高原が迎えに行くと、聡子はすでに帰り支度を終えていて、まっすぐにブリオッシュの元に走り寄ってきた。ブリオッシュは決して吠えたりはしない。ただ、尻尾を力強く振るだけで聡子と会えた喜びを伝えようとする。
ブリオッシュはすっかり幼稚園の人気者だ。母親が迎えに来ても、ブリオッシュが来るまで帰ろうとしない子供もいるらしい。ブリオッシュを連れて、聡子の送り迎えを始めたころ、その大きさに驚いて泣き出す子供や「吠えたり噛んだりしませんか」と不安気に聞いてくる母親が何人かいた。
しかし、目の前のブリオッシュを見れば、どれだけ大人しい犬なのかは誰にも明らかだった。特に子供たちは、大人たちが不安がるのを横目に、すぐにブリオッシュの周りに群がるようになり、「ブリちゃん」「ブリオッシュ!」と声をかけ、身体を撫でまわした。ブリオッシュはそんな子供たちに、一瞬たじろいだのだが、すぐにこれも定めだ、とでも言いたげに高原を一瞥すると、哲学者のように寝そべって、子供たちに身を任せた。
聡子は自分を迎えに来るブリオッシュが誇らしいのか、少し自慢げに傍らに立ち、同級生たちに「あんまり強くなでなでしないで!」などと言ったりする。高原はそんな孫が、友だちから疎まれたりしないように、なるべく送り迎えの時間を短くするように心がけているのだった。
ブリオッシュが散歩の直前に脱走する、という事件から一週間が経った。あの日、あんなことをしでかしたのはどこの誰だったのか、というふうにブリオッシュは高原に従順だった。「待て」と声にしなくても、高原が散歩の用意をしている間はじっと玄関に伏せたまま待っている。そして、用意が終わり、高原がブリオッシュに視線を向けると、すくっと立ち上がるのだった。
風が吹いて、ブリオッシュの足下をスーパーのビニール袋が転がり抜けていく。カサカサという音が後方へ流れていく。ブリオッシュの視線が一瞬、その音の方を追う。それでもブリオッシュの歩く速さは変わらない。いつもの小さな公園をブリオッシュは立ち止まりもせずに歩いていく。高原がリードを引けば、ブリオッシュは必ず立ち止まることはわかっている。しかし、高原はリードを引かない。
「今日は思った通りに歩いてみろよ」
高原はブリオッシュの背中に言う。ブリオッシュはその声を確かめたかのように歩く速度をあげる。高原とブリオッシュの間のリードがピンと力を持つ。高原はブリオッシュの行く先に自分が影響を与えないようにブリオッシュの歩みに自分の歩みを重ねる。リードが少したわむ距離で高原はブリオッシュの背中を見つめて歩く。
いつもの公園を過ぎ、あの日、脱走して行った方をブリオッシュは目指した。
「そっちか、そっちへ行きたいのか」
高原が声をかける。ブリオッシュはなにも答えず歩き続ける。静かな住宅街を抜け、古びた商店街を抜け、大きな公園のある通りへと出た。公園の隣には公民館のような建物があり、ブリオッシュはその脇の坂道を上っていく。
「ブリオッシュ」
高原は小さな声で呼びかける。ブリオッシュは立ち止まりも振り向きもせずに、ワン、となく。しばらく、高原は黙ったままでブリオッシュを追って坂を上る。
「ブリオッシュ」
高原はもう一度、犬の名を呼んでみる。ブリオッシュはもう一度、ワンとないて歩き続ける。その後ろ姿をみながら高原は思う。お前にはちゃんと生きたい場所があるんだな、と思う。
そろそろ聡子を幼稚園に迎えにいかなくてはならない時間だ。しかし、高原は今日はもういい、と考えていた。一日ぐらい自分が迎えに行かなくても、誰かがなんとかしてくれる。そんな気持ちになってしまっていた。
「ブリオッシュ、行きたいところへ行け。今日はとことん付き合ってやる」
高原はそう言うとブリオッシュとの間合いを詰めた。ブリオッシュは詰められた間合いの分だけ速度を上げる。
公民館の脇の坂道を上がりきると、ブリオッシュは左に折れた。高原は不意をつかれてそこに立ち止まっている。リードが張られ、高原がそれを手放してしまう。ブリオッシュは持つ者がいなくなったリードを引きずって数メートル先を歩いてから、リードを引きずる音に気がついて立ち止まる。ブリオッシュはそのまま逃げたりしない。高原の方に戻ってきて静かに足下に座る。高原は思い立ってブリオッシュの横にしゃがみ込んで、リードを外してやる。条例だなんだとうるさい世の中だが、誰かが近づいてきたら、しっかりとリードを握っているふりをすればいい。付かず離れず距離を保って歩いていれば、きっとリードあるように見えるだろう。高原はそう思いながら、ブリオッシュの背中を軽く叩いて小さく叫んだ。
「行け、ブリオッシュ」
ブリオッシュが立ち上がる。周囲の空気が微かに動く。高原は鼻先に、遙か彼方にあるはずの海の匂いをかぐ。