仙台ネイティブのつぶやき(99)無口の写真家

西大立目祥子

そうたくさん話したわけではないのに、じぶんの中に忘れがたい足跡を残す人というのがいるものだ。写真家、小野幹さんは私にとってそういう人だった。くっきりとした足跡というのではない。降り積もった雪を踏み込んだときのような、輪郭はくずれてはっきりしないけれども深い足跡。のぞき込むと、断片的ではあるけれど、表情や立ち居振る舞いがよみがえってきて、あんな人はいないという思いに行き着く。

小野幹さんは昭和6年(1931)岩手県藤沢町生まれ。戦後は仙台に暮らし、昭和30年代から仙台市内はもちろんのこと東北各地の山村や漁村をくまなく歩いて、人々の生活の風景を撮り続けた。仙台におけるプロ写真家の草分けのような存在で、まわりには志を同じくする人の輪ができていた。

私が最初に接点を持ったのは30数年前。バブル経済で街なかの風景が激しく変わった時期に、その前の時代の風景を知ろうと写真記録を撮っていた幹さんを訪ねたのだった。
出してくださる昭和30年代の写真は新鮮だった。自転車に一升瓶を乗せてお使いに行く男の子、道路脇の掘割にかがみこんで手を洗う老人、まだケヤキ植栽前の仙台駅前の青葉通をスキーを担いで横断する若い人、歩道で客を待つ靴磨きのおばさん…人があふれ、働く人がそこらじゅうにいて、空襲の焼け跡にビルが立ち並んでいく写真を見ながら、戦後の仙台はここから始まったんだと思ったし、この街並みを私は生きてきたんだとも感じた。そして、幹さんの数十年撮り続けた記録写真は膨大な量に及ぶことを知った。

その凄さが身にしみるからなのかもしれないが、近寄りがたいような怖い感じも受けた。ギョロ目でちょっといかついお顔で、あんまりしゃべらない人なのだ。私が何かいうと、かなりの間があって、ぽつりと「そうだね」と返ってくる。何をたずねても間が生まれる。その間が耐えられないほど長く感じられて、用件がすむとそそくさと辞去する数年が過ぎた。

それから7,8年が経ったころだったろうか。友人のライターと交代で、タウン誌に30〜40年前の仙台の街並みと現在を比較しながら当時の暮らしを探る連載を始めることになり、再び写真をお借りするために訪問を再開した。フィルムカメラからデジタルカメラに切り替わり暗室の必要がなくなったからだろうか、幹さんのスタジオはいつのまにか妻ようこさんが運営するギャラリーに取って代わり、写真のプリントは2階の倉庫兼書斎に置いてあるプリンターで出力するようになっていた。

約束の日にうかがうと幹さんは、何枚もキャビネ判に焼いた写真を用意して待ってくれていた。「これは昭和36年の青葉通」「これは昭和42年の国分町」と写真を提示してくださるのだが、中には場所が特定できないものもある。「どこだったかね…」とおっしゃるときはその前後のベタ焼きを見せてもらって検討し、それでも解決しないときは当時の住宅地図を持って歩き回りあたりをつけたりした。そのあとライターの私たちは街に出て、写真の時代を知る人を探し歩き話を聞いて文章をまとめた。その成果は『仙台の記憶』『40年前の仙台』『追憶の仙台』(いずれも無明舎出版)という3冊の写真集になった。

この経験がおもしろかったこともあって、私は新たな仕事を引き受けるたび幹さんの写真で何かできないかと考えるようになってしまった。広瀬川流域がテーマの仕事では、信じられないほど粗末な木橋や河口にあった渡し船の写真に驚きながら、大洪水で水に沈んだ街を記憶する人を探し、小舟に野菜を積んで対岸の集落を回った女性を紹介してもらって話を聞き、書いた。次から次へと出てくる幹さんの写真に導かれるようにして、昭和20年代から50年代の仙台の地べたの暮らしを、物語を聞くように暮らしてきた人たちから直接教えてもらったのだと思っている。

それにしても幹さんが成し遂げた仕事の量には圧倒される。いや、仕事といういい方は当たらない。歩くように撮り、見るように撮り、生きていくことが撮ることだったのだ、といまは思える。ときどき街で首から小さなカメラを下げ、歩いたり自転車に乗っている姿を見かけた。カメラを持った幹さんにばったり出会ったことがあって「お仕事ですか?」とたずねると、「いや、用事があるわけではないんだけど…」と返されたこともあった。

ご自身が撮影した写真については「記録しようと思って撮ったことはないんだ。ただ目の前のものがおもしろくてカメラを向けていただけ」とおっしゃっていたのが印象深い。たしかにアサヒカメラの最優秀作家賞をはじめたくさんの受賞歴がある幹さんの写真は、いうまでもなく人の眼では捉えきれない瞬間を切り取りつつも対象への温かさにあふれた、作家の作品と呼べるものだ。中でも子どもたちを写した写真は忘れがたい印象を残す。写真集『わらしこの昭和 昭和30年代の子どもたち』(河出書房新社)の子どもたちは、野良で働き、兄弟を背負って子守をし、新聞売りをしながら、みんな懸命で精一杯。そこに幹さんは無垢な心根を写し取るし、ソリに乗ったり川原で煮炊きをしたり遊び呆けカメラに底抜けの笑顔を見せる表情に生命の輝きをつかみ取っている。カメラをまったく意識していない表情に、一体どうやって幹さんは子どもたちに近づきシャッターを押したのだろうと思う。

通ううちに、幹さんはおだやかでやさしい人だということがよくわかってきた。怖い人だなんて感じていた、私の若いころの眼はまったくの節穴。いつも平常心を保ち、上機嫌でいられる人だったのかもしれない。甘いものに目がなくて、豆大福とかきんつばとか茶饅頭とかを詰めた小さな包みを手土産にすると、一瞬ぱっと眼を輝かせてうれしそうにされる。でも口に出して、うれしいなどとはいわない。相変わらずの、何というのか上等の無口ぶりなのだった。

ギャラリーの片隅でようこさんと3人でお茶を飲むひとときは、ゆったりとして楽しい時間だった。話すのは、ほとんどようこさんと私。ときどきようこさんがイライラしたように「ほんとに、この人は何にもしゃべらないの、何聞いてもいいとも悪いともいわない」と口にしても、幹さんは表情も変えず飄々としたたたずまいでおまんじゅうを幸せそうに頬張っている。感情が波立たないというのか、まるで存在感を消したようにそこにいるというのか、だからこそ対象にそっと警戒されることもなく近づいて、気づかれることもなくシャッターを押せたのだろうか。

やがて90歳を迎えた幹さんは転倒をきっかけに施設に入所された。施設内でも使い慣れたカメラで撮影しているとうかがった矢先、今度はようこさんが体調を崩され自宅で療養する事態となってしまった。ようこさんのお見舞いにお好きだったお団子を持っていき少しお話もして安堵した数日後、幹さんの訃報が入った。そしてご葬儀にお別れにうかがったわずか5日後、何とようこさんが旅立たれた。こんなことがあるのだ。6月初めのことだった。

先日、お墓参りをしてきた。菩提寺は仙台市中心部から車で15分ほどの山中にある、一度訪ねてみたいと思っていた寺だった。草木の生い茂る参道は修行寺という歴史もあってか想像以上の険しさで、幹さんにまた導かれているなあと感じながら先の見えない石段を上り詰め、刻まれたばかりの二人の名前が並ぶ墓石に手を合わせた。

また親しかった人が消え、一つの扉が閉じられた。それは、じぶんの中に固定されたその人の記憶が生まれるということでもあるのだけれど。

子どもの写真について、幹さん自身は前述の写真集の中でこんなふうに話している。
「僕は70歳を過ぎたいまでも子どもたちには好かれるみたいなんだよ。さっきも犬の散歩をしていたら、下校途中の子どもたちが寄ってきて…なんていうか、子どもたちとは呼吸が合うんだよ」
読みながら、ああいう静かな人は間違いなく動物にも好かれただろうなと思う。