「社交性が欠如している」と自覚したのはいつの頃だっただろうか。
ヒトが集まるところに出掛けて、そこにいるヒトビトとコミュニケーションをとるのが苦痛でならない。
特に面倒なのは「仕事絡み」「しがらみ」で出掛けなければならないケースだ。
そう、この「ガラミ」の場合になると、おれは急に怯んでしまう。
「仕事ガラミ」のパーティが大嫌いだ。ホテルの宴会場の入口で飲み物の入ったグラスと紙ナプキンを貰い、ごった返している会場に入ると、もう帰りたくなる。
立ったままで、冗漫な主催者の挨拶を聞く。肘を九十度に曲げたおれの右手にはウーロン茶のグラスがある。挨拶が終わると「カンパーイ」と元気よく発声するのがマナーなのだろうが、おれは黙ったままほんの少しだけグラスを上げて、ひとくち飲む真似をする。グラスを丸テーブルに置き、心のこもっていない拍手をペタペタとする。
問題はここからだ。知っているような知らないような、そんなヒトビトがチラホラと周りにいるが、おれはどうしても自分から挨拶ができない。向こうから声を掛けてくれても「このヒト、誰だっけ」となるので、背中に汗をかく。したがって話題も続かない。
「お願いだからおれのことなど構わずに、ほかのもっと重要人物のところへ行って挨拶してきてください」
と心の中で叫んでいるので、笑顔もこわばってくる。
雰囲気を察したのか、相手は「それじゃ、また」と言って、会場をスイスイと回遊していく。
「助かった」と思うのだが、大勢のなかでポツンと一人になるのも辛い。周りの全員は必ず誰かと立ち話をしている。和気藹々というやつだ。おれだけがバカヅラをして誰からも相手にされず、一人立ち尽くしている。
そんな無様な姿を見て主催者側のヒトが気を遣ってくれたのか、おれのところへ近づいてきた。このヒトはよく知っているが、申し訳なさが先に立ち、気の利いたことが言えない。
「ずいぶんとご盛況で」
そう言うのがやっとだ。
「お食事、召し上がりましたか?」
会場の中央にはブッフェ・スタイルの食べ物がズラリと並び、両側には寿司、蕎麦、天婦羅、ロースト・ビーフなどの屋台が連なっている。
だが、おれはこういう場所でめしを食うことができない。目を光らせながら食べ物を皿に盛っているヒトビトを見ると、もうダメだ。あそこに並ぶ勇気もないし、収穫品を立ったまま口に運ぶなんて考えられない。これは自意識過剰なのか、それとも性分のようなものなのか。
「よかったら何か取ってきましょうか」
主催者側のヒトはそう言ってくれるのだが、
「いえいえ、だ、大丈夫です」
と、しどろもどろになってしまう。もう身の置き場所がない。おれは、
「申し訳ございません、次があるもので失礼させていただきます」
とモゴモゴ言って、会場を出てしまう。ここでいう「次」とは「帰宅」だ。
ああいう「仕事ガラミ」のパーティで世慣れた身のこなしができるヒトが羨ましい。グビグビ飲んで、ムシャムシャ食べて、ガハガハと大声で喋ることができたら楽しいのかもしれない。きっと仕事ガラミの人脈も広がるのだろうなぁ。でもいいんだ、おれは。
唯一パーティで出てみたいのは「政治資金パーティ」だ。どんな雰囲気なのだろう。これこそ「ガラミ」の王者、代表、総本山、元締めの「政治絡み」「派閥絡み」ではないか。あ、でも出席するためにはカネを払わなければならないのか。「カネ絡み」だ。じゃあイヤだよ。
「仕事ガラミ」「シガラミ」で、どうしても出席しなくてはならないヒトサマの結婚式も苦手だった。「だった」と書いたのは、このトシになるとさすがにお呼びがかからなくなったからだ。これこそを寿ぎという。どうか勝手に好きなだけやってほしい。
おれと親しい間柄の男女が結婚するというのなら、祝福したい気持ちはある。おれにだってあるのだ。でも、よく知らない男女の結婚式に出席するのは厳しい。ならば欠席すればいいではないかというご意見もあろうが、「仕事ガラミ」「シガラミ」だとそうもいかない場合があったのですよ。
あの結婚式というやつもヒトがたくさん集まる。そして時間が長い。このまま死んでしまうのかと思うほど長時間だ。パーティのように途中で素早く逃げるわけにもいかない。円卓にジーッと座ったまま、次々に供される料理を食べていくだけだ。両脇の席にいるヒトたちとの会話も苦痛でならない。「仕事ガラミ」「シガラミ」で出席しているので、なおさら時間の経過が遅く感じる。三時間半から四時間、という式に出席したこともあったが、おれの休日をなんだと思っているのか。時間泥棒と映画泥棒は厳しく取り締まるべきである。長くなる原因は、あまりにも多くの「セレモニー」が詰め込まれているからだ。
さあケーキ入刀、シャッターチャンスです、などと言われても困る。馬鹿な奴らが前に押しかけてくるので、おれは席を立って後方へと逃げる。写真を撮ってどうするのだ。
さあここで新郎新婦の誕生から出会い、そして現在までを動画にしましたので、スクリーンをご覧ください、などと言われるともっと困る。はっきり言うが「仕事ガラミ」「シガラミ」のご両人なので興味ない。
肝心の新郎新婦がお色直しで不在、という時間。あれだけは解せない。いいよ、そのまんまで。お色直しを終えて再登場し、あちこちの席のキャンドルに火をつけて回るのもどうか勘弁してほしい。そのくせおれが座っているテーブルにやって来ると、ニコニコしながら拍手している自分が情けない。だが新郎新婦よ、おれの目は笑っていないからね。
新婦の友人は絶対に一人でスピーチしない。三人組でマイクの前に立ち、何が悲しいのか、それとも何が悔しいのか知らぬが嗚咽している。いちいち泣くな。女が泣いていいときは財布を落としたときだけだ。
「どうかマユミを幸せにしてやってください!」
などと新郎に向かって号泣している。おれは、
「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる みつを」
と、心の中で繰り返すことになる。
新郎の同級生たちが肩を組んで出身大学の校歌を声高らかに歌う、というパターンも昔はあった。おまえら共通のアイデンティティは死ぬまでそれなのか。大学がおまえらに何をしてくれたというのだ、アホタレ。
両親への花束贈呈および手紙朗読など、言いたいことはまだまだあるがもう書かない。
書きたいのは、「仕事ガラミ」「シガラミ」でのあのような集まりはもうたくさんだということだ。結婚式の時間が長くなればなるほど、心から祝福する気がどんどん失せてくるではないか。披露宴で撮影されたスナップ写真が後になって何枚か送られてきたが、どのカットでもわずかに写りこんだおれはムスッとした顔をしていた。よくない。じつによくない。こんな不届き者など呼ばないほうがいいと思う。
「仕事ガラミ」「シガラミ」の会はまだある。忘年会、新年会、歓送迎会、暑気払いの会、みんな嫌いだ。仕事とまったく関係ない気の合う数人の仲間と集まるのは気楽だが、いつも同じ会社で仕事している気の合わない奴らと、なぜわざわざ居酒屋まで移動して席を同じくしなければならないのか。「呑みュニケーション」などとホザく奴の気が知れない。サケを呑まないと言いたいことも言えないのかよ、情けない。
取引先との忘年会、新年会なども同じだ。この場合は世辞のひとつやふたつも言わなければならないので、ますますタチが悪い。
もう「ガラミ」の会とはおさらばだ。絡むのは痰だけでたくさんです。これからは絡んだ糸を一本一本切っていくジンセーでありたい。いや、違うな。「おれがテキのほうからどんどん切られていく」と言ったほうが正しい。おれを頭数に入れても、もうなんのメリットもないもんね。いいじゃねぇか、望むところよ、上等ですよ。