本小屋から(11)

福島亮

 河原で本を読むのは良いことだ。やさしい日の光のもとで印刷された文字を読むと、いつまで読んでいても目が疲れない。風に吹かれながら頁を繰るのも気持ちが良い。パリにいた頃は、街を歩いていると、よくセーヌ川の岸辺に座って本を読んでいるひとを見かけた。地下鉄のなかでもスマートフォンをいじるひとより本を読んでいるひとの方が多かったような気がする(電話をしているひとも多いけれど)。ただ、今年の夏は、あまり河原に行かなかった。本小屋の近くには多摩川が流れているから、夕方気が向いたら、その時読んでいる本を無印のトートバックに入れて河原に行き、熱いコンクリートの上に腰を下ろして読書をすることができる。でも、8月、9月と、窓の外の暮れなずむ空に目をやり、いま外で読書したらさぞ気持ちがいいだろうなともたもたしているうちに暗くなってしまって、今日はお預け、ということが続いた。今度こそ、と思っていたが、気がついたら秋になっていた。

 本を読みながら、どうしてこれまで会ったことがなかったのだろうと思うひとがいる。著者の趣味や行動範囲、登場するいくつかの固有名詞などを勘案すると、どこかの機会ですれ違っていてもおかしくないのに、最後の最後まで会えなかったひと。今年のはじめに亡くなった榎本櫻湖さんは私にとってそういうひとで、9月16日に行われた追悼イベント「サクラコの会」に参加し、「ここにいるひとたちは、みんな詩人なんだ……」と完全なおのぼりさん気分でビールを飲みながら、どうして会ったことのないひとの追悼を私はしているんだろう、どうして会えなかったのだろう、と会のあいだじゅうずっと思っていた。

 一週間に一度豪徳寺駅を使うので、時々少し足を伸ばして、詩の本屋、七月堂に行く。あれはまだ夏の盛りだったが、平積みにされていた榎本さんの詩集『Lontano』(2018年)を購入した。切り詰められた言葉が、ラジオメーターの薄い羽根のように不思議な運動を繰り広げており、晦渋な語彙の選択や黒々とした漢字の使用はここでもみられるけれど、全体としての印象はずっと淡い。やわらかくくすんだ陽光が小窓からさす古い図書館や、真夜中の空に刻まれた星辰図を切り裂いて流れる火球のイメージ。たとえ具体的な言葉として書かれていなくとも、私は榎本さんの詩の向こうにそのような熱さと冷たさの間の静かな何かを感じてしまう。そんな静けさを言葉の繁茂のなかから垣間見せることのできるひとと、一度会ってみたかった。

 鞄のなかに薄い詩集を一冊入れておくのは良いことだ。歩いていれば、時に静かな河原に出ることがあるだろう。その時そっと取り出して読むための詩集を一冊持ち歩くのである。しばらくの間、その一冊は榎本さんの詩集になると思う。