けばこれくらいの事実にすぐ直面する。
パンを買うお金を持っていない人、高級車に乗り高級マンションに住む人。
安い賃金で働く田舎出身の労働者、彼らを扱う人はプール付の広い庭のある家に住む。
道端で物乞いをしながらケーナを吹く盲目の男、見てみぬふりをするお金持ちの人。
貧しい人々に物資のプレゼントを配り自分に投票させる政治家。
都市にある大ショッピングセンター外、田舎には電気、水道も無い、病院も無い。とにかく物は無い。
何がどうなっているのか、全然分からなかった。これらの問題は、田舎の村に学校を建てるプロジェクトとか、物資をプレゼントするプロジェクトとか、そういう問題ではない。唯一皆分かっていることは、ペルー(世界)の抱えている問題はとても大きく、このままでは何年たっても変わらない。

メキシコ便り(5)

金野広美

12月にはいると長い冬休み。これを利用してコスタリカに行ってきました。広さは日本の九州と四国を足したくらいの小さな国で、メキシコからは直通の飛行機で3時間で行けます。首都サンホセは高いビルもなくこじんまりとした街で、ここは朝が早いせいか、夜10時を過ぎると明かりも消えてひっそりとしてしまいます。私がメキシコシティーにいるためでしょうか、静かというよりもさびしいという印象をうけました。

コスタリカは憲法に軍隊をもたないことを明記し、1983年には永世非武装中立宣言をしました。1987年には現在の大統領でもあるオスカル・アリアス・サンチェス大統領が中米の平和に貢献したということでノーベル平和賞を受賞しました。またこの国はコーヒー、バナナ、ハイテク製品などの輸出とともにエコツーリズムが外貨獲得の大きなウエートを占めています。コスタリカには全生物種の5パーセントが生息しているといわれ、国土の27パーセントが保護区や国立公園になっています。自然を生かした観光産業をエコツーリズムという形で推し進め、入場料などから得た収入を自然保護のために活用しています。ここのガイドは英語はもちろん生物学もしっかり学ばなければならないのですが、このガイド協会がガイド料の中から拠出した資金はレンジャーの人件費や、植林などの自然保護プログラムにあてられます。ここでは自然保護と観光産業が相互補完の関係になっているのです。

私はまずケツァールが見られるというモンテベルデ自然保護区に行きました。ここには常に雲と霧に覆われている湿度の高い熱帯雲霧林と呼ばれる密林があります。しかし、私の行った日はとても天気がよく、さわやかな風が猛スピードで雲を流し、湿度の高さは全く感じられない快適さでした。風がゆらす木々がまるで歌を歌っているようにそよぐなかに鳥たちのさえずりがとけこみ、今まで経験したことのない、自然が奏でる音楽に包み込まれた至福の時をすごすことができました。ガイド見習いで明日から一本立ちするというエステバンが熱心に先輩ガイドのエルビンと一緒に望遠鏡でケツァールを探してくれ、なかなか見ることができないといわれているケツァールに3回も会えました。頭が緑で胸が赤、尾が白と青の本当にきれいな色の鳥でした。

次の日、ガイドの必需品の三脚付きの大きな望遠鏡を持ったエルビンが、胸にこの森に住む生きものたちの図鑑を入れ、入り口でお客を待っているのに出会いました。ちょっと緊張しているようでしたが、誇らしげに私を見て微笑みました。私はコン・アニモ(がんばって)と声をかけ、こぶしをにぎり激励しました。

次に訪ねたのが、カリブ海に面し、海がめが産卵にやってくるというトルトゥゲーロ国立公園です。時期的に海がめの産卵は見られませんでしたが、モンテベルデとはまったく異なる密林を見ることができました。ここは高温多湿の豪雨地帯で、毎日のように激しいスコールがあります。ジャングルの中は道がないので、人々の移動はランチャとよばれる小さな船です。観光客もこの船に乗り、ラグーナといわれる大きな河を分け入りながら進みます。ジャングルのなかでは木々の間を猿がとびかい、ワニもたくさん顔を水面に出しながら泳いでいます。河岸の木には、騒ぎ立てる観光客をちょっと小ばかにしたような表情のイグアナがじとーと止まっています。そして、海がめがやってくるという海岸は大きな波が打ち寄せ、白い砂浜が延々と続いていました。

夜、ホテルの船着場でニカラグアから15年前、18歳でここに来て、夜から朝までホテルの船の番をしているというホセ・サントスに会いました。ここトルトゥゲーロの住人は4000人ほどだということですが、ニカラグア人は900人いて、ほとんどホテルのボーイやガードマン、洗濯婦などをしているということでした。コスタリカには隣国ニカラグアの政情不安や貧困を逃れやってきた人が多く、現在430万人(2004年)のコスタリカ人口の約1割弱、不法滞在も含めて40万人以上が暮らしているといわれています。首都サンホセでは多くは建築現場などで働き、観光地ではホテルなどで働いています。ホセの兄弟はみんなニカラグアにいるそうで、兄弟の話をするホセはとても楽しそうでした。彼が私に「耳をすましてごらん」というので耳をかたむけると、かすかに海鳴りが聞こえてきました。彼は毎日、故郷でも聴いただろうカリブの海鳴りを聴きながら、祖国の兄弟を思い出しつつ、一人で一晩中、船の番をしているのかとおもうと、私はちょっとせつない気分になってしまいました。

私はこのコスタリカへの一人旅で一杯スペイン語を聞き、話そうと意気込んできました。でも勉強したのはなんと英語でした。というのもコスタリカへの観光客はアメリカ人が67パーセント、アジア人が3パーセント、そのうち日本人はわずか1パーセント、残りがヨーロッパ人なのです。ガイドは達者に英語を話しますから、多勢に無勢、説明は大半が英語で、スペイン語は申し訳程度に少しだけ。両方を交互にやるガイドもセンテンスが短かかったり、長かったりで英語とスペイン語が混ざって聞こえてくるため返ってわかりにくく、私の目論見はさんざんな結果に終わりました。私の行った場所はどこにいても聞こえてくるのは英語ばかり、「いったいここはどこやねん!」と、つい、つっこみをいれたくなるような旅でした。トホホ。

製本、かい摘みましては(35)

四釜裕子

スイス・アスコナにある製本・修復の学校、centro del bel libro asconaで学んだ都筑晶絵さんによるレクチャー「スイスの製本学校の教育」を、白金のTS_gに聞きに行く。この学校には製本科と修復科があり、製本科は、表紙のデザイン、糊なし製本、アルバム作り、両開きの本、メニュー(中身を差し替えられるような作り)、函、タイトル押し、紙の歴史、支柱に木や革を用いたりパーチメントで綴じる12〜15世紀の製本法などなど、いずれも1週間単位で授業が行われ、その中から選んで受講できるようだ。1週間だけ滞在する人もいるが、都筑さんはここに10ヶ月通って11月に帰国したばかり。6年前の夏にパリの製本学校でルリユールも学んでいたとのことで、実際に作った本やスライドを見ながら話を聞く。

写真で見ると学校というより工房、小さくていろいろな道具があっていい感じ。世界各地から、年齢も職種も様々な生徒やゲスト講師もやってくる。プログラムの作り方、テーマの決め方もそれぞれおもしろい。新しい素材、たとえば壁紙を使いこなす方法に限ったり、なにもかも手作りすることなくコンパクトな機械をうまく活用したり、とくになんでもない製本法だがネーミングが楽しかったり。なかで、折り紙の技法を活かした製本を教えている先生(日本人ではない)がいたそうで、そのクラスで都筑さんが作った本をまじまじと見ていた。どんな風に折ってあるのか、見当がつかない。写真やはがきを貼り込めるように、蛇腹に折った紙を背にして本のかたちを作ることがある。藤井敬子さんなどは独自にアレンジして「ジャバラ de ルリユール」と名付け、これまでたくさんのワークショップをやっておられるが、それとも違う。

蛇腹に折ったその同じ紙で、いわゆる本の天と地に「つめ」のようなかたちも作っているようだ。「つめ」は三角。なるほど、折りの手順が見えてきた。全てのページにこの「つめ」があるから、ここにたとえば2つ折りした紙を、糊を使わずにはさみ込むことができる。もちろん、1枚ずつはり込んで使ってもいい。家に帰って早速作ってみる。折り自体は簡単だが、そうそうきれいには仕上がらない。手製本についてのわたしの印象は、洋綴じ系は幾工程毎度辻褄合わせで、わが力量顧みずそれが毎度でうんざり、いっぽう和綴じ系は一発勝負で、わが力量追いつかずムリムリと言ってはなからやりたがらない傾向がある。この「折り」という作業もいわば和綴じ系で、一工程ずつの丁寧が肝要なのでわたしにはむずかしい。都筑さんはこの折りをアレンジして、名刺入れを作っていた。約1メートルの細長ーい紙を、どうしたらあんなにきっちり折れるのだろう。

レクチャーのあと、ワークショップがあった。紙1枚を折って作るCDケースで、Benjamin Elbelさんというひとが考案した方法を都筑さんがアレンジしたもの。あらかじめ紙が型紙通りに断裁されており、言われる通りに折るだけなので面白みはなかったけれど、1枚の紙からこんなふうにかたちが作られてゆくのだということ、その延長に、折ったり糸でかがるだけでも様々な製本が楽しめること、そういう関心への道筋はしっかり照らされたように思う。会場は、2007年春まで長岡造形大学で教えてらした小泉均さんが、より実践的にスイス・タイポグラフィを深めるために設けた場所で、ふだんは活版の学校である。2008年春からは都筑さんが、ここで「製本基礎(仮)」のクラスを始めるようだ。紙を扱うコツや簡単に手でできる製本の方法を教えてゆきたいとウェブサイトにある。小泉さんと都筑さんがどんなプログラムを組むのか、とても楽しみ。

しもた屋之噺(73)

杉山洋一

ここ数日、朝晩の冷えこみは本当に酷く、零度どころではありません。今朝ブソッティ宅での打合せが終わり帰宅すると、この寒さにやられたのでしょう、いつも来ていたオレンジ色の口ばしの愛らしい黒い鳥が、庭先で硬くなって息絶えていました。ずっとこの庭に遊びにきてくれていたし、猫やネズミに穿られては忍びないと、出来るだけ深く庭の端に穴を掘って埋めました。いつもつがいで来ていたので、片割れがどうしているか気になって空を見上げてみましたが、雲ひとつない澄んだ青空が続くばかりでした。

帰りしな、思いがけなくブソッティが、「これはうちに残っている数少ないトーノ・ザンカナーロのリトグラフだ。君にプレゼントしよう」と言って、鉛筆で、「ヨーイチに。2007年12月29日友なるシルヴァーノより」と書き付けてくれました。1967年のパドヴァの街角を描いたリトグラフで、左手に小さなアーケードのある建物が描かれています。「ここには、その昔子供のころ通った恐いピアノ教師の家があってね。あの頃は厭で仕方がなかったんだ」と笑いました。

来月、東京からミラノに戻る道中を共にする2歳半になる息子が、「ドンキホーテ」のバレーと「アルジェのイタリア女」が好きでね、と話すと、ブソッティも「ああパッパターチ、ムスタファね!」とおどけてみせて、「子供のころ大好きだったな。あれは楽しいものね」、と大喜びしました。「その昔、まだ子供だったころ、子供向けの移動オペラ劇場みたいなものがあってね。今から思えば、簡略なものだったろうけれど、本当によく見に行ったな。すごくわくわくしてね」。傍らで話を聞いていたロッコも、「ドンキホーテ」はいいじゃない、もっと色々見せたらいい、と声を弾ませました。

実は内心、この様子に少しほっとしていました。その少し前まで、ブソッティの演奏スタイルについて話していて、「旋律が好きなんだよ。旋律のない音楽が嫌いでね。現代音楽はたいてい旋律がないから嫌いなんだ。自分の音楽も現代音楽じゃないと思っている。旋律があるからね。どんなにプッチーニが好きか、よく知っているだろう」という話から脱線して、「ブーレーズの音楽をみんな勘違いしている。彼の音楽の原点もやっぱり劇場なんだよ。有名になるずっと前、ピエールは素晴らしい役者たちの出る演劇の伴奏でオンドマルトノを弾いていたんだ。そして、その劇団と一緒に各地を周っていたんだからね。その体験から彼の音楽がどんどん広がっていった、ということを忘れてはいけないと思う。彼の音楽の原点を履き違えているものばかりだ」と言ったあと、「シュトックハウゼンだって同じだ。彼と劇場だってどうやっても切り離すことはできないだろう」、と言った途端、みるみるうちに目がうるんで、言葉に詰まってしまいました。

今から10日ほど前、友人の建築家宅で、クリスマスのホームコンサートがありました。毎年クリスマスに小説家や詩人などを招いて、「クリスマスのお話」をしてもらう慣わしですが、今年はブソッティを招いて、彼の曲とお話を一緒にたのしみました。
「今日はクリスマスにちなんだお話をするつもりでしたが、どうしても話さずにはいられない出来事がありました。親しい友人で、恩人でもあるシュトックハウゼンの死です」。
客席には、ルチアーナ・ペスタロッツァやミンマ・グアストーニなど、その昔リコルディを切り盛りしていた錚々たる女性陣が顔を揃えていましたが、ブソッティがこう切り出すと、客席から長いため息が洩れました。

「フルートとピアノためのクープル(一対)という曲を聴いていただきましたが、これ作品など特にシュトックハウゼンと切っても切れない縁があるんです。最初ダルムシュタットの夏期講習会で演奏されたのですが、当時講習会を仕切っていたのがシュトックハウゼンでした。その頃、自分はフィレンツェで、五線紙の切れ端に模様のような落書きを書いたりしていたのですが、それを見た友人が、ダルムシュタットに送ってみたらどうかと話してくれたのです。夢のような話でしたが、でも郵便局から楽譜を送ってみて暫くすると、思いがけなくシュトックハウゼンから、ずいぶん厳しい返事が届きました。<貴君はこの楽譜が何を意味するのか、何をしたいのか説明もせずに、ただ唐突に送りつけてきたわけだが、もし音楽というものを本当に知りたいなら、学費を出すから来るがよい>。当時、ダルムシュタットに行き勉強するお金なんてどこにもありませんでしたから、奨学生として勉強するのが唯一の可能性でした・・・。そこから思いがけなく自分の音楽人生が始まったのです。ですからシュトックハウゼンに負うところが沢山あるのです。シュトックハウゼンの死を最初に伝えきいたとき、自分の耳を疑いました。初めてニュースを聞いてから、詳しい状況を知るまで3日かかりましたが、死が真実だったと知った時は、丸一日何も考えられませんでした。ケージが死んだときは、余りの悲しみに3日3晩涙が止まりませんでした。あれから自分も歳を取り、今回もう涙は涸れてしまっていましたが、悲しみの深さは変わりません」。

人を喜ばせるのが好きなブソッティは、少し場を盛り上げようと、こんな話もしてくれました。
「ところで、クープルを何度も演奏してくれた素晴らしいフルーティスト、今は亡きセヴィリーノ・ガッゼッローニの愉快な逸話をご紹介しましょう。セヴェリーノがクープルを録音してくれたのですが、今お聴き頂いたように、この曲は最初に独奏フルートの長音で始まりますね。セヴェリーノは本当に素晴らしいフルーティストで、それはもう寸分の揺れもなく最初の音を吹いてくれました。ところが大変残念なことに、出来あがったレコードを聴きましたら最初の1音がありません。詳しく話を聞いてみましたら、実は余りに完璧な長音だったため、録音テスト用の信号音と勘違いして編集の際に消されてしまったということです」。

「次に聴いていただいた<友人のための音楽>というピアノ曲のお話もしましょう。わたしは裕福な家庭に育ったわけではありません。その反対だったと言ってよいと思います。父はフィレンツェの市役所で登記係をしていて、五線紙一枚手に入れるのにも苦労しました。そんな中、フィレンツェの音楽院で音楽を学び始めたわけですが、そこで当時、どうしようもない、とんでもない、と言われていた教師二人と親しく交流するようになりました。その一人が和声の××××(名前忘却)で、もう一人が作曲のルイジ・ダルラピッコラでした。ダルラピッコラは当時家庭の事情で、父の処に足繁く通っては登記の書換えなどしていたため、そのうち二人はクリスマス・カードなど交換するほど親しくなりました。父が手書きの美しいカードを贈ると、ダルラピッコラは手書きの五線に音列など書いたカードを返してくれました。そうして、いつしかわたしも音列に親しんでいったのです。当時は誰もが貧しくて録音など誰も持っていませんでした。ですから、夜な夜なダルラピッコラのところに集まり、彼の持っている録音に黙って耳をじっと傾けたのです。<友人のための音楽>の友人とは、一緒に音楽に耳を傾けた仲間たちのことなのです」。
とても温かい拍手が客席から沸きあがりました。素敵なクリスマスのお話をどうも有難う、そんな気持ちがこもった拍手です。

「ところで、今朝は行きつけのパン屋さんで、パパですかって」。
ブソッティがロッコのお父さんと勘違いされたと言って、大笑いしました。どことなく顔つきも似ている上に、二人は何度も声色と話し方の癖がよく似ていて、電話でも勘違いしたくらいですから、無理もない話です。
「長年一緒に暮らしていると、しゃべり方も似てくるんだ」。
「それで何て答えたんだい、シルヴァーノ」。
「もうパパって呼ばれるのは馴れっこだからね」。

「じゃあ今度会うのは、もう東京か。不思議なもので、何だかあっという間だ。もうすぐだけど、良いお年を迎えるんだよ。奥さんとあの可愛い坊ちゃんによろしくね」。

(12月29日ミラノにて)

大杉――みどりの沙漠 38

藤井貞和

せっけんのごしょまちから、大杉

たいそうのあんばまち、大杉

あめしきりおたびしょを、大杉

はれあがりひなりざか、大杉

さつきぞらめいにゃのほこら、大杉

やくそばのはたらきまち、大杉

なげだしてほうきまち、大杉

みずいのりあかんここおり、大杉

おお、どんどん大杉

いつむななやつでがわ、大杉

ここのとおひとりぎしにたち、大杉

ものがたりのいんせきがおか、大杉

ほたるなすまぶいざか、大杉

すぎのとのあきかんやま、大杉

おおおそのおそりやま、大杉

どんどんすぎて、ついに大杉

(『あんば大杉の祭り』〈大島建彦〉。ことしもどうぞよろしく!)

外から見たジャワ王家〜ジャカルタでのアンゴロ・カセ

冨岡三智

アンゴロ・カセAnggara Kasihというのは、ジャワ暦「クリウォンの火曜日」のことである。ジャワでは、月曜日から日曜日までの7曜暦に5曜暦を組み合わせ、35日で一巡りする暦を生活の中で使っている。クリウォンの火曜日というのは神聖な日とされていて、スラカルタ宮廷ではこの日だけ「ブドヨ・クタワン」と呼ばれる、毎年の王の即位記念日にしか上演されない神聖な舞踊を練習するし、またジャワ神秘主義を信じる人々は、その前夜に瞑想することが多い。

そんなアンゴロ・カセの集まりがジャカルタでも行われていて、私も昨年12月3日(月)夜に招待されて出席した。私は昨年9月6日には日本に帰国していたのだが、11月末にこの1年間もらっていた助成金の報告大会がフィリピンであり、ついでにインドネシアにも足を伸ばしていたのである。今回はこのアンゴロ・カセのことについて書くことにする。

ジャカルタでのアンゴロ・カセの集まりは、昨年1月から観光文化省の至高神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニ公園と協力して始めたもので、この日で9回目であった。同公園内のサソノ・アディ・ロソという建物で、アンゴロ・カセの前夜に行われる。毎回ゲスト・スピーカーを招き、質疑応答がある。信仰局としては、意見の異なるさまざまな団体の人たちが直接意見を戦わせる場を設けることを目的としているということだった。先鋭的な意見の人たちも、反対派と直接意見交換することで、その先鋭さを自覚することができ、またお互いに歩み寄れる局面を見出すことができると考えている、という。私は知り合いの新聞記者にここで出会ったけれど、彼はこの集まりをとても評価していて、毎回出席しているということだった。信仰局に登録されている団体には毎回案内がいくが、それ以外の人も自由に参加してよいということだった。私は信仰局長から直接招待メールをもらって出席した。

ちなみにこの信仰局というのは、ジャワ神秘主義などを始めとして、宗教に当てはまらない各地域の土着の「信仰」を扱う部門である。インドネシアでは「信仰」と「宗教」は区別されていて、「宗教」とは、イスラム教、カトリック教、プロテスタント教、仏教、ヒンズー教の5大公認宗教と、それに最近新しく公認された孔子教だけを指し、これらは宗教省の管轄下にある。

催しの進行は次の通りだった。この日は夜8時40分頃から始まり、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」をアカペラで斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。そしてタマン・ミニの所長の挨拶、信仰局長の挨拶のあと、9時20分頃から歌手によるキドゥン(詩)の朗詠とカチャピ(琴)演奏があって、9時半頃からゲスト・スピーカーの話が始まった。そして0時の閉会前に部屋の電気を消し、キドゥンの朗詠が響く中で黙祷したあと、カチャピの演奏で退場となった。

この日のゲストスピーカーは、スラカルタ王家のラトゥ・ワンダンサリ氏(グスティ・ムルティア王女のこと)と、メンパワ王家の王妃の2人だった。ムルティア王女はパク・ブウォノ12世の王女で、現13世(ハンガベイ王子)の同母妹に当たる。舞踊に秀で、スラカルタ王家の舞踊音楽部門を牽引してきた中心人物である。この日王女は王宮を構成する各建造物の象徴的意味について説明した。

けれどムルティア王女の講演は、レジメを読む以外は全部ジャワ語で、しかも建造物についての話なのに図面も写真スライドも全然なく(会場にはわざわざプロジェクターなど機材一式が用意されていたのに)、私にはとても残念なものだった。それはまるで、スラカルタ宮廷の中でアブディ・ダレム(家臣)たちだけに向かって話しているような感じで、スラカルタ宮廷のことを知らない人にも理解してもらいたいという姿勢が希薄に見えたからだった。

王女は最初に「ここにはジャワ人だけしかいないだろうから」と前置きしてジャワ語を使ったけれど、このアンゴロ・カセはジャワ人だけの集いではない。それは全員で国歌を斉唱し、パンチャシラを唱えたことからも明らかだ。これは「インドネシア人」の集まりなのだと主催者が強調しているのである。そうであればやはりインドネシア語を使うべきだし、逆にそんな場でジャワ語を使えば、共通の言語で話すつもりはないと、一方的に態度を閉ざしているように見えてしまう。

さらに写真もなければ、スラカルタ王宮の建造物がどんなものか、ほとんどの参加者は想像することができまい。想像できるのは、宮廷で生まれ育った自分や宮廷に始終出入りしている人だけである、ということに王女は思い至っていないようだった。もっともそれ以前の問題として、たとえ写真があったとしても王女の話は理解しづらいものだった。それは「○○という門には××という意味がこめられています」という説明が延々と続くだけで、なぜそんな意味づけがされるようになったのか、つまり王宮設計のコンセプトは何だったのかという大枠が全然見えてこないからだった。実際、質疑応答でも「今の説明にはどういう意味があるのか」と質問した人がいたくらいである。

この質問には私も驚いてしまった。スラカルタでは、グスティ(王子・王女)に面と向かってそんな失礼なことを言う人はいない。他にも、ムルティア王女は13世ハンガベイ王子の正統性にも言及したのだが(スラカルタ王家では現在13世を名乗る王子が2人いて、後継者争いは決着していない)、会場からはその後継者争いを批判する声が出たし、また当時明るみに出たばかりの、王家ゆかりの博物館の所蔵品贋物事件について質問も出た。王家(の人)に対してこんなに自由にものが言える雰囲気というのはスラカルタでは考えられないから、私はこの集まりに目を開かれる思いだった。

私自身は外国人のはずなのに、スラカルタに長くいれば、やはりジャワ王宮を頂点としたジャワ人の文化観の中に取り込まれてしまい、ジャワ人と同じようなものの見方をしてしまいがちになる。けれどジャカルタという異文化の中でジャワ宮廷を眺めてみると、そのジャワ世界に閉じこもろうとする閉鎖性や、対外的にジャワ宮廷をアピールする意志の弱さというのが見えてくる。信仰局長は、実はスラカルタ宮廷ともつながりがあると同時に、私の研究内容についてもよく知ってくれている。だからこそ私をこの集まりに誘ってくれたのだろう。ジャワ宮廷というものを外から眺めてごらんということだったのだろう。

後日知ったのだが、信仰局ではこの催しに対する予算はまだついていないらしい。信仰局長が音頭を取って始まり、信仰局とタマン・ミニ公園から人手は出るものの、運営は参加者からの寄付金で賄われているということだった。道理で、関係者の夕食弁当がマクドナルド、それもチキン1個と御飯、炭酸ジュースという一番安いセットだけだったはずだ。局長の弁当もまったく同じだった。

長い一年でした、または果てしないコンサート巡りの果て?

大野晋

いやはや、長い一年でした。オーケストラを中心に公演をわたり歩くこと数ヶ月。ようやく今年も終わりそうです。では、後半戦の記録を。。。

8月8日 ミューザ川崎にて
ミューザの夏休み企画であるサマーミューザの公演プログラムのひとつである「パイプオルガンの夕べ〜スイスの夏の日〜」を聴きに仕事帰りに川崎で途中下車。夏の夜長にはパイプオルガンが合うとは言わないけれど、アルペンホルンの調べが心地よい。今日は自由席だったので1階席でまったりとオルガンとアルペンホルンに浸る。

8月9日 ミューザ川崎にて
これもまたサマーミューザ公演のひとつで、日本フィルハーモニー交響楽団のチャイコフスキーの交響曲 第5番 ホ短調 作品64を聴きに川崎に。指揮はコバケンこと小林研一郎。サマーミューザの公演は通常のプログラムの半分の長さで価格も半分。ただし、オーケストラなどの経費は半分になるとは思えないのでその分をホールが負担しているのだと思う。非常に良いホールだけに稼働率が上がることを願いたい。ちなみに、公演前にオルガン下の席にて、階段から転げ落ちる人続出。らせん状に席が配置されたホールだけに目の錯覚などが悪影響しているのか? 公演は熱演。アンコールの’いつもの’ダニーボーイにコバケンと日フィルの特別な関係を感じた。

8月17日 東京オペラシティにて
「読売日響サマーフェスティバル 三大協奏曲」と題された公演を聴きに笹塚まで。三大協奏曲とは「メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調 op.64」、「ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調 op.104」、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 op.23」のメンコン、ドヴォコン、チャイコンのことを指すらしい。まあ、有名どころの協奏曲という感じ。会場はいつもと違う人種が多い。指揮は大友直人さんという中堅に、独奏者はメンコンは岡崎慶輔、ドヴォコンは趙静、チャイコンはアリス・沙良・オットという若手の布陣。なかなか若々しい音楽で面白かった。ひとつぶで3つおいしいのだが、ちょっと3曲だと食いすぎの感じ。しかし、オットさん。とてもビジュアル的にも美人!

8月19日 横浜みなとみらいホールにて
今日も読売日本交響楽団で「三大交響曲」。みなとみらいホリデー名曲コンサートの一環だけど、ひとつぶで3度おいしいコンサートの交響曲版。指揮は下野竜也。若手の読売日響の正指揮者。三大交響曲とは「シューベルト:交響曲第7番「未完成」」、「ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」」、「ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」」の三曲を指すらしい。まあ、演奏回数も多い、人気のある曲ということなのだろう。コンサートは下野さんらしく、安定感のある演奏を聴くことができ満足。しかし、一度に3曲は結構バテる。

8月24日 横浜みなとみらいホールにて
神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第237回定期演奏会を聴きに、横浜みなとみらいに行く。指揮は急遽代打が決まったゴロー・ベルク。ヴァイオリンも代打の礒絵里子。しかも、コンサートマスターも代打と代打だらけの布陣。プログラムは、全曲モーツァルトで、「交響曲第25番 ト短調K183」、「ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調K207」、「交響曲第38番 ニ長調K504「プラハ」」の3曲。代打ばかりの割には、代わりの人員がしっかりしているせいか、非常にきちんとしたモーツアルトが聴けた。チケットを取ったのが、メンバー変更後だったので、私に何の不満もあるはずがない。 あ。会場の観客が少なかったのが唯一の不満だ。

8月30日 横浜みなとみらいホールにて
またまた、今月3回目のみなとみらいホール。今日は無料コンサートで、出光音楽賞の受賞記念のガラコンサート。ぎりぎりにホールに着いたところ、チケットを裏にされて、どちらか選ばされたら2階中央付近の比較的よい席。かつ、隣がいないので、悠々と聴けることに。通路を挟んだ隣は出光関係者の席だった模様。今年の受賞者はピアノの菊池洋子と小菅優に、フルートの小山裕幾。特にピアノの2名は最近活躍しているだけに、今さらの感もあるが、このままだと受賞しないまま旅立ってしまいそうだから、「今までご苦労様」の意味もあるのか? 授賞式に続いたコンサートは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団で、指揮は下野竜也。なかなかに聴き応えのある演奏でした。この模様は、後日、日曜日の「題名のない音楽界21」で放送された。 

9月6日 サントリーホールにて
今日は外は台風の嵐。関東は直撃を受けるらしく徐々に風雨が強くなる。果たして、うちに帰れるのか?という中、ロリン・マゼール指揮トスカニーニ交響楽団の日本公演を聴きにサントリーホールまで。プログラムは、R.コルサコフの「シェエラザードOp.35」、ヴェルディ「運命の力」、ルーセル「バレエ『バッカスとアリアーヌ』第2組曲 Op.43」、R.シュトラウス「歌劇『サロメ』より 最後の場面(ソプラノ:ナンシー・グスタフソン)」という内容。いきなり、きらびやかなシェエラザードで幕開け、ヴェルディで乗せられて、字幕付のサロメでマゼール一流の聴かせ技に一本を取られる。なかなか外来のオーケストラ公演で高いチケット代を満足させる演奏にあうことは少ないが大満足でコンサート終了。幸せな気分でホールから出ようとしたら、外は嵐の最中だった!(しばし呆然!)「ひえーっ」となるべく早くに電車を乗り継ごうといつもとは違う経路で帰宅。後で、それが当時動いていた唯一の交通路だったのを知り、ほっと胸をなでおろした。

9月7日 サントリーホールにて
昨日の嵐が嘘だったような天気。夕方から、’また’サントリーホルへ。チョン・ミョンフン指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の公演。曲目は、ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」、コダーイ「ガランタ舞曲」、ドヴォルザーク「交響曲第7番」という渋い内容。個人的にはドヴォルザークの7番を聴きたくて言ったような感じ。なんとなく、可もなく不可もなく、中庸といった感じ。うーん、指揮者はビックネームなんだが、なぜか自分には響かない。相性の問題?

9月13日 サントリーホールにて
今日は新日本フィルのサントリーホールシリーズ第419回定期演奏会を聴きにサントリーホールへ。今年前半の工事中できなかった公演を取り戻すかのようになぜかサントリーホールの公演が多いと思うこのごろ。指揮は、かのクリスティアン・アルミンク。実は今回が始めてのご対面。曲目はマーラー「交響曲 第7番 ホ短調『夜の歌』」と、実は12月のインバル「夜の歌」の予習をかねていたりする。今年はなぜか、「夜の歌」が多く、インバルの前にあと1回開催される。 コンサートはなぜか絶不調。オーケストラがバラバラに聴こえるのがとても心地悪い。何が言いたいのか、よくわからない演奏だった。滅多にないが、金返せ!と心の中で叫んだ。

9月14日 東京文化会館にて
今日は東京都交響楽団の第648回定期演奏会を聴きに上野へ行く。指揮は来年からレジデント・コンダクター就任が決まっている小泉和裕。ピアノはゲルハルト・オピッツ。曲目はブラームスのピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 op.15に、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の2曲。まず、オピッツ氏の演奏に満場の大拍手。この人、ピアノ曲でも協奏曲でもとても素敵な演奏をする。次に後半は「春の祭典」。たぶん、こんな音がするだろうなあ、という凄い弦の響きのハルサイで大満足。ストラヴィンスキーはクラシック界のロックだという人がいたが、今日はほんとうにロックの感じがした。

9月18日 サントリーホールにて
読売日本交響楽団の第463回定期演奏会を聴きに赤坂に。実は、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ氏の指揮のブルックナーを生で聴きたくて取ったチケット。なのでプログラムはモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ序曲」、ルトスワフスキ「交響曲第4番」、ブルックナー「交響曲第3番(ノヴァーク版)」と全体的にブルックナーを中心に据えた感じ。読売日響はまず外れがないしっかりした演奏をする印象を持っていたが、今回も外れなし。スクロヴァチェフスキ氏と丁々発止とやっていた。コンサートの最後はなかなかカーテンコールを止めない会場と引っ込まないオケに、スクロヴァチェフスキ氏がコンマスを拉致してしまってお開きになりました。ああいうやり取りもなかなか面白い。

9月21日 横浜みなとみらいホールにて
今日は神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第238回定期演奏会。最初はなぜチケットがあるのか、自分でも理解できなかったが、どうやらラフマニノフのコンチェルトがあるからだったらしいと一人で合点。指揮は現田茂夫、ピアノ有森博という布陣。コンマスの金髪の石田さんもご出席。曲はラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番 ニ短調op.30」、コワルスキ「交響曲第4番 ハ長調op.96(日本初演)」の2曲。演奏はなかなかのでき。ただし、ザーマスおばさんが多く、全体に聴衆が入っていないのが不満。もっと、市民、県民にサポートをして欲しいもの。

9月22日 横浜みなとみらいホールにて
2日連続でみなとみらいに行く。今日は坂戸真美演奏のオルガン・リサイタル。オルガンだけのリサイタルは1階を封鎖して、2階席以上に客を入れて行うらしい。観客のいない1階席を2階席から眺めるのはなかなかに壮観な眺め。演奏が始まるとその意味がわかった。1階席の床も含めて残響が広がりさながらホール全体がオルガンの共鳴室になった感じ。というか、いつも共鳴室の中で音楽を聴いているというのがホントらしい。ルーシーちゃん、凄い!(ルーシーはみなとみらいホールのオルガンの愛称です。)

9月26日 紀尾井ホールにて
地方オーケストラへの興味で、本日は京都フィルハーモニー室内合奏団を聴きに紀尾井ホールへ行く。京フィルは日本オーケストラ連盟の準会員。前半の武満も面白かったし、ジュリアン・ユー版の「展覧会の絵」も楽しいものを聞かせてもらったが、やはりメインは文楽とオーケストラ、声楽が一体となった丸山和範作曲の「曾根崎心中」。こういうのもいいですね。

9月27日 浜離宮朝日ホールにて
前日の京フィル繋がりで、「平岡養一生誕100年を記念して」と題された通崎睦美リサイタルを聴きに築地に。その実、思いがけなくマリンバを堪能してしまう。そういえば、昔はマリンバの演奏がテレビで結構流れて痛んだよなあと変なノスタルジーにふける。

10月2日 東京オペラシティにて
今日から3日間はアジア オーケストラ ウィーク2007として、韓国、中国、インド・スリランカのオーケストラの公演が開催される。本日は第一弾として、韓国のKBS交響楽団の公演。曲目は、チェ・ソンファン「アリラン」、ショパン「ピアノ協奏曲第1番ホ短調op.11」、ショスタコーヴィチ「交響曲第11番ト短調op.103「1905年」」というなかなか意欲的な内容。さすがに国営放送局のオーケストラらしくそつのない演奏。しかし、ショパンのソロを弾いたキム・ソヌクはなかなかの逸材。ぜひ、こういう逸材に日本のオーケストラの定期演奏会にも客演してもらって、欧米一辺倒のクラシックファンにアジアにも眼を向けてもらいたいものだ。

10月3日 東京オペラシティにて
アジア オーケストラ ウィーク2007の2日目。中国は昆明交響楽団。曲目はリュー・ツェシャン「ヤオ族舞曲」、とう・そうあん作・編曲:交響詩「女将軍ムー」(日本初演)、ドヴォルザーク「交響曲第8番ト長調op.88」の3曲。ドヴォルザークは非常に大雑把な演奏。というか、たぶん、オーケストラのレベルがそのくらいまでしか要求できないのだろうと思われる熱演だけど、どことなくアマチュアオーケストラを思い起こすレベル。対するお国モノはとても雰囲気のある熱演。おそらく、あまり西洋のクラシックを演奏する機会が少ないのだろうと変な部分で納得した。なかなか振りそうな指揮者だったので、ぜひ、日本のオケで自由に表現させると思いっきり化けそうな気がした。

10月4日 東京オペラシティにて
アジア オーケストラ ウィーク2007の3日目。一番の鬼門であるインド=スリランカ交響楽団の回。曲目はたぶんブラームス「大学祝典序曲op.80」、ハルシャ・マカランダ「ピアノとガタベラのための協奏曲」、ブリテン「シンプル・シンフォニー」、チャイコフスキー「幻想的序曲「ロメオとジュリエット」」の4曲。この間までプロのオーケストラがなかったお国柄。なので、この3日間で一番怪しいレベル。とりあえず、日本人が各パートの主席レベルに入って持っているが、いないととんでもないことが起きそうな雰囲気。しかし、こういう機会がアジアの中でのオーケストラ文化を育てるのだろうし、文化の広がりに寄与して、その発信地になることはこれからの日本にとって一番大切なんだろうなあ、と変に納得した。 全体としてはとっても面白い3日間でした。

10月8日 横浜みなとみらいホールにて
読売日響のみなとみらいホリデー名曲コンサートを聴きにみなとみらいまで行く。指揮は、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、奥さんのヴィクトリア・ポストニコーワがピアノを弾く。オルガンは水野均さん。本日は、オール・サン=サーンス プログラム。「ピアノ協奏曲第3番」、「交響曲第3番(オルガン付)」、「付随音楽「誓い」」の3曲。コンチェルトはあまり聴く機会は少ないがとても雰囲気十分な演奏。そして、オルガン付はもうこれ以上ないくらいの音量でオルガンを鳴らせてくれて、お腹いっぱいになりました。オルガンはいいなあ。

10月10日 東京オペラシティにて
凱旋公演と題された怪しいコンサートを聴きに初台まで行く。上岡敏之指揮・ピアノのドイツ中堅オーケストラのヴッパータール交響楽団の来日公演。曲目はR.シュトラウス「交響詩《ドン・ファン》」、モーツァルト「ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467」、ベートーヴェン「交響曲第5番 ハ短調 op.67《運命》」の3曲。ヴッパータール交響楽団はドイツの中堅オーケストラ。こういったスーパーオーケストラじゃない普通のオーケストラが来ると、日本のプロオケもヨーロッパのオケとそれほど遜色ないじゃん!という感じ。しかし、凱旋公演と題されるだけあって、上岡敏之氏はなかなかの熱演でありました。どのくらいの熱演だったかはネットの記事を参照してもらうとして、オケと指揮者の関係でこういうのもありか?と思ったのでした。(次の日もあるが)

10月11日 東京オペラシティにて
上岡敏之指揮・ピアノのヴッパータール交響楽団の2日目。演目は、モーツァルト「歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲」、モーツァルト「ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488」、チャイコフスキー「交響曲第6番 ロ短調 op.74《悲愴》」の3曲。感想は前日と同じ。観衆の熱狂は前回以上ということで。ところで、このプログラム。1曲目はどちらもドン・ファン(イタリアだとドン・ジョヴァンニ)、2曲目はモーツアルトの弾き振り。3曲目に大き目の曲を持ってくるという面白い趣向だったりするのですが、皆さん、気付いたかな?(複数回来ないとわからないかも?)

10月12日 紀尾井ホールにて
紀尾井シンフォニエッタ東京の定期演奏会を聞きに四谷まで行く。指揮とチェロはマリオ・ブルネロ。曲目は武満 徹「三つの映画音楽」、ロータ「チェロ協奏曲 第2番」の映画つながりに、ベートーヴェン「交響曲 第6番 ヘ長調 op.68「田園」」という3曲。紀尾井シンフォニエッタはなかなかチケットが手に入らないので今年はこれが最初で最後。演奏は熱狂はないが、感心はたくさんといった感じ。

10月14日 サントリーホールにて
来年度から日フィルの主席になるラザレフのショスタコーヴィチが聴きたくて、日本フィルハーモニー交響楽団 第317回名曲コンサートを聴きに赤坂まで行く。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。ピアノ独奏が小山実稚恵。曲は、チャイコフスキー「バレエ組曲《眠りの森の美女》」、「ピアノ協奏曲第3番」、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番《革命》」というロシアものが3曲。日フィルはラザレフが振ると音が変わったようになる不思議。ぜひ、この音色を自分たちのものにすることができれば、面白いオーケストラになると思う。

10月18日 東京オペラシティにて
プレオニョフを見に初台まで行く。東京フィルハーモニー交響楽団の東京オペラシティ定期シリーズ第33回。指揮はミハイル・プレトニョフ、ピアノはアレクサンドル・メルニコフ。曲は、プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番ト短調op.16」、ベートーヴェン「交響曲第6番ヘ長調op.68「田園」」の2曲。物凄い爆演やお得感のあるテンコモリ演奏会を聞くと、どうもこのプログラムは物足りない。来年は定期会員を止めようと心に誓う。

10月19日 東京芸術劇場にて
地方オケを聴きたくて、群馬交響楽団の東京公演を聴きに池袋まで行く。指揮は音楽監督の高関健、クラリネットはカール・ライスターという演奏者。どうやら定期演奏会と同じ曲目、同じ演奏者らしい。曲は、ハイドン「交響曲 第90番 ハ長調」、西村朗「クラリネット協奏曲「カヴィラ(天界の鳥)」」、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」の3曲。群響はまじめなよい音を出すオーケストラ。かつ、楽屋があけっぴろげなので、舞台の袖から奥が見えている。そういう面で、在京のオケと比べると慣れていない感じがする。演奏自体は実に立派だった。

10月20日 神奈川県立音楽堂にて
横浜は桜木町の神奈川県立音楽堂で、「井上道義の「上り坂コンサートVol.7」」と題されたコンサートへ行く。オケは神奈川フィル、指揮は井上道義。この人はプロのしゃべり屋か?!と思えるような井上さんの軽妙なトークを交えながら、これからの躍進が期待される若手演奏家の演奏が繰り広げられる。出演は、トランペットの菊本和昭、ジャズ・サックスホーンの矢野沙織(ちょっとセクシーなCDのジャケットやアジエンスのCMでも有名だが、このコンサートの直前にロングヘアーをばっさり切ってしまった!)、バンドネオンの高校生三浦一馬の三人。とても面白いコンサートでした。また、来年も来ようっと! ちなみに、バンドネオンと言うのは簡単に言うとアコーディオンの親戚で、今や新しく作る工房がないためにストラディバリウス並に貴重品のアルゼンチンの楽器です。タンゴの演奏で有名ですね。あ。ついでに、神奈川県立音楽堂で売っているシュークリームはとてもおいしい!

10月22日 東京文化会館にて
本日は、東京都交響楽団 第650回定期演奏会で上野へ行く。オール・リヒャルト・シュトラウス・プログラム。指揮は若手の若様、金聖響。独奏としてビオラは都響の鈴木学とチェロのアルト・ノラス。R・シュトラウス「歌劇「サロメ」より 7つのヴェールの踊り op.54」、「メタモルフォーゼン TrV290」、「交響詩「ドン・キホーテ」 op.35」の3曲だったが、非常に明快に解きほぐされた演奏でよかった。全部R・シュトラウスはなかなかに疲れました。あとで指揮者の金聖響さんのブログを見たら、ご本人も大変だった様子。ご苦労様でした。

10月23日 サントリーホールにて
ドヴォルザークを聴きたいだけのためにスロヴァキア・フィルの来日公演に赤坂に出撃。今回は特定の指揮者と来たわけではないらしく、今回はチェコの若手指揮者レオシュ・スワロフスキーの指揮、後半は日本人指揮者が指揮をするようだ。ちなみにスワロフスキーは前回、都響に来た時に聴きに行っている。チェロコンチェルトのチェロは若手のマーク・シューマン。しかし、なかなかの使い手。曲目もスメタナの連作交響詩「わが祖国」から「交響詩「モルダウ」」、ドヴォルザーク「チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104」、「交響曲第9番「新世界より」 op.95」と非常にベタなメニューとなっている。演奏は期待したとおり、チェコ・スロバキアの伝統のゆったりした感じで進んでいく、危険性の少ない演奏。ノイマンでスメタナ、ドヴォルザークに親しんだ身にとっては願ってもない子守唄のような演奏会だった。

10月26日 サントリーホールにて
日本フィルハーモニー交響楽団の今年の大物である「アレクサンドル・ネフスキー」を聴きに赤坂へ行く。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。期待十分。合唱が東京音楽大学の学生だった関係か、オケ裏の席をびっしりに合唱隊が占拠した見た目にも壮観な布陣。前半は、リャードフ「交響的絵画「ヨハネの黙示録から」挽歌」とグラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」と馴染みは薄いけれどもなかなかに聴きやすい演目。後半に、プロコフィエフ:カンタータ 「アレクサンドル・ネフスキー」が演奏された。最初の部分の弦楽器のとんでもない音から始まり、なかなかにドラマチックな演奏だったように思う。実は、今年は都響も同じくアレクサンドル・ネフスキーの演奏会を行うので、聴き比べが楽しみ。

11月30日 サントリーホールにて
今日は東京都交響楽団の定期演奏会でまたもや赤坂へ行く。指揮はゲルハルト・ボッセ。芸大で教えていたこともあるらしい。トランペットは高橋敦。曲目はオールハイドンで、「交響曲第85番変ロ長調『王妃』 Hob.I.85」、「トランペット協奏曲変ホ長調 Hob.VIIe.1」、「交響曲第101番ニ長調「時計」 Hob.I.101」の3曲。流行のピリオド奏法っぽくもない正統派のハイドンをどっしりと聴いた。

11月2日 横浜みなとみらいホールにて
野中貿易(株)の設立55周年記念コンサートということで、松沼俊彦指揮のシエナ・ウインド・オーケストラを聴きに、みなとみらいへ行く。シエナは日本の数少ないプロのウィンドオーケストラということで聴きたかった楽団だけど、いままでなかなか機会がなかった。野中貿易は横浜で楽器の輸入をやっている楽器屋さん。別に、国際展示場を使って、楽器フェアの最中なのでそれに関連した催しなのだと思うが、ホール2階のロビーいっぱいに楽器が並び、さながら臨時の楽器売り場の様相となっていた。コンサートの方はテレビでおなじみの青島広志さんも登場し、実に楽しいものでした。野中貿易さんに感謝感謝!

11月8日 東京オペラシティにて
東京フィルハーモニー交響楽団の東京オペラシティ定期シリーズ第34回を聴きに初台まで行く。今日のメインはフォーレのレクイエムだと思うが、どうも指揮者のチョン・ミョンフンとは相性が悪い。まあ、最初のR.シュトラウス「交響詩「ドン・ファン」op.20」にしろ、上岡のとんでもない演奏を聴いた後だからなぜか香辛料が足りない気がするのかもしれない。「辛さが足りないよう!」と思っていたら、ブルッフ「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調op.26」もフォーレ「レクイエム」も終わってお開きになっていた。

11月13日 東京芸術劇場にて
札幌交響楽団の東京公演を聴きに池袋まで行く。指揮は尾高忠明。絶対にいい指揮者だと思うが、なかなか、在京のオケで聴く機会が少ないのが残念。ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、「ラプソディ」、武満徹「ファンタズマ・カントス」、「遠い呼び声の彼方へ」、ドビュッシー「交響詩「海」」ともにいい演奏でした。帰りに、出口でお砂糖(ビートから作ったもの)をもらう。ちょっとだけ得した気分。

11月16日 東京オペラシティにて
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第213回定期演奏会で初台へ。飯守泰次郎指揮の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団で、マーラー「交響曲第7番 ホ短調《夜の歌》」聴き比べシリーズ! アルミンクよりはよかったが、まだ、自分の中で曲が混沌としている。うむむ。夜の歌は難しい。(でも、昔聞いたマズア=ライプツィヒ・ゲヴァントハウスのレコードはもっと分かりやすかったような。。。)

11月18日 サントリーホールにて
東京都交響楽団のプロムナードコンサート。毎回聞きにくる機会があるのもあと数回のジェイムズ・デプリーストの指揮で、チャイコフスキー「幻想的序曲『ロメオとジュリエット』」、「ロココ風の主題による変奏曲イ長調op.33 」、ラフマニノフ「交響的舞曲op.45」のロシアもの3つ。毎回、明確な音楽表現をするので、デプリースト好きです。残り少ないコンサート機会を大切にしましょう。

11月23日 東京芸術劇場にて
今日は東京都交響楽団、デプリーストのワグナーづくし。楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」、女声のための5つの詩『ヴェーゼンドンク歌曲集』、楽劇『神々の黄昏』より「夜明けとジークフリートのラインの旅」、「ジークフリートの死と葬送音楽」、「ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲」に聞きほれる。デプさん、常任指揮者を辞めてもときどきは振りに来て欲しい指揮者です。

11月25日 横浜みなとみらいホールにて
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団と直前に常任指揮者からの降板を発表したズデネク・マカル指揮をみなとみらいで聞く。演目はスメタナ「交響詩「わが祖国」より”モルダウ”」、ドヴォルザーク「交響曲第8番 ト長調Op.88」というベタな曲。手馴れた演奏で、危なげなく聞けました。

11月29日 サントリーホールにて
今日は東京都交響楽団とデプリーストの今期の大作「アレクサンドル・ネフスキー」の公演。第653回定期演奏会 Bシリーズで聴きに行く。指揮はおなじみジェイムズ・デプリースト、メゾソプラノが竹本節子、合唱は二期会合唱団の布陣。日フィルと違い、合唱の陣容は小さめだが、音量はきちんと出ていた。前半はスクリャービン「夢想op.24」とモーツァルト「交響曲第38番ニ長調『プラハ』K.504」、後半にプロコフィエフ「カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』op.78」。ラザレフとは異なり、ドラマティックというよりも、きちんと整理されたコンサートバージョンと言った感じで聞くことができた。どちらも勝ちだな。

11月30日 横浜みなとみらいホールにて
今年何度か目のオルガンを聴きにみなとみらい、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第240回定期演奏会に行く。今日の指揮者はN響のときと同じ広上淳一。前半にベートーヴェン「ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲」があった後、後半でサン=サーンス「交響曲第3番「オルガン付」」。オルガンの音量は前回と同じく控えめということで、少しフラストレーションが残る。残念。

12月1日 鎌倉芸術館にて
今日だけの大阪フィルハーモニー交響楽団の鎌倉公演。実は鎌倉芸術館に来るのは私は今回が初めて。コンサート前に旧松竹撮影所前の日本料理屋さんで地魚のどんぶりを頂き大満足で芸術館に。指揮は大植英次さん。以前、大阪の公演で体調を崩したと聞いたが、今回は大丈夫な様子。曲目は、ベートーヴェンの「交響曲第8番 ヘ長調 作品93」と「交響曲第7番 イ長調 作品92」という大きな番号の交響曲。近年ない、ゆったりしたテンポの進行で、こういうのもありかな?と改めて見直した。観客が少なかったのだけが唯一の不満! 鎌倉には文化人がいるんじゃないのか!

12月7日 サントリーホールにて
日本フィルハーモニー交響楽団の第596回東京定期演奏会を聴きに赤坂まで。アークヒルズ3階にあるラーメン屋の餃子定食が最近のお気に入り。餃子2枚にご飯とワンタンスープが付いてくる。クラシック前に餃子か?と言う感じだが、腹が空いては戦は出来ない。空腹にティンパニーの音響は応えるのだ。今日はワグナー振りで有名な飯守泰次郎のオールワグナープログラム。曲は、歌劇《タンホイザー》より「序曲」、楽劇《トリスタンとイゾルデ》より「前奏曲と愛の死」、楽劇《ワルキューレ》より「ワルキューレの騎行」、「魔の炎の音楽」、楽劇《神々の黄昏》より「夜明けとジークフリートのラインの旅」、「ジークフリートの葬送行進曲」、「ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲」という内容。直前にデプリースト=都響で聴いたのが運が悪かったというか、ちと、弦の響きが足りない感じ。でも及第点でしょう。ところで、緑川まりさん、写真より随分と大きくなられたようで。

12月13日 東京オペラシティにて
きょうは東京フィルハーモニー交響楽団の東京オペラシティ定期シリーズ第35回で初台に行く。たぶん、来年は東フィルはほとんど来ないような気がする。まあ、音の響きの悪いオペラシティで1階の後ろの方の席ではあまり音が聞こえてこないと言う言い訳もできるが、上岡やヤルヴィの演奏会ではびしびしと後ろにも伝わってきたので場所のせいばかりではないだろう。きょうは若杉弘指揮で、シューベルト「交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」」、ブルックナー「交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)」。終わりよければ全てよし。今年最後に満足できる演奏でした。

12月14日 東京文化会館にて
きょうは東京都交響楽団の第654回定期演奏会 Aシリーズ。上野の森は燃えていた! 指揮はエリアフ・インバル。曲はマーラー「交響曲 第7番 ホ短調「夜の歌」」ということで、1年以上前から期待されていたコンサート。日本のオーケストラなのに、チケット争奪戦は凄まじかった模様。私はメイト会員なので昨年からの継続で、比較的楽にゲット。ただし、満席のため、3階のサイドの席といつもより上からの鑑賞でした。結果は、これだったのだよ、これ。という待ちかねた演奏。マーラーの専門家の面目躍如と言った感じでした。

12月19日 サントリーホールにて
東京都交響楽団の第655回定期演奏会 Bシリーズ。場所を赤坂に変えて、インバルのマーラーシリーズの第2弾。曲はマーラー「交響曲第6番イ短調『悲劇的』」です。今日もサントリーホールは満席。ネットオークションでチケットが飛び交ったといういわく付のコンサートとなりました。結論。インバルのマーラーは明快でいいですね。

12月25日 サントリーホールにて
読売日本交響楽団の第497回名曲シリーズとして年末の第9を聴きに赤坂に行く。予定を入れてみて気付いたが、きょうはクリスマス。気がつかないところがなさけないというか、なんというか。まあ、いいことにして赤坂へ。いつもの餃子定食を食べて、いざ、サントリーホール。きょうの指揮は下野竜也。若手だが実に明快な指揮をするので好きな指揮者。独唱はソプラノ:林正子、メゾ・ソプラノ:坂本朱、テノール:中鉢聡、バリトン:宮本益光と実に若手でかつビジュアルな方々。若いだけに実によく声が出ていました。合唱は新国立劇場合唱団。プロだけに少人数でも十分な音量があったのはさすが。ベートーヴェンの交響曲第9番〈合唱付き〉だけでしたが、けっこう楽しめました。

12月26日 サントリーホールにて
東京都交響楽団の都響スペシャルと題するベートーヴェンの第9交響曲の演奏会を聴きに赤坂に行く。指揮はエリアフ・インバル。今年最後のコンサートです。都響の第九のシリーズも最終回だけに前の回の感想が多くネットに上がっています。その好評を見るにつけ、期待の高まる公演。独唱は昨日の若手とは対照的に、ソプラノ:澤畑恵美、メゾソプラノ:竹本節子、テノール:福井敬、バリトン:福島明也と中堅で揃えてきました。合唱はアレクサンドル・ネフスキーでもその片鱗を見せた二期会合唱団。まず、コンサートはベートーヴェンの「序曲「レオノーレ」第3番 op.72b」から始まりました。小手調べにしては上々の出来。この後、第九を本当に弾くのか、心配になるような上出来の演奏でした。そして、休憩を入れずに合唱団を迎え入れ、交響曲第9番ニ短調「合唱付」op.125の演奏が始まりです。で、結果として、読売日響、都響の順に聴いたのですが、その選択は正解だったように思います。マーラー指揮者として名高いインバルは、実は歌劇場の音楽監督に在任中ですが、その実力を見せ付けられたような、合唱、独唱をもひとつの音楽として取り込んでしまった第九に、他の合唱曲の演奏と同じものを見た気がしました。ぜひ、レクイエムやオラトリオもインバルの指揮で聴いてみたいし、オペラすら見てみたいと思うすごい演奏でした。イタリアオペラがとても似合いそうです。

さてさて、手帳に書かれた演奏会を数えると全部で、なんと74公演! いやはや、疲れるわけです。来年は今年の3分の1くらいまでに押さえようと心に誓った私でした。(でも、読売日響の定期会員で11公演。都響のメイト会員で14公演。足すとそれだけで25公演と。。。減る見込みは薄いかもしれない)

冬至(トゥンジー)

仲宗根浩

十二月中旬あたり、数日のあいだ父子家庭となる。息子に朝ご飯を食べさせ、学校へ送りだし、洗濯をし、授業参観、夕ご飯の買い物、支度等々。この時を使い家の中、掃除機も踏み込めない一角を整理する。いらないものが出てくる出てくる。フロッピーディスク、CD-ROM、カセットテープ、ビデオテープ、パソコンのケーブル類、昔のモデムなどの周辺機器。分別し、リサイクル手続きが必要なもの以外、全部処分。埃で灰色になった床を磨くとちゃんと木目がある床が出てきた。広々としてリビングルームっぽくなったぞ。やればできるじゃないか、おれ。

父子家庭生活最後の日、空港にうちの奥様、お嬢様を車でお迎えに行く。無事、家の前で奥様、お嬢様を降ろし、ちょっと離れた駐車場に車を入れ、車止めにピタリと車を止めようとしたとき、車が無事でなくなった。前のタイヤはしっかり固定された10センチ弱の角材を見事に越え、右フロント部分コンクリートの壁に激突。やってしまった、おれ。どうやらアクセルを思いっきり踏んだらしい。車を定位置にもどすためゆっくりバック。タイヤが何かの部品にこする嫌な音。車から降り状況を見る。割れたヘッドライトのかけら、凹んだバンパー、突き出たフロント右横。ぶつかった壁はすこし傷。エンジンはかかる。ボンネットは開いた。フロント部品、ヘッドライト取っ替えて、板金、塗装は確実。翌日朝から駐車場を掃除し保険会社、警察、駐車場の大家さん、修理工場対応で一日つぶれ、冬至を迎えた。

冬至にはトゥンジージュシーといって、沖縄の炊き込みご飯を火の神(ヒヌカン)、仏壇にお供えし、それをいただく。実家にもどり、母親の作ったジューシメーを食べる。台所のヒヌカンに小さく盛られた御仏供(ウブク)は男は箸をつけてはいけない。息子は小さいときからアイスクリームごはん、といって欲しがる。それをまず母親が箸をつけ息子に与える。

暖かい冬至が過ぎ、家は大掃除を始め、年賀状の準備をしはじめ、修理に出した車がきれいになって戻って来た。次の日、母、叔母と法事に行くため車を駐車場から出す。ぶつけた車ではなく、父親からのお下がりの車。シャッターを閉めるため一旦車から出る。んんんっ、パンクしてる。凹む、おれ。

世界音楽の本

高橋悠治

2002年から2007年までかかわってきた『事典 世界音楽の本』がついに出版された(岩波書店、12月20日刊)。徳丸吉彦、渡辺裕、北中正和、編集部の十時由紀子と毎月のように編集会議をつづけているあいだに、音楽に対する考え方もずいぶん変わった。20世紀の戦争・革命・技術革新・世代差のなかで、地球上のどこにいても地域文化は影響を受け、変化する。ヨーロッパ流近代化や、アメリカ流「世界化」への一方的な圧力を受けるというよりは、それを回避したり、変質させる内発的な力学に眼を向けると、これらの変化の過程がもっとよく見えてくる。

変化する現実を観察するには、いままでとはちがう立場や視点がもとめられる。ヨーロッパ的な普遍の一点から世界を俯瞰するのではなく、関係性の網のなかから複数の視点と音楽的実践を浮かび上がらせる「逆遠近法」が、音楽学の新しい方法となるだろう。単純な還元主義、本質論、ヨーロッパ中心の世界観ではなく、文化相対論や多文化主義でほころびを埋めるのでもなく、多様性、混乱のなかから育ってくる複数の音楽のありかたを認めること、ちがう文化の相互作用、文化横断の概念から、現地調査と構造主義的普遍論が表裏一体となったいまの民族音楽学にかわって、流動する現実と同期する方法のために、すでにあるものを分析するのではなく、創造と同時的、あるいは同意義であるような、学習と発見のプロセスとして、未完であり、おたがいに矛盾する考えを切り捨てずそのまま提示するこころみが、この本のかたちになったと言えるだろうか。

世界音楽は、ヨーロッパ流のメロディー・ハーモニー・リズムのカテゴリーでは扱えない。ここではリズム・音色(ねいろ)・制度・歴史という章立てをしている。リズムは西洋音楽のように拍子による計量的なものではなく、足・手・息の側面から観た音楽の身体であり、音色は感じられる音あるいは空間としての音で、楽器・音程・音階・旋律・音質などを含む。それらから自律的に生まれる音組織はやがて固定し、制度化され、管理される。制度は政治的、経済的、文化的なものがあり、国家・資本・教育・学問の機関がそれを管理経営している。音楽史は、どこでも管理への抵抗や制度からの逸脱を原動力としてうごいてきた。

20世紀音楽史ははじめて世界音楽史となる。それは音楽の録音技術の発明によって可能になった世界的流通過程のなかで、大西洋奴隷貿易の結果として生まれたアフロアメリカ音楽が第1次世界大戦後のヨーロッパを侵蝕するプロセス、戦争や革命と内戦による難民、植民地主義によって生まれる経済格差からの移民から生まれる文化の撹拌が、いっそう促進される状況のなかで、地域文化や同世代の若者に浸透するポップカルチャー、さらに都市文化やテクノロジーに触発された実験音楽やサウンドアートが入り乱れて、多彩な活動がみられる。1930年代の国家介入、1968年の世界的な反権威主義革命、1989年の社会主義体制の崩壊以後、人間世界は混乱している。権力や資本の基盤が危うくなるにつれ、いっそう暴力的になっている。格差・差別はひどくなり、社会は不安定になっている。音楽もそのなかで、断片化し、抽象化し、切断とノイズ、あるいは逆に、アイロニーと沈黙を表現手段とするようになる。

抵抗をテロリズムとして排除する権力をやり過ごしながら、多様性の相互調整であるような文化は、まだ隠れて生きている。それは多義的な表現である限り、社会に対しても、預言とみなせるところもあるだろう。