聖なる骨 2

イリナ・グリゴレ

聖女マリナのこと考えながらドブロジャ地方を渡り、移動販売していた地元の人たちから葡萄を買って車で娘たちと食べた。白い葡萄と赤い葡萄、どれもフランキンセンスの味がした。ワインも飲みたい。売ってなかった。ハチミツとすっぱいサクランボの自家製果実酒。美味しいがちょっと甘い。朝ご飯に出る。スモークした豚の脂の塊と共に。東ヨーロッパの朝ご飯が好き。チーズとトマト、脂の塊に卵料理に自家製果実酒。ホテルに出てこないものばかり。全部家での手作り。材料も実家製で添加物はゼロに近い。朝から豚の脂(卵もそのラードでスクランブルエッグにする)と酒なんて現代人にとって考えられないような組み合わせが、実に身体にいい。祖先の知恵が詰まっている。自然の油脂は脳にいい。その後半日以上も続く畑仕事の体力にも役立つと思いつつ、洗ってもいない買ったばかりの農薬だらけの葡萄を口に入れる。

この30年の間にルーマニアはだいぶ変わった。食べ物も車だらけの景色も。自分の思い出より家も庭も葡萄畑も小さい。娘と祖父母の庭で葡萄を食べている私と弟。世代が変わって、この家を守れなかったと言葉で言えないがお互いの目を見て思う。ここにはもう誰も住んでない。争いのせいで、ここに帰ってきても意味ないけれど、全てを失ったとまでは言えない。みずみずしい白い葡萄の場所を探して。もうそこには葡萄がないと覚った。祖母はあの葡萄をワインに入れず、必ず私たち孫に残していた。この家の匂いは変わらない。焼き立てのパンと雨の匂い。娘は一つの入り口から入ってもう一つの入り口から出て笑いながら舞うような動きをする。雨を呼ぶ儀礼のようだ。庭で見つけた大きな葉っぱで、バヌアツの女の子が教えてくれた面を作って開けた穴から顔を出す。その姿がこの土地の精霊としか見えない。娘をここに連れてきたかった。私にとってどんなに大変なことであっても。耳を澄ますと近くの森林から見える動物と見えない妖精が何かを言おうとする。娘は大人の私にはっきり聞こえないと思い口に出す「ママ、この家を諦めないで、思い出の家でしょう。」

でも、どこかで私も弟もこの家を諦めている。この家の肉体は自分のものではないと分かっている。この土地は骨と皮膚と肉でできているのではなく、森と精霊のものだ。森のすぐそばの墓地は骨だらけだ。この村の土地を所有した骨だらけ。私はこの家から欲しいものがあるとしたら青い食器棚と祖母の織った布だけ。あとはイコン。お祈りとは人から人へ教えられると最近気づいた。5歳の頃、イコンの前でしたお祈りのやり方を教えてくれた祖母の姿が聖女のようだ。自分で織った布を白いリネンの寝巻きに仕立てて、田舎の夜だとあの白さは光って見える。子供と一緒に寝ていた奥の部屋にベッドに正座してイコンを見て守護天使の祈りを言う。初めて言葉の祈りを教えてもらった。

Înger, îngerașul meu,
Ce mi te-a dat Dumnezeu,
Totdeauna fii cu mine
Și mă-nvață să fac bine!
Eu sunt mic – tu fă-mă mare;
Eu sunt slab – tu fă-mă tare;
In tot locul mă-nsoțește
Și de rele mă ferește!
Doamne, îngerașul Tău
Fie păzitorul meu
Să mă apere mereu
De ispita celui rău!

守護霊とは、伝統を受け継ぐ人々の間に生まれたら決して珍しくないリアリティだ。子供のころ祖母からお祈りを教えてもらったとき、お祈りとは全てであるとも教わった。きっと書くこともそうなのだ。この知恵をどう娘に伝えるのかは、今回の旅の目的でもあった。娘は祖父母に会えなかったが、二人が住んでいた家を見て、同じ土を踏んだ。同じ葡萄を食べて、葉っぱで遊んだ。過去は未来になった。線がつながった。村の川のように私と母、娘の身体に祖先の川が流れて、その流れは穏やかになって、時にゼリーのような保存食のようなプルプルしたものになる。ルーマニアの伝統的な料理がある。豚の豚足をよく煮て、肉と骨が溶けるまで待つ。クリスマスの頃に半年育てた豚を丸ごと捌いて料理をする。長い冬と次の半年の食材とするため、保存食を作る。当時は冷蔵庫もないので、保存食がいくつかもあった。先に出た豚の脂の燻製、ソーセージ、そして何日も食べられる豚足のニンニクたっぷりのゼリー寄せ。私の大好物。ニンニクと豚の骨のエキスをむしゃむしゃ食う自分と礼拝堂で聖人の骨に触り接吻をする自分とは何の変りもないと気づく。娘はどっちも嫌がる違う世代の生き物だが、このことをどう伝えれば良いのか。食卓の豚が太古の動物犠牲の儀式の一部であり、人間の食事として聖になる犠牲であること。食事と祈りがこのようにして深いところで繋がっていること。娘にはまだ分かってないようだ。食べ物にも魂が存在すること。この真実は今では忘れられているから。

自分が食べ物について考えていることは多い。聖人たちはこの食欲から解放されていると言われる。木の実、木の根っこ、木や草の実しか口にせず、祈りを続ける生活。祈りは彼らの食事だから。食べ物の意味は元々祈りに近いと、葡萄を食べ続けながら祖父母の家で聖女マリナについて調べながら思う。彼女が退治した悪魔の顔つきがあまりにも可哀想で不思議に笑いたくなる。祖母に教えてもらった最初の祈りのイコンは同じくモンスターを退治した聖ゲオルギオスだった。このイメージにもさまざまな解釈がついているけれども、モンスターを退治するという意味では、このドラゴンも西洋的な考え方にとどまらない。もっと深い意味が込められているので、西洋と非西洋の、二分法的な解釈を無視したい。

聖女マリナの人生に何かヒントがある。彼女はローマ時代初期キリスト教のトルコ、シディアのアンティオキアに生まれた。裕福な家庭だったはずが、彼女が赤ん坊の頃に母が亡くなったため、父の手によって施設に預けられ、そこでキリスト教のことを知った。15歳のある日、道を歩いていたら若い権力者と鉢合わせになった。彼は彼女のあまりの美しさに結婚を申し込んだ。断られると、マリナがキリスト教徒だと聞き、彼女を捉えて拷問した。棒で半死になるまで叩き、肉が剥けて骨が見えるまで拷問が続けられた。虫の息の状態で牢屋に放り込まれたが、そこでも彼女は祈りを続けた。夜になると彼女のところに悪魔が怪物の姿で現れ、彼女の頭を飲み込むと言う。祈りを続ける彼女はその瞬間に差してきた光に包まれ救われる。翌日、すっかり怪我の治った状態で牢屋を出てきたので、人々は彼女を魔女だとして再び拷問にかける。この二回目の拷問では首を締めあげられ、蝋燭で全身を火傷させられた。彼女は祈りつづけながら「水があれば洗礼を受けていたのに」と水をほしがる。死刑執行人がそれを聞いて、たくさんの水を頭からかけて溺れさせようとする。だが、マリナは滝のような水の流れから傷もなく光と共に出てきて、それを見たたくさんの人々が彼女を信じたので、その人たちも殺される。最後に死刑執行人に斬首されて死ぬが、彼女の死と拷問を目撃したテオティムが文章を残した。

聖女マリナは初期のキリスト教の聖人の話によくある、美しい女性が求婚を断ったせいで拷問を受けると言う物語だが、彼女が悪霊に憑依される人を助ける聖人になったのは興味深い。