私はニラレバ定食が食べたかった

篠原恒木

ツマに「これから会社を出て帰ります」と電話したら、
「今日は作りたくないから何か食べてきて」
と言われた。よくあることだ。それはいい。何の不満もない。この時刻からわざわざ私の分だけ夕食を料理するのは面倒に違いない。

私は帰宅途中の電車の中で考えていた。
「何を食べて帰ろう」
ラーメンという気分ではない。そば、もしくはうどんか。いや、今夜は麺類ではないと私の胃袋が訴えていた。白めしだ。そう、今夜の私は白めしを食べたい。そうなると問題はおかずだ。トンカツか。いいかもしれない。だが、私がこれから降りようとしている駅の付近で美味しいトンカツを供する店はない。ならばどうする。

ひらめいたのはニラレバ炒めだった。白めしに合う。考えてみれば私はこの数年間、ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べていないという事実に気付いた。そろそろ食べておかないといけない。これからの人生で私はあと何回ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べるのだろう。ひょっとしたら十回以内で終わってしまうかもしれない。そう考えると一抹の寂しさと同時に、ぜひとも、必ず、是が非でも、石にかじりついても、絶対的に今日はニラレバ炒めにごはんしかないという強い決意が芽生えた。だってあと残り十回だとして、今日食べたらあと九回だよ。猛烈にニラレバ炒めが愛おしく思えてきた。よし、いとしのニラレバ炒め定食を食べよう。

自宅の最寄り駅に着いた。私は電車を降りたが、足が止まった。「ニラレバ炒め定食をどこで食べればいいか」という大きな問題に結論を下していなかったのだ。この問題はレバだけに肝心とニラむべきだ。うまい、座布団十枚。さあ、どこで食おう。地元の駅周辺で旨いニラレバ炒め定食を出してくれる店はどこだ。

ここで私は気付いてしまった。私は地元でニラレバ炒め定食をこれまでただの一度も食べていなかったのだ。判断材料が皆無なのだ。しかし我が欲望はニラレバ炒め定食一択に染まり、いますぐ、可及的速やかに胃袋へ収めたい状態と化している。アズ・スーン・アズ・ポッシブル、略してASAP、アサップだ。

話は横道にそれるが、この「アサップ」という言葉、なんとかならないのかね。
「なるはや、アサップで」
などと言われると、こいつはアホかと思ってしまう。最初に耳にしたときは「アサッテ」だと解釈してしまったものだ。だから私は嫌味を込めて、
「アサップは無理です。シアサップでしたらなんとか仕上げます」
と返すことにしているが、アホには私のハイ・ブラウなジョークは通じないことが多い。

いけない、ニラレバ炒め定食の話だった。どうする。十分ほど歩けば個人経営の昭和的な町中華の店があることを私は知っていた。タンメンを食べたことがあるが美味しかった。あそこのニラレバ炒め定食なら間違いはないだろう。だが、あの町中華に行くと、自宅までの道のりが遠くなる。時刻は午後八時を回っていた。あの町中華は八時には閉店してしまうのではなかったっけ。いや、九時までは営業していたか。そのへんが曖昧だった。いざ遠回りして暖簾がしまわれていたら、いまの私に駅周辺まで戻る気力があるだろうか。ニラレバ炒め定食のためだけに。

焦った私は急速に店選びが面倒になり、駅からいちばん近い中華料理チェーン店へと歩を進めた。どこでもお目にかかる大手のチェーン店だ。入店したことはないけれど、おそろしく不味い料理は提供しないだろう。可もなく不可もなく、というやつだ。「カモなくフカもなく」なので、北京ダックもフカヒレもない、という店だろうが、そんな高級中華料理は今の私には要らない。ニラレバ炒め定食さえあればいいのだ。

「お一人様ですかぁ」
「はい、一人です」
「空いてる席にお座りくださーい」
元気よく女性店員に言われた私はテーブル席に座った。さあ、あとは彼女が水の入ったコップを持ってきてくれたら、
「ニラレバ炒め定食をください」
と、きっぱり言えばいいだけだ。どうせこのようなチェーン店のマニュアルでは、
「ニラレバ炒め定食ですね。以上でよろしかったでしょうか」
と言われるのだろうけど、以上でよろしい。六十四歳です。以上でじゅうぶんです。餃子も肉団子も春巻も要りません。ニラレバ炒め定食だけでお腹いっぱいです。

しかし、だ。テーブルにはタッチパネルのタブレットが置いてあった。画面を見ると、
「タッチしてご注文ください」
の文字が映っている。嫌な予感がした。私、こういうの苦手。店員に直接注文するほうがどれだけ楽なことか。人件費削減、働き方改革など大手チェーン店にも言い分があるだろう。でも苦手なものは苦手。操作に手間取るのだ。

おそるおそる画面をタッチすると、最初の画面は「人数」だった。さっき「お一人様ですか」と確認を求められて「はい」と言ったのになぁ。
釈然としないまま「1人」をタッチする。次の画面は「メニュー」だったが、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」などと細分化されていた。私は早くも「コノー」と、タンマ君化してしまった。いや、落ち着け。私が目指すのは「ニラレバ炒め定食」だから、必然的に「定食」をタッチすればいい。

画面は「定食」のラインナップに切り替わった。「やでうでしや」とまだタンマ君から解脱していない私だったが、いくら探してもニラレバ炒め定食は「定食」のカテゴリーには存在していなかった。そんな馬鹿な。

『新橋駅前のサラリーマン百人に訊きました。「ニラレバ炒め」という文字の次に続く漢字二文字は何?』

というアンケートをしたならば八十九人が「定食」と答えるだろう。残りのうち六人は「蕎麦」、三人は「内閣」、二人は「上納」だと思う。「内閣」「上納」と答えたサラリーマンはウケ狙いか、もしくはただの酔っ払いだ。

さあ、困った。ニラレバ炒め定食はどこに隠されているのだ。私は「定食」を諦め、「セット」の箇所をタッチして次画面に進んだが、ここでも「ニラレバ炒め」と「ライス」のセットは発見できなかった。なぜだ、なんでだ、どうしてじゃ。「グヤジー」と、ますますタンマ君になった私は、「前画面に戻る」をタッチして、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」が並んでいる画面に、つまりふりだしに戻った。もしかして「飯類」なのか、と半信半疑でタッチしたが、炒飯やら天津飯やらがむなしく並んでいるだけだった。

ここまで五分経過。入力したのは「人数・1人」だけという、絶望的状況ではないか。私は力なく「逸品」をタッチしてみた。消去法で考えればもうそれしかない。
あった。あったよ。「回鍋肉」「海老のチリソース」「酢豚」などのなかにありましたよ。だけどあったのは「レバニラ炒め」という単品だった。いや、私が食べたいのは「ニラレバ炒め定食」であって、レバニラ炒めの単品ではないのだよ。白めしはどうした。レバニラ炒めだけ食べるなんて考えられない。あくまでごはんと一緒。そんでもって炒飯についてくるあのスープも脇に置きたい。私はあのスープを味わいたいがために炒飯を頼むことがあるくらい大好きなのだ。あのスープと白めしがあってこその定食ですよ。もうこの際、
「私が食べたいのはあくまでニラレバであって、断じてレバニラではない」
という些末なことはどうでもいい。そちらが「ニラレバ」ではなく「レバニラ」と表記するのなら、疑問点の鉛筆は入れません。私は校閲部か。

そうか、と私は思い当たった。この「逸品」のなかで「レバニラ炒め」をキープして、それから「ライス」、そして「スープ」をそれぞれ単品でオーダーすれば「レバニラ炒め定食」の完成ではないか。よし、レバニラ炒め単品のタッチはひとまず置いといて、まずはライスとスープを探そう。それにしても世話の焼けるタブレットだ。

ところが「ライス」も「スープ」もまったく見当たらない。何度「前画面に戻る」をタッチしたことか。ついにはタッチしすぎて画面がGoogleのトップ・ページになってしまった。信じられなかった。これは完全に中華料理店の管轄外の画面ではないか。農林水産省から一気に公正取引委員会へと管轄が移ったようなものだ。大袈裟か。

私はどこで間違えてしまったのか。

この疑問はすなわち我が人生に通じる。当てはまる。人生をやり直すことができるなら、私はいつのどこへ戻れば現在のような状況に陥らずに済んだのか。いくつか心当たりがないわけではないが、ひとつだけでいいから誰か教えてほしい。

いや、喫緊の問題は我が人生の十字路探しではない。どこをタッチすればGoogleの画面から店のメニュー画面に切り替わるのだ。レバニラ炒めはおろか、店の最初の画面すら映っていない。もう完全にお手上げだ。「オガーヂャーン」と、私は叫んだ。タンマ君純度百パーセントだ。いまこそアサップで画面を復旧しなければならない。シアサップではダメだ。

しかしながら、事態は私一人の能力ではもはやどうすることできない状況へと追い込まれてしまった。私は先ほどの女性店員におそるおそる声をかけた。
「あのぉ、すみません」
「ハイ」
「画面がこうなっちゃったんですけど」

よくない。じつによくない言い方だ。「こうなっちゃった」とは「私がしたわけではなく、画面が勝手にこうなっちゃった」というニュアンスではないか。「秘書が勝手にやったこと」「私は関与していない」「秘書の事務的ミス、単なる記載漏れだ」「文春の記事で初めて知った」とホザいているヒトビトと何ら変わりない。正しくは、
「私の操作ミスで画面をこのような状況にしてしまいました。お店の皆様、他のお客様、ひいては国民の皆様に重大な政治不信を招いてしまったことは謹んでお詫びを申し述べる所存でございます」
と言わなければいけなかったのだ。

だが、女性店員は「あー」と言って、すぐお店のトップ・ページに戻してくれた。どこをタッチしたのか目にも止まらぬ速さだった。だが、もう私には「人数・1人」から始める気力は残っていなかった。
「あのぉ、すみません。ニラレバ炒め定食を食べたいのですが、レバニラ炒め単品は見つかったのですが、それにライスとスープをつけたいのですが」
と、全面的に「ですが」だらけの構文を口走ってしまった。
「あー」
女性店員は素早く人数1名をクリアして、「逸品」をタッチし、「レバニラ炒め」の部分をさらにタッチした。

するとどうだろう。単品だったはずの「レバニラ炒め」は次画面に進み、「レバニラ炒め単品」「レバニラ炒め・ライスつき」「レバニラ炒め・ライス・スープつき」と三分割された画面に切り替わったではないか。
「ごはんとスープをおつけしますか?」
「は、はい。お願いします」
女性店員は「レバニラ炒め・ライス・スープつき」をタッチして言った。
「以上でよろしかったでしょうか」